知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

黒江(熊野街道)

JR黒江駅
高校生と一緒にホームを歩いていたら教員に一般の方ですがと聞かれた。この駅は高校生専用の改札がある。

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熊野街道
熊野街道は、京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称、紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。後者の中辺路は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。
説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道とも呼ばれ、大阪市街(上町)では御祓筋とも呼ばれる。

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熊野街道は、摂津国渡辺津(窪津・国府津・高津・楼津ともいう。大阪市中央区天満橋京町付近)を起点に南下し、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)を経て、和泉国に入る。
和泉国瓦屋村(泉佐野市)で、それまで熊野街道の海側を並行して通っていた紀州街道が熊野街道に合流し、雄ノ山峠を越えて紀伊国川辺村(和歌山市)に至る。川辺村で紀州街道と分かれ、熊野街道は川辺村から紀ノ川を渡って南下し続け、紀伊国田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かった。なお、京からは渡辺津までは淀川を舟で下った。


樫井古戦場(大坂夏の陣)

大坂夏の陣の激戦の一つである樫井合戦は、元和元年(1615)4月29日、樫井の地で展開された。冬の陣の和議のあと、外堀を埋められた大坂方は、この度先手をとって出陣し泉州へは大野主馬を主将として二万余りの大軍を差し向け徳川方の和歌山城主浅野長晟の軍勢五千余りを押さえようと図った。
4月28日浅野方の戦陣は佐野市場へ到着、大坂方は岸和田を越えて進撃を続け翌日、両軍の衝突はもはや避けられない状態となった。
数的に劣勢な浅野方の諸将は軍議の結果、軍を市場から安松・樫井に移した。大軍を迎え討つには市場は東は野畑が広いうえ山遠く、西は海で浜辺が広く馬のかけひきも自由な所であるから不利、それに比べて安松・樫井は東は蟻通の松原、西には樫井の松原が海辺まで続き中間には八丁縄手、その周囲が沼田のため豊臣方の大軍は動かし難い地形で、小勢の浅野方は有利だと判断した。

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一方、大坂方はここで取り返しのつかない失敗を演じた主将大野主馬は慎重な作戦を立てていたが、先手の大将塙団右衛門と岡部大学が先陣争いをし小勢で飛び出してしまった。29日未明、塙・岡部の両将を迎え討った浅野方の勇将亀田大隅は安松を焼き払い池の堤に伏せた鉄砲隊で大坂方を悩ましながら樫井まで引き下がりここで決戦を挑んだ。壮烈な死闘が街道筋や樫井河原で繰り返された。
一団となって戦う浅野方、はらはらの大坂方、まず岡部が敗走し塙は樫井で孤立のまま苦戦を続け、ついに矢を股に受け徒歩でいるところを討ち取られてしまった。
かくして樫井合戦は大坂方の敗北で幕を閉じこの夏の陣の緒戦が大坂方の士気に大きく響き、この後十日もたたない五月七日遂に堅固を誇った大坂城も落城し豊臣氏はここに滅亡したのである。

塙団右衛門

慶長20年(1615)の豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討死した塙団右衛門直之の五輪塔である。団右衛門は尾張国羽栗の人で加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功をあげ名を知られたが、関ヶ原の戦い(1600年)以後浪人して僧となり鉄牛と号した。

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大坂夏の陣(1614年)が起きると豊臣方に属し大坂城に入城した。慶長20年4月、夏の陣がおこると豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく紀州に進んだ。
団右衛門は先鋒隊をひきいて4月29日早朝熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入した。安松、岡本、樫井で激戦が展開されたが、大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討死した。ときに48歳という。
団右衛門を討ったのは上田宗箇、亀田大隅あるいは八木新左衛門などの説があり一定しない。

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淡輪六郎兵衛

慶長20年(1615)、大坂夏の陣がおこり、豊臣・徳川方が最初に激突したのが樫井合戦である。
この石塔は、豊臣方の武将としてこの地で討死した淡輪六郎兵衛宝篋印塔である。淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族であった。六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室の小督局で、その子お菊も夫とともに豊臣方として戦った。

