知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

湯ノ口温泉

トロッコに乗って行く温泉、2012年8月当時。

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藤堂高虎公

弘治二年(1556)、近江国犬上郡藤堂村(のち在土村、現滋賀県甲良町)に生まれる。15歳の時、浅井氏に仕え、姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦し、天正4年(1576)21歳で長浜城主木下秀長(豊臣秀長)に300石で抱えられ、天正13年(1585)には紀州粉川(和歌山県粉川町)ではじめて一万石の大名となった。

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その後、豊臣秀吉の下で伊予宇和島七万石となり、二度の朝鮮出兵にも参加した。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ヶ原の戦いの時には家康に味方して勝利をおさめ、伊予今治二十万石の大名となった。
慶長13年((1608)、いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に二十二万四千石で移され、大坂の役の後に加増され三十二万三千余石の大大名なった。

入徳門

文政三年(1820)、第10代藩主藤堂睹次覆燭さわ)は藩士やその子弟を教育する為の藩校として有造館を創設した。その中心である講堂の正門がこの門である。
明治4年、有造館は廃校となったが、その後に創設された小学校第1校、師範学校、津中学校、三重女学校兼付属幼稚園、入徳幼稚園の正門として使われた。

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昭和20年の戦災時には奇跡的に類焼は免れた。戦後は当地にあった県立図書館の正門となるも昭和42年の同館移築によりこの門のみ残された。この間、入徳門は何回も場所を移り、昭和46年現在地に建てられたが老朽化が激しくなり保存修理工事を実施した。

紀伊半島縦断

緊急事態宣言が解除されましたので紀伊半島を縦断します。期間は10月12日から14日迄とします。
この間は訪問が出来ませんが宜しくお願い致します。

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津城跡

津城は織田信長の弟の信包によって築城された。天正八年(1580)に五層の天守閣が完成し、それまで柳山あたりにあった町屋が移されて城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受け、津の町は戦火にあい荒廃した。慶長十三年(1608)に藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、本丸の北側を広げて石垣を高くして、両隅に櫓を新築したり内堀・外堀とも整備したりするなど大改修を加えた。そして城を中心に北・西・南に武家屋敷を、東には町屋を置き、町外れを通っていた伊勢街道を城下町に引き入れ町の発展に努めた。

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また、城下町の東の隅に堀川を掘り、船を入れて商業発展に利用するとともに、城下の外側の守りとした。また、堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合の防御の最前線とした。西側の武家屋敷の西一帯は湿田で、ここに町屋を建てることを禁止し、万一の場合と火災に備えた。

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【本丸】
石垣が切れたところには埋門と呼ばれる門があった。周囲には丑寅三重櫓をはじめ5つの櫓があって多門櫓と呼ばれる渡り廊下のようなようなものでつながれていた。

太鼓門

専修寺の東辺に位置し江戸時代の寛文年間(1661〜73)のいと姫の輿入れの際に津藩から寄進されたといわれ、創建時の一層の櫓を載せた形式から文久年間(1861〜64)の整備で三層となり、明治期に全解体修理が行われました。
この門は最上階に直径1団の大太鼓が吊り下げられていて法要があるときや町の人々に時を知らせていました。

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専修寺山門

御影堂の正面にあり、専修寺の総門にあたる。すぐ前には道をへだてて石畳が伸び、その途中にある石橋や釘貫門、左右にある玉保院、知恵光院、さらには古い町並みと一体になって、本山の門前にふさわしい雰囲気をつくっている。

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なつかしの映画ロケ地

「かごや判官」
【監督】冬島泰三 (昭和10年松竹)
【出演】林長二郎(長谷川一夫)高田浩吉
【撮影場所】太鼓門周辺・寺町通り
 駕籠屋の権三と助十は、米屋の隠居が百両の金を奪われた上に殺されるという事件の下手人らしき人物を目撃します。しかし奉行所に届けをせぬ間に無実の男が捕らえられてしまい・・・小市民の浅知恵と大岡越前守の名推理が落語の世界で繰り広げられる戦前のコミカル劇。

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映画ロケ地

「江戸の朝霧」
【監督】池田富保(昭和17年大映)
【出演】市川右太衛門・羅門光三郎・高山廣子
【撮影場所】寺町通り・常磐橋・毛無川周辺
ー幼くして学才に秀でた麟太(後の勝海舟)を貧しくも誇り高く育てる吾子一筋な父性愛を描いた作品。ー

