知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

高野邸池泉回遊式庭園

この庭園は、昭和12年高野家邸宅完成と同時期に池泉回遊式庭園として、高野二三初代当主により作庭された庭園です。

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この庭園の特徴は、豊富な湧水を利用し池泉周囲の水岸、庭橋、樹木林を歩いて鑑賞できるよう廻遊路を造り、鑑賞点、視界の変化に心を尽くすよう作庭されています。
又、風景要素の重要なポイントとして滝を造り、建物から見て中央には日本庭園として重要な役石である大形の平石を排石として配しており、この石の上に立ち全般を見渡しますと池の中には亀石を二ヶ所に配し、雪見燈籠の脇には鶴の銅像を設置して、鶴亀のめでたい庭に造られていることが良くわかります。

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高野二三の母家

此の建物は昭和12年高野二三がこの地に製紙会社を設立に当たり住居として建てられました。

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高野二三の生誕地が福井県のため使われている木材はすべて福井県産を使用し職人も呼び寄せ越前の風土に適した構造で建築されました。
1200坪の庭園には茶室も設けられています。

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高野二三

明治16年、福井県今立町の和紙漉きの家に生まれました。製紙に適した水を求めて富士山麓を探索し、柿田川の水が最適であると決め昭和6年当地に高野製紙所を設立しました。

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現在の町営駐車場の場所に高野製紙所があり境川から水を引き柿田川に井戸を掘り、汲み上げた水で特殊な紙(海図・壁・襖などに使う和紙)を作り、作られた和紙は施設内にある蔵に保存されていました。

泉頭城址

泉頭城は、北条氏が柿田川上流部東側の自然の川を堀として利用し、築城したといわれているが、豊臣秀吉の小田原攻めの時に廃城となった。
徳川家康は、親しみのあった泉頭の地を、側近の以心崇伝が記した「本光国師日記」にも記されているように、元和元年(1615)の年末に隠居所として決定した。

〈 徳川家康が求めた幻の隠居所 〉

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しかし、家康が縄張りのためにこの地を訪問する予定まで決まっていたにもかかわらず、翌年早々、急遽中止となり、隠居所は駿府(静岡市)へと変更された。

下田街道

下田街道は、東海道、三島宿の三島大社を起点に、伊豆の国市韮山・大仁・伊豆市湯ヶ島を通り、天城峠を越えて河津町梨本に至り、更に小鍋峠を越え、下田市箕作・河内を経て下田に至る通計十七里十四町二十一歩の口伊豆(北伊豆)と奥伊豆(南伊豆)とを結ぶ幹線道路であった。江戸時代には下田路と呼ばれた。

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天城山が伊豆を南北に分断し、北伊豆から隔てられた南伊豆では物資の輸送は海運に依存していたため、陸上路である三島−下田間の下田街道の整備・発達はかなり遅れたと考えられている。人馬の継立場が史料面から確認できたのは江戸中期の1742年(寛保2年)である。江戸幕府成立後、大半が天領だった伊豆国だが、1697年(元禄10年)を境に旗本領が増加し、のちに沼津藩領、掛川藩領、小田原藩領が各地に置かれたことから、江戸中期頃から通行が増加し、継立場が設置されたと考えられる。 幕末、通行人の数が増大し盛況を呈したが、沿線の村々には人場継立等の負担が重くのしかかり、明治時代に至っても多大な借入金に苦しんだ。大正から昭和初期に入っても、下田街道は人の往来が主であり、物資輸送は海運が中心であった。

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月下美人

昨夜、開花した月下美人
サボテン科クジャクサボテン属で、原産地はメキシコの熱帯雨林地帯です。ジャングルの中で、古木の幹や腐葉土やコケの層に根をおろして着生生活を送っています。
花冠の大きさは20〜25cm程度あります。純白で、香りを放つこと、夜間に咲くことが特徴です。真ん中に大きく飛び出した雌しべがあり、周囲に雄しべがびっしり張り出しています。

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園芸分類 多肉植物    形態 多年草   原産地 メキシコ〜中米  草丈/樹高 1〜2m程度

