知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

斑入りツボサンゴ

ムベ(アケビ科ムベ属)
本州関東以西、台湾、中国に生える。柄のある3〜7枚の小葉からなる掌状複葉。小葉の葉身は厚い革質で、深緑で艶があり、裏側はやや色が薄い。裏面には、特徴的な網状の葉脈を見ることが出来る。
花期は5月、花には雌雄があり、芳香を発し、花冠は薄い黄色で細長く、剥いたバナナの皮のようでアケビの花とは趣が異なる。

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フランシスウィリアムズ(キボウシ) キジカクシ科

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斑入りツボサンゴ(ユキノシタ科ツボサンゴ属)
葉の縁がややフリル状になり、緑色のエッジが入ります。葉色は全体的に白っぽい感じで、不規則に緑の霜降り状の斑が入り、冬季は全体的に緑色っぽくなります。地域にもよるが、毎年4〜6月頃に紅い花を立ち上げ開花します。

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ホタルブクロ

ホタルブクロ(キキョウ科ホタルブクロ属)   別名 チョウチンバナ(提灯花) ツリガネソウ(釣鐘草) 

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備考
初夏に大きな釣り鐘状の花を咲かせる。花色には赤紫のものと白とがあり、関東では赤紫が、関西では白が多い。子どもが袋のような花にホタルを入れて遊んだことに由来する。

サラセニア

形態(多年草) 原産地(アメリカ南部・東部〜カナダ) 草丈(15〜80僉法ヽ花期(3〜5月)

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サラセニアは北アメリカ原産の食虫植物で、筒状の葉がお酒を入れる瓶子(へいし)に似ることからヘイシソウ(瓶子草)の和名があります。
春と秋に伸びる筒状の捕虫葉(瓶子葉)の表面には蜜腺があり、昆虫などをおびき寄せます。筒の内側はすべりやすく、しかも毛が下向きに逆立って生えていて、一度筒に入った獲物は上って出られないような仕組みになっています。筒の底部からは消化酵素を含む液が分泌されていて、栄養分が消化吸収されます。夏の間に伸びる葉は、多くの種類では筒状にはふくらまず平たいままで、剣葉と呼ばれます。

春には不思議な形をした花を下向きに咲かせますが、虫に花粉を運んでもらう必要があるため、花は虫を捕らえることはありません。

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月下美人

月下美人の花芽が大きくなってきた。もうすぐ頭を持ち上げてくるだろう。(写真は昨日撮影)

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この月下美人は親株から挿し木したもの、昨年は6月26日に1輪が開花した。今年はこの花芽を含めて11輪の花芽がついている。

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ロウバイ

ロウバイ(蝋梅、蠟梅、臘梅、唐梅(カラウメ)、は、クスノキ目・ロウバイ科・ロウバイ属に属する広葉の落葉低木の一つで、早生種では12月頃に、晩生種でも2月にかけて半透明でにぶいツヤのある黄色く香り高い花がやや下を向いて咲く、名前に梅がついているためバラ科サクラ属と誤解されやすいが別属である。

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唐の国から来たこともあり唐梅(カラウメ)とも呼ばれ、中国名も蝋梅であったことにちなむ。本草綱目によれば、半透明でにぶいツヤのある花びらがまるで蝋細工のようであり、且つ臘月(ろうげつ:旧暦12月)に咲くからこの名がついた。日本においてはロウバイは晩冬『小寒(1月6日頃)から立春の前日(2月3日頃)までの間』の季語とされている

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百合の木

ユリノキ(木蓮科ユリノキ属)   別名 半纏木(はんてんぼく) 軍配の木

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背丈は15メートル以上になり、5月頃、黄色い花を咲かせる。

サルビア

サルビア(シソ科)
燃え立つような濃い鮮やかな赤色の花が群れ咲く様子は、サルビアならではのものです。サルビア属は900種ほどありますが、最もポピュラーで親しまれているのは、この赤い花を咲かせるS・スプレンデンス(ヒゴロモソウ)で、単にサルビアといえば本種を指すほどです。濃緑色のハート形の葉が密に茂り、花は長い穂になって下から順に咲き上がります。

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初音(イカリ草)

初音(イカリ草 メギ科)
イカリソウとその仲間には、特異な形の花だけでなく、葉にも独自の美しさがあります。主に平地から亜高山帯の落葉広葉樹の森林で見られますが、種類によっては草深い草原や石垣に生えることもあります。
イカリソウは高さ30〜50cm、細い茎が株立ちになります。花はふつう赤紫色です。長い距(きょ:細く突き出した部分)が突き出した花は、細い花茎の先に短い穂になって咲き、下に垂れます。葉はカサカサとした紙質で裏面に毛があります。別名で「三枝九葉草」というとおり、葉は3つに枝分かれした先に3枚ずつつけます。

