知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

助郷

大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内だけでは不足する時もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立する人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄七年(1694)に正式に実施されている。

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人馬を提供するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったもののやがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった。

新宿御苑

東京へは何度も行っているが仕事意外では三度目と記憶している。4月8日、帰りの時間に余裕があったので新宿御苑に行ってみました。

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新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷地の一部であり、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西に伸びる街道と鎌倉街道が交差する要所でした。
このため、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたものとされています。

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現在、大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園、「玉川園」の一部です。

飯盛女

飯盛女(飯売女と表すこともある)は、旅籠屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りも披露する遊女でもあった。

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正保・慶安の頃(1644〜51)この飯盛女を置く旅籠が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅籠間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛正のため飯売女の人数制限を行ったが、効果はなかった。
以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなどその繁盛ぶりが全国に届くことになった。

田中吉政

田中吉政は豊臣秀吉に名前の一字を賜るなど重用され、当時尾張の領主となった秀吉の甥秀次の付家老として天正十八年(1590)に岡崎に入城し、以降十年間、新しい城下町づくりを行った。

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関東の徳川家康の西上に備え、城下町全体を堀と土塁で囲み、総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。
又、矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺院神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが兵・農・商・工を区分し、町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った。

寺ヶ池

古来より河内地方の農業は溜池灌漑水利が多く、寺ヶ池も百姓の切なる領に依り近世初期、奥の池と共に築造されて半田村の農業生活上に意義深いものがあった。
しかし、多年の間に土砂の埋没が甚しくなり、元禄年間・文政年間に大修築がなされ、その灌漑面積は八百余石に及んだ。近年に至り、堤の補強工事がなされ貯水量が増し、池水は三ヶ所の樋尻から分水され各自の田に配水されて今尚多数の農地を潤している。

因みに、我が家の家庭菜園も距離があるが寺ヶ池から配水されていると聞いている。

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寺ヶ池の沿革
面積 約24000平方米
水深 約7米
所在地 大阪府富田林市寺池台 南海高野線金剛駅から約8分

狭山池

日本最古の溜池「狭山池」は何代にもわたって人の手が加えられ現在に至っているが平成の大改修によって初めて周遊路ができた。
子供の頃、北堤には桜の古木があり、桜の咲く頃には毎年トンネルが出来た。その桜の木も平成の大改修の時、すべて切り倒された。

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石川や大和川といった水量の豊富な河川から外れる河内国西部の丘陵地帯は、水量に乏しく灌漑に苦労していた地域で、現在も狭山池周辺には大小の溜め池が数多く点在する。

今更ではあるが4月12日の桜、
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備考 
    狭山池の築造(616年)   推古天皇の時代
    行基の改修(731年)
    天平宝字の改修(762年) 
    弘仁の改修(819年)
    重源の改修(1202年)
    慶長の改修(1608年)
    元和の改修(1620〜1621年)
    元禄の改修(1693〜1694年)
    安政の改修(1857〜1859年)
    明治の改修(1903〜1907年)
    大正・昭和の改修(1926〜1931年)
    平成の大改修(1988〜2002年)

人馬継立(岡崎)

旅行者は各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅行した。東海道では五十三ヶ所の宿駅でこうした継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。

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公用旅行者は無料、半額で使用できたが一般旅行者は相対賃金で雇う。四十貫(約150キロ)の荷物をつけた馬を本馬、人が乗って二十貫の荷物をつけるものを乗懸、人が乗るだけのものを軽尻といい、人足は五貫の荷物を運ぶのを基本とした。他に長持ちや駕籠もあった。人足の駄賃は本馬の半分程度だったとされる。

三度飛脚(岡崎)

伝馬宿の中心地の住人の中には飛脚屋という職業の人間もいた。飛脚は現代でいう郵便配達人にあたり、預かった通信書状などを入れた箱を担ぎ、敏速に目的地に届ける役目をしていた。

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飛脚には公用の継飛脚、諸藩専用の大名飛脚の他、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは、寛文三年(1663)に開業した町飛脚で、毎月、東海道を三度往復したことからそう呼ばれた。

塩座(岡崎藩)

塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商いをしていた。
矢作川を上る塩舟は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もありしばしばトラブルもあった。

