知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

旧松村家住宅

この住宅は和歌山県の有田川を見下ろす段丘の平地に主屋と納屋が北面して建てられていました。主屋の建築年代は18世紀後半と推定されています。
向かって左が土間で床上部分は「おもて」「だいどころ」「なんど」を配した三間取りで左側面の外壁は軒一杯に造られ土間を広くしています。

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小規模農家の典型的な地方民家である。

竪穴住居

この建物は和歌山県和歌山市鳴神の音浦遺跡から発見された古墳時代の竪穴住居をモデルにして復元したものです。
竪穴住居とは、地面を掘りくぼめ、上に屋根をかけた半地下式の住居です。屋根の高さは地面から約4.5メートル、竪穴内部の広さは約4.5メートル×5.2メートルでおよそ23.4平方メートルの広さです。
この広さを畳(1.8×0.9メートル)に換算すると、14畳となります。

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建物の内部に入ると半地下式の土間が広がります。その中央には屋根を支える柱が4本立ち、食料などを蓄えるための貯蔵穴が掘り込まれ、また炊飯用のカマドがあります。屋根は入母屋造りに復元されています。
屋根の素材は茅ですが、当時は身近にあった植物で葺かれていたと考えられます。

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旧谷山家住宅

谷山家は、和歌山県塩津の浜に建てられていた漁家である。近世の紀州における海運業の要地であった塩津で代々海運と漁業を営んできた。
現在の建物は棟札によって寛延2年(1749)に上棟されたことがわかる。

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建物は主屋と倉が直角に接続しているが、倉の材料は主屋よりやや古いと見られるので、寛延2年には主屋だけで建て替えられて、それまであった倉に接続されたと考えられる。
主屋は敷地にあわせて楯に長い台形の平面をしており、全体に居室が少なく、ほとんど吹き抜けの土間になっている。また、通りに面した正面に出入口を設けず、二階の窓に三重の戸が用いられたのは、海からの強風に耐えられる配慮である。

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この建物は建築年代が明らかな上、漁家として古いものに属し、全国的にも数少ない貴重な民家である。和歌山県では、この家の所有者より譲り受け、昭和44年に紀伊風土記の丘に移築し復原修理を行った。

和船

紀伊半島ではリアス式海岸の屈曲の大きな入江や河口などに形成された砂浜で地曳き網魚が操業されてきました。
特に和歌山県日高郡周辺の漁村に多く分布しており、平成4年の調査時には14ヶ所で行われていました。

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地曳き網とは、アミブネと呼ばれる和船2艘が、沖合の同一場所から網を置きながら左右に分かれて魚群を包囲し、両端の網を陸に引いて魚を捕る漁法です。
この和船(材質;スギ・ヒノキ・マツ)(規模;長さ11.05メートル、幅2.24メートル、高さ0.9メートル)は日高町産湯地区の新網によって昭和38年に造船されたもので、漁業近代化のなかで改良を加えられた部分が少なく、伝統的な形式をよく残していると考えられています。

楠木の巨木(古墳時代)

このクスノキの巨木は、周囲12メートル、直径4メートル推定樹齢350年で、平成23年9月紀伊半島に甚大な被害をもたらした台風12号の通過後、紀の川(和歌山市六十谷橋付近)で発見されました。
放射性炭素年代測定法による年代測定で西暦700年前後まで生育していたものと判明し、古墳時代から奈良時代にかけてのクスノキと考えられます。

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和歌山県立紀伊風土記の丘にある特別史跡「岩橋千塚古墳群」が築造された同時期、発見現場近くで生育していたものと考えられます。

紀伊風土記の丘

紀伊風土記の丘は、特別史跡岩橋千塚古墳群を整備して、資料館、民家集落、植物園等を付設し、和歌山県の文化遺産を公開する施設である。
この公園の面積は50万平方メートル、域内の古墳は500余基を数え、6世紀に築造されたものが大部分を占めている。

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紀伊の国、紀氏一族の墳墓といわれ、全国まれにみる貴重な古代遺跡である。

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太田黒田遺跡

太田黒田遺跡は、和歌山駅の東側一帯に広がる大きな集落遺跡で東西約500メートル・南北約700メートルにわたる。現在の行政区画では和歌山市黒田の一部と太田にあたる。この地域の区画整理事業に伴い、昭和43年から昭和59年にかけて15回の発掘調査が行われた。
この調査で弥生時代の竪穴式住居跡18軒を初めとして、各時代の溝・井戸・廃葉穴など多数の生活遺構が検出され、大型の複合集落遺跡であることが判明した。

