知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

失恋も

人は若いころに、落第と失業と監獄を経験すれば良いと書いた本を読んだことがあった。

私は落第の経験がある。
原因は授業時間が2時間足りなかった。辞めようと思っていたが担任の熱意にうたれ留年したが去年の教科書で一つ下の生徒と勉強するのはつらい。

失業の経験はない。
解雇の経験もない。

監獄に行った経験は無いが警察署の留置場に15日間拘留された経験がある。

いずれも「経験があれば人の痛みが良く判る」と書いてあった。

かといって、破廉恥な犯罪は言語道断だ。
戦前に戦争に反対して監獄に放り込まれたとか、在日の人たちが指紋押捺制度に反対して指紋押捺を拒否し逮捕された時期もあった。
私も法務省交渉に二度行ったがこの制度は廃止された。

私はこの三つに失恋を付け加えた。
失恋の経験はないが判るような気がする。たぶん男も女も失恋の辛さは同じだと思う、経験していれば頭でも体でも感じるから経験は大事だ。

人に話をするときは失恋を付け加えている。
経験は自己を育て人をも育てる。

人生いろいろ

 <良い文学には余情がある>と云う

 <よい梵鐘には余韻がある>と云う

 <良い絵画には余白がある>と云う


大阪城








それでは良い人生には余生があるのだろうか!
そもそも余生とはなんなんだろう!
良い人生とはどの様なものだろう!


よく勉強して良い学校に入り、良い会社に就職して、良き妻を娶ること・・・
故郷に錦を飾ること・・・

人のため社会のために役立つことに努力すること・・・


大震災

1995年1月17日の早朝は地震によって起こされた。
すごい縦揺れで私はすぐに箪笥を抑えた。

しばらくしてテレビを点けると神戸が大変なことになっているではないか。
高速道路は横倒しになり、寸断された高速道の上には観光バスの車体半分がでていた。
ビルも横倒しになり、病院は4階が無くなっている。
黒鉛があがり、あちらこちらで火災が発生していた。
淡路島北部を震源とした直下型の大地震だった。

何日かして、仕事で神戸を通ったときに見たものは民家は倒壊してほとんど屋根しか見えなかった。これでは助からないと思った。
亡くなった人の多くは土壁が落ちてその埃を吸った人が多かったと聞いた。
また、火事による犠牲者もいた。

この震災で6434人が犠牲になった。

多くのボランティアが直後から支援に立ち上がった。
私は13万5000円の義援金を送った。

次は南海地震が何時来てもおかしくない。

天災は避けようが無い。
願うのは地震予知の正確な技術を早く開発して貰いたい。
テレビやインターネット、公共施設で、また、エレベーターのなかで、運転中の車にも、
予知が正確になれば尊い命が救われる。


有給休暇

年間の休日が土曜日曜及び国民の休日を含めて125日ある。
これらは13年前に労使協定に基づいて実施されれいる。
労使の交渉によって賃金を下げることなく制度化している。

私の場合は有給休暇が年間24日、何かのために常に1年分は残してきた。
昨年12月30日から9日まで正月休暇とした。
3日間働いて有給消化のため21日まで休んでいる。

さらに、1年分残しても3月始め迄に7日間の消化が必要だ。
休暇中にしなければならないことが沢山ある。

この業界の当初の休日は正月3日間だけだったと聞いている。
基本給は低く、月300時間に及ぶ残業でやっと生活できる状態だった。
その名残の仮眠室が残っていた。
家に帰れば子供は寝ているし、出るときも寝ているという状態が長年続いた。

残業しなくても食える賃金を! この要求から始まった。
長い闘いの結果、現在は日本全国で一番の賃金労働条件となっている。

夢をみる

夢とは実に妙なものである。

30代の頃だったか、誰かはわからないが追いかけられる夢を毎夜のようにみた。
追いかけられるから逃げるのであるが相手の方がいつも早い。追いつめられる。
暴力を受けた時は箪笥で頭を打っている。
そして目が覚める。

あまりにも疲れるので昼に考えたことは、「飛ぶ」だった。

また追いつめられた。「飛ぶんだ」と自分に言った。
まるで鶏だった。両手を広げて上下すると上に上にと上がっていくではないか。
両手を早く動かすと早く上昇する。
相手が見上げている。だんだんと小さくなる。

