知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

岡崎宿三十六町二十七曲り

田中吉政(1548〜1609) 岡崎城主(1590〜1600)
当時、管生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、また惣堀(田中堀)を築造するなど、城下町の整備を行った。

-

東海道は鎌倉時代になって京都から二十六番目の宿が矢作宿であり、十四世紀末東矢作岡崎郷が明大寺に出現しました。
天正十八年(1590)、田中吉政が岡崎に入城し、城下町の建設にとりかかり乙川の南岸を通っていた東海道を城下に導き入れ、矢作橋の架設に着手しました。慶長六年(1601)本多康重が城主となり田中吉政の城下町建設を引き継ぎ矢作橋を完成しました。

-

慶長十二年の大洪水によって八町の町民を城東の台地に移し、伝馬町を新設し続いて連尺町・篭田町両町も作られ町並みがほぼ完成し「岡崎宿三十六町二十七曲り」と言われるようになりました。
城下の町角を多くしたのは防備の必要からですが町並みを長くして商家の賑わいを招く利点も考慮したものと考えられる。

-

二の丸御殿の井戸

岡崎城大手門(実際の位置は七間門付近)

-

岡崎城二の丸御殿の井戸
この井戸は江戸時代の石組井戸で、二の丸御殿の絵図には建物の北東側に2基の井戸が表示されており、そのどちらかと考えられている。

-

松尾芭蕉

     −木のもとに汁も鱠も左久良哉−
                             松尾芭蕉  

-

     元禄三年三月二日伊賀の小川風麦亭において、
     風麦、土芳たちと歌仙を開いた時の八吟四十句の発句である。

徳川家康

徳川家康は岡崎城内で生まれ、幼少の頃は人質として苦難の道を歩み、自立した後は全国統一を目指し、転戦を続け、慶長5年(1600)天下分目の関ヶ原の合戦大勝して、天下をおさめるに至った。
以後、持前の才能を生かし、全国統一の念願を叶えると共に、徳川幕政300年の基盤をも作り元和2年4月17日、75歳でこの世を去った。

-

-

岡崎城

岡崎城の起源は15世紀前半まで遡る。明大寺の地に西郷頼嗣によって築城されたのがそのはじまりである。その後、享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の地に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになった。

-

-

天文11年(1542)12月26日、徳川家康は岡崎城内で誕生し、6歳で織田信秀(織田信長の父)、8歳で今川義元の人質となり少年期を他国で過ごしたが、永禄3年(1560)桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めた。

-

-

元亀元年(1570)家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。天正7年(1579)信康が自刀したあとは、重臣石川数正、ついで本多重次を城代とした。
天正18年(1590)に家康が豊臣秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主になるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名をここを守らせた。

-

-

江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏、本多氏と家格の高い譜代大名が城主となった。石高こそ5万石前後と少なかったが、大名は岡崎城主になることを誇りにしたと伝えられる。

-

明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不要とされた城郭の大部分は明治6〜7年にかけて取り壊され、堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりとなった。

産湯の井戸

天文11年(1542)12月26日、徳川家康は岡崎城二の丸で生まれた。

-

この井戸の水を汲み、産湯に使用した。

-

しかみ像(徳川家康)

世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい自画像です。

-

元亀三年(1572)十月三日、27000の大軍を率いて甲府を出発した武田信玄は遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、十二月には徳川家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。
命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。自戒の像である「しかみ像は、やがて戦乱の世を統一し世界にかん冠たる平和国家を創り上げる礎にんったと云われる。

-

-

八丁蔵通り

八丁味噌(愛知県岡崎)
大豆そのものを麴化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、岡崎を代表する名産である。

-

岡崎城から八丁(約870メートル)離れていたことからその名がついた八丁村(現在の八帖町)は岡崎の名物、八丁味噌の生産地。昔と変わらず現在でも、2軒の蔵元が八丁味噌を造っており、見事な蔵屋敷が並ぶ狭い路地には昔の風情が残っています。

-

-

矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも舟運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造によくて、また、気候及び風土にも適していると云われる。
江戸時代以降、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺だけでなく江戸にも多く積み出され、現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けている。

-

「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば特よし、焼いて又よし」といわれる八丁味噌は、三河武士・農民・町人たちの常食・兵食として親しまれ一日も欠くことのできない食品でありました。また、天正十八年(1590)、徳川家康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い三河木綿の運搬との相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。
それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という吉田松陰の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰うも」という斎藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来、岡崎城下の名産として称賛されてきました。

