知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

稚内駅(思い出の一枚)

日本国内の最北端にある鉄道駅であり、ホームに列車が到着すると自動音声放送「日本最北端の駅、終点稚内駅到着です」が流れる。日本国内最南端のみどりの窓口設置駅となる鹿児島県の指宿駅と「姉妹駅」提携を結んでいる。

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1922年に開業した稚内駅は現在の南稚内駅であり、1923年5月1日から、当時日本の統治下にあった南樺太の大泊町に連絡する鉄道連絡船「稚泊航路」の運航が始まった。1924年11月10日に稚内連絡待合所が現在の稚内駅近くに建設されたが、当時の稚内駅からは約2 劼竜離を旅客は徒歩で、貨物は荷車で連絡していた。当時の稚泊航路は夏期は隔日、冬期は10日で2往復の運航体制であり東京から樺太の大泊港までは夜行3泊を要した。

ノシャップ岬(思い出の一枚)

野寒布岬は、北海道稚内市ノシャップにある岬。「ノシャップ岬」とカナで表記することが多い。
アイヌ語でノッ・シャムといい「岬が顎のように突き出たところ」「波の砕ける場所」の2つの意味があると伝えられている。夕日の美しい景勝地として知られ、利尻富士や花の礼文島も一望できる。

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読み方が似ている納沙布岬(のさっぷみさき)は根室市にある北海道本島最東端の岬である。

行幸啓記念碑(思い出の一枚)

1968年、この公園においでになられた昭和天皇・皇后両陛下は、九人の乙女の悲話をお聞きになった時、目頭に涙を浮かべ、深く頭をお下げになり、冥福をお祈りされました。
この碑には、後日、この時のご感銘を詠まれた御製・御歌が刻まれました。

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九人の乙女の碑(思い出の一枚)

この碑は終戦時、樺太の真岡(現・ホルムスク)郵便局で通信業務を死守しようとした9人の女性の慰霊のために建てられてものです。北緯50度線でソ連と国境に接していた樺太では1945年8月、ソ連軍の不意の攻撃を受け40年間に渡る国境の静寂が破られました。
島民の緊急疎開が開始される中、戦火は真岡の町にも広がり窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々と迫る身の危険のなか、真岡郵便局の電話交換手は最後まで交換台に向かいましたが『皆さんこれが最後ですさようなら、さようなら・・・』の言葉を残し、青酸カリを飲み自らの命を絶ちました。終戦5日後、8月20日のことでした。

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宮沢賢治文学碑(思い出の一枚)

1923年8月、宮沢賢治は、この年の5月に就航したばかりの稚泊連絡船で宗谷海峡を渡り、樺太(現サハリン島)を旅しました。前年に最愛の妹・トシを亡くした傷心の賢治は、この旅をモチーフに多くの詩を残しています。
この碑に刻まれているのは未定稿の門語詩『宗谷(二)』の一説で、彼の心情がみごとに凝縮されています。この碑を建立したのは宗谷要塞砲兵連帯宗谷会の人達で僚友の霊に対する深い哀悼と平和への祈りを込めてこの碑を「平和記念碑」命名しました。”サガレン”は、サハリンの古い呼称です。

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間宮林蔵(思い出の一枚)

江戸幕府からの命を受け北方探索に赴いた間宮林蔵は、1809年間宮海峡を発見して樺太(現・サハリン島)が島であることを確認しました。
この発見は当時の世界地図の空白を埋める偉業であり林蔵は世界地図にその名を残しました。その後、師である伊能忠敬の事業を引き継ぎ、蝦夷地の地図作成にも多大な貢献を果たしています。

このブロンズ像は、彫刻家・峯孝氏の作品で、林蔵が樺太へ渡る決意を秘め、遙か海の彼方を見つめる姿を表しています。

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宗谷岬(思い出の一枚)

日本最北端の地の碑
この碑は現在私たちが自由に往来できる日本の領土としては最も北に位置する宗谷岬の突端、北緯45度31分22秒に建てられています。北極星の一稜を象徴した三角錐をデザインしており、中央の”N”は北を、台座の円形は”平和と協調”を表しています。
対岸のサハリン島クリリオン岬までは43劼曚匹竜離で、天候に恵まれると背後に広がる宗谷海峡の彼方に、かつて日本領(樺太)だったその島影を望むことができます。

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宗谷岬「音楽碑」
黒御影石の碑面に歌詞と楽譜が刻まれているのは、ここ宗谷岬の春の光景を歌った郷土の歌「宗谷岬」です。地元で活動を続けてきた吉田弘さんが詞を作り、演歌の大御所・船村徹さんが作曲しました。
1976年にNHKの音楽番組『みんなの歌』で、ダ・カーポが歌う曲が全国に紹介されヒットしましたが、ほかにもボニージャックス、千葉紘子さん、芹洋子さんなど、多くの歌手により歌われてきました。『宗谷岬』は最果ての旅情をかきたてる叙情歌として、今も人々に歌い継がれています。