勝ち誇った気分になった。

2〜3夜は同じ夢をみたが自信がついてきた。
ただ、上昇するだけだった。スーパーマンのようには飛べなかった。
これで、あの苦痛から抜け出した。

〈 夢とは実に妙なものである 〉

護摩壇山

標高1372辰慮酲狠纏海錬隠暗戮竜げ杭垢あるといわれる。

南に鉾尖岳、西に城ヶ森山、北に白口峰と連なり、日高川の水源をなしている。

真冬に、この駐車場に車を止めて車外に出るなり余りの寒さにそのまま帰った記憶がある。
冬には樹氷が見える。

護摩壇山





 〈写真は展望塔より
    奈良県側を望む〉







龍神温泉に向かった、行ってみる価値は十分にある。
見えている道路は〈高野龍神スカイライン〉高野町から龍神村まで、上方至 高野山・下方至 龍神温泉


護摩壇山地図

朝鮮からの年賀状

私はアジアが好きである。
小学生の頃からインドシナの文化などを紹介した月刊誌を買ってもらって読んでいた。

大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、中華民国、フィリピン、インドネシアに行ったことがある。
中国では南京の南京大屠殺記念館の館長から年賀状を貰ったことがある。
フィリピンの友人からも長年にわたって年賀状や手紙が来ていたが近年は便りがない。
インドネシアの教育里子からの手紙が一番多かった。

朝鮮の友人からは毎年送られてくる。中国の年賀状と似ていて日本のハガキとは随分と違う。

高山植物




 〈白頭山で見た高山植物〉








3通の年賀状が来たが1通には「今年はぜひ平壌でお会いできる日を楽しみにしております」と書いてある。

昨年9月に訪朝する予定であったが事情があって行くことができなかった。
今年はぜひとも行ってみたいと思っている。

終わらない殺人

戦争の世紀と言われた20世紀が終わり、21世紀も戦争で始まった。

国内では殺人が止まらない。
2007年は1ヶ月もたたないうちにバラバラ殺人事件が3件が報道された。

兄が妹をバットで頭を叩き、首を絞めて殺した。
妻が夫をワインの瓶で叩き殺した。
もう1件は犯人が捕まっていない。

3件ともに体をバラバラにしている。
死体を隠すのに重くて運べないからバラバラにしたとの意見もあったが、
人を殺すには怨念のようなものがない限り有り得ないと思う。

ただ殺すだけでは、なお許せない非常に強い怨念がバラバラにさせるのだろうか。
殺人は子供の頃からの教育だけでは解決できないような、宗教の世界のような気もする。

招かれざる客

昨年秋に、生まれて4〜5ヶ月位のダックスフンドが我が家にやってきた。
名前を〈リーヤ〉という。

リーヤ

檻に入れられた〈リーヤ〉は私の顔を見上げたが無視した。

それは飼い主に問題があった。
動物を飼ってはならないマンションで秘密に飼っていたのだ。

子供の頃から捨て犬を拾ってきて何度も飼った記憶が残っている。

私は犬が好きではあるが、家の上で飼うのは少し考えるところがある。

ところが、最近はすっかり懐いてしまった。
私が帰ると「ク〜ン、ク〜ン」と鳴くのである。
檻から出して〈おやつ〉をやるとき、「お座り」を教え次に「待て」と「よし」を教えた。
すぐに覚えた。

そして今日、公園まで散歩に連れて行った。
もし居なくなれば寂しさを感じるのだろう。

レジ袋

子供のころに母親と何度も買い物に一緒に行っている。
当時は買い物袋を自前で誰もが持って買い物に行った。

商店は殆どの商品を新聞紙に包んで販売していた。
時代が進み今日ではレジ袋を商店側がサービスして当たり前のようになっている。

一部のチエーン店ではレジ袋を一枚5円で販売している。試験的に5円で販売するチエーン店もある。
商品そのものを入れる小さな入れ物も再利用の方法がないからゴミとして出される。
もともとの生魚などの包装はすべてゴミとなる。