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慶長20年4月、徳川方は全国の大名に大坂城を攻撃するよう命じた。これに対して、豊臣方の一軍は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく紀州に進んだ。
六郎兵衛はその先鋒隊となり4月29日早朝、塙団右衛門とともに熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し乱戦の中で討死した。
この宝篋印塔は寛永16年(1639)25回忌にあたり淡輪氏の末裔の本山氏が淡輪にて石材を整えて建立した。その後も当地の人たちにより守られてきた。

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海会寺をつくった豪族の屋敷

海会寺跡の東に広がる広場には200年以上のあいだ営まれた村がありました。なかでも海会寺が造られた頃、とても大きな屋敷がありました。この屋敷は当時の一般的な住居と比べると数倍大きなものです。この屋敷に住んでいたのは、この辺りの村々を治めた有力者、海会寺を造った豪族でした。
この広場には海会寺が造られる以前、7世紀の初頭から9世紀代まで200年以上の間、古代の人々が暮らしていました。なかでも海会寺建立後、8世紀初頭になると集落内に巨大な掘立柱建物群が出現しました。東西に長く最も大きな建物(正殿)と南北に長い建物(脇殿)が並んで造られたのです。

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脇殿と正殿は柱列を一直線上に揃えて造られたことがわかります。建物の間隔も綿密に計算された上で建てられています。このような大規模・企画性は一般の集落では見られないもので、正殿が南側に庇をもち、正殿と脇殿の前に広場があることなどからも当時の都や役所の建物の配置を真似たものといえます。

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この役所風の建物配置は、海会寺を造った豪族が、律令国家の中心地・奈良の都にいた有力者たちの影響を受けたためと考えられています。
規模;正殿 東西13.8メートル(桁行6間)×南北7メートル(桁行3間南面庇付き)面積約97
    脇殿 南北11.8メートル(桁行5間)×南北(桁行2間)、面積59

海会寺跡


巨大な塔を支えるためにしっかりとした基礎が作られました。少し土を積んでは細い棒でつきかためていき、その廻りには土が崩れないように、地元でとれる和泉砂岩という河原石を積み上げました。この石積みの頂上には塼(せん)と呼ばれるレンガのような焼き物が敷かれました。重い柱を支えるため、その下に和泉砂岩製の礎石が置かれました。
規模;基壇一辺13.2メートル 高さ2メートル 柱間2.4メートル

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金堂
発掘調査で石積みが見つかり、塔と同じ河原石を積み上げた基壇だったことがわかっています。
規模; 基壇東西21メートル×南北推定17.4メートル

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講堂
礎石は全て失われていましたが、そのあとから柱の位置がわかり建物の規模が判明しました。基壇は河原石積みで、高さは塔や金堂と比べ低いものでした。
規模;基壇東西21メートル×南北13.8メートル 

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回廊
発掘調査により、花崗岩製の柱礎石が見つかっています。柱を置く部分が丸く削り出されています。
規模;基壇幅4.6メートル 桁行柱間2.1メートル×桁行柱間2.4メートル

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信達宿本陣跡

紀州街道は古くは熊野街道とも呼ばれ、信達宿はおよそ900年前頃より、熊野詣で賑わっていました。特に市場村は、白河上皇以降、歴代上皇の宿舎が置かれたところから信達荘御所村とも呼ばれていました。後鳥羽上皇が熊野詣をされた建仁元年(1201)十月、お供の歌人、藤原定家の日記「後鳥羽院熊野行幸記」にも、往きの七日、帰りの二十四日、信達宿に宿泊したという一文があります。

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紀州公は、参勤交代の折には、約1500人の供を連れ和歌山城を出立し、雄ノ山峠を越え、山中宿で昼休憩をとり、信達宿を目指しました。当時、山中宿の先には、琵琶ケ崖という、街道一の難所があり、そこは十数メートル下に山中川が流れる、断崖絶壁の細道でその昔、琵琶法師が、足を踏み外して谷に落ち、それ以来、琵琶の音が、谷底から不気味に聞こえてくる為その名がついています。