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調査で検出された大型の刳り抜き井筒を納めた井戸跡(奈良時代)からは、和同開珎・万年通宝あわせて16枚が出土した。
遺物としては大量の弥生式土器や石器などの弥生時代の遺物をはじめ、各時代の生活遺物がみられ、特に昭和45年に遺跡の東北部で出土した銅鐸は弥生時代の集落内に埋納された銅鐸として注目される。

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大阪市立科学館

大阪市立科学館は大阪中之島にある科学のミュウジアムです。

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太陽と惑星を実際の5億分の1の模型が設置されている。太陽は直径280僉地球は直径2.6僂竜紊砲覆討い襦

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太陽   赤道半径 696,000辧蔽狼紊量鵤隠娃糠棔法  ー転周期 25.38日
水星   赤道半径 2,440辧 仝転周期 87.97日  自転周期 58.65日
金星   赤道半径 6,052辧 仝転周期 224.7日  自転周期 243.02日
地球   赤道半径 6,378辧 仝転周期 1年      自転周期 1日
火星   赤道半径 3,396辧 仝転周期 1.88年   自転周期 1.026日
木星   赤道半径 71,492辧仝転周期 11.86年  自転周期 0.414日
土星   赤道半径 50,268辧仝転周期 29.46年  自転周期 0.444日
天王星  赤道半径 25,559辧仝転周期 25.559年 自転周期 0.718日
海王星 赤道半径 24,764辧仝転周期 164.77年  自転周期 0.671日
冥王星 赤道半径 1,195辧 仝転周期 247.80年  自転周期 6.387日 

中之島今昔物語

江戸時代は各藩の蔵屋敷が建ち並び天下の台所を支え、緒方洪庵は適塾を開設し医学のみならず文明開化の先駆者となり、堂島では米の集散地として米相場に先物取引の仕組みを編み出し、岩本栄之助は株の取引で財をなし中央公会堂を寄贈し社会貢献の先例をなした。

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日本銀行大阪支店、朝日新聞大阪本社、朝日放送、関西電力、大阪市役所などに働く人々、文化・経済の中枢機能が集積しています。
又、国立国際美術館、市立科学館、国際会議場、府立図書館、などを訪れる人々、明治維新に数多くの逸材を輩出した適塾は今も幕末の空気を漂わせ、現在最古の木造園舎を持つ市立愛珠幼稚園が隣接する。

愛珠幼稚園

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淀屋

淀屋は、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である。全国の米相場の基準となる米市を設立し大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。
米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興した。幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。
淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。 淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島四丁目〜六丁目)が有った。また現代も中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。

淀屋橋

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宝永2年(1705)、五代目の淀屋廣當(よどやこうとう)が22歳の時に幕府の命により闕所(けっしょ)処分となった。廣當の通称である淀屋辰五郎の闕所処分として有名である。
闕所時に没収された財産は、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上った。
闕所の公式な理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだった。しかし諸大名に対する莫大な金額の貸し付けが本当の理由であろうとされている。

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淀屋の事業は米市を主とした多角的経営であった。
初代の岡本三郎右衛門常安(おかもとさぶろうえもんじょうあん)は、伏見城の造営や淀川の堤防改修において工事の采配を振り、高い土木工事技術を発揮した。その後、大坂の十三人町(後の大川町、現在の大阪市中央区北浜四丁目)に移り、「淀屋」と称し材木商を営んだ。1609年から1614年に掛けて中之島の開拓を行い、江戸時代から現代まで続く経済の拠点を造った。
二代目の淀屋言當(よどやげんとう)は、途絶えていた青物市を元和元年(1616年)に京橋一丁目の淀屋屋敷で再開した。寛永元年(1624)には「海部堀川」(かいふほりがわ)を開削し、海部堀川の屈折点に造った船着場「永代浜」(現在の靱本町二丁目)に魚の干物を扱う雑喉場(ざこば)市を設立した。また米価の安定のため米市を設立し、大坂三大市場と呼ばれた青物市、雑喉場市、米市を一手に握った。また輸入生糸を扱うための糸割符に、大坂商人も加入できるように長崎奉行と掛け合った。寛永9年(1632)に、糸割符の加入が認められ海外貿易を始める。寛永15年(1638)からは加賀藩主前田利常の意向により加賀米の取扱いが本格化した。その大坂への輸送に際して、日本海から関門海峡と瀬戸内海を経由して大坂に至る西廻り航路を北風家の北風彦太郎と共に担い、北前船の先鞭と成った。