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カトレヤ(アスチルベ ユキノシタ科)
アスチルベは初夏の庭を明るく彩り、半日陰のシェードガーデンにも向く花で、梅雨の長雨にも花が傷むことなく元気に咲き続けます。雨天のほうがかえって風情が感じられるほどで、雨上がりの美しさは、また格別です。アスチルベ属には25種ほどがあり、日本の山野にはチダケサシやアワモリショウマなど6種が自生しています。これらを元に、主にヨーロッパで数多くの品種が育成されています。

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タイワンホトトギス

タイワンホトトギス(ユリ科) 多年草 花期(9〜10月)

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日本では西表島だけにわずかに自生する。園芸栽培されているのはホトトギスとの交雑品も多いといわれている。  茎は普通、屈曲し、無毛かわずかに毛がある。葉は互生し、長さ8〜13僉幅2.5〜4.5僂療殀鐃坊阻瑤篭垢ぢ扮濔披針形〜倒卵形、葉表は無毛に近く、葉裏は有毛、特に脈に沿って多い。葉の基部は茎を抱き、縁に毛があり、先は尖る。茎頂又は葉腋の集散花序にまばらに花をつける。

タンチョウソウ

マルバタンチョウソウ(ユキノシタ科) 多年草 原産地(中国・朝鮮半島) 草丈(15〜30僉法_峇(4〜5月)

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カラスバタンチョウソウ(ユキノシタ科) 

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タンチョウソウは中国東北部から朝鮮半島の低山から山地に分布し、川岸の岩上や川沿いの岩壁に生えます。
春、地面を這う頑丈な根茎から、ヤツデやモミジを思わせるような7裂に切れ込んだ葉を数枚広げます。花は、葉が展開する直前かほぼ同時に咲きます。
花茎はまっすぐに伸び、上のほうで枝分かれして、花径5mmほどの白い花を多数咲かせます。秋の終わりには葉が枯れて休眠します。

チーゼル

マツムシ草科(2年草)の植物 、和名「ナベナ」(ディプサクス)属 約15種類の品種、

約15種の中でフラーズチーゼル(FullersTeasel)、別名サティウス(Dipsacus Sativus)及び和名ラシャカキソウ(羅紗掻草)という太く曲がったトゲがある品種だけが、起毛加工に使用する事が出来ます。


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起毛とは、編地の表面をかいて毛羽立たせること。
編地の表面をかくのに使用するのが、”フラースチーゼル”と呼ばれる植物を乾燥させたものです。
「フラースチーゼル」とはマツムシソウ科に属する二年草で別名でオニナベナとか、ラシャカキクサとも言います。

シェードガーデン

「シェード」は日陰のことでシェードガーデンとは「日陰の庭」をいいます。半日陰〜日陰を好む草花、ヒュウケラやギボウシなど明るい葉色の植物を組み合わせることにより庭の表情が豊かになり、日陰の植物だからこそ美しく見える庭をつくることもできます。

ギボウシ
キジカクシ科の宿根草、日陰を好み丈夫で手間いらずの植物です。

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日本の山野に多く自生するギボウシは、欧米ではガーデン用の宿根草として主役級で、ガーデニングブームに乗って沢山のギボウシが導入されています。
様々な斑入りの品種があります。

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藤川宿脇本陣

「脇本陣」は江戸時代「本陣」の補助的な役割として設けられた宿舎で、「本陣」に空きが無い時には本陣に準じて用いられていた。

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脇本陣を営むことができたのは、本陣家に次ぐ名望家で、江戸時代後期に営んでいたのは「大西喜太夫」で「橘屋」と呼ばれていた。
入口の門構えは、一般の家では構えることは許されず「本陣」「脇本陣」だけに許された。藤川宿はそれまで度重なる大火に見舞われているので現在残っている藤川宿内では古い遺構である。

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明治になって宿場の制度が敗死となり、その後、藤川村役場として使われ、現在は藤川宿資料館となっている。

芭蕉句碑

     − 爰(ここ)も三河むらさき麦のかきつはた −     松尾芭蕉

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「芭蕉句碑」は、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句を、石に刻んで建てたものである。
この碑の高さは1.65メートル、幅1.07メートル、厚さ約0.2メートル、花崗岩の自然石で、藤川宿周辺の芭蕉句碑では最大級と言われている。