開花期 7月〜11月    花色 白     耐寒性 弱い    耐暑性 普通  特性 香りがある

宮さんの川

楽寿園の小浜池を源流としているこの川は、そこに小松宮別邸があったことから「宮さんの川」と呼ばれていますが、元は三島南西部への農業用水でした。水量が豊富で清らかな流水だった頃は生活用水であり子どもの遊び場でもありました。

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昭和35年頃から水量が減ったことから工場から冷却用水を流すことになりましたが水温が高い上、川をせき止めたので川が汚れ、鯉の放流など工夫の末、現在の川となりました。
清掃活動や花植などを行い、川辺は常に美しい景観を保っていることから「静岡県のまちなみ50選」に選ばれています。

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源兵衛川(三島)

楽寿園から流れる富士山の伏流水が源流で全長1.5キロ。 川の名称は工事に深く関わった寺尾源兵衛に由来する。豊富だった水量は都市化とともに激減し、川の汚染もひどくなったが、平成2年「源兵衛川親水公園事業」の指定を受け、流域が整備された。 現在、美しい水辺環境が保たれ、初夏にはホタルが飛ぶのを見ることができ、川の中の遊歩道を散策することができる。

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三島梅花藻

かつて三島市内の川のいたる所で見られたミシマバイカモは、昭和30年代の湧水減少とともに三島から姿を消しました。
平成8年、三島梅花藻を復活させようと市民が中心となり柿田川から譲り受け「三島梅花藻の里」が整備されました。

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ミシマバイカモは、清流に育つキンポウゲ科の多年草で、楽寿園の小浜池で発見され「ミシマバイカモ(三島梅花藻)」と名付けられました。梅の花に似た白い花をほぼ一年中咲かせ、手のひら形の「浮き葉」つけるのが特徴で、梅花藻の多くは高地や寒地で育つので、三島のように温暖な低地で育つのは珍しいことです。

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日当たりが良く、冷たい清流でしか育たないので、水質のバロメーターと言われ、ミシマバイカモは常時手入れをしないと枯れてしまうのでボランティアにより地道な保護活動が行われています。

郵便箱

明治4年に設置された日本最初のポストは「書状集め箱」と呼ばれ、その後、木製黒塗り「郵便箱」になり、明治34年鉄製赤色「俵谷式ポスト」が考案されました。

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その後、「丸型庇付ポスト」を経て、昭和24年から、「郵便差出箱一号丸型ポスト」となり、赤いポストとして親しまれ、今日、郵便取り扱い数量の増加、郵便物の大型化に伴い郵便ポストも大型化しました。

市ヶ原廃寺の塔心礎

古い寺院跡で残っているのは柱の礎石や屋根の瓦が多い。祐泉寺境内(三島市)にある巨大な礎石は、白鳳時代(645〜710)にこの地から三嶋大社の方向に向けて建てられていたお寺の塔の中心礎石である。

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発掘調査で出土した瓦や礎石の一部から薬師寺式の伽藍配置をもった寺院であることがわかった。そこで、市ヶ原廃寺と名付けた。その塔心礎(塔の中心柱の礎石)は白鳳時代の典型的なものであり、建築様式を知る上で貴重なものである。

水辺の文学碑(六)

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穂積忠(歌集「叢」)

     町中に富士の地下水湧きわきて 冬あたたかにこむる水靄

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井上靖(少年)
三島町へ行くと道の両側に店舗が立ちならび、町の中央に映画の常設館があって、その前には幡旗が何本かはためいていた。私たち山村の少年たちは、ひとかたまりになり、身を擦り合わせるようにくっつき合って、賑やかな通りを歩いた。

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水辺の文学碑(五)

小出正吾(ジンタの音)

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楽隊の音がきこえてきた。ジンタッ ジンタッ ジンタッタッ ・・・・・・ジンタの楽隊がやってきたのだ!子どもたちは、子鹿のようにかけだした。ジンタの行進は、となりの町の沼津から三島の町へのりこんできた。
はなばなしい旗やのぼりを先頭に、クラリネットに、コルネット、、大太鼓、小太鼓という一隊で、そろって、白い羽根がざりのついた赤いぼうしをかぶっている。それが、町じゅうをゆすぶるような大きな音で、あのなつかしの曲「美しき天然」を演奏しながらくりこんできたのである。