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慈智院本堂

 高田派末寺の中で、智慧光院・玉保院と並ぶ筆頭三ヶ寺の一つである。本堂鬼瓦に寛永16年(1639)5月吉日の篦書(へらがき)があり、この時に建てられたと考えられており、正保2年(1645)一身田大火にも焼け残った一身田で最も古い建築と言われている。
 本堂は桁行5間、梁間6間の寄棟造、本瓦葺。堂内はすべて角柱を用い、天井もすべて棹縁天井で住宅風の構成を持つ。外部は垂木を大きく疎らに配り、西面の他は肘木もなく、全体に簡素な造りとなっている。

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桜門跡

寺内町一身田の西隅にあって京都方面への出入り口になっていた門、門の外に桜並木があったので桜門と呼ばれていました。
他の二つの門と同じように明六つ(午前6時)に開門し、暮六つに閉じられ、一身田の治安を守っていました。

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一身田寺内町環濠

一身田寺内町を特長付けるものに環濠がある。各地の寺内町の環濠が埋められている現在、一部改修されているとはいえ、ほぼ完全に残っている処は一身田のほかにはあまり例がない。
元禄十三年(1700)の古図によると環濠の規模は次のようになっている。
一、東 長百九拾九間半、堀幅二間半、堀之外三尺之道、土居壱間
一、西 長貳百三十貳間半、堀幅(無記入)土居三間、堀之外道幅壱間
一、北 長貳百四拾間、堀幅三間、土居三間、堀之外道四尺
一、南 長貳百六十五間半、川幅三間、土居幅三間、三尺之水通し有、堤鋪三間

ここに記された濠の長さは、現在の環濠の規模と完全に一致する。ただ、濠幅はその後の改修等でかなり狭くなっている。また、濠に沿って一間ないし三間の土居(堤)があったようであるが、寛政四年(1792)の惣絵図では、専修寺境内の西側と北側で濠に面する部分だけに描かれている。
この部分の土居(堤)は現在もその形跡を留めているが、他は早くから屋敷の中に取り込まれていったものと考えられる。

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北畠氏館跡庭園

国指定名勝・北畠氏館跡庭園は当代庭園中屈指の作として全国的に高い評価を受けています。近年各地の発掘調査により、同時代の庭が見つかってきましたが、この庭園は埋もれずに残っていたものとして貴重なものといえます。「米字池」と呼ばれる池泉は複雑な形をなし、屈曲する護岸石組は豪快で力強く、東側には高さ約2辰凌槎鏤垣个鮹羶瓦砲靴娠牡式の立石枯山水が組まれています。
築山には樹齢400年以上の巨樹が聳え、しっかりと大自然と調和しつつ、しかも質実剛健、武将好みの男性的な庭です。

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     絵にうつし石をつくりし海山を
           後の世までも目かれずや見む
(有力大名で、しかも作庭の名人として名高い管領細川高国が亨禄四年(1531)摂津国大物庄で自害せんとする時、婿なる伊勢国司北畠晴具に贈った辞世の和歌であります。

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     君まさで経りぬる池のこころにも
           いひこそいでね昔こふらむ
(明和九年(1772)の春、本居宣長翁が吉野からの帰路、伊勢本街道を通り飼坂峠を越えて当北畠八幡宮に詣で先祖本居惣助という人が北畠家の家臣であったことを懐かしく思い出し当庭園に佇み詠んだ和歌であります。

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専修寺釘貫門及び石橋

釘貫門とは、柱を立てて並べて横に貫を通しただけの簡単な門のことであり、町の入り口に設けた木戸のようなものを示すこともある。現在はこの山門の釘貫門だけが残るが宝暦年間(1751〜63)の木版画には他に3ヶ所矢来(釘貫門)が描かれている。
こお釘貫門は道路を挟んで同型同大の東西2棟からなり、石橋と釘貫門の対向する親柱には、高欄が設けられていた痕跡が残る。双方を繋ぐ構造や開閉の装置を持つものではないが専修寺では釘貫門と称されている。釘貫門は、山内寺院と町屋を隔てる堀の北側に位置し、堀上に架けられた石橋と併せて聖俗の結界をなす装置となるものであり本来の形式を留める現存する貴重な例である。