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江戸時代になり、徳川幕府により、伝馬宿駅制度が整備されて参勤交代制度が確立されると主要な宿場に本陣と人馬問屋が置かれました。本陣とは元は戦の時に大将が詰める本営の事でしたが、以後は大名、公家、幕府の役人、僧侶等の貴人の宿舎となりました。五街道の主要な宿場には、宿泊本陣が置かれ他に休息専用の本陣もありました。脇街道の紀州街道は、信達宿市場村と貝狃百蠕寺に宿泊本陣が山中宿と助松宿に休憩本陣があり、千坪以上の屋敷地に御成門、式台玄関、上段の間等の格式を備えた建物がありました。

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敷地は間口二十七間、奥行き三十九間で、千四十三坪あり、建坪も二百五十坪ありました。江戸時代は除地(官地)とされ、年貢は免除されていました。長屋門は当時(江戸時代)のままですが主屋は明治23年に建て直されています。

信達宿の常夜灯

ここは紀州街道と信長街道が交差しているところで、信長街道の起点にもなっています。常夜灯は交通の要衝に建っています。

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常夜灯の右側(南側)には、正面に両皇太神宮、右側面に文政十三寅年(1830年)三月吉日、左側面に金比羅大権現、裏面に願主、村中御蔭連中と書かれています。
文政13年は「文政のお蔭参り」の年に当たり、全国から430万人もの人々が伊勢神宮に参拝しました。願主 村中 御蔭連中とあることから、当時の市場村からもかなりの人数が伊勢参りをしたことが推察でき、この常夜灯は村人の伊勢参宮での道中の安全を祈願する為に建てられたものと考えられます。
中央は、正面に太神宮、右側面に寛政二庚戌(かのえいぬ)年(1790年)正月吉日とあります。左は正面に、奉献、両神宮とあり、右側面には文化十二乙亥(きのとい)(1815年)五月とあります。

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これらの常夜灯は、江戸時代から平成4年まで約200年間、両宮常夜灯講の人々によって守られ、もともと常夜灯というのは、灯りがなかった街道筋に建てられ、旅人の安全を見守ると同時に宿場の目印でもありました。それが、街灯が整備された平成まで続いたということは驚くべきことです。電気による自動点灯式になりましたが、今でも常夜灯の役目を果たしています。

野田ふじ(信達宿)

熊野街道信達宿にある梶本家の野田藤は、1本の木に4万の花房をつけるといわれ、毎年4月中旬〜下旬の見頃に開催される「ふじまつり」には、大阪府泉南市の春の風物詩のひとつともなっています。

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まつり期間中は、観賞台が設置され、藤棚を上から眺めることができます。眼下に紫の雲海が広がる様子は圧巻です。夕刻からは藤棚のライトアップも行われます。また、熊野街道沿いには、「熊野街道花あかり」としてランタンが設置され、灯りをたどりながら夕べの散策を楽しむことができます。

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期間中のイベント開催日には、ふじまつり会場でミニコンサートなどが行われたり、紀州家ゆかりの信達宿本陣跡「角谷家」、新家にある国登録有形文化財「山田家」も特別公開される予定です。

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     この藤を訪ねる人に安らぎを
               去りゆく人に幸せを