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水辺の文学碑(四)

太宰治(老ハイデルベルヒ)

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町中を水量たっぷりの澄んだ小川が それこそ蜘蛛の巣のやうに 縦横無尽に残る隅なく駆けめぐり、清冽の流れの底には 水藻が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぶちゃぶ洗ひ流れて、三島の人は 台所に座ったままで清潔なお洗濯が出来るのでした。

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水辺の文学碑(三)

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司馬遼太郎(裾野の水、三島一泊二日の記)

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この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある。むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。
その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のように そのすきまに多くの水脈をつくった。融けた雪は山体に滲み入り、水脈に入り、はるかに地下をながれて、溶岩台地の最後の緑辺である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである。

水辺の文学碑(二)

お知らせ
     昨日午後 突然「おきてがみ」に不具合が生じて開かなくなりました:。ブログパーツ内にはあ
     るのですがなぜかブログには表示されません。訪問することもできなくなりました。申し訳あり
     ません。


松尾芭蕉(野ざらし紀行)
       霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

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若山牧水(箱根と富士)

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宿はづれを清らかな川が流れ、其処の橋から富士がよく見えた。沼津の自分の家からだと その前山の愛鷹山が富士の半ばを隠してゐるが、三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、富士のみがおほらかに仰がるるのであった。克明に晴れた朝空に、まったく眩しいほどに その山の雪が輝いてゐた。

水辺の文学碑(一)

桜川(三島)沿いにある「水辺の文学碑」

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十返舎一九(東海道中膝栗毛)

日も暮れに近づき、入り相の鐘かすかに響き、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追ったて、とまりを急ぐ馬子唄のなまけたるは、布袋腹の淋しくなりたる故にやあらん。
このとき、ようやく三島の宿へつくと、両側よりよびたつる女の声々・・・・・・ 女「お泊まりなさいませ、お泊まりなさいませ」 弥次「エエ、ひっぱるな、ここを放したら 泊まるべい」 女「すんなら、サア、お泊まり」 弥次「あかんべい」 ・・・・・・喜多「いい加減に、此処へ泊まるか」 女「サア、お入りなさいませ、お湯をお召しなさいませ」 弥次「ドレ、お先に参ろう」・・・・・・と、はだかになりてかけ出す。 女「モシ、そこは雪隠(せっちん)でござります。こっちへ・・・・・・・」 弥次「ホイ、それは」と湯殿へゆく。

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正岡子規(旅の旅の旅)
       面白や どの橋からも 秋の不二

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たたり石

此の石は三嶋大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていました。
たたり(絡垜)は本来、糸のもつれを防ぐ具であり整理を意味する語である。

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後に往来頻繁になりこれを取り除こうとする度に災いがあったと言われ、絡垜が祟りに置き換えられる様になったと言われる。

若山牧水

若山牧水歌碑
          のずゑなる 三島のまちのあげ花火 
                  月夜のそらに 散りて 消ゆなり

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若山牧水は、九州宮崎県に生まれ、大正九年静岡県三島市の西隣の沼津市香貫に住み、三嶋大社の夏祭りの花火を見てこの歌を詠んだ。

白滝公園(三島)

本州で唯一、フィリピン海プレート上に位置する伊豆半島は、かつては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。この海底火山群は、プレートとともに北上し本州に衝突して半島になりました。約60万年前の出来事です。
伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んだ地形を持つ魅力的な半島が形作られています。

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およそ10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士山が誕生しました。約1万年前の噴火では愛鷹山と箱根に挟まれた谷を溶岩が流れ下り三島付近にまで到達しました。「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は静岡県三島市北部の大地を作り出しました。また亀裂や隙間の多い溶岩は地下水の通り道となって溶岩の末端付近に沢山の湧水をもたらしています。
湧水は多くのせせらぎを作り出しました。源辺衛川や桜川などの用水も湧水とともに暮らしてきた人々の知恵で沢山の工夫があります。

