知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

二階蔵

この二階蔵は「平成16年度木とのふれあい施設づくり推進事業」により、福井県産の木材を使って改修したものである。明治20年頃に大七銀行の担保蔵として建造されたこの蔵は、当時の面影を残す建造物として洋館とともに文化庁の登録有形文化財となっています。

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歴史的にも価値の高い建物の外観や雰囲気を損なうことなく、市民と観光客が共に利用できる交流の場として改修したものです。
木材には湿度の調整や保温効果、光を和らげる機能などがあり、触った感触の良さや木目の美しさなどの特徴があります。外壁の下見板内部の腰板などにはスチーム冷浴法により「渋柿」と「木酢液」の注入処理を行ったものを使用し、また、中柱や天井の梁は建造当時のものをそのまま利用しているので、自然な温もりや味わいを感じられる。

武家屋敷(内山家)

この建物は幕末期に大野藩家老として活躍した内山七朗右衛門良休やその弟の郎肝復呂鯒攴个靴親盪害箸竜貘陲任后J豌阿亙親りの木造切妻造り桟瓦葺き二階建てで、明治15年頃に建てられたものですが、大野城下の武家屋敷の旧態を比較的よく残しています。

越前大野城

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内山七朗右衛門良休は大野藩の藩政改革に尽力し、特に大野屋の開設など経済面で手腕を発揮しました。藩主土井利忠・利恒の信頼もあつく万延元年(1860)家老に任ぜられ、廃藩後も大野屋を経営し士族の救済を図るなど、明治14年75歳で亡くなりました、

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虚子句碑

       白濱の牡丹桜に名残あり  高浜虚子

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昭和8年4月13日、高浜虚子熊野巡遊の帰途 白浜に一泊 翌14日 網不知桟橋から汽船豊姫丸に乗り田辺に向かう時の作。

白浜駅

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白浜の泥岩岩脈

新生代第三紀中期中新世(約1500年前)に地震のショックによって水とともに地中から噴出した礫を含んだ砂泥が、上に覆っていた砂岩と泥岩の互層を貫いて固結した水成岩脈です。

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円月島

御船足湯
御船足湯は汐風の香りと波の音を感じながら夕暮れ時の円月島を眺めることができる。

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円月島で知られる高嶋は白浜町の臨海浦に浮かぶ島で島の中央に海蝕によってできた直径9辰留澤郛の穴があることから円月島といわれる。その中心から見える夕日は有名です。

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円月島の夕日は、日本の夕日百選に選ばれており、和歌山県の夕日百選にも選ばれている。海蝕洞門の西の地平線の彼方に沈む夕日が円月島の穴を通して見える夕日は一見の価値があります。和歌山南紀地方を代表する景勝地として有名な観光地です。
穴を通して夕日が見える時期は春分時と秋分頃の期間と言われており、春分時の日の入りは18時12分頃からと秋分時は17時56分頃です。
また、観光船(白浜海底観光船グラスボート)を利用して円月島を見ることもできます。

白良浜の甲羅法師(河童)

昔、瀬戸村に彦左という力の強い男がいた。ある年の夏、田の草取りの帰り白良浜で河童と命がけの角力をとり勝ったという。それまで、河童は度々陸へ上がって来ては村人に悪事を働いていたのでそのうち二度と陸へは上がらぬという約束で命を助けてやった。

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その時、彦左が「いつか もし 白良浜の白砂が黒く染まったり、沖の四双島に松が生えるようなことがあったら、陸に上がらせてやろう。」と言った。
河童は何とか陸へ上がろうと白良浜へ墨を塗ったり、四双島に松を植えたりしつづけたが、いつも波に洗われて願いを果たせず、とうとう陸へ上がってこられなかったという。

白良浜

つくもと足湯

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延長620辰留鸚の浜、90%の珪酸を含む石英砂は、文字通り真っ白でサラサラの砂、

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鉛山湾白良浜

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入院

3月2日、体調がおかしいので病院で検査診察をしてもらった結果、「アテローム血栓性脳梗塞」と診断されました。即入院となり昨日、一般病棟に移され現在に至っています。 
私のタブレットでは訪問も上手くいかないので退院まで二週間位とのことですので家に帰り次第パソコンにて訪問致します。よろしくお願い致します。