「泉南石綿の碑」由来

大阪府泉南市信達地区は工場が集中立地する石綿紡織産業の中心地で、戦前「いしわた村」と呼ばれた。
一世紀にわたり生産が続いた結果、地方出身者や在日コリアンを含む労働者、事業主、家族、周辺住民に石綿被害が多発した。
泉南石綿産業100年の歴史は、石綿被害100年の歴史でもあった。しかし、その被害は埋没し、自覚されることもないまま拡大した。
国は、1937年から実施した大規模な実態調査や戦後の継続調査によって、当地の深刻な被害の実情を早くから知っていた。地元にも警告を発し続けた医師がいた。にもかかわらず国は、経済成長を優先し、有効な規制・対策を行わずこれを放置した。
2006年5月、被害者と遺族が国の責任を問う国家賠償訴訟に立ち上がった。裁判は粘り強く闘われ、敗訴判決による困難な局面にも遭遇したが、2014年10月9日、最高裁は我が国初めて石綿禍に対する国の責任を認める最終判断を下した。翌年1月には厚労大臣が来泉し原告らの前で謝罪した。
8年半に及んだ裁判の勝利を記念し、無告無念のうちに逝った者たちの鎮魂と、すべての石綿禍根絶の願いを込めて、石綿産業と被害の原点の地信達に「泉南石綿の碑」を建立した。

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      帰らぬ母に わたしは問いかける そこに花は咲いていますか 暗く小さな工場の中 白い
      塵が舞っていましたね 粉雪のように
      帰らぬ父と 帰らぬ夫に わたしは問いかける そこに陽はさしていますか 油で汚れた作業
      場で働きづめの日々でしたね 子供たちのために
      帰らぬ友に わたしは問いかける そこに風は吹いていますか せわしく行き交う シャトル
      の音 がんばりやの織り子さんでしたね なにも知らされずに
      遺されたわたしは誓う もう涙は流さないと いしわたの町に生まれ いしわたの町で育ち 
      わたしは今顔をあげて 五月の空へあるきはじめる

林昌寺のつつじとサツキ

林昌寺の山号は「躑躅山」といい、平安時代後期、堀河天皇が行幸のおり、山躑躅(つつじ)が見事であったことから、山号を躑躅山と改めたという歴史があります。重森三玲氏作庭のモダンな寺庭では、毎年5月、ツツジに続いて美しく刈り込まれたサツキが見頃を迎えます。庭は昔、躑躅丘と言われた丘陵の一角であり、山の斜面を利用した見事な景観です。

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天平年間に開創されたとされる寺である。天正年間に織田信長・羽柴秀吉による紀州攻めの兵火によりことごとく焼失したが江戸時代中期に再建され現在に至る。

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訪れたのは4月22日、少し早かったか。

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大樟と槇(岡中鎮守社)

昔、この地は土壁に囲まれ、樟・槇・銀杏・椋の木などの大木に覆われ、日中でも薄暗く「高城の宮」と呼ばれた社がありました。
明治の終わり頃には鎮守社の大木の殆どが伐採され、幸いにも樟と槇も木が保存されました。樟は樹齢八百年以上、樹幹周囲8.2メートル、根元12メートル、樹高30メートルで、地上3メートルの所で幹が3本に分かれ、その姿の美しさと大きさが認められ大阪府の天然記念物に指定されました。平成元年には「大阪みどりの百選」にも選ばれました。

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槇は樟より古木であろうといわれ、樹幹周囲2.4メートル、根元3.4メートル、樹高19.5メートルあり、槇は一般に成長が遅く、直径1メートル近い規模は府下では傑出したものですが、隣の樟の威容に隠れたためか、平成2年になり大阪府の天然記念物に指定されました。

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また、「ちびっこ広場」の施設建設に伴い発掘調査の結果、中世の寺院跡が見つかり、瓦・皿などが多数出土し泉南市の教育委員会保存されています。この樟と槇の木は神社又は寺の境内に植えられたものであり、先祖からの贈り物であり、地中にどっしりと根をおろし大空に高くそびえて限りなく成長し続ける姿は岡中のシンボルとなっている。

山の井遺蹟

古事記や日本書紀によると、今から約二千七百年ほど甲寅の10月、五瀬命と盤余彦命(後の神武天皇)は、日向の地(九州)で、日出ずる大和への「東征」を決意し、乙卯三月には吉備国に入り、戊午二月、船団を出して浪速国へ。そして三月、河内国から龍田へ進軍、河内生駒山の孔舎衙坂の地で豪族長髄彦との戦いで激しい反撃に遭い、其の時、五瀬命が敵の流れ矢に当たって深手を負ってしまいました。『日に向かいて戦うは利あらず』と船で和泉灘を山城水門まで下ってきた時、矢傷思わしくなく、手当ての場を求めて上陸し、城の崎と呼ばれた山麓の岩壁から下垂り落ちる石清水で傷を洗い癒やしたこの地が「山の井遺蹟」と伝えられている。