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白滝公園の中に、表面に亀裂が入った小さな高まりがあります。富士山から流れてきた溶岩が作った溶岩塚という地形です。また、楽寿園を初めとして三島駅周辺には沢山の溶岩塚があります。

藍染院跡の溶岩塚

静岡県三島駅南口を南に藍染坂を少し下った左に三島溶岩塚がある。

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静岡県三島溶岩は粘性の小さい玄武岩の溶岩で、富士山から約40キロ流下してきたものである。
溶岩塚とは、溶岩流の表面の部分が固まっても、内部はパイプ状になっており、末端付近の表面が押し上げられる作用により小丘となったものをいう。

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ここ愛染院跡にはこの繰り返しによって、溶岩の堆積がいっそう高まり、このように小高い溶岩塚が形成された。
この溶岩塚は三島溶岩流の末端であること、また、岩石や火山活動の研究に貴重であることから指定して保存することになった。
藍染院は室町時代に三島神社別当職勤めたことがあるとも言われている旧市内随一の大寺院であると推定され、当時はその藍染院の庭園の一部ではないかといわれているが確証はない。

朝日文左衛門重章屋敷跡(御畳奉行)

朝日文左衛門重章は、学芸・文化が開花した元禄4年(1691)から享保2年(1717)までの26年間にわたり、日記『鸚鵡籠中記』を著したことでしられる。この地はその屋敷跡である。

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自らの生活や見聞したこと、世相などをそのまま記した『鸚鵡籠中記』は、元禄の人々の生活ぶりを知る貴重な文献で、神坂次郎著「元禄御畳奉行の日記」で紹介された。
朝日氏は、尾張徳川家に仕える100石取りの武士で、御畳奉行を拝命したことにより、役料40俵が支給された。文左衛門は非番の日には好きな魚取り、芝居などに熱を上げ、物見高く城下の内外を往来していたことが記録されている。享保3年に45歳で他界した朝日氏の跡には名古屋コーチンゆかりの海部氏(120石)が明治まで居住した。

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周辺の白壁・主税・橦木町界隈は、中級武士の町から明治以降は陶磁器産業や企業家の住まいが集積する街となった。現在は名古屋城から徳川園に至る歴史文化エリア「文化のみち」の中核として、名古屋市の「町並み保存地区」となり、文化の香を伝えている。

主税町長屋門

この門は江戸時代のもので、当時の位置に残る名古屋城下の武家屋敷の長屋門としては唯一のものです。江戸時代主税町付近には尾張藩の中級武士の屋敷がありました。屋敷の一部に門を設けた形式のものを長屋門と呼び、中級武士の屋敷門としては一般的でしたが石高・役職などで規模や形式が違っていました。

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この門に付している出格子付き番所(武者窓)は武家屋敷のみに設けることが許されたものです。門の築年・創建者は不明ですが江戸中期の城下図には平岩氏・幕末の城下図には室賀氏の名前があり、明治時代には第三師団長官舎、昭和22年頃から43年頃までは佐藤氏の屋敷門として使用されていましたが、その後、塀及び長屋の一部が撤去され現在の大きさになっています。

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文化のみち二葉館

愛知県名古屋市旧川上貞奴邸
この建物は、「日本の女優第1号」の川上貞奴が居住していた和洋折衷の建物を創建当時の姿に移築復元したものです。

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文化のみちの拠点施設として、文化のみちの情報発信をすると共に、川上貞奴関連の資料や郷土ゆかりの文学資料を展示しています。

川留め(大井川)

川留め文化
川越しや川留めにまつわる物語や数多くの俳句が残されている。物語では、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に弥次・喜多が川越賃を値切ったりしながらやっとの思いで越す話がある。
また、浄瑠璃「朝顔日記」では、恋する人を慕って流浪する盲目の娘深雪が大井川のほとりで、川留めの悲運に泣くが、其の時、奇跡的に目が治るくだりがあり、当時江戸で大評判となった。このことから大井川河畔の松を「朝顔の松」と名付けた。

大井川

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朝顔の松公園には、厳谷小波の「爪音は松に聞けとや春の風」や田中波月の「稗しごくとこぼれ太陽のふところに」の句碑がある。

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