環境を考えればマイバックを持って買い物するのが理想と思うが、この試みは歓迎できる。
商品の包装そのものも考える時がきていると思っている。

リサイクルといっても限度がある。採算があわなければ民間企業では無理なところがある。
自治体の手腕が問われるところではないだろうか。

まだまだ法の抜け道が沢山あるように思えてならない。
政治は国民の社会生活に於いて重要な役割を果たす。

国民の税金を借りて黒字になった銀行が真っ先にしょうとしたことは政治献金だとはあいた口が塞がらないとはこのことだ。

こんな時代でも我々が出来ることは子孫に良い環境の社会を引き継ぐことではないだろうか。

皇帝ペンギン

南極に生息する皇帝ペンギンの雄は求愛のとき歌とポーズで表現するという。

カップルができて産卵のすると雌は雄に卵を渡す。素早く渡さないと卵が凍ってしまう、外気は−20度。
雄は足の上に卵を載せて腹で覆って暖める。

南極の冬は厳しい。
卵を抱いた雄たちは何百と集まって体温が逃げるのを防ぐ。
時速150舛良が吹く風表にいるペンギンは時間がくれば風裏に交代するようだ。
みんなルールを守っている。冬の外気は−60度だ。

卵が孵れば、餌を求めて旅に出た雌が帰るまで4ヶ月も何も食べていない雄は、とっておいた一食分の餌を子供に与える。

人間社会では親が子供を餓死させたニュースが流れた。
しつけと称して暴行を加え、ほとんど食物を与えずに餓死させたのである。

ペンギン社会では親とはぐれた子供は誰も面倒をみない。
しかし、子をなくした親は争って子供を奪い合う。

新しい彼氏ができて子供が邪魔になって殺した母親がいた。ペンギン社会に留学させてはどうだろうか。

あの町この町

私はこの町に来てからちょうど50年前になる。

当時は舗装された道路はなく雨が降ればひどいものだった。国道さえ舗装されていなかった。
当然かも知れないが車はほとんど走っていなかった。

自然も豊かであの細い川でもシジミが捕れたし、蛍が毎年たくさん飛んでいた。
緑も豊富だったが、農薬がふんだんに使われ蛍もシジミも魚も姿を消した。いまだもって帰ってこない。

さらに山は削られニュータウンができて人工は増え続け、日本列島改造論が出た頃から車も竹藪にタケノコが出るように増え続けた。
私は戦争は知らないが、敗戦のどん底からだんだんと豊かになってきたのである。

いまは、町が市になり、2校しかなかった小学校もたしか7校になっている。中学校も増えて1高等学校と大学が2校できるまでになった。
私が通った小学校に子供が通い、いまは孫が通っている。

国道筋はほとんど田んぼだったのが隙間がないほど店舗ができている。
この狭い町にフランス料理店が3店できていた。

となりの町も同様に緑はほとんど残されていない。
便利になったぶん、事故で命を失う人も増えてきている。

何と言っても平和が大事だが、子孫が豊かに暮らせるように計画的に自然環境を守る施策が必要になってくる。
環境破壊は人間が行ってきた。

人は考える力を持っている有能な動物だから京都議定書を守り、美しい地球を残さなければ笑われるのだろう。

木浦に行きたい

いま、韓国ドラマがおもしろい。

テレビで「チャングムの誓い」を見たが、やはり待ちかねたように見てしまう。
いろいろと見ているが「ガラスの靴」も見応えがあった。

いまは、「秋の童話」を見ているが脚本も実によいと思っている。
つい、はまり込んで私ならこうするなどと思ってしまう。

「冬のソナタ」以来、韓国の俳優さんたちが日本を訪れたり日本の俳優が韓国に行ったり交流している。

過去の歴史を本当の意味で解決するには文化交流や経済交流は大切だと思う。

政治的には靖国参拝問題で抗議を受けているが、日本は99年の周辺事態法以来、数々の有事法を法制化して、防衛庁を防衛省に格上げして今年からは憲法改正に向かうようだ。

民間外交の必要性を実感する今日この頃だ。
近くて遠い国にしてはならないと思っている。

韓国は2001年に訪れて、軍事境界線近くまで行ったことがある。
展望台から朝鮮民主主義人民共和国を見た。
どこの国に行っても問題なのが言葉、言葉が通じなければ意思疎通が出来ない。
フィリピンではフィーリングだと言っていたが!

