知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

柿本人麻呂屋敷跡

柿本人麻呂(斉明天皇6年(660年)頃−神亀元年(724年)は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

人麻呂には巻向の地を題材にした歌が数多く残されていますがこの地を屋敷跡とする確たる証拠は無いようです。

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柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。また、同文献では人麻呂の子に柿本蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降の子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を称して石見国人となったされる。いずれにしても生前や死没直後の史料には出自・官途について記載がなく、確実なことは不明である。

三輪駅

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山辺の道

山辺の道は、三輪から奈良へと通じる上古の道。大和平野には南北に走る上・中・下ッ道の官道があり、それぞれ7世紀の初め頃に造られた。
上ッ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる起伏の多い道が山辺の道である。

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現在、その道をはっきりと跡づけることはでないが、歌垣で有名な海柘榴市(つばいち)から三輪、景行、崇神陵を経て、石上から北上する道と考えられている。

山辺之道(六)

−山辺の道−

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         いにしへにありけむ人もわが如か
               三輪のえ桧原にかざし祈りけむ   柿本人麻呂

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山辺之道(五)

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         山吹きの立ちしげみたる山清水
               汲みに行かぬと道の知らなく   高市皇子

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名寄駅

退屈なので想い出の写真をupします。2014年1月28日、北海道は宗谷本線で旭川から名寄へ行きました。
車内は暖かく車窓からの景色は見えませんでした。写真を撮る時は窓を拭きます。
旭川駅ホーム

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名寄駅ホーム

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名寄駅

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駅前から少し歩いてみました。人に出会うことはありません。

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帰りは名寄駅前から旭川までバスで帰りました。

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バスの車窓から、乗る人も降りる人もありません。

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速歩

2019年1月3日14時過ぎ今年初めての速歩、風も無く暖かかったので狭山池周遊路を歩いてみました。
金剛山山頂付近にはうっすらと雪が積もっていました。

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狭山池冬期は水が抜かれます。

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謹賀新年

      明けましておめでとうございます
         本年もよろしくお願い申し上げます。

2019年1月元日

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本年は1月8日から更新致します。

大和路の恋(山辺の道)

大和路の恋 
 
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歌 水森かおり  作詞 仁井谷俊也  作曲 弦哲也  編曲 前田俊明

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玄賓庵

桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓(げんぴん)僧都の庵と伝えられ、世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台として知られる。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移された。玄賓は弘仁九年(818)に亡くなった。

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玄賓庵は奈良県桜井市茅原にあり、JR桜井線三輪駅下車、徒歩約30分で山辺の道沿い

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山辺之道(四)

山辺の道

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         狭井河よ雲立ちわたり畝火山
                 木の葉騒ぎぬ風吹かむとす   伊須気余理比売

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山辺之道(参)

         わが衣色に染めなむうまざけ
                 みむろの山はもみぢしにけり   柿本人麻呂

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磯城瑞籬宮(山辺の道)

磯城瑞籬宮(シキミズガキノミヤ)伝承地)

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磯城瑞籬宮は、第十代崇神天皇が営んだ宮とされています。記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。
これは三輪山の神、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い神の子孫となる大田田根子を探しだしました。そして彼に託して三輪山に大物主大神をお祀りしたところ祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。

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また、東海や北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたことから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています。

記紀万葉物語(崇神天皇の条)

金屋の石仏

金屋の石仏(山辺の道)

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この中におさめられた二体の石仏は右が釈迦、左が弥勒と推定されています。高さ2.2檀約80僂瞭麕腓里稜竿調笋防眥Δ気譴燭海諒像は、古くは貞観時代、新しくても鎌倉時代のものとされ、重要文化財指定を受けています。
赤茶色の石は、石棺の蓋であると考えられています。

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山辺之道(弐)

金屋のあたりは古代の海石榴市があったところです。その頃は三輪・石上を経て奈良への山辺の道・初瀬への初瀬街道・飛鳥への磐余の道・大阪河内和泉から竹の内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便も有り大いに賑わいました。
春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣は有名です。後には伊勢長谷詣が盛んになるにつれて宿場町として栄えました。

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         むらさきは灰さすものぞつば市の
                 八十のちまたに逢へる児や誰   作者未詳

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山辺之道(壱)

          夕さらずかはず鳴くなる三輪川の
                   清き瀬の音を聞かくし良しも   作者未詳

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仏教伝来の地

ここ泊瀬川畔一帯は、最古の交易の市・海石榴市などの史跡を残し「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でありました。
そしてこの付近は難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。
「欽明天皇の十三年冬十月、百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣わして釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。

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この場所は仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であります。また「推古天皇十六年、遣隋使小野妹子が隋使裴世清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬七十五頭を遣して海石榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でありました。

山辺の道

山辺の道は大和の古代道路のひとつで、奈良盆地の東南にある三輪山のふもとから東北部の春日山の麓まで、盆地の東縁、山々の裾を縫うように南北に通ずる古道で歴史上の記録では日本最古の道として知られています。

