知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

箕面の滝

箕面の滝は、大阪府箕面市の明治の森箕面国定公園内にある滝である。箕面大滝ともいい、日本の滝百選の一つに選定されている。

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古くは修験道の道場であった。「箕面」の名は、木々の間から流れ落ちる姿が蓑に似ていることから付けられた、または周辺に「尾」のつく地名が多いことから水尾から転じたとも言われている。
阪急箕面駅から2.8劼糧羈單緩やかな道のりであり、落差33辰任△襦

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頼山陽碑文

【碑文】
萬珠濺沫碎秋暉   仰視懸泉劃翠微   山風作意爭氣勢   横吹紅葉満前飛

【読み】
萬珠(ばんじゅ)、沫を濺(そそ)いで、秋暉(しうき)に碎く。
仰ぎ視る、懸泉の、翠微(すいび)を劃くするを。
山風、意を作(な)して氣勢を爭ひ。
横さまに、紅葉を吹いて、満前に飛ばしむ。

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合田百一殉職の碑

昭和26年7月11日、未明から近畿に襲来した集中豪雨により箕面公園内を流れる箕面川は未曾有の増水となり濁流渦を巻いて氾濫し低地は濁流に洗われ、園内の飲食店、旅館等は押し流される危険な状態となった。
増水に伴い護岸警備に従事中の合田警察長は、これが救援要請を受け、部下3名を同行し箕面公園に出動した。

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公園内を順次下方から現況視察をかね、戸別に被害調査と懇切な避難に対する指導と助言を行いつつ降りしきる雨の中の滝道を登り最終地点である滝壺横の飲食店が見える地点に至った時同店に助けを求める人影を認め、直ちにこれが救助に当たるべく、合田警察長は部下の先頭に立ち濁流と化している道路を避け、山の斜面を這うようにして伝いながら進んだところ、50綻綣蠅涼賄世忙蠅辰浸、突如足下の地面が崩れ落ち助ける手立てもなく濁流に呑まれ尊い犠牲となった。

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故合田警察長は、昭和23年3月、警察法の改正に伴い箕面長警察署の初代警察長として赴任以来、町の治安維持のため強い責任感と実行力をもって日夜業務に精励され、その業績は高く評価され、かつ温厚篤実で情に厚いところから町民及び部下からも尊敬と信頼を受けていた惜しむに足りる高潔な警察官であった。

唐人戻岩

この大きな二つの岩は、唐人戻岩と言われ、その昔、この附近が山深く険阻なころ、唐の貴人が箕面の滝のたぐいまれなことを聞いて巨岩まで来たのですが、険しいことに驚き恐れて立ち返ったとの伝説があります。
岩の高さ25尺 幅24尺のものと高さ24尺 幅7尺のものとの二つより成り縦に条理があります。

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野口英世

箕面公園遊歩道

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野口英世博士像
世界の医聖と言われている野口英世博士(福島県猪苗代町出身)はアフリカで黄熱病の研究中、自らも感染して昭和3年殉職するまで数多くの伝染病の予防に貢献した。
この銅像は、大正4年、野口英世博士が15年間の米国留学から帰国の際、待ちわびていた母を伴い箕面に立ち寄り年老いた母を慰めた。これに感激した南川光枝氏の銅像建立の願いに、大阪府知事、箕面町長、箕面町教育委員会は府下学童並びに箕面町ゆかりの方々から浄財を求め、故野口英世博士の面影を刻み、生前の偉業を讃えるとともに崇高な人格を慕って、昭和30年4月建立した。

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箕面公園(瀧安寺)

瀧安寺
平成30年9月4日の台風21号により、堂宇が大きく破損しています。
鳳凰閣が風に煽られ、川側に傾いてしまい、また、裏山の欅が倒れ、庫裏を直撃し屋根が陥没しました。客殿は屋根が全体的にずれています。

箕面公園全体に倒木が多い、現在は遊歩道は滝までは整備されている。

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欅の倒木により陥没した屋根

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野村泊月句碑

箕面川

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野村泊月、本名を勇、丹波の産。兄西山泊雲と供に高浜虚子につき俳道に入り、早稲田大学英文科を終え、中国、米国に遊学後、大阪にて「山茶花」を興し、「桐の葉」を主宰し、多くの指導者を育成したるホトトギス派の功労者である。晩年、不幸にして失明、昭和36年2月13日豊中にて逝く。行年80歳

            −椎の花八重立つ雲の如くにも−   泊月

この句は昭和23年5月瀧安寺にて詠んだものです。

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箕面公園

阪急電車 箕面駅

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自然豊かな“明治の森箕面国定公園”の一角にある箕面公園は、83.8ヘクタールという広大な公園で、納涼や紅葉など四季を通して多くの人々が訪れます。1986年に「森林浴の森100選」にも選ばれ、園内にある落差33メートルもある箕面大滝は、「日本の滝百選」にも選ばれていています。

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一の橋

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箕面山は自然の宝庫として知られ、シダ、ランなどの珍しい植物や野生の鹿、猿をはじめ多くの鳥類・昆虫類が生息し箕面川の渓流にはアマゴなどの魚類、水棲の昆虫も多く、東京の高尾山と供に明治4年我が国初の公園となりました。