海南駅

初めて海南駅に降り立ったのが2016年4月17日、この日は熊野街道から熊野古道(小栗街道)を歩いた。
地元の人に熊野古道を丁寧に教えて貰った。

海南駅東口

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海南駅は、和歌山県海南市名高にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)紀勢本線の駅である。
日方地域に最初に出来た駅はこの駅ではなく野上軽便鉄道の「日方駅」である。「日方駅」は野上軽便鉄道の日方駅から野上駅(後に紀伊野上駅に改称)までの開通と共に1916年に開業した。日方地域に次にできた駅がこの駅で、旧来からの「日方駅」とは場所が違う。
当駅は1924年2月、国鉄・紀勢西線の最初の開通区間として和歌山駅(現在の紀和駅)から東和歌山駅(現在の和歌山駅)を経て箕島駅までが開通したと同時に、紀勢西線の日方町駅(ひかたまちえき)として開業した。「日方駅」は当駅の北東に位置していた。国鉄側からの要請で「日方駅」の構内に当駅への「連絡口」専用のホームが設けられた時期は後のことである。
「日方町駅」はその後1934年に海南市が誕生したことを受け、1936年に「海南駅」に改称、1959年には今の紀勢本線が全通し亀山駅と和歌山駅(現在の紀和駅)の間が紀勢本線とされている。「日方駅」は野上電気鉄道が1994年に全線廃止となり姿を消した。

熊野街道

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熊野古道(小栗街道)

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雄ノ山峠を越えて熊野へ参拝する熊野古道を小栗街道とも呼んでいます。小栗街道といわれるのは、不治の病にかかった小栗判官が、照手姫の土車に引かれて、熊野を目指してこの道を通ったためです。
判官は、湯ノ峰の湯を浴びてすっかり元気になり、照手姫と結ばれました。判官は後に畿内五ヵ国(大和・山城・河内・和泉・攝津)と美濃(岐阜県南部)を賜りました。

海南駅西口
二度目は2018年4月27日、黒江駅から黒江の町を通り海南駅まで歩いた。

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万葉歌碑

       紀伊の海の 名高の浦に寄する波
                 音高きかも 逢はぬ子ゆゑに

「紀伊国の海の名高の浦に寄せる波のように、人の噂の高いことだなぁ。まだ逢ってもいないあの娘との間に噂が立ってしまったことよ」

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名高の浦とは、かつて海南市名高にあった浜で、万葉時代(約1300年前)には、この歌碑が建っているあたりが海岸線で、ここより遠浅の海が広がり、潮が引くと干潟となりそれに由来して日方という地名がついた。
名高の浦の波の音が高いのと、名高という地名に浮名が高く立つという意味も含め、まだ逢っていない女性との噂が高く立ってしまったことを嘆く歌である。
万葉集にはこの歌を含め、名高の浦を詠んだ歌が四首収められている。

歌碑

この歌の意は、
名高の浦の愛子地には袖を触れるだけで、そこに寝ることもなく終わってしまうのであろうか。

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万葉歌碑

       黒牛の海 くれなゐにほふ ももしきの
                    大宮人し あさりすらしも

「黒牛の海の浜辺が虹の色に美しく照り映えている。宮廷のお供の女官たちが磯遊びをしているらしい」

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紀伊続風土記によると、現在の海南市船尾、黒江、日方地区はその昔、深い入り江であり、潮が引くと黒い大きな牛の形をした岩が見えたので、黒牛潟(黒牛の海)と呼ばれていた。
黒江という地名はこの黒牛潟に由来する。この歌は、海のない大和国(奈良県)人が生まれて初めて見る紀伊国(和歌山県)の海に感動し浜辺の鮮やかな景色に対する心の高ぶりを歌ったものである。

くろめ桶

木から採取した荒味漆の塵など濾過してから、斜めに立てかけた、この桶に入れ天日や炭で温めながら長い篦で掻き回して「クロメ」と「ナヤシ」を同時に行った。これが漆の精製です。

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この漆の木は日本一の漆の産地である岩手県浄法寺町から贈られたもので、横に幾筋もの傷が付いていますが、このように木に傷を付け、そこからにじみ出る樹液を集め(漆を「掻く」という)、精製した漆が漆器の塗料になります。