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この遺蹟に残された古びた井戸の側に古碑があり、「山の井」と記されたその両側に、
藤原光俊   山のゐのみなとはなれて行く船の あかても人にぬるるそてかな
豊岡尚資   山のゐのみなとを今のたるゐとは むかしわすれぬ人もこそしれ
                                      の和歌二首が刻まれていたようです。

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昔の樽井台地は断崖をなし、古木茂る丘の裾から自然に清らかな泉が湧き出でて、樽井の地名はこの泉の『垂井』からといわれ、また、『山城水門』の名も樽井の台地を海岸から眺めると城塁のように屹立し、山城のようであったことから付けられたといわれる。

カルガモ

6月2日夕方、狭山池を散歩しているとカルガモの親子を見ました。

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日本、ロシア東部、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国に分布。日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)する。和名は「軽の池」(奈良県橿原市大軽周辺とする説もあり)で夏季も含めて見られたカモであったことに由来すると考えられている。
翼長オス25.4-27.6センチメートル、メス24.3-26センチメートル。次列風切の光沢は青紫色で、次列風切や三列風切羽縁の白色部が小型で不明瞭、少なくとも亜種カルガモはオスの腹部の羽衣が濃褐色で、羽毛外縁(羽縁)の淡色部が小型になり胸部との差異が明瞭。尾羽基部を被う羽毛(上尾筒、下尾筒)が光沢のある黒、メスは胸部と腹部の羽衣の差異が不明瞭で、上尾筒や下尾筒が黒褐色で羽縁が淡色だったり淡色の斑紋が入る。
(ウィキペディアより)

南泉州なすびんウォ−ク2018

泉南の熊野街道(大坂夏の陣・樫井合戦の史跡)を巡るコースに参加しました。
コース(南海本線樽井駅受付スタート〜赤レンガ工場跡〜大師道〜岡中鎮守社〜林昌寺〜市之瀬王子跡〜信達宿本陣跡〜海会寺跡〜樫井古戦場跡〜淡輪六郎兵衛の墓〜塙団右衛門の墓〜田尻駅上広場(ゴール受付)〜吉見ノ里駅)約11キロ

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当日は快晴、海風も吹き歩数計は21927歩を示していました。

坂本龍馬

     
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世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る   坂本龍馬

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中書島

伏見城時代、脇坂中務小輔安治の邸宅があったと伝えられる。脇坂氏の官職名「中務」が中国風には「中書」と呼ばれていたので、その名から島名がつけられた。
伏見廃城後は芦萩が生い茂る島となっていたが、元禄時代、時の伏見奉行であった建部匠頭政宇が再開発して、伏見の繁栄をもたらした。

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昭和初年にこの島の周囲をめぐる濠川の半分を埋め立てて住宅地として利用された。戦後「今富橋」から南部分が全面的に埋め立てられて島としての景観は失われた。
虚子の句に「花人の落ち合ふ駅や中書島」と詠まれ、京阪本線と京阪宇治線の分岐点でもある。

源空寺山門

源空寺は寺伝によれば、もと炭山(宇治市)にあったが慶長年間(1596〜1615)に徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光によって伏見に移された。
二層からなる山門は伏見城から移築された遺構と伝えられており、階下にある大黒天は豊臣秀吉の持念仏で伏見城の巽櫓にあったものが、一時京町大黒町に預けられた後、源空寺に移された経緯から当地はかつて新大黒町とも呼ばれていた。