湯崎七湯(白浜)

         ふる國の磯のいで湯にたづさわり
                   夏の日の海に落ちゆくを見つ

野崎温泉は奈良朝以前より「牟婁(むろ)の温湯」と呼ばれ、明治初期から「崎の湯」「屋形湯」「阿波湯」「疝気(ぜんき)湯」「元の湯」「浜の湯」「礦(まぶ)湯}の七湯を野崎七湯と称しました。

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行幸芝(みゆきのしば)

この一帯の台地は、字名「行幸芝」と呼ばれ、飛鳥時代に斉明天皇が湯治のため滞在された「行宮跡」があった所です。
日本書紀によると、斉明4年(658)10月18日に斉明天皇は前年、甥の有間皇子が風光明媚なこの地で過ごし、自然に湧出する温泉により病もすっかり回復したと語る話に心をひかれ、皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)等を伴って海路行幸され、翌年正月三日に帰郷されるまでの二ヶ月半この行宮で滞在されました。

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この間、都では有間皇子に謀反の疑いがかけられ、皇子は捕らわれの身となって、天皇の滞在するこの行宮にて中大兄皇子の厳しい尋問を受けられました。その後、謀反の疑いも晴れぬまま有間皇子は都に帰る途中、藤代坂(海南市)で絞首刑となり19歳の若さで命を落とされました。
皇位継承の渦に巻き込まれた悲運の皇子として語り継がれました。

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千畳敷

千畳敷は太平洋に突き出た広大なスロープ性砂岩です。このデコボコの岩畳は、第3紀層の柔らかい砂岩が打ち寄せる荒波に長いあいだ浸食されてできたもので、三段壁とともに白浜を代表する雄大な景勝地です。

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千畳の「千」は「広い」を意味し、実際は畳千枚分より広く、瀬戸崎から湯ノ崎かけて2ヘクタールにも及ぶ台地状の地形を千畳敷と呼びます。
1800万年から1500万年前に浅い海の底に砂や礫がたまって出来た地層が隆起してさらに波浪によって浸食を受けて出来た地層です。

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三段壁

三段壁は、南北2劼砲錣燭蠕蘊敷の南海岸にそそり立つ高さ50メートルの断崖です。
その昔、漁師達が通りゆく舟や魚の群れを見張った場所「見壇壁」が「三段壁」と呼ばれるようになったという説があるようです。
地下36辰瞭況△亙唇損代熊野水軍の舟の隠し場だったと考えられており歴史と自然の神秘を見ることができます。平成26年、南紀熊野ジオパークが日本ジオパークに認定され、三段壁は112あるジオサイトのひとつとなっています。

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三段壁周辺散歩道には、防風林の松、和歌山県の県木ウバメガシ、白浜町の町花である浜木綿、松葉ギク、ハイビスカス、ブーゲンビリア、、白浜ドリームブルー(青紫のあさがお)、通称「医者いらず」のキダチアロエ等が植生しております。

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吉野熊野国立公園は、昭和11年に指定された歴史ある国立公園で紀伊半島の中央部から南部にかけて、三重、奈良、和歌山の三県にまたがって指定されており、紀伊半島の山、川、海のつながり、そしてこれらの自然の中で育まれた文化・歴史などの特徴をあわせもっています。
吉野熊野国立公園の海は、三重県の尾鷲湾から和歌山県の千里の浜まで続いており、海岸線の総延長は368劼砲發覆蠅泙后この海では、南の海からの暖流(黒潮)と、北の海からの寒流が出会い、多様で豊かな海の恵みを生み出しています。海の中にはサンゴや熱帯魚など、黒潮の影響を受けて暖かい海に生息する生きものが見られます。
また、海岸線には大小の湾が複雑に入り組んだ海岸や、ゆるやかな弧を描く浜など、バラエティーに富んだ海岸の地形を見ることができます。