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漆の乾燥には適度な水分が必要で湿度が50〜70パーセントで最良の「膜」が得られます。水分を蒸発させる普通の乾燥とは反対なのです。
個体となった漆は、すぐれた塗料としての性質を発揮し、美しい光沢はもちろん、酸、アルカリ、塩分、アルコールなどの化学物質にも侵されず、耐久性、断熱性、防腐性にも優れています。

温故伝承館

和歌山県の海南市黒江に「温故伝承館」があります。中国の故事によります「温故知新」から「温故伝承館」は名付けられ、酒造りの老舗が開館した資料館です。元酒蔵には酒造りの道具から民芸品、生活用品などが当時のままに展示してあります。

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日本酒は日本が生んだきわめて高い完成度を持つ醸造技術で造られてきました。江戸時代中期にはほぼ完成されていた清酒製造技術は、練達した杜氏や蔵人により代々伝えられてきたものです。
経験と勘、また但馬や丹波などの杜氏集団が血縁地縁の言い伝えだけで、単純で素朴な道具を駆使して、米から高いアルコール分を産み出す技術を継承してきましたことは、驚嘆すべき世界に誇る文化的財産です。

黒江の町並み

黒江には江戸時代末期からの古い町並みが残されています。黒江の町並みの特徴は、切妻屋根の町屋が斜めに構えて軒を連ね、ノコギリ歯のようにジグザグに並ぶ景観にあります。
ノコギリ型の町並みは、通称「川端通り」を中心とした、北側の「西の浜・天王地区」と南側の「南の浜地区」にとりわけ分布しています。

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黒江の地区は古く万葉集に黒牛潟としてその名が詠まれた景勝地で、現在の黒江の地の大半は当時、海でした。
その後、土砂の堆積と地震などによる地盤の隆起により陸地化していきますが、池崎山がある為に、汀(海岸線)が斜めに形成されていきました。江戸時代初期に、当時盛んになっていた漆器業の為に、僅か五年間で計画的に遠浅であった干潟が埋め立てられ漆器従業者の宅地などが形成されていきました。
海岸線沿いに埋め立てがなされ、町の中央には自然に出来ていた水路が堀川として整備され、配されました。堀川は現在、川端通り下に暗渠にされています。

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町は堀川に平行する幾筋かの通りと、汀に平行する小道で楯横に区画されました。しかし、この楯横の道が直交して交わらず、平行四辺形の町割り・宅地割りとなりました。
その為に、四角い家を建てるとその前に三角形の空き地が出来るようになったと推測されます。この他に、方位説、漆器製品や手押し車など物の置き場所説などがあります。しかし、これらの説明には矛盾するところが多く、ノコギリ潟の町並みの形成要因ではなく、家の前の三角形の空き地活用方法との混同ではないかと考えられます。

旧柳川邸 (黒江)

文化4年(1807)頃に建てられた江戸時代の商家として典型的な町屋で、昭和49年、国指定重要文化財の建築物に認定され、現在、紀伊風土記の丘に移築復元されている。
此処はその役宅跡です。

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文政八年(1825)紀州藩より「塗物江戸積株」の官許を得て大いに江戸と漆器交易し、後日方組の大庄屋を務めた。

移築復原された旧柳川邸

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柳川家は、近世以来漆器の製造販売を業とし、当代まで十一代続き、代々平兵衛を名乗り、五代目は大庄屋を務めた。
家蔵の記録によれば、文化四年(1807)四代目平兵衛の代に屋敷地を求めて普請したのが現在の建物である。この家は、もと人工の堀であった川端通りに面して建てられ敷地西側は入り江で船着場になっていたといわれる。主屋は、向かって左側に大戸口から裏に通り庭があり、その右手に田の字型に四室を造り、正面側が「みせ」と「みせおく」背面側が「だいどころ」と「なんど」で、その後ろに座敷を突き出させた町屋として標準的な間取りをもっている。
この建物は全体に保存がよく、また、材料はよく吟味され意匠も優れている。和歌山県を代表する町屋の遺構として貴重なものである。

黒江(熊野街道)

JR黒江駅
高校生と一緒にホームを歩いていたら教員に一般の方ですがと聞かれた。この駅は高校生専用の改札がある。

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熊野街道
熊野街道は、京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称、紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。後者の中辺路は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。
説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道とも呼ばれ、大阪市街(上町)では御祓筋とも呼ばれる。