外国では時間があれば市場を見に行くことにしている。
意外と楽しいものだが、まだまだ反日感情が強い所もある。
また行く機会があれば木浦に行ってみたい。

自転車とカメラ

新聞に「私の宝物」という記事が載っていた。

私には思いつく宝物がない。
宝物とは思わないが大切にしていた物が2点ある。「自転車」と「一眼レフカメラ」だ。
まだ賃金が13800円のときに「ニコンF」を買った。たしか56000円位だった。
暗室は会社にあったが自宅にも作り、週末には撮影に四方に走り回った。

その前には軽合金の自転車をドイツから輸入して日本で溶接して組み立てた。左手の小指で楽々と持ち上がった。この自転車も四方に走り回っているが、いまは手元にない。

最大の宝物は家族と志を同じくする仲間といえる。

築山林泉廻遊式庭園

堺市の大仙公園内にある日本庭園。
四季おりおりの草木が植樹されており、いくつかの東屋がある。
所々にベンチが設置されており、多くの人が訪れる。

日本庭園

仁徳陵と履中陵の間に26000平方メートル地に造られた
築山林泉廻遊式庭園

〈写真は2006年10月9日撮影〉







日本庭園地図

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女先生

通っていた小学校分校は取り壊されていた。

正門と校庭にあった桜の木は昔のまま残されている。
私は正門から通ったことはない、いつも裏道を通って通学していた。

それにしても、こんなに狭かったのか、もっと広かった印象しかない。校舎は一段上に建っていたのだろうか!
20歳頃だったか見に来たことがあった、たしか保育園になっていた記憶があるが校舎はそのまま使われていた。。
今は地域のゲートボール場のようにも見えた。

分校正門

 〈分校があった正門〉





授業が終わって裏道にさしかかったとき、雪のうえに熊の足跡があるではないか。
しばらく帰れなかったのを記憶している。

担任は女先生で優しい先生だった。中学を卒業してから訪ねたことがあったが津のほうに嫁がれていた。小さい子供さんが2人いたように思う。
大阪から津まで自転車でいった、先生は暖かく迎えてくれた。私は長時間に渡って正座してためにしばらく立つことができなかった。

分校は4年生までが通う、5年生以上は宮前の本校に通うと聞いていた。
月曜日は全生徒が、(と言っても生徒は少ない)音楽室に集められて、してはいけないことなど報告しあうのである。私は喧嘩とみちくさが多かった。月曜日の午前中は勉強をした記憶がない。いつも立たされていた記憶しかない。

アルバムに一枚の記念写真がある。当時の入学写真のようだ。
私は写真機なるものが何をするものか知らなかった。
珍しくて、体を横にして覗き込んでいるではないか。
私だけだった。

走馬燈のように甦ってくるが、もう訪ねることもないとは思いながら分校のあった運動場を後にした。

女工哀歌

行ってみたいという気持ちが日々高まる所が岐阜と長野の県境にある〈野麦峠〉だ。

かつて飛騨の糸引きたちが赤い腰巻きに草鞋で信濃の岡谷や松本方面に向かった明治から大正にかけての交通の要所だった野麦峠である。

峠一面をおおうクマザサは10年に一度くらい根本から稲穂のようなものが出て実を結ぶ、飛騨の人々はこの実を粉にして団子を作って飢えをしのいだ年もあったという。この実を飛騨では〈野麦〉と言ったようだ。

またの名を〈野産み峠〉ともいう。
若い女工たちのなかには身ごもって帰る子も少なくはなく、険しい峠道を登り切った頃にはふらふらとクマザサのなかにうずくまり非情にも産み落したという。そして赤い腰巻きに包まれて笹の根本に葬られた。いつしか地蔵様が建ち人は〈野産み峠と〉呼ぶようになったとある。


女工哀歌は数多く−

− 籠の鳥より監獄よりも 製糸づとめはなおつらい −

− 年期証文一枚銭で 封じこまれてままならぬ −

− 女工殺すにゃ刃物は要らぬ 糸目テトロ(検査)でせめ殺す −

− 袂に小石を拾いこみ 死ぬる覚悟ときめたれど
   死ねば会社の恥となり
     帰れば親娘の恥となる 思えば涙が先に立つ −

− 諏訪でお女郎は三十五銭 私娼ころべば十五銭 機械女工は芋一つ −

− 旦那さまには帯もろた おかみさんには暇もろた −



子供の頃に見た映画で記憶に残っているのは、岡谷の工場で働く〈みね〉二〇歳が病気になって兄〈辰次郎〉が迎えに来る。重傷の〈みね〉を用意してきた背板に乗せて帰るのであるが野麦街道を幾夜も歩き続けて野麦峠の頂上に辿り着くと〈みね〉は「ア−飛騨が見える、飛騨が見える」と言って息を引き取ったのである。
これは実話であって明治四十二年十一月二十日午後二時のことであった。