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海石榴市(つばいち)
七世紀代、この周辺は「海石榴市」と呼ばれ、大規模な「市」があったとされていました。此処では山辺の道をはじめとするいくつかの古道が交わり、大和川水運の港もありました。そのため、様々な物産が集まり、物々交換が盛んに行われていたようです。また、多くの老若男女で賑わい、「歌垣」などの行事が催されました。
このように交易の中心であった「海石榴市」は、都「藤原京」の玄関でもありました。遣隋使として有名な小野妹子が隋の使者裴世清と下客十二人を伴って帰国したとき、朝廷では、この地で錺馬七五疋を仕立て盛大に迎えたそうです。
古代の「海石榴市」は隋や唐の文化の花咲く、国際色豊かな町だったのです。

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平安時代になると「海石榴市」は「伊勢詣で」「長谷詣で」の宿場町として有名になります。例えば紫式部が著した『源氏物語』の玉葛の巻で登場します。その他にも清少納言、藤原道綱の母など多くの文人が訪れたそうです。

妹がため 菅の実摘みに 行きし我
                山路に迷ひ この日暮らしつ    柿本人麻呂

   「妻のために 菅の実を摘みに 行った私は 山路に迷い この日を暮らした」

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菅=リュウノヒゲ・ヤブラン(ユリ科・多年草)

宝暦治水

木曽三川は、木曽川・長良川・揖斐川の順で河床が低くなっており、その川筋は輪中を取り囲んで網の目のようになって流れていたため、木曽川の洪水は、長良川、揖斐川を逆流し氾濫を繰り返していました。
徳川幕府による木曽川左岸の御井堤の完成(1609)により、美濃の水害がますます多くなりました。その後、徳川幕府は宝暦三年(1753)、美濃郡代 伊沢弥惣兵衛為永が立てた木曽三川の分流計画をもとにした治水工事を薩摩藩に命じました。

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宝暦四年二月、薩摩藩家老の平田靭負を総奉行として工事が始められ、油島締切、大槫川洗堰締切などの大工事を1年3ヶ月で完成しました。しかし、平田靭負をはじめ80余名の病死、割腹者をだしました。工事にかかった費用約40万両(当時の薩摩藩全収入の2年分以上)のうち、幕府の負担はわずか1万両で、薩摩藩は多くの借財を抱えることになりました。

通り井

桑名は木曽川の土砂が堆積してできた土地であるため、海岸に近い所は昔から水質が悪く、住民は飲み水に苦しんでいました。町屋川や大山田川から水を汲んできて売る「水売り」の商売が成り立っていたほどでした。
桑名藩第四代藩主松平定行は、寛永三年(1626)、町屋川の水源から吉津屋御門(現在の吉津屋町と鍛治町の境目付近)までを掘って水路を作り、御門から町の中へは地下水路を通し所々に井戸を設けて住民の用水にしました。

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この水道は「町屋御用水」と呼ばれ、明治時代まで使用されました。井戸の数は、始めは吉津屋に三ヶ、京町に二ヶ、宮通筋に六ヶでしたが寛永十二年(2635)には片町筋に四ヶ、船場に五ヶ新しく設けられ、江戸時代中頃には二七ヶ所にまでなりました。
現在、町屋御用水の跡はありませんが、江戸町に「井」の印を見ることができます。これは「通り井」があった場所をしるすものです。通り井とは「通り道に設けられていた井戸」の意味です。

歌行燈句碑

       
明治の文豪・泉鏡花は、大泉原村の高等小学校で講演するため明治42年に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿大塚本陣跡地)に宿泊した。この時の印象を基にして、小説「歌行燈」を書き、翌年一月号の『新小説』に発表した。

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昭和14年、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万次郎は船津屋に泊まり、3ヶ月ほどで戯曲「歌行燈」を書き上げた。昭和15年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巳喜男の監督で映画化された。上演・映画化にあたり、万次郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。
船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から「かわうそ」が這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。
俳人としても著名だった万次郎が、船津主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。
         −  かはをそに 火をぬすまれて あけやすき  −

七里の渡

桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28辧砲△襪海箸ら、七里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど伊勢國の東の入口にあたるため、伊勢神宮「一の鳥居」が天明年間(1781〜1789)に建てられました。
七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。

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昭和33年、七里の渡跡は三重県指定史跡となり、昭和34年には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は江戸時代と異なる表情を見せています。

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蟠龍櫓

桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されている。このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。
歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうち最も古いとされる正保年間(1644〜48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図絵」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。

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「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖龍として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いています。蟠龍櫓についても航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。
文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚住ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。

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柿本人麻呂

         古に 妹と我が見し ぬばたばの
                   黒牛潟を 見ればさぶしも   柿本人麻呂

    「その昔 妻と私が一緒に見た(ぬばたまの)黒牛潟を見ると何とも淋しい」

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ぬばたま=ヒオウギ(アヤメ科 多年草)

刻印石(桑名城跡)

桑名城跡の管理事務所東に「刻印石」が5つあります。城の石垣の石にはさまざまな模様や記号が刻まれています。
これを「刻印」といい、刻印は築城に係わった関係者による家紋、家印、符丁、石の産地などを示したものです。

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刻印石は和歌山城や大坂城などでも見ることができます。
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