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この石橋は、山内寺院と町屋を隔てる堀の上に架かる橋である。堀上に円弧状の橋板11枚を並べた石造の反り橋で、橋の南側の橋詰では、高欄は親柱から水路に沿って折れ曲がるが、東側では一部部材を欠き、欠損していてその一部は近年新材となっている。

専修寺山門

御影堂の正面にあり、専修寺の正門にあたる。すぐ前には道をへだてて石畳が伸び、その途中にある石橋や釘抜門、左右にある玉保院、智慧光院、さらには古い町並みと一体となって本山の門前にふさわしい雰囲気をつくっている。

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二階建てで、間口20叩奥行き9叩高さ15.5メートルの大きな門である。正面の柱間は五間で、そのうち中の三間に扉を設けて入り口とし、下層の挿肘木という肘木が斗にのらず直接柱に押し込まれる形になっている。全体の形式と組物の用い方は京都の東福寺山門(応永12年(1415)の建立・国宝)とよく似ており、参考にしたと思われるが、裏側で三間分だけ屋根が張り出している点は他に例をみない珍しい手法である。

専修寺唐門

専修寺(せんじゅじ)唐門
如来堂の正面に建つ門で、文化六年(1809)に木挽きが始まり、文政十年(1820)に地築き(ぢつき)、天保十五年(1844)に棟上げをしている。
屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、正面と背面の軒に大きな唐破風があることから唐門と呼ばれる。控柱4本が腰長押(こしなげし)から下で、斜め外に踏み出した形になっているのは注目される。材料はすべて欅造りで、厳しく吟味された品位の高いものを入念に施工している。

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腰長押と飛貫(ひぬき)との間、扉、その脇の小壁、欄間には勢いのある菊、ぼたんの透かし彫が彫られ、他の部分にも親子の獅子や力士の彫刻がされるなど、全体に華麗で複雑な構造をした門である。
造営時に配られたと思われる木版刷りの立面図が残っていて、それによると始めは檜皮葺の2案が考えられていたらしい。

ふれあい

水、緑、太陽など自然の豊かさと同じように、心のふれあいは、人間の生活にとって欠くことのできない大切なものです。
この像は人と人とのつながりの原点である母と子を主題として、その愛情に満ちた語らいの情景を彫刻として表現したものです。ほのぼのとしたふたりの姿に、親から子、子から孫へと、文化や伝統などが受け継がれていく様子と、未来への明るい希望を象徴して「ふれあい」の像と名付けています。

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長野宿

長野宿は、もともと中世の国人領主「長野氏」の城下町として発達して、江戸時代になって藤堂藩の官道として整備され宿場としての機能が充実した。
藤堂藩の町方として扱われ、夫役等の諸役が免除された。

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道の両側に家が並んでいる集落で、殆どの家が屋号を持っています。かつては、問屋が設けられていました。

長野峠の手前に「義犬塚」がある。
長野氏の家臣の愛犬が、ある日突然主人に吠えかかってきたため、首を切り落としたところ、その首は背後にいた大蛇に噛みつき、主人の命を救ったと言い伝えられている。

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津偕楽公園

この付近は、もと「下部田山」あるいは「御殿山」と呼ばれ、藩主の鷹狩り場の休憩所の御殿が建てられていたといわれる。承応年間(1652〜1655)には藩士に功労をねぎらうために遊息の地として分け与えたという記録がある。11代藩主藤堂高猷(たかゆき)は安政3・4年この地を家臣から買い上げて、ここに山荘造成を行った。「御山荘」と呼ばれたが、偕楽園の名称は、園内の亭舎に「偕楽園」の篇額が掲げられていたことによるもので「人々が偕(とも)に楽しむ」という意味からきている。
明治10年4月「三重県公園」として開設された。

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部田の常夜灯

   部田(へた)の常夜灯
この常夜灯は、もともと塔世橋の南詰めにあり「部田の常夜灯」と呼ばれ親しまれたものでした。後に四天王寺の薬師堂前に移され、その後、快楽公園内に移され現在に至っている。元治元年(1864)刊行の「五十世作楽(いせざくら)」に描かれた絵には、津の城下町の北の入口にあたる門のそばに、この常夜灯が描かれています。