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ウスタイベ千畳岩

ウスタイベ千畳岩は北海道は稚内市の南東部に位置する枝幸町の海岸。北オホーツク道立自然公園内に位置しています。安山岩が畳敷きのように見えるので、千畳岩と名付けられました。ウスタイベとは岬の名前で、ウスタイベ岬の先端に千畳岩があります。敷地内には駐車場・トイレ・炊事場があり、設備の整ったキャンプ場として評判のウスタイベキャンプ場が開設されています。

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サロマ湖展望台(思い出の一枚)

「サロマ湖」
サロマ湖は、北海道 オホーツク海岸の北見市、常呂郡 佐呂間町、紋別郡 湧別町にまたがる霞ヶ浦についで日本で三番目に大きい湖。

展望台からのサロマ湖

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「キタキツネ」
展望台の駐車場に行く途中で見たキタキツネ、帰りにも居たので写真撮影、すると何となく寄ってきた。
キタキツネは、北半球に広く分布するアカギツネの亜種。日本では北海道・樺太および周辺島嶼に生息する。 名称「北狐」は、1924年(大正13年)に岸田久吉が樺太に生息する本種に対して命名したものだが、その後に北海道と千島列島南部に生息する本種も「北狐」と呼称されるようになった。アイヌ語ではチロンヌプ(cironnup)、スマリ(sumari)、キモッペ(kimotpe)、フレプ(hurep)などの名称がある。

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「生態」
北海道の平地から高山帯まで、広く生息している。ネズミや鳥類、昆虫 などを主に食べる。秋には果実や木の実も食べる。土手などに穴を掘り、巣穴とする。哺乳類の中では珍しく雄も子育てを手伝う。雪解けが終り、暖かくなる頃に子供を産み、秋の終わり頃に子別れをする。

網走監獄(博物館)

五翼放射状平屋舎房
この舎房は明治42年の火災で焼失後、それまでの並列型に代わって同45年に再建された舎房です。
中央見張りを中心に雑居房・独居房・鎧格子・矢筈格子といった独特の建築技法を採用し、昭和59年9月迄使用されていました。
明治獄舎の名残を完全にとどめる舎房としては国内最大規模で、ことに木造では現存する我が国最北端の監獄として学術的に貴重なものとされています。

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厳寒の網走では暖房器具の設備は特に必要です。網走監獄においても開設当初は薪ストーブを使用して暖を取っていました。その後、時代と共に石炭ストーブ、石油ストーブ、スチーム暖房と近代的に整備されてきました。
第5舎58辰猟垢は下にはストーブ2台設置されておりました。

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網走監獄(博物館)

釧路集治監網走囚徒外役所正門
刑務所の門塀は受刑者の逃走を防ぎ社会治安を守ることが目的ですが社会の目から受刑者をとおざける人権尊重の意義もそなえていました。塀の造りは明治5年監獄則で石造りか煉瓦造りにすることが定められましたが監獄設置の永久性や仮設性、資材の調達の関係等地域の事情により造られていました。
網走の場合、創設当時の塀は木造で造られていました。

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これは樺戸(現在の月形町)集治監の懲罰房です。この房の立ち並ぶ周囲は木塀でおおい、その中を「闇堂」といい、房は外から光りが入らないように造られ「闇室」と呼ばれました。
獄内規則を犯した受刑者が7昼夜重湯のみが与えられて入居させられました。

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網走刑務所(思い出の一枚)

鏡橋
網走刑務所の外塀に沿って流れる網走川に架かる橋を、収容される時、出所の時必ず渡らなければならない。「川面に我が身を映し、襟を正し、心の垢をねぐいおとす目的で岸を渡るようにと」誰言うとはなしに鏡橋と呼ばれるようになった。

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明治23年3月、原始林に覆われ笹と葦の茂るこの地に中央道路開削の拠点として釧路監獄所網走囚徒外役所が開設された。
以来百年、この地で罪を問われた人びとが厳しい試練に耐えて更正に励んだ。手錠に繋がれて鏡橋を渡った彼らが希望に燃え大手を振ってここから社会に復帰した。人びとは等しく犯罪と非行のない社会を望んでいる。罪を犯し非行に手を染めようとしている彼らの更正を願っている。ここには厳しいが美しい自然がある。厳しいが愛に満ちた人びとがある。
平成2年10月30日  開基100周年を記念して
網走刑務所長 本田孝信
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知床斜里駅(思い出の一枚)