歌川豊広

      藤川の しゅくの 棒ばな みわたせば
                   杉の しるしと うで蛸の あし

「藤川宿の棒鼻を見わたすと、杉の木で造った表示が立っており、付近の店には西浦、吉良から持って来たうでだこを売っており、たこのあしがぶらさがっている。」

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歌川豊広
1774〜1829、江戸時代後期の浮世絵師。門人として歌川広重がいる。

西棒鼻

「棒鼻(ぼうはな)」とは、棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では、東、西の両方のはずれを言う。

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藤川に再現された棒鼻は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。牓示杭(ぼうじぐい)(境界を示す杭)と宿囲石垣が、その景観を際立たせている。

問屋場跡(藤川宿)

藤川宿の問屋場は、宇中町北にあった。問屋場は宿場町では最も中心となった場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、書状の逓送(飛脚)などの業務を行うところが「問屋場」であった。藤川宿ではここを御伝馬所」とも称していた。

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この問屋場については記録によると、
一、人馬継問屋場   一ヶ所   宇中町
     問屋      弐人     年寄    五人
     帳付      四人     飛脚番   六人
     人馬差     六人     小使    六人   とある。

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また当初の問屋場は、問屋場役人の問屋場役人の屋敷の一部を使用していたようだが、江戸時代中頃に現在地に専用の建物を設けて事務に当たったという。明治五年七月、伝馬制廃止後は閉鎖され、その役割を終えた。

高札場(藤川宿)

高札場は、法令等を記載した高札を、関所などの交通の要所や人々が活発に出入りする市場などの掲げ民衆に周知させるための場所として設置されていました。宿場にも設置され、各宿場の距離を測定する基点ともされていました。
代表的な高札としては、寛文元年(1661)や正徳元年(1711)のものが挙げられます。藤川宿の高札は6枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、岡崎市の文化財に指定されています。

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多くの人が目にする高札場は幕府の権威を示すものでもあったため、移転や消えてしまった文字や墨入れにも許可が必要でした。そのため、幕府や藩により「高札番」という役職が設けられ厳しく管理を行っていました。

藤川宿駒曳朱印状

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藤川宿本陣跡

東海道と藤川宿
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年、東海道の集落に「伝馬(駒曳)朱印状」を下付して「宿駅」を指定するとともに、公用の旅行者のために「伝馬」三六疋を用意することを命じ、その代償として地子(地代)を免除しました。
これが近世宿駅制度の始まりです。慶長9年からは幕府の命により、日本橋を基点とした五街道の整備が開始されました。
慶長6年に整備された藤川の宿は、品川宿から数えて37番目の宿駅でした。

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本陣跡
宿場にはさまざまな施設がありました。中でも中心となるのは、人々を休泊させる本陣、脇本陣、旅籠屋、茶屋などの休泊施設と隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場に送るという継ぎ送り業務を行う問屋場でした。本陣、脇本陣は大名や公家、公用で旅をする幕府の役人といった上流階級の客を休泊させ、一般の旅行者は旅籠屋、茶屋などに休泊しました。
藤川宿には当初二軒の本陣があり、一番本陣、二番本陣として本陣、脇本陣としての役割を果たしていました。しかし、藤川宿は東海道の中でも規模の小さい宿であったこと、西隣の岡崎宿が栄えていたことから、ここに宿泊する旅行者は少なく、本陣、脇本陣の経営は厳しいものでした。

本陣の間取り図によると、建物は街道沿いに建ち、敷地の北側は畑になっていました。井戸は二ヶ所あり、中庭に面した座敷がありました。北側の畑を囲っていた石垣は現在も残されており、北の山々を山の眺望は江戸時代のままです。本陣の規模としては大きなものではありませんでしたが、藤川宿の中では一番の格式を誇っていました。

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藤川宿
中世における藤川の集落は山網川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定されます。
東海道の交通量の増加に伴い、寛永15年(1638)に幕府から常備人馬の増加(人足100人、馬100疋)を命じられた際には、宿は困窮しており、これに応じることができないほどの状態であったといいます。
そのため、慶安元年(1648)、代官の鳥山牛之助により、藤川宿を補強するために山中郷市場村68戸を藤川宿東隣に移住させる加宿措置がとられましたが、藤川宿の負担は重いものでした。