-

-

室井滋さん
                                             
-
                                  NHKの朝の連続ドラマ、 「純情きらり」が八丁味噌の蔵元が舞台となり、 八丁蔵通りには、ヒロイン有森桜子役を演じた宮崎あおいさんの手形の碑があります。

                                    -

円通橋

この石橋は「円通橋」と称して、池を「皓月池」と云い長さ約40メートル、幅約6メートル、橋脚、敷石板、欄干など全て花崗岩の切石を用いている。

-

橋脚によって作られた二つのアーチが池水に映る姿は、あたかも眼鏡のようにみえうところから、通称「めがね橋」とも云われる。
安政3年(1856)12月に竣工し、当時は「奇巧ををつくした石橋」として、「花洛名勝図絵」にも紹介される。

-

東陽坊

建仁寺方丈日本庭園

-

-

-

東陽坊

-

-

利休高弟の一人、真如堂長盛の好みといわれ、豊臣秀吉の北野大茶会にて紙屋川の土手に建てられた副席と伝えられる。手軽い屋根の構成が魅力ある草庵茶屋の外観を形づくっている。
内部は二帖台目の茶席一帖の合の間、二帖台目向板の控室、板の間の水屋からなる二帖台目席の最も優れた模範的な形といわれている。
茶室南側には豊太閤遺愛の鳥帽子石が据えられている。

-

-

建仁寺(双龍図)

法堂

−

双龍図

-

この天井画「双龍図」は日本画家小泉淳作氏によって描かれ、縦11.4メートル横15.7メートルであり、麻紙と呼ばれる和紙に中国明代で最上の墨房といわれる「程君房」の墨を使用して描かれている。

-


建仁寺(襖絵)



-

海北友松によって桃山時代に描かれた方丈襖絵「雲龍図」

-

山水図襖

-

花鳥図襖

-

建仁寺

勅使門(重要文化財)
銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝え、柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれ、元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものと伝えられている。

-

三門(望闕楼)
大正十二年、静岡県浜名郡雄踏町山崎の安寧寺から移建したもの、空門・無相門・無作門の三解脱門、「御所を望む楼閣という意味で望闕楼と名付けられた。

-

浴室
禅堂・食堂とともに三黙堂の一つとして定められ重要な修行の場でもあった。

-

つくるよろこび(六原校)

六原小学校の前身である下京第28番組小学校は、明治二年九月十一日、区内門脇町において産声を上げた。明治五年七月、町組改編により下京第二十一区小学校と改名されたのを機に現在の地に移転する。

-

この地は、近代、清水焼の生産地として多くの優れた陶の巧みを輩出してきた。この地域性を享受し、六原校は造形教育の先進校として、度々「つくるよろこび」を全国発信する。
平成23年3月、近在の学校との統合をはたし、開校以来141年の輝かしい歴史に幕を閉じた。

-

日本一歴史のある飴屋

みなとや(日本一歴史のある飴屋)

-

〈由来〉
慶長4年、京の江村氏 妻を葬りし後 数日を経て土中に幼時の泣き声あり、掘り返し見れば亡くなりし妻の産みたる児にてあり、当時夜な夜な飴を買う婦人ありて、子掘り出されたる後は来らざるなり、此の児八歳にて僧となり高名な僧になる。寛門六年三月十五日六十八歳にて遷化し給う。
されば此の家の飴を誰いうとなく幽霊子育ての飴と唱え盛んに売り、果ては薬飴とまでいわるるに至る。洵に教育の上に、衛生の上に此の家の飴ほど良き料は外になしと今に及んで京の名物の名高き品とひろめられたるなり。

大仏殿石垣

「方広寺」という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には現れず当時はただ「大仏」とのみ呼ばれていた。
-

現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣、

-

方広寺鐘銘

当時の方広寺敷地は広大なもので、妙法院や現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、三十三間堂南に遺る太閤塀や南大門(秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。

-

-

高さ4.2メートルの大きな梵鐘の銘文の一部に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていたのが家康の怒りに触れ、その後の方広寺と豊臣家の数奇な運命が始まるのはあまりにも有名な歴史の出来事です。「国家安康」「君臣豊楽」を「家康の名を引き裂いて呪詛するもの」 といいがかりをつけたされる。

-

この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19メートル)の大きさであったという。また釘などは刀狩で没収した武器の再利用されたものも使われ、造営期間短縮のため、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造「漆膠」で造られた(『太閤記』)。この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられる。