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熊野街道は、摂津国渡辺津(窪津・国府津・高津・楼津ともいう。大阪市中央区天満橋京町付近)を起点に南下し、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)を経て、和泉国に入る。
和泉国瓦屋村(泉佐野市)で、それまで熊野街道の海側を並行して通っていた紀州街道が熊野街道に合流し、雄ノ山峠を越えて紀伊国川辺村(和歌山市)に至る。川辺村で紀州街道と分かれ、熊野街道は川辺村から紀ノ川を渡って南下し続け、紀伊国田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かった。なお、京からは渡辺津までは淀川を舟で下った。


樫井古戦場(大坂夏の陣)

大坂夏の陣の激戦の一つである樫井合戦は、元和元年(1615)4月29日、樫井の地で展開された。冬の陣の和議のあと、外堀を埋められた大坂方は、この度先手をとって出陣し泉州へは大野主馬を主将として二万余りの大軍を差し向け徳川方の和歌山城主浅野長晟の軍勢五千余りを押さえようと図った。
4月28日浅野方の戦陣は佐野市場へ到着、大坂方は岸和田を越えて進撃を続け翌日、両軍の衝突はもはや避けられない状態となった。
数的に劣勢な浅野方の諸将は軍議の結果、軍を市場から安松・樫井に移した。大軍を迎え討つには市場は東は野畑が広いうえ山遠く、西は海で浜辺が広く馬のかけひきも自由な所であるから不利、それに比べて安松・樫井は東は蟻通の松原、西には樫井の松原が海辺まで続き中間には八丁縄手、その周囲が沼田のため豊臣方の大軍は動かし難い地形で、小勢の浅野方は有利だと判断した。

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一方、大坂方はここで取り返しのつかない失敗を演じた主将大野主馬は慎重な作戦を立てていたが、先手の大将塙団右衛門と岡部大学が先陣争いをし小勢で飛び出してしまった。29日未明、塙・岡部の両将を迎え討った浅野方の勇将亀田大隅は安松を焼き払い池の堤に伏せた鉄砲隊で大坂方を悩ましながら樫井まで引き下がりここで決戦を挑んだ。壮烈な死闘が街道筋や樫井河原で繰り返された。
一団となって戦う浅野方、はらはらの大坂方、まず岡部が敗走し塙は樫井で孤立のまま苦戦を続け、ついに矢を股に受け徒歩でいるところを討ち取られてしまった。
かくして樫井合戦は大坂方の敗北で幕を閉じこの夏の陣の緒戦が大坂方の士気に大きく響き、この後十日もたたない五月七日遂に堅固を誇った大坂城も落城し豊臣氏はここに滅亡したのである。

塙団右衛門

慶長20年(1615)の豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討死した塙団右衛門直之の五輪塔である。団右衛門は尾張国羽栗の人で加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功をあげ名を知られたが、関ヶ原の戦い(1600年)以後浪人して僧となり鉄牛と号した。

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大坂夏の陣(1614年)が起きると豊臣方に属し大坂城に入城した。慶長20年4月、夏の陣がおこると豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく紀州に進んだ。
団右衛門は先鋒隊をひきいて4月29日早朝熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入した。安松、岡本、樫井で激戦が展開されたが、大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討死した。ときに48歳という。
団右衛門を討ったのは上田宗箇、亀田大隅あるいは八木新左衛門などの説があり一定しない。

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淡輪六郎兵衛

慶長20年(1615)、大坂夏の陣がおこり、豊臣・徳川方が最初に激突したのが樫井合戦である。
この石塔は、豊臣方の武将としてこの地で討死した淡輪六郎兵衛宝篋印塔である。淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族であった。六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室の小督局で、その子お菊も夫とともに豊臣方として戦った。

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慶長20年4月、徳川方は全国の大名に大坂城を攻撃するよう命じた。これに対して、豊臣方の一軍は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく紀州に進んだ。
六郎兵衛はその先鋒隊となり4月29日早朝、塙団右衛門とともに熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し乱戦の中で討死した。
この宝篋印塔は寛永16年(1639)25回忌にあたり淡輪氏の末裔の本山氏が淡輪にて石材を整えて建立した。その後も当地の人たちにより守られてきた。