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上がってきた塩は審査の後、馬に乗せ替えられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶屋、魚座、煙草株などがあるが、商いをする者は座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた。

御馳走屋敷

徳川家康が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年(1590)8月、同年10月には田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。
吉政は矢作川に初めて橋を架け、東海道を城下へ引き入れました。城下の道は、防衛の意味から屈折しているのが常で岡崎はその典型でした。これが二十七曲りで、しかし、徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり、城下町・宿場町として栄えていきました。

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現在の岡崎信用金庫資料館南辺りに御馳走屋敷という屋敷があった。文政九年の「家順間口書」によると間口が十五間以上もある立派なものであった。
御馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役人などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。公用旅行者の格式によって接待方法も違うが、特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、御茶壺、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重に挨拶したという。

籠田惣門(岡崎宿東海道二十七曲り道標)

きららみち(明治二巳巳年十二月建之)

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西本陣前角

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西本陣跡

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田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われたとされる。籠田惣門は現在の籠田公園前、西岸寺辺りにあった。門の前に外堀があり、そこから西は岡崎城内となる。惣門は東海道が城郭内に入る出入口にあたり、籠田惣門は東の門であった。

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西は現在の中岡崎町に松葉惣門があった。二十七曲と呼ばれた東海道は伝馬町を経てこの籠田惣門から北に曲がり現在の籠田公園を抜け、連尺町へとつながってゆく。岡崎では東海道は東西から城下まで導かれていたわけである。

旧商工会議所

大正六年、岡崎銀行本店として建てられた赤レンガと花崗岩の組み合わせによるルネッサンス風の建物です。
戦後、商工会議所として使われていましたが、現在は岡崎信用金庫資料館として一般に開放されています。

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郷土館とともに、市内に残る大正時代の貴重な建築物です。

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岡崎宿三十六町二十七曲り

田中吉政(1548〜1609) 岡崎城主(1590〜1600)
当時、管生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、また惣堀(田中堀)を築造するなど、城下町の整備を行った。

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東海道は鎌倉時代になって京都から二十六番目の宿が矢作宿であり、十四世紀末東矢作岡崎郷が明大寺に出現しました。
天正十八年(1590)、田中吉政が岡崎に入城し、城下町の建設にとりかかり乙川の南岸を通っていた東海道を城下に導き入れ、矢作橋の架設に着手しました。慶長六年(1601)本多康重が城主となり田中吉政の城下町建設を引き継ぎ矢作橋を完成しました。

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慶長十二年の大洪水によって八町の町民を城東の台地に移し、伝馬町を新設し続いて連尺町・篭田町両町も作られ町並みがほぼ完成し「岡崎宿三十六町二十七曲り」と言われるようになりました。
城下の町角を多くしたのは防備の必要からですが町並みを長くして商家の賑わいを招く利点も考慮したものと考えられる。

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二の丸御殿の井戸

岡崎城大手門(実際の位置は七間門付近)

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岡崎城二の丸御殿の井戸
この井戸は江戸時代の石組井戸で、二の丸御殿の絵図には建物の北東側に2基の井戸が表示されており、そのどちらかと考えられている。

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松尾芭蕉

     −木のもとに汁も鱠も左久良哉−
                             松尾芭蕉  

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     元禄三年三月二日伊賀の小川風麦亭において、
     風麦、土芳たちと歌仙を開いた時の八吟四十句の発句である。

徳川家康

徳川家康は岡崎城内で生まれ、幼少の頃は人質として苦難の道を歩み、自立した後は全国統一を目指し、転戦を続け、慶長5年(1600)天下分目の関ヶ原の合戦大勝して、天下をおさめるに至った。
以後、持前の才能を生かし、全国統一の念願を叶えると共に、徳川幕政300年の基盤をも作り元和2年4月17日、75歳でこの世を去った。

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岡崎城

岡崎城の起源は15世紀前半まで遡る。明大寺の地に西郷頼嗣によって築城されたのがそのはじまりである。その後、享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の地に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになった。

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天文11年(1542)12月26日、徳川家康は岡崎城内で誕生し、6歳で織田信秀(織田信長の父)、8歳で今川義元の人質となり少年期を他国で過ごしたが、永禄3年(1560)桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めた。