月山鍛冶


月山鍛冶は鎌倉時代初期の鬼王丸を祖とし奥州月山の麓で鎌倉・室町期に栄えました。月山鍛冶の最大の特徴は、刀身全体に波のように流れる「綾杉肌」で月山鍛冶の鍛えた刀身に顕著に現れることから月山肌とも呼ばれます。
松尾芭蕉の奥の細道に「此国の鍛冶、霊水を撰てここに潔斉して剣を打、終わりに月山と銘を切って世に賞せらる」とあるように月山鍛冶の名は広く知られていました。

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幕末の月山貞吉は天保期に大阪へ移住し月山鍛冶の再興を果たし大阪月山の基を築きました。その後、月山貞一(帝室技芸員)、月山貞勝、月山貞一(重要無形文化財保持者)の各時代に様々な苦難を乗り越えながらも現在の、月山貞利、貞伸へと連綿と続いた技術は受け継がれています。

月山貞伸刀匠

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−月山貞勝−
明治2年大阪槍屋町に初代貞一の長子として生まれ、幼少の頃から父の貞一について鍛刀の技術と刀身彫刻を学びましたが父の晩年まで表に出ることは少なく主に大正から昭和の初期にかけて活躍し、数多くの皇室御用刀や陸・海軍などの御下命刀なども鍛えました。
作風は家伝の綾杉鍛えは勿論の事、各伝をよくこなし濃厚な彫物のある作品を多く残し、実子の二代貞一と愛媛県松山から入門した高橋貞次の二人を後の重要無形文化財保持者(人間国宝)へと育成し、その高い技術と指導力は大阪府から工芸功労者として認められました。

瀧前句碑

この俳句は戦前全国名所俳句瀧の部一位入選作とされている。

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         瀧の上に水現れて落ちにけり   後藤夜半(神戸の俳人)

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箕面の滝

箕面の滝は、大阪府箕面市の明治の森箕面国定公園内にある滝である。箕面大滝ともいい、日本の滝百選の一つに選定されている。

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古くは修験道の道場であった。「箕面」の名は、木々の間から流れ落ちる姿が蓑に似ていることから付けられた、または周辺に「尾」のつく地名が多いことから水尾から転じたとも言われている。
阪急箕面駅から2.8劼糧羈單緩やかな道のりであり、落差33辰任△襦

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頼山陽碑文

【碑文】
萬珠濺沫碎秋暉   仰視懸泉劃翠微   山風作意爭氣勢   横吹紅葉満前飛

【読み】
萬珠(ばんじゅ)、沫を濺(そそ)いで、秋暉(しうき)に碎く。
仰ぎ視る、懸泉の、翠微(すいび)を劃くするを。
山風、意を作(な)して氣勢を爭ひ。
横さまに、紅葉を吹いて、満前に飛ばしむ。

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合田百一殉職の碑

昭和26年7月11日、未明から近畿に襲来した集中豪雨により箕面公園内を流れる箕面川は未曾有の増水となり濁流渦を巻いて氾濫し低地は濁流に洗われ、園内の飲食店、旅館等は押し流される危険な状態となった。
増水に伴い護岸警備に従事中の合田警察長は、これが救援要請を受け、部下3名を同行し箕面公園に出動した。

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公園内を順次下方から現況視察をかね、戸別に被害調査と懇切な避難に対する指導と助言を行いつつ降りしきる雨の中の滝道を登り最終地点である滝壺横の飲食店が見える地点に至った時同店に助けを求める人影を認め、直ちにこれが救助に当たるべく、合田警察長は部下の先頭に立ち濁流と化している道路を避け、山の斜面を這うようにして伝いながら進んだところ、50綻綣蠅涼賄世忙蠅辰浸、突如足下の地面が崩れ落ち助ける手立てもなく濁流に呑まれ尊い犠牲となった。

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故合田警察長は、昭和23年3月、警察法の改正に伴い箕面長警察署の初代警察長として赴任以来、町の治安維持のため強い責任感と実行力をもって日夜業務に精励され、その業績は高く評価され、かつ温厚篤実で情に厚いところから町民及び部下からも尊敬と信頼を受けていた惜しむに足りる高潔な警察官であった。