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海会寺をつくった豪族の屋敷

海会寺跡の東に広がる広場には200年以上のあいだ営まれた村がありました。なかでも海会寺が造られた頃、とても大きな屋敷がありました。この屋敷は当時の一般的な住居と比べると数倍大きなものです。この屋敷に住んでいたのは、この辺りの村々を治めた有力者、海会寺を造った豪族でした。
この広場には海会寺が造られる以前、7世紀の初頭から9世紀代まで200年以上の間、古代の人々が暮らしていました。なかでも海会寺建立後、8世紀初頭になると集落内に巨大な掘立柱建物群が出現しました。東西に長く最も大きな建物(正殿)と南北に長い建物(脇殿)が並んで造られたのです。

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脇殿と正殿は柱列を一直線上に揃えて造られたことがわかります。建物の間隔も綿密に計算された上で建てられています。このような大規模・企画性は一般の集落では見られないもので、正殿が南側に庇をもち、正殿と脇殿の前に広場があることなどからも当時の都や役所の建物の配置を真似たものといえます。

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この役所風の建物配置は、海会寺を造った豪族が、律令国家の中心地・奈良の都にいた有力者たちの影響を受けたためと考えられています。
規模;正殿 東西13.8メートル(桁行6間)×南北7メートル(桁行3間南面庇付き)面積約97
    脇殿 南北11.8メートル(桁行5間)×南北(桁行2間)、面積59

海会寺跡


巨大な塔を支えるためにしっかりとした基礎が作られました。少し土を積んでは細い棒でつきかためていき、その廻りには土が崩れないように、地元でとれる和泉砂岩という河原石を積み上げました。この石積みの頂上には塼(せん)と呼ばれるレンガのような焼き物が敷かれました。重い柱を支えるため、その下に和泉砂岩製の礎石が置かれました。
規模;基壇一辺13.2メートル 高さ2メートル 柱間2.4メートル

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金堂
発掘調査で石積みが見つかり、塔と同じ河原石を積み上げた基壇だったことがわかっています。
規模; 基壇東西21メートル×南北推定17.4メートル

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講堂
礎石は全て失われていましたが、そのあとから柱の位置がわかり建物の規模が判明しました。基壇は河原石積みで、高さは塔や金堂と比べ低いものでした。
規模;基壇東西21メートル×南北13.8メートル 

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回廊
発掘調査により、花崗岩製の柱礎石が見つかっています。柱を置く部分が丸く削り出されています。
規模;基壇幅4.6メートル 桁行柱間2.1メートル×桁行柱間2.4メートル

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信達宿本陣跡

紀州街道は古くは熊野街道とも呼ばれ、信達宿はおよそ900年前頃より、熊野詣で賑わっていました。特に市場村は、白河上皇以降、歴代上皇の宿舎が置かれたところから信達荘御所村とも呼ばれていました。後鳥羽上皇が熊野詣をされた建仁元年(1201)十月、お供の歌人、藤原定家の日記「後鳥羽院熊野行幸記」にも、往きの七日、帰りの二十四日、信達宿に宿泊したという一文があります。

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紀州公は、参勤交代の折には、約1500人の供を連れ和歌山城を出立し、雄ノ山峠を越え、山中宿で昼休憩をとり、信達宿を目指しました。当時、山中宿の先には、琵琶ケ崖という、街道一の難所があり、そこは十数メートル下に山中川が流れる、断崖絶壁の細道でその昔、琵琶法師が、足を踏み外して谷に落ち、それ以来、琵琶の音が、谷底から不気味に聞こえてくる為その名がついています。

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江戸時代になり、徳川幕府により、伝馬宿駅制度が整備されて参勤交代制度が確立されると主要な宿場に本陣と人馬問屋が置かれました。本陣とは元は戦の時に大将が詰める本営の事でしたが、以後は大名、公家、幕府の役人、僧侶等の貴人の宿舎となりました。五街道の主要な宿場には、宿泊本陣が置かれ他に休息専用の本陣もありました。脇街道の紀州街道は、信達宿市場村と貝狃百蠕寺に宿泊本陣が山中宿と助松宿に休憩本陣があり、千坪以上の屋敷地に御成門、式台玄関、上段の間等の格式を備えた建物がありました。

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敷地は間口二十七間、奥行き三十九間で、千四十三坪あり、建坪も二百五十坪ありました。江戸時代は除地(官地)とされ、年貢は免除されていました。長屋門は当時(江戸時代)のままですが主屋は明治23年に建て直されています。
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