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元亀元年(1570)家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。天正7年(1579)信康が自刀したあとは、重臣石川数正、ついで本多重次を城代とした。
天正18年(1590)に家康が豊臣秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主になるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名をここを守らせた。

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江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏、本多氏と家格の高い譜代大名が城主となった。石高こそ5万石前後と少なかったが、大名は岡崎城主になることを誇りにしたと伝えられる。

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明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不要とされた城郭の大部分は明治6〜7年にかけて取り壊され、堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりとなった。

産湯の井戸

天文11年(1542)12月26日、徳川家康は岡崎城二の丸で生まれた。

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この井戸の水を汲み、産湯に使用した。

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しかみ像(徳川家康)

世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい自画像です。

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元亀三年(1572)十月三日、27000の大軍を率いて甲府を出発した武田信玄は遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、十二月には徳川家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。
命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。自戒の像である「しかみ像は、やがて戦乱の世を統一し世界にかん冠たる平和国家を創り上げる礎にんったと云われる。

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八丁蔵通り

八丁味噌(愛知県岡崎)
大豆そのものを麴化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、岡崎を代表する名産である。

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岡崎城から八丁(約870メートル)離れていたことからその名がついた八丁村(現在の八帖町)は岡崎の名物、八丁味噌の生産地。昔と変わらず現在でも、2軒の蔵元が八丁味噌を造っており、見事な蔵屋敷が並ぶ狭い路地には昔の風情が残っています。

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矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも舟運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造によくて、また、気候及び風土にも適していると云われる。
江戸時代以降、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺だけでなく江戸にも多く積み出され、現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けている。

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「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば特よし、焼いて又よし」といわれる八丁味噌は、三河武士・農民・町人たちの常食・兵食として親しまれ一日も欠くことのできない食品でありました。また、天正十八年(1590)、徳川家康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い三河木綿の運搬との相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。
それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という吉田松陰の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰うも」という斎藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来、岡崎城下の名産として称賛されてきました。

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室井滋さん
                                             
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                                  NHKの朝の連続ドラマ、 「純情きらり」が八丁味噌の蔵元が舞台となり、 八丁蔵通りには、ヒロイン有森桜子役を演じた宮崎あおいさんの手形の碑があります。

                                    -

円通橋

この石橋は「円通橋」と称して、池を「皓月池」と云い長さ約40メートル、幅約6メートル、橋脚、敷石板、欄干など全て花崗岩の切石を用いている。

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橋脚によって作られた二つのアーチが池水に映る姿は、あたかも眼鏡のようにみえうところから、通称「めがね橋」とも云われる。
安政3年(1856)12月に竣工し、当時は「奇巧ををつくした石橋」として、「花洛名勝図絵」にも紹介される。

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東陽坊

建仁寺方丈日本庭園

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東陽坊

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利休高弟の一人、真如堂長盛の好みといわれ、豊臣秀吉の北野大茶会にて紙屋川の土手に建てられた副席と伝えられる。手軽い屋根の構成が魅力ある草庵茶屋の外観を形づくっている。
内部は二帖台目の茶席一帖の合の間、二帖台目向板の控室、板の間の水屋からなる二帖台目席の最も優れた模範的な形といわれている。
茶室南側には豊太閤遺愛の鳥帽子石が据えられている。

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建仁寺(双龍図)

法堂

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双龍図

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この天井画「双龍図」は日本画家小泉淳作氏によって描かれ、縦11.4メートル横15.7メートルであり、麻紙と呼ばれる和紙に中国明代で最上の墨房といわれる「程君房」の墨を使用して描かれている。

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建仁寺(襖絵)



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海北友松によって桃山時代に描かれた方丈襖絵「雲龍図」

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山水図襖

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花鳥図襖

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建仁寺

勅使門(重要文化財)
銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝え、柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれ、元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものと伝えられている。

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三門(望闕楼)
大正十二年、静岡県浜名郡雄踏町山崎の安寧寺から移建したもの、空門・無相門・無作門の三解脱門、「御所を望む楼閣という意味で望闕楼と名付けられた。

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浴室
禅堂・食堂とともに三黙堂の一つとして定められ重要な修行の場でもあった。

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