知床斜里駅は、北海道斜里郡斜里町港町17にある北海道旅客鉄道(JR北海道)釧網本線の駅である。
斜里は、アイヌ語の「シヤリ(ヨシの生えている湿地)」によるもの。また、「サルン、ペッ」の意訳である「芦川」や、「広々とした野原」を意味する「サライ」が変化したものなど諸説ある。

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岩尾別温泉(思い出の一枚)

岩尾別温泉は、北海道斜里郡斜里町岩尾別温泉にある温泉。知床国立公園内に位置する。

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一軒宿の「ホテル地の涯」が存在する。ホテル「地の涯」には男女別の内湯と混浴の露天風呂があり外来入浴もできる。また、素泊まりのみの山小屋である「木下小屋」も存在し、羅臼岳・知床連山への登山基地にもなっている。

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無料で利用できる混浴露天風呂「滝見の湯」が存在するが2018年現在、無料で利用できたホテル前の三段の湯は再開されていない。
冬季(例年11月下旬 - 4月下旬)はアクセス道路である道道93号が閉鎖されるため、温泉地も冬季は休業する。

知床五湖(思い出の一枚)

知床五湖
原生林に囲まれた幻想的な5つの湖です。
周りの樹林や知床連山を湖面に写しながら静寂を保っているその姿はまさに原始の中の楽園にふさわしく数多くの植物、動物たちを目にすることができます。
高架木道の展望台からは第一湖と知床連山の大パノラマが見渡せます。

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一湖から五湖までの名前がついている。ただし、湿地帯にあるため融雪期には数が増える。
知床八景の一つに数えられる観光地として、一湖を見下ろす展望台や湖を巡る遊歩道が整備されている。知床連山や原生林を水面に映す素晴らしい風景は、訪れる観光客の心をとらえて放さない。

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遊歩道では、エゾリスやエゾシカなどが観察される一方、ヒグマが目撃されることもあり注意を要する。ヒグマの出没状況によっては、遊歩道の一部または全部が閉鎖される場合がある。また、夜間と冬期は閉鎖される。周辺の植生は、エゾマツやトドマツが主であるが、近年、頭数が激増したシカの食害のため天然更新が滞り、全体的な衰退傾向が危惧されている。

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知床峠(思い出の一枚)

知床峠
斜里町ウトロと羅臼町を結ぶ知床横断道路の頂上、知床連山の尾根筋にあたる標高738mの峠です。
峠は知床の原生林を見渡す位置にあり周辺は世界有数のヒグマの生息地でもある。峠からの眺めは知床八景の1つに選ばれており、羅臼岳やハイマツの樹海、天候が良ければ北方領土国後島も望むことができる

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羅臼岳
左手に見える山が道東で最も高い山「羅臼岳」で羅臼岳をはじめとする山々は新生代第四紀にできた火山で古い地層の上に噴出した溶岩が何層にも重なってできています。
この溶岩は粘り気が強いため溶岩が流れた跡が山腹に盛り上がって見えています。頂上には溶岩が固まったドームがあります。

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「叫び」の像(思い出の一枚)

北方四島返還「叫び」の像

「国民の脳裏から戦争の悲惨なイメージが消え去ろうとしております。しかし未解決の北方領土の祖国復帰をみるまでは、真の平和がおとずれたとは言えません。
北方領土は、われわれの父祖が風雪に耐え汗で拓いだ島々で、歯舞、色丹、国後、択捉の四島は、歴史的にも、国際法上からもわが国固有の領土です。
しかるに昭和20年9月3日、戦争が終結したにもかかわらず、ソ連は、この四島に父祖とともに育った同胞をしめ出し、現在に至るまで占拠を続けております。
日ソ両国の恒久的平和と真の友好親善関係確立のためにも、このようなことが許されるものではありません。北方領土の返還実現は国民の総意であり、政府は2月7日を北方領土の日として制定しました。
われわれ日本人は島々が祖国に還る日まで領土返還運動を続けていきます。この返還運動の強い意志を象徴するため「島を返せ」の切実な叫びを老女と孫に託し北方領土返還「四島への道 叫び」の像を建立しました。」   建立 別海町町長 上杉貞

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納沙布岬(思い出の一枚)

納沙布岬

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納沙布岬灯台
日本は古来より「日出ずる国」とされてきましたが、納沙布岬は本土最東端の地で1番早く朝日が昇ります。
納沙布岬灯台は1872年に北海道で最初に点灯した灯台で現在の姿になったのは1930年です。光のエネルギー源は石油からアセチレンガスを経て電気に変わりましたが光を放つ四等レンズだけは当時のままです。

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アイヌコタン(思い出の一枚)

阿寒湖温泉街の一角には約30戸120人程度が暮らす北海道最大のアイヌコタン(アイヌの集落)がある。アイヌの伝統舞踊を公演する演舞場の「オンネチセ」や、アイヌの伝統文化を紹介する2つの資料館(アイヌ生活記念館、森と湖の藝術館)ならびに木彫製品などを販売する土産物店などが並んでいる。

