知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

木浦に行きたい

いま、韓国ドラマがおもしろい。

テレビで「チャングムの誓い」を見たが、やはり待ちかねたように見てしまう。
いろいろと見ているが「ガラスの靴」も見応えがあった。

いまは、「秋の童話」を見ているが脚本も実によいと思っている。
つい、はまり込んで私ならこうするなどと思ってしまう。

「冬のソナタ」以来、韓国の俳優さんたちが日本を訪れたり日本の俳優が韓国に行ったり交流している。

過去の歴史を本当の意味で解決するには文化交流や経済交流は大切だと思う。

政治的には靖国参拝問題で抗議を受けているが、日本は99年の周辺事態法以来、数々の有事法を法制化して、防衛庁を防衛省に格上げして今年からは憲法改正に向かうようだ。

民間外交の必要性を実感する今日この頃だ。
近くて遠い国にしてはならないと思っている。

韓国は2001年に訪れて、軍事境界線近くまで行ったことがある。
展望台から朝鮮民主主義人民共和国を見た。
どこの国に行っても問題なのが言葉、言葉が通じなければ意思疎通が出来ない。
フィリピンではフィーリングだと言っていたが!

外国では時間があれば市場を見に行くことにしている。
意外と楽しいものだが、まだまだ反日感情が強い所もある。
また行く機会があれば木浦に行ってみたい。

自転車とカメラ

新聞に「私の宝物」という記事が載っていた。

私には思いつく宝物がない。
宝物とは思わないが大切にしていた物が2点ある。「自転車」と「一眼レフカメラ」だ。
まだ賃金が13800円のときに「ニコンF」を買った。たしか56000円位だった。
暗室は会社にあったが自宅にも作り、週末には撮影に四方に走り回った。

その前には軽合金の自転車をドイツから輸入して日本で溶接して組み立てた。左手の小指で楽々と持ち上がった。この自転車も四方に走り回っているが、いまは手元にない。

最大の宝物は家族と志を同じくする仲間といえる。

築山林泉廻遊式庭園

堺市の大仙公園内にある日本庭園。
四季おりおりの草木が植樹されており、いくつかの東屋がある。
所々にベンチが設置されており、多くの人が訪れる。

日本庭園

仁徳陵と履中陵の間に26000平方メートル地に造られた
築山林泉廻遊式庭園

〈写真は2006年10月9日撮影〉







日本庭園地図

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女先生

通っていた小学校分校は取り壊されていた。

正門と校庭にあった桜の木は昔のまま残されている。
私は正門から通ったことはない、いつも裏道を通って通学していた。

それにしても、こんなに狭かったのか、もっと広かった印象しかない。校舎は一段上に建っていたのだろうか!
20歳頃だったか見に来たことがあった、たしか保育園になっていた記憶があるが校舎はそのまま使われていた。。
今は地域のゲートボール場のようにも見えた。

分校正門

 〈分校があった正門〉





授業が終わって裏道にさしかかったとき、雪のうえに熊の足跡があるではないか。
しばらく帰れなかったのを記憶している。

担任は女先生で優しい先生だった。中学を卒業してから訪ねたことがあったが津のほうに嫁がれていた。小さい子供さんが2人いたように思う。
大阪から津まで自転車でいった、先生は暖かく迎えてくれた。私は長時間に渡って正座してためにしばらく立つことができなかった。

分校は4年生までが通う、5年生以上は宮前の本校に通うと聞いていた。
月曜日は全生徒が、(と言っても生徒は少ない)音楽室に集められて、してはいけないことなど報告しあうのである。私は喧嘩とみちくさが多かった。月曜日の午前中は勉強をした記憶がない。いつも立たされていた記憶しかない。

アルバムに一枚の記念写真がある。当時の入学写真のようだ。
私は写真機なるものが何をするものか知らなかった。
珍しくて、体を横にして覗き込んでいるではないか。
私だけだった。

走馬燈のように甦ってくるが、もう訪ねることもないとは思いながら分校のあった運動場を後にした。

女工哀歌

行ってみたいという気持ちが日々高まる所が岐阜と長野の県境にある〈野麦峠〉だ。

かつて飛騨の糸引きたちが赤い腰巻きに草鞋で信濃の岡谷や松本方面に向かった明治から大正にかけての交通の要所だった野麦峠である。

峠一面をおおうクマザサは10年に一度くらい根本から稲穂のようなものが出て実を結ぶ、飛騨の人々はこの実を粉にして団子を作って飢えをしのいだ年もあったという。この実を飛騨では〈野麦〉と言ったようだ。

またの名を〈野産み峠〉ともいう。
若い女工たちのなかには身ごもって帰る子も少なくはなく、険しい峠道を登り切った頃にはふらふらとクマザサのなかにうずくまり非情にも産み落したという。そして赤い腰巻きに包まれて笹の根本に葬られた。いつしか地蔵様が建ち人は〈野産み峠と〉呼ぶようになったとある。