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山辺之道(七)

−山辺の道−

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       三諸は人の守る山 本辺はあしび花咲き
           末辺は椿花咲く うらぐはし山ぞ 泣く児守る山   作者未詳

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柿本人麻呂屋敷跡

柿本人麻呂(斉明天皇6年(660年)頃−神亀元年(724年)は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

人麻呂には巻向の地を題材にした歌が数多く残されていますがこの地を屋敷跡とする確たる証拠は無いようです。

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柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。また、同文献では人麻呂の子に柿本蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降の子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を称して石見国人となったされる。いずれにしても生前や死没直後の史料には出自・官途について記載がなく、確実なことは不明である。

三輪駅

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山辺の道

山辺の道は、三輪から奈良へと通じる上古の道。大和平野には南北に走る上・中・下ッ道の官道があり、それぞれ7世紀の初め頃に造られた。
上ッ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる起伏の多い道が山辺の道である。

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現在、その道をはっきりと跡づけることはでないが、歌垣で有名な海柘榴市(つばいち)から三輪、景行、崇神陵を経て、石上から北上する道と考えられている。

山辺之道(六)

−山辺の道−

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         いにしへにありけむ人もわが如か
               三輪のえ桧原にかざし祈りけむ   柿本人麻呂

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山辺之道(五)

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         山吹きの立ちしげみたる山清水
               汲みに行かぬと道の知らなく   高市皇子

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名寄駅

退屈なので想い出の写真をupします。2014年1月28日、北海道は宗谷本線で旭川から名寄へ行きました。
車内は暖かく車窓からの景色は見えませんでした。写真を撮る時は窓を拭きます。
旭川駅ホーム

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名寄駅ホーム

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名寄駅

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駅前から少し歩いてみました。人に出会うことはありません。

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帰りは名寄駅前から旭川までバスで帰りました。

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バスの車窓から、乗る人も降りる人もありません。

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速歩

2019年1月3日14時過ぎ今年初めての速歩、風も無く暖かかったので狭山池周遊路を歩いてみました。
金剛山山頂付近にはうっすらと雪が積もっていました。

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狭山池冬期は水が抜かれます。

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謹賀新年

      明けましておめでとうございます
         本年もよろしくお願い申し上げます。

2019年1月元日

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本年は1月8日から更新致します。

大和路の恋(山辺の道)

大和路の恋 
 
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歌 水森かおり  作詞 仁井谷俊也  作曲 弦哲也  編曲 前田俊明

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玄賓庵

桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓(げんぴん)僧都の庵と伝えられ、世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台として知られる。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移された。玄賓は弘仁九年(818)に亡くなった。

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玄賓庵は奈良県桜井市茅原にあり、JR桜井線三輪駅下車、徒歩約30分で山辺の道沿い

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山辺之道(四)

山辺の道

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         狭井河よ雲立ちわたり畝火山
                 木の葉騒ぎぬ風吹かむとす   伊須気余理比売

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山辺之道(参)

         わが衣色に染めなむうまざけ
                 みむろの山はもみぢしにけり   柿本人麻呂

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磯城瑞籬宮(山辺の道)

磯城瑞籬宮(シキミズガキノミヤ)伝承地)

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磯城瑞籬宮は、第十代崇神天皇が営んだ宮とされています。記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。
これは三輪山の神、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い神の子孫となる大田田根子を探しだしました。そして彼に託して三輪山に大物主大神をお祀りしたところ祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。

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また、東海や北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたことから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています。

記紀万葉物語(崇神天皇の条)

金屋の石仏

金屋の石仏(山辺の道)

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この中におさめられた二体の石仏は右が釈迦、左が弥勒と推定されています。高さ2.2檀約80僂瞭麕腓里稜竿調笋防眥Δ気譴燭海諒像は、古くは貞観時代、新しくても鎌倉時代のものとされ、重要文化財指定を受けています。
赤茶色の石は、石棺の蓋であると考えられています。

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山辺之道(弐)

金屋のあたりは古代の海石榴市があったところです。その頃は三輪・石上を経て奈良への山辺の道・初瀬への初瀬街道・飛鳥への磐余の道・大阪河内和泉から竹の内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便も有り大いに賑わいました。
春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣は有名です。後には伊勢長谷詣が盛んになるにつれて宿場町として栄えました。

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         むらさきは灰さすものぞつば市の
                 八十のちまたに逢へる児や誰   作者未詳

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山辺之道(壱)

          夕さらずかはず鳴くなる三輪川の
                   清き瀬の音を聞かくし良しも   作者未詳

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仏教伝来の地

ここ泊瀬川畔一帯は、最古の交易の市・海石榴市などの史跡を残し「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でありました。
そしてこの付近は難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。
「欽明天皇の十三年冬十月、百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣わして釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。

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この場所は仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であります。また「推古天皇十六年、遣隋使小野妹子が隋使裴世清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬七十五頭を遣して海石榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でありました。

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