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阿寒湖(思い出の一枚)

阿寒湖は北海道釧路市にある湖で北海道で5番目に大きい淡水湖である。全域が阿寒摩周国立公園に含まれ、道東を代表する観光地となっている。

特別天然記念物のマリモや、ベニザケの湖沼残留型(陸封型)であるヒメマスが生息する。冬は全面結氷し、ワカサギ釣り、スケート、スノーモービルなどのウィンタースポーツが盛んで、阿寒湖氷上フェスティバル・冬華火などのイベントも開催される。周囲はエゾマツ・トドマツなどの亜高山帯針葉樹林、および広葉樹を交えた針広混交林の深い森に覆われている。

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襟裳岬(思い出の一枚)

襟裳岬は北海道幌泉郡えりも町、(太平洋に面する岬)、日高山脈の最南端で、太平洋に向かって南へ突き出した岬である。海上にまで岩礁群も伸びている。

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岬の周囲は高さ60 mに及ぶ断崖となっており、三段に及ぶ海岸段丘が発達している。眺望が開けており、日高山脈襟裳国定公園の中核を成す観光地となっている。

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釧路湿原(思い出の一枚)

釧路湿原国立公園は、我が国の湿原総面積の6割におよぶ広大な釧路湿原を中心にその周囲の丘陵と湖沼を含み、釧路市・標茶町・釧路町・鶴居町にまたがる26.861ヘクタールの面積を有しています。
ハンノキの木立を点在させたヨシの草原と蛇行する河川などがおりなす広大な水平景観、その中に見られる動植物の様々な営みと原自然の保存度の高さは、我が国では他に類例がない特異性をもっています。

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湿原の主要部分は、ラムサール条約により水鳥の生息地として国際的に重要な湿地の指定・登録を受け国際的にも重視されています。

旧遷喬尋常小学校(思い出の一枚)

遷喬尋常小学校は明治7年に大場郡久世村にあった御蔵を転用して開学した。学校名は中国の古典である「詩経」の一節である「出自幽谷 遷于喬木」から教育者の山田方谷が命名した。
その後、建物の老朽化と生徒数の増加に伴い新築することになり、明治38年7月に着工し同40年7月に完成した。

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木造二階建で中央部を大きくつくり東西両翼棟を左右対称に配置する。屋根は棟に寄棟の小屋根を置き、正面は左右対称に突出させた切妻屋根を設ける。屋根材は、当初は天然スレート葦であったが後に中央部以外は桟瓦葦になった。
外壁は下見板張りを基本とし、筋交いをアクセントで入れる。基礎は煉瓦積みで花崗岩の切石を土台とする。設計は県の工師であった江川三郎八、監督は江川工師の紹介による中村錠太郎、施工は高橋岩吉である。

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尚、正面の屋根窓に描かれている校章は高瀬舟をデザイン化したものだが「久世」の文字が織り込まれている。この校章は江川工師自身が考案し採用されたものである。
学校建築の基本が定まった後の学校建築の典型例として、また中国地方の学校建築の歴史を知る上で貴重である。

牛窓(思い出の一枚)

牛窓灯籠堂跡
瀬戸内海を航行する公・私船舶が頻繁となった延宝年間(1673〜1681)に夜間通行の標識として備前藩主池田縄政の命により建設されてものである。
出崎の突端の岩盤上に割石積みの基壇を築き、その上に木造の灯籠堂を建ててあったが、明治維新後壊された。基壇は上端で東西4.3弾酲味粥ィ貝叩下部で東西4.9弾酲味粥ィ広叩高さ2.2叩南北面に石段を造りつけている。
備前藩が相前後して建設した四ヶ所の灯籠堂の内、完全に残っているのは牛窓と大漂(大多府)の二ヶ所だけである。

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御茶屋井戸
牛窓は大きな河川がなく、夏になると水争いが起こったり水売りが来たりする土地柄であり水の確保は重要課題でありました。
この井戸は、岡山藩の外交施設であった御茶屋で朝鮮通信使を迎えるために承応三年(1654)六月、岡山藩により掘られた。と井戸枠の側面に刻まれている。井戸の底は深く丸く大きく掘られており、他の井戸が枯れてもここだけは枯れなかったと伝えられている。

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城下町勝山(思い出の一枚)

・・・ 城下町勝山の歴史めぐりの旅 ・・・

静かな時間が 似合う街 勝山
ふと、空を見上げると もう雨は上がっていた。
ほんのみじかい通り雨だったようだ。
小さな水たまりを残して街はしっとりとした空気に包まれていた。
「あぁ、ここは城下町なんだ」昔から、出雲街道沿いに栄え
歴史と伝統につちかわれた街 勝山
この街には静かな時間が似合うようだ。

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