女工哀歌は数多く−

− 籠の鳥より監獄よりも 製糸づとめはなおつらい −

− 年期証文一枚銭で 封じこまれてままならぬ −

− 女工殺すにゃ刃物は要らぬ 糸目テトロ(検査)でせめ殺す −

− 袂に小石を拾いこみ 死ぬる覚悟ときめたれど
   死ねば会社の恥となり
     帰れば親娘の恥となる 思えば涙が先に立つ −

− 諏訪でお女郎は三十五銭 私娼ころべば十五銭 機械女工は芋一つ −

− 旦那さまには帯もろた おかみさんには暇もろた −



子供の頃に見た映画で記憶に残っているのは、岡谷の工場で働く〈みね〉二〇歳が病気になって兄〈辰次郎〉が迎えに来る。重傷の〈みね〉を用意してきた背板に乗せて帰るのであるが野麦街道を幾夜も歩き続けて野麦峠の頂上に辿り着くと〈みね〉は「ア−飛騨が見える、飛騨が見える」と言って息を引き取ったのである。
これは実話であって明治四十二年十一月二十日午後二時のことであった。


暖かくなって雪が解けた頃に行ってみよう。

あの頃は

私は三重県飯南郡飯高町に生まれた。
今は市町村合併で松阪市となっているが〈松阪市〉は似合わないと思っている。

四方を山に囲まれリヤカーが通れる程度の地道が国道に延びていた。
家の前には川幅3辰曚匹侶摸があって、夏には良く泳いだ。〈川魚〉や〈鰻〉もびっくりするほどよく捕れた。
〈カブト虫〉や〈クワガタ〉などはいくらでもいた。
川向かいの山裾を子供を連れたいのししが通ったこともあった。

秋に山に入れば〈くり〉〈柿〉〈あけび〉〈きのこ〉などが無尽蔵と思えるほどあった。

父は山で炭焼きをしていた。
一度、炭を出した後の釜のなかで家族で泊まったことがある。もちろん電気などはなかったが暖かかったのを記憶している。
父はうさぎや山鳥を捕ってきた。獣道に針金で罠を仕掛けて捕るのである。

国道に出れば何軒かの商店があり分校もあった。分校から見下ろすと悠々と流れる櫛田川が見え、寄り添うように地道の国道が走っていた。
信号などあろうはずはなく、鉄路もなかった。唯一、日に何度か来るバスがあった。
当時は車掌が乗っていた、すべて女性で黒い鞄を首から提げて料金を徴収していた。
観光バスではないから歌わないが足を踏ん張って次の停留所の案内をしていた。

年に何度か〈いなか饅頭〉を買って貰うのが唯一の楽しみだった。

近くに荒滝不動尊がある。ここでは1月だったか舞台を作って餅まきがあった、私はなぜか積極的ではなかった。最後に米俵が投げられ大人たちが奪い合う。記憶では広く見えた場所も大人になればこんなに狭かったかと思う。

この自然豊かな〈ふるさと〉を父の仕事の関係で小学2年生の1学期が終わって大阪に行くことになる。



− ふるさとは遠きにありて思ふもの
       そして悲しくうたふもの −  室生犀星


−作滝あたり−

〈写真は作滝あたり〉

道の駅に温泉も出来ている、明後日にも行ってみようか。





いいたかの湯地図 


雑煮

結婚してから毎年元日の雑煮は私が作ってきた。
当初は鰹節やワカメでダシをとっていたが近年は袋に入ったダシの素を使った。
今年は妻が作った。
鰹節でダシをとっているのを横目で見たが、料理は手を抜けば味で解る。手順を踏めばこんなに旨い物だと悟った。
年末は29日頃から〈おせち〉作りが始まっていたが最近は食べたいものだけ作るようにしている。元日からほとんどの店が開いているからだ。

毎年末、四国に嫁いだ妹から〈ブリ〉が送られてくる。
今年はちょっと小振りではではあったが、さばくのが私の仕事だ。
やはり大きい方がさばきにくい。包丁の入れ方がまずいのか背骨に身が付いてしまう。それでも〈あら煮〉にしたら身が付いている方が食べる時には実に旨く感じる。

昨年の今日は深夜に思いたって和歌山の橋杭岩を見に行った。
名阪国道から松阪に着いても夜は明けていない、松阪城跡の石垣を見て、国道42号線を海岸沿いを走る。
橋杭岩は自然がもたらす造形美だが寒くて長くはいられない。みるみるうちに駐車場は満車になっていく。
帰りは国道筋の温泉に入って那智勝浦から国道186号線に入り十津川温泉から谷瀬の吊り橋を横目に天辻峠あたりで休憩をと思ったが雪が降り出したのでやむなく帰路についた。

橋杭岩


橋杭岩:2006年1月2日 撮影





橋杭岩地図

夜明け前

2007年に向かって夜が明ける。

−馬力を出して−
世界の人口は昨年度で64億4030万人が地球上で生活をし、日本の人口は2004年で1億2768万7000人となっている。
この日本の人口のうち1番多い1947年生まれの人々が今年定年を迎える。

若いときから定年になれば海外でのんびりと農業をしたいと思っていた。
最近になって気がついたが体力のことを考えたことがなかった。

何年前だったか妻に言ったことは、
「定年の日に離婚の話をするなら少し前に言ってくれ、俺にも段取りがある」と、

もう少し、使命を果たすまで!

人生にも余白があると信じている。
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