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伏見銀座跡

これより北方の銀座町は江戸時代の初め、徳川家康によって初めて銀座が置かれたところである。現座とは鋳物を加工して一定の品位をもつ丁銀、小玉銀などの銀などの銀貨とする独占鋳造所のことで、特権商人によって構成される。

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関ヶ原の戦いが終わった翌慶長6年(1601)5月、家康は後藤庄右衛門、末吉官兵衛に銀座取立てを命じ、この地に四町の屋敷を与えた。有力商人の座人が集められ、早くから銀鋳造は特殊技術をもつ大黒常是が鋳造を担当し、銀座会所、座人屋敷が立ち並んだ。これが江戸時代銀座の始まりである。
慶長13年銀座は京都中京の両替屋へ移され(後に江戸・大坂などにも設置)、伏見銀座は廃止されたが、銀座の地名を今に留めている。

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京町通

伏見築城に際して、桃山の伊達街道と共に城下町で最初に開通した「本通り」であると思われ、この通りを北上すれば京都南座の側を通り、遠く大原の里まで続いている。まさしく京へ通ずる道である。

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江戸時代、京町1丁目と2丁目との間に伏見奉行の西御門があり、京町3丁目と讃岐町の交わった場所に伏見奉行所の高札場が設けられ、俗に「札の辻」とも呼ばれた。明治維新「鳥羽・伏見の戦い」の折りには官軍と奉行所の幕軍が白兵戦を繰り広げた。今も当時の戦いの激しい様子を伝える弾痕を残す格子戸のある民家も現存する。この通りの北側にはかつて、「伏見インクライン(傾斜鉄道)」が鴨川運河と濠川を結んでいた。

伏見奉行所跡

伏見は江戸時代、幕府の直轄領だった。宿場町としても規模が非常に大きく、宇治川・淀川と高瀬川とを中継する川港としても大いに賑わった。
伏見城を廃した幕府は、伏見奉行所を置き、伏見町及び伏見廻り八か村と葭島新田を治めた。その範囲は西奉行所・東奉行所と南は桃陵中学校に至る広大なもので正門は西側にあった。正門の南北には石垣の上に白壁が続き、南北二つの櫓がそびえていたと伝えられる。

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伏見奉行所は、伏見町の司法・行政だけでなく、川船の監督、管轄する農村からの年貢徴収なども担当した。そのため、江戸幕府の遠国奉行としては上席に位置し、旗本よりも大名が任じられることが多かった。慶応三年(1867)六月に二十六代奉行の林忠交(請西藩主、千葉県の大名)が病死した後は空席となり、職務は京都奉行所が管轄した。

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慶応四年(明治元年)正月3・4日の鳥羽伏見の戦いでは会津兵や新選組ら旧幕府側がここを本陣とした。しかし御香宮神社に陣を布いた薩摩兵から砲火を浴びせられ焼失した。
維新後は、明治四年親兵(後の近衛兵)が配備され、次いで工兵第十六大隊が置かれた。

鳥羽伏見戦の弾痕

格子に数條ある痕跡は鳥羽伏見戦(1868)の弾痕です。幕末の慶應4年1月3日、4日に薩長士連合の新政府軍と幕府軍とが大激戦をくりひろげた、世にいう鳥羽伏見の戦いです。

幕府の大政奉還の奉上、朝廷の王政復古の令の直後、朝廷側が決定した第15代将軍慶喜の辞官、納地は、幕府を怒らせ、京へ攻め上がってまいりました。新政府軍は、これを鳥羽伏見で迎え撃ち、伏見では一大市街戦が展開され、幕府軍は敗れ、淀、大阪方面へ退却しました。

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この戦乱で伏見の街の南半分が戦災焼失、街は焼野原となりましたが、幸いにして、この建物は弾痕のみの被害で焼失を免れました。

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会津藩駐屯地跡(伏見御堂)

伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の12代教如が創建し、本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築 したものと伝えられ、大正4年に刊行された『京都府紀伊郡誌』に、寺域は徳川家康の寄進によるもので、蓮池を埋めたことから蓮池御坊とも呼ばれたと記されています。
ここを拠点にして教如は家康に働きかけ、七条烏丸に広大な寺領を寄進され、本願寺から東本願寺を分派独立することに成功しました。