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石柵で囲まれた中、石垣の上に春日型の常夜灯が建っていて、高さ3.5メートル、竿には「奉献」「天保元年(1830)庚申十二月建」と刻まれています。石でできた常夜灯にしては細工が細かく、狐格子や笠屋根の裏には垂木模様があり、中台と台座の正面・側面それぞれ異なった姿の龍が力強く浮彫りされています。又、台座の基壇の石も大きく立派です。基壇の側面には茶屋町中(栄町の一部)、西浦中(北丸之内の一部)などの地域の願主や世話人の名前が刻まれています。常夜灯を作った石工については「洞津、池宮信之 謹鑿」と刻まれています。

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明治5年9月12日、日本で初めて鉄道が開通し、蒸気機関車が走りました。大正8年には国産の電気機関車が生まれ、昭和7年ディーゼル機関車がうまれました。
この機関車は昭和16年2月1日に兵庫県で誕生し、三重県内の関西線、紀勢線、参宮線を雨の日も風の日も32年以上走り続け、昭和48年9月17日、役目を終えました。その間に走った距離は205万キロメートル(地球約51周)になりました。

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上野英三郎博士と忠犬ハチ公

上野英三郎は明治4年、現三重県津市(伊勢国一志郡本村甲一〇九番屋敷)に生まれた農学博士です。
明治から大正期に日本農業の基盤となる水田の耕地整理を指導し大学はもとより全国各地で数多くの技術者を育成した農業土木分野の先駆け者でした。

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東京帝国大学で教鞭をとった博士は54歳の若さで亡くなりました。博士の飼い犬「ハチ・秋田犬」との生活は一年五ヶ月と短い間でしたが、人としての愛を注ぐ事により動物との紲「絆」が生まれました。その後、ハチが渋谷駅前で帰らぬ主人を待つ姿が、新聞で紹介され多くの人々に感動を与え「忠犬ハチ公」として広く世間に知られ映画化及び書籍にもなりました。

赤目四十八滝

赤目四十八滝は、日本に数多く存在する四十八滝の一つで、三重県名張市赤目町を流れる滝川の渓谷にある、一連の滝の総称である。また、谷は赤目四十八滝渓谷と称される。
滝のある渓谷はおよそ4kmにわたって続き、峠を挟んで香落渓へとつながっている。 渓谷は四季折々に楽しめるハイキングコースとなっており、紅葉の名所としても知られていて、秋には関西・中京方面などから多くの観光客で賑わいを見せる。

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渓谷とその周辺地域は野生動物と植生の宝庫である。特に渓谷は、世界最大級の両生類の一つであるオオサンショウウオの棲息地として知られ、滝への入り口付近には飼育・展示施設の日本サンショウウオセンターがある。

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その地勢ゆえに当地は古より山岳信仰の聖地であり、奈良時代には修験道の開祖である役行者(役小角)の修行場ともなったとある。また、地名「赤目」の由来は、役行者が修行中に赤い目の牛に乗った不動明王に出会ったとの言い伝えにあるとされる。 また、役行者および修験道と関連するが、忍者の修行場であったとも伝えられている。

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キャンプ

例年であったが夏は娘夫婦と子供らと三重県の渓流にキャンプをした。この日は2011年8月14日で日帰りの川遊び、何と言っても川が綺麗なのが良い。この日は三重県の青田という山間の地域、

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また、コロナ感染者が増えて8月2日から緊急事態宣言、孫が免許を取ったので奈良〜和歌山〜三重とドライブの予定をしていたが中止とした。

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名張城下町

名張の城下町の形成は、1585年に伊賀の国主となった筒井定次の家臣であった松倉氏が名張地区の中央台地に名張城を築いた事から始まります。
その後、1636年伊予国今治から来住した藤堂高吉により本格的な城下町建設が行われました。名張城の敷地に領主の名張藤堂家邸を配置し、その下を流れる川を「城下(じょうげ)川」と名付け、外堀の機能を与えています。また、伊予から連れてきた多数の家臣と商人、職人を町に居住させました。

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外敵の侵攻を阻む戦術から、鍵型に屈折した町筋や用水路をつくり、御殿がある高台の斜面には竹藪を張り巡らすなど、小規模ながら城下町(陣屋町)としての形態をもつ町ずくりがなされました。
現在も、藤堂家邸の一部や御殿の正門である太鼓門、城下川、鍵型の町筋や用水路、竹藪や石垣の跡など、往時の面影が残ります。
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