暖かくなって雪が解けた頃に行ってみよう。

あの頃は

私は三重県飯南郡飯高町に生まれた。
今は市町村合併で松阪市となっているが〈松阪市〉は似合わないと思っている。

四方を山に囲まれリヤカーが通れる程度の地道が国道に延びていた。
家の前には川幅3辰曚匹侶摸があって、夏には良く泳いだ。〈川魚〉や〈鰻〉もびっくりするほどよく捕れた。
〈カブト虫〉や〈クワガタ〉などはいくらでもいた。
川向かいの山裾を子供を連れたいのししが通ったこともあった。

秋に山に入れば〈くり〉〈柿〉〈あけび〉〈きのこ〉などが無尽蔵と思えるほどあった。

父は山で炭焼きをしていた。
一度、炭を出した後の釜のなかで家族で泊まったことがある。もちろん電気などはなかったが暖かかったのを記憶している。
父はうさぎや山鳥を捕ってきた。獣道に針金で罠を仕掛けて捕るのである。

国道に出れば何軒かの商店があり分校もあった。分校から見下ろすと悠々と流れる櫛田川が見え、寄り添うように地道の国道が走っていた。
信号などあろうはずはなく、鉄路もなかった。唯一、日に何度か来るバスがあった。
当時は車掌が乗っていた、すべて女性で黒い鞄を首から提げて料金を徴収していた。
観光バスではないから歌わないが足を踏ん張って次の停留所の案内をしていた。

年に何度か〈いなか饅頭〉を買って貰うのが唯一の楽しみだった。

近くに荒滝不動尊がある。ここでは1月だったか舞台を作って餅まきがあった、私はなぜか積極的ではなかった。最後に米俵が投げられ大人たちが奪い合う。記憶では広く見えた場所も大人になればこんなに狭かったかと思う。

この自然豊かな〈ふるさと〉を父の仕事の関係で小学2年生の1学期が終わって大阪に行くことになる。



− ふるさとは遠きにありて思ふもの
       そして悲しくうたふもの −  室生犀星


−作滝あたり−

〈写真は作滝あたり〉

道の駅に温泉も出来ている、明後日にも行ってみようか。





いいたかの湯地図 


雑煮

結婚してから毎年元日の雑煮は私が作ってきた。
当初は鰹節やワカメでダシをとっていたが近年は袋に入ったダシの素を使った。
今年は妻が作った。
鰹節でダシをとっているのを横目で見たが、料理は手を抜けば味で解る。手順を踏めばこんなに旨い物だと悟った。
年末は29日頃から〈おせち〉作りが始まっていたが最近は食べたいものだけ作るようにしている。元日からほとんどの店が開いているからだ。

毎年末、四国に嫁いだ妹から〈ブリ〉が送られてくる。
今年はちょっと小振りではではあったが、さばくのが私の仕事だ。
やはり大きい方がさばきにくい。包丁の入れ方がまずいのか背骨に身が付いてしまう。それでも〈あら煮〉にしたら身が付いている方が食べる時には実に旨く感じる。

昨年の今日は深夜に思いたって和歌山の橋杭岩を見に行った。
名阪国道から松阪に着いても夜は明けていない、松阪城跡の石垣を見て、国道42号線を海岸沿いを走る。
橋杭岩は自然がもたらす造形美だが寒くて長くはいられない。みるみるうちに駐車場は満車になっていく。
帰りは国道筋の温泉に入って那智勝浦から国道186号線に入り十津川温泉から谷瀬の吊り橋を横目に天辻峠あたりで休憩をと思ったが雪が降り出したのでやむなく帰路についた。

橋杭岩


橋杭岩:2006年1月2日 撮影





橋杭岩地図

夜明け前

2007年に向かって夜が明ける。

−馬力を出して−
世界の人口は昨年度で64億4030万人が地球上で生活をし、日本の人口は2004年で1億2768万7000人となっている。
この日本の人口のうち1番多い1947年生まれの人々が今年定年を迎える。

若いときから定年になれば海外でのんびりと農業をしたいと思っていた。
最近になって気がついたが体力のことを考えたことがなかった。

何年前だったか妻に言ったことは、
「定年の日に離婚の話をするなら少し前に言ってくれ、俺にも段取りがある」と、

もう少し、使命を果たすまで!

人生にも余白があると信じている。
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