唐人戻岩

この大きな二つの岩は、唐人戻岩と言われ、その昔、この附近が山深く険阻なころ、唐の貴人が箕面の滝のたぐいまれなことを聞いて巨岩まで来たのですが、険しいことに驚き恐れて立ち返ったとの伝説があります。
岩の高さ25尺 幅24尺のものと高さ24尺 幅7尺のものとの二つより成り縦に条理があります。

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野口英世

箕面公園遊歩道

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野口英世博士像
世界の医聖と言われている野口英世博士(福島県猪苗代町出身)はアフリカで黄熱病の研究中、自らも感染して昭和3年殉職するまで数多くの伝染病の予防に貢献した。
この銅像は、大正4年、野口英世博士が15年間の米国留学から帰国の際、待ちわびていた母を伴い箕面に立ち寄り年老いた母を慰めた。これに感激した南川光枝氏の銅像建立の願いに、大阪府知事、箕面町長、箕面町教育委員会は府下学童並びに箕面町ゆかりの方々から浄財を求め、故野口英世博士の面影を刻み、生前の偉業を讃えるとともに崇高な人格を慕って、昭和30年4月建立した。

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箕面公園(瀧安寺)

瀧安寺
平成30年9月4日の台風21号により、堂宇が大きく破損しています。
鳳凰閣が風に煽られ、川側に傾いてしまい、また、裏山の欅が倒れ、庫裏を直撃し屋根が陥没しました。客殿は屋根が全体的にずれています。

箕面公園全体に倒木が多い、現在は遊歩道は滝までは整備されている。

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欅の倒木により陥没した屋根

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野村泊月句碑

箕面川

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野村泊月、本名を勇、丹波の産。兄西山泊雲と供に高浜虚子につき俳道に入り、早稲田大学英文科を終え、中国、米国に遊学後、大阪にて「山茶花」を興し、「桐の葉」を主宰し、多くの指導者を育成したるホトトギス派の功労者である。晩年、不幸にして失明、昭和36年2月13日豊中にて逝く。行年80歳

            −椎の花八重立つ雲の如くにも−   泊月

この句は昭和23年5月瀧安寺にて詠んだものです。

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箕面公園

阪急電車 箕面駅

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自然豊かな“明治の森箕面国定公園”の一角にある箕面公園は、83.8ヘクタールという広大な公園で、納涼や紅葉など四季を通して多くの人々が訪れます。1986年に「森林浴の森100選」にも選ばれ、園内にある落差33メートルもある箕面大滝は、「日本の滝百選」にも選ばれていています。

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一の橋

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箕面山は自然の宝庫として知られ、シダ、ランなどの珍しい植物や野生の鹿、猿をはじめ多くの鳥類・昆虫類が生息し箕面川の渓流にはアマゴなどの魚類、水棲の昆虫も多く、東京の高尾山と供に明治4年我が国初の公園となりました。

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山辺之道(七)

−山辺の道−

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       三諸は人の守る山 本辺はあしび花咲き
           末辺は椿花咲く うらぐはし山ぞ 泣く児守る山   作者未詳

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柿本人麻呂屋敷跡

柿本人麻呂(斉明天皇6年(660年)頃−神亀元年(724年)は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

人麻呂には巻向の地を題材にした歌が数多く残されていますがこの地を屋敷跡とする確たる証拠は無いようです。

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柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。また、同文献では人麻呂の子に柿本蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降の子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を称して石見国人となったされる。いずれにしても生前や死没直後の史料には出自・官途について記載がなく、確実なことは不明である。

三輪駅

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山辺の道

山辺の道は、三輪から奈良へと通じる上古の道。大和平野には南北に走る上・中・下ッ道の官道があり、それぞれ7世紀の初め頃に造られた。
上ッ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる起伏の多い道が山辺の道である。

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現在、その道をはっきりと跡づけることはでないが、歌垣で有名な海柘榴市(つばいち)から三輪、景行、崇神陵を経て、石上から北上する道と考えられている。
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