梁塵秘抄(後白河法皇)

     観音誓ひし廣ければ普き門より出てたまい
          三十三身に現じてぞ十九の品にそ法は説く
                                       後白河法皇 「梁塵秘抄」より

-

三十三間堂「通し矢」射場

三十三間堂の堂内は撮影禁止のため写真はありません。

-

この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。

-

-

江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121メートル)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである。「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。

-

西縁の南端から北端へ、一昼夜24時間、矢を射つづけるという「大矢数」は身命を賭けた凄絶な競技で、江戸時代を通じて約800人がこれに望み、時々のおもいをのせて放たれた矢数も延べ百万本に達すると伝えられ、毎年正月には、この古儀に因む弓道大会が行われ、全国から約2000人が参加して賑わいをみせます。

-

三十三間堂庭園

「京都みやこびと1dayチケット」を購入して地下鉄御堂筋線淀屋橋から京阪電車で京都東山へ、七条駅で降りて三十三間堂に向かいます。

鴨川に架かる七条大橋

-

-

日本庭園
開門まもないというのに多くの外国人観光客が訪れていました。

-

-

-

南大門と太閤塀

南大門は三間一戸の八脚門で、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に造立した大仏殿方広寺(現国立博物館一帯)の南門として築いたと伝えられています。

-

それに続く築地塀は高さ5.3メートル長さ92メートルの堂々たる建造物で、瓦に太閤桐の文様を用いることから「太閤塀」と通称され、ともに桃山気風にあふれた遺構です。

-

後白河上皇院政庁址碑

法住寺殿は、保元3年(1158)8月、その皇子・二条天皇に譲位して上皇となった後白河院が約30年にわたり院政(上皇が天皇に代わって政権運営をする特異な政治形態)を行った政庁です。
上皇になると天皇の住まう御所とは別の所に専用の「院御所」を造営するのが通例で、先例の白河・鳥羽の両帝に続き、その度に大規模な土木工事が行われました。後白河院は上位直後に御所の造営に着手、東山の麓から西は鴨川河岸まで、南北は八条坊門小路から六条大路に及ぶ広大な地域で、その名を取り「法住寺殿」と名付けたのでした。

-

構内は政治的な施設の「北殿」と常の御所と呼ぶ住居に三十三間堂をはじめとする宗教的堂塔が集中した「南殿」に別れ、東山を背にする丘陵の地中から湧き出たような大建築が甍を並べたといいます。
永暦2年(1161)4月、月明かりの夜に上皇はここに移り以後20年住まいとします。しかし、賑わいをみせた院の御所も、寿永2年(1183)11月、対立するようになった木曽義仲の夜襲にあい焼失しました。

京都国立博物館

京都国立博物館は、1897年(明治30年)5月に開館しました。
主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っており、平常展示のほかに特別展が年に2〜4回行われている

-

この煉瓦塀は構内の大きな煉瓦造りの陳列館や西側の正門とともに、片山東熊博士の設計により明治28年に完成したもので、いわゆる初期洋風建築の代表的な遺構である。
昭和44年3月、これらの建築物は、あわせて「旧帝国京都博物館」として「重要文化財」に指定されている。

-

国宝・重要文化財などの所蔵品のほとんどは、第二次大戦後に文化財保護委員会からの管理換えや、博物館の予算による購入、個人等からの寄贈によって館蔵品となったものである。京都博物館設立の主目的は、明治初期に近代化の波にさらされ、破損・遺失の危機に直面していた京都一帯の寺社の文化財を保護するということであった。こうした事情から、戦前では京都を中心とした社寺からの寄託品が陳列の中心だった。現在も他の所有者からの寄託品は収蔵品の約半分を占めており、国宝・重文の件数も寄託品のほうが遥かに多い。

「耳塚(鼻塚)」

この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(1592〜1598)にかかる遺跡である。

-

豊臣秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬けにして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。
「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と想われる。
豊臣秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として今に伝えている。

観光案内所

観光案内所は駅に設置されている場合が多い。初めて行く所は観光案内所で地図を貰ったり交通手段を聞くのが間違いない。
車で行っていた頃は、下調べが十分でなかった時は一泊の予定で行っても伊豆下田や鎌倉から日帰りを余儀なくされたこともあった。睡眠不足疑いなく危険極まりない。

-
記事検索
おきてがみ
blogramによるブログ分析
-
足あとを残せます。
後ほど訪問致します☆
Archives
  • ライブドアブログ