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天保14年(1843)「宿村大概帳」の記録によると、藤川宿の総人口は1213人、家数は302軒となています。これは、東海道五十三次の中では小さな宿場の部類に入ります。しかし、藤川宿には本陣、脇本陣、問屋場、高札場、棒鼻などの施設もあり、宿駅としての務めを十分に果たすものとなっていました。

むらさき麦

俳人・松尾芭蕉は、
        −爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた−   の句を残しました。

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上記写真は、藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られており、これを「むらさき麦」と呼んでいました。
しかしながら、この麦は戦後作られなくなり、幻の麦となってしまいました。
平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、毎年5月の中旬から下旬にかけて美しい色を鑑賞できるようになりました。

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藤川宿

岡崎から藤川へ

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東海道五十三次、37番目の宿場として設けられた藤川宿の町並みは九丁二十間(約1キロ)で、天保十四年(1843)の宿内人口は、1213人、(302軒)で、本陣は森川家1軒、脇本陣は橘屋大西家1軒で、ともに中町にありました。旅籠屋は、大7軒、中16軒、小13軒でした。

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ここから赤坂宿までは二里九丁、岡崎宿へは一里二十五丁でした。
藤川は、幕府直轄の宿場で代官によって支配されていました。また、藤川宿は、東の新居宿から西の宮宿(熱田)まで十一宿が組合で、赤坂宿とともに「組合宿」の取締まりの宿場でした。

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さらに藤川は、塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所であり、また、二川・赤坂・御油の四宿連名で荷車の使用を願い出て、街道中で初めて幕府の許可をもらっていました。

末永雅雄博士

大阪狭山市名誉市民で、文化勲章受章者の末永雅雄博士は1897年に狭山池の畔に生まれました。
少年時代に狭山池須恵器の破片を採取した末永博士は1926年、29歳のときに狭山池改修工事に伴う中樋放水部の発掘調査を指導しました。

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この時に出土した古墳時代の石棺が、鎌倉時代の重源が伏せた「石樋」であると考察した。奈良県石舞台古墳、唐古・鍵遺跡、高松塚古墳等の発掘調査、古代の武器・武具に関する研究、古墳の航空査察、橿原考古学研究所の創設と後進の育成等、偉大な業績を積み重ね、日本考古学の礎を築きました。
限りない情熱を学問に傾注し、郷土狭山をこよなく愛し続けた末永博士は『狭山町史』の編さんや狭山町立郷土資料館の開設と学術指導に尽力されました。

狭山池中樋放水部の石棺群

狭山池石樋
この石樋は、奈良市東大寺の重源が建仁2年(1202)に伏せたもので富田林の「お亀石古墳」付近から運んできたと現地では伝承する。
石棺身の両端を切り取って並べ、蓋を置いて樋官に利用した。昭和初期池の改修前は中樋筋の水路中に亀形の蓋石だけが露れてあったので、これも昔からお亀石という。

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狭山池中樋放水部の石棺群
鎌倉時代に重源が伏せた「石樋」の樋管、大正末年・昭和初年の狭山池改修時に中樋放水部付近から出土した。古墳時代後期から終末期の刳抜式家形石棺と横口式石槨材を再利用している。
博物館内で展示している1点をはじめとし、家形石棺蓋2点、石棺身4点、石槨材1点を数える。石槨材1点は花崗岩、他はすべて凝灰岩(竜山石)である。石棺身のうち1点は底部に円孔を穿つが、その加工は途中で終わっている。中樋取水部の試作品であろう。

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石樋の蓋

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東樋(狭山池)

狭山池(東樋出土地点)
平成6年、平成の改修で上下二層の東樋が見つかり、上層東樋は慶長の改修(1608年)の際に設けられた取水施設で、ヒノキの板材を組み合わせた全長約73メートルの樋管がそのまま残っていた。

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ほぼ同じ長さの下層東樋は、飛鳥時代の池築造時に設けられた取水施設で西暦616年伐採のコウヤマキを刳り抜いて7本連結し、奈良時代にも樋官を増設する。

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大阪府立狭山池博物館で保存・展示している下層東樋と上層東樋は、平成26年、国の重要文化財に指定された。

皇居外苑

明治以降の皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家が居城としていた江戸城跡にある。江戸城の内郭には、本丸、二の丸、三の丸、西の丸のほか、西寄りの部分には「吹上」と呼ばれる庭園があった。「吹上」はかつては屋敷地であったが、明暦の大火、明暦3年(1657)以降、火除け地として、建物が建てられないようになっていた。

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江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに決めた。
以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。

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明治維新以降江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれることになった。
この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模は我が国随一のものであることから、昭和38年5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。
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