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幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊200名が伏見京橋に上陸、ここに伏見御堂を宿陣とし、翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝えられています。
そのため、創建当初、建物は東向きにつくられましたが、明治18年に南向きに縮小して建て替えられました。平成2年に老朽化のため取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されています。

月の蔵人

「月の蔵人」の建物は、月桂冠の酒蔵のひとつとして大正二年に建築されました。当時は創業家十一代目・大倉恒吉が当主として酒造業を営んでいた時代で、伏見に十ヶ所の酒蔵を所有していたうち、本木材町の南蔵(現・内蔵)、丹後町の東蔵(現・月桂冠本社)などでの醸造に用いる酒米をここで精米していました。

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精米は酒造りの最初の大切な行程で、酒米を割れないように丹念に時間をかけ、飯米よりずっと小さくなるまで削られます。技術向上に盛んに挑んでいた時代、水車精米や初の電動式精米機、更には国産や外国製など様々なメーカーの精米機を導入し研究された記録も残っています。

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品質の向上により、、大正三年には東京大正博覧会で「名誉金牌」を受賞するなど、この伏見の地に100年前もの昔から月桂冠の品質や知名度を支えてきた酒蔵のひとつでした。
「この建物は平成十四年より京の台所「月の蔵人」として豆富、湯葉を中心とする四季折々の和食料理、月桂冠の日本酒、そして時を忘れてしまいそうな歴史の赴きある酒蔵の空間を満喫して頂ける場所としてご愛願頂いております。」とある。

狭山池まつり

狭山池まつり2018は、龍神エリア・北堤エリア・狭山池博物館・さやか公園・東堤エリア・南堤エリア・西堤エリアで行われ、迷子が出るほどの人々が参加した。出店も数多く人の数も過去最高と思われる。28日には花火が打ち上げられ、また、灯火台が点火され狭山池が蝋燭の火で繋がれました。29日には地元農家で採れた新鮮な野菜が販売されました。

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狭山池は、今から1400年前につくられ、現存する我が国最古のダム式ため池です。古事記や日本書紀にもその名が登場し、奈良時代には行基、鎌倉時代には重源、江戸時代には片桐且元が指揮をとり、当時の最新技術を駆使して改修しました。
狭山池は、水下や地域の多くの人々の惜しみない努力によって、1400年もの間守り伝えられてきた大切な文化遺産です。

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狭山池は、古くから人々の暮らしに恩恵を与えてきただけでなく、多くの生き物の生息場にもなっています。魚類等の水生生物はもちろんのこと、水鳥の楽園としても知られ、バードウオッチに訪れる人も少なくありません。平成の大改修以降はさくらの名所として復活し、バタフライガーデンには沢山の蝶が訪れます。狭山池の自然の美しさは、市民の継続的な努力により育まれたものです。

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狭山池まつり実行委員会『趣意文』

私たちのふるさと大阪狭山の真中に周囲一里の狭山池があります。歴史的価値の高い日本最古の人工のため池としてはるか遠い飛鳥の時代から、悠久の時を刻んできたふるさとの誇りです。
時には干ばつや洪水に耐えて人々を救い、時には、狭山のシンボルに、また、憩いの場として親しまれ、愛されてきました。
そして、平成の改修によって、その歴史・文化的価値は、より大きなものとなり、今では大阪、日本、そして世界への誇りなのです。この狭山池には、池の貴重な土木遺産を展示保存し未来に継承すべく、狭山池博物館があります。
また、水と緑に親しみ、憩いやくつろぎを与えてくれる場でもあります。地域に暮らす人すべてが狭山池に集い、豊かにコミュニケーションしていく。新しい大阪狭山の文化と活力は、ここから生まれるのです。
私たち市民が力を合わせて、すばらしい「狭山池まつり」を創りあげようではありませんか。
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