知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

水辺の文学碑(三)

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司馬遼太郎(裾野の水、三島一泊二日の記)

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この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある。むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。
その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のように そのすきまに多くの水脈をつくった。融けた雪は山体に滲み入り、水脈に入り、はるかに地下をながれて、溶岩台地の最後の緑辺である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである。

水辺の文学碑(二)

お知らせ
     昨日午後 突然「おきてがみ」に不具合が生じて開かなくなりました:。ブログパーツ内にはあ
     るのですがなぜかブログには表示されません。訪問することもできなくなりました。申し訳あり
     ません。


松尾芭蕉(野ざらし紀行)
       霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

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若山牧水(箱根と富士)

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宿はづれを清らかな川が流れ、其処の橋から富士がよく見えた。沼津の自分の家からだと その前山の愛鷹山が富士の半ばを隠してゐるが、三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、富士のみがおほらかに仰がるるのであった。克明に晴れた朝空に、まったく眩しいほどに その山の雪が輝いてゐた。

水辺の文学碑(一)

桜川(三島)沿いにある「水辺の文学碑」

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十返舎一九(東海道中膝栗毛)

日も暮れに近づき、入り相の鐘かすかに響き、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追ったて、とまりを急ぐ馬子唄のなまけたるは、布袋腹の淋しくなりたる故にやあらん。
このとき、ようやく三島の宿へつくと、両側よりよびたつる女の声々・・・・・・ 女「お泊まりなさいませ、お泊まりなさいませ」 弥次「エエ、ひっぱるな、ここを放したら 泊まるべい」 女「すんなら、サア、お泊まり」 弥次「あかんべい」 ・・・・・・喜多「いい加減に、此処へ泊まるか」 女「サア、お入りなさいませ、お湯をお召しなさいませ」 弥次「ドレ、お先に参ろう」・・・・・・と、はだかになりてかけ出す。 女「モシ、そこは雪隠(せっちん)でござります。こっちへ・・・・・・・」 弥次「ホイ、それは」と湯殿へゆく。

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正岡子規(旅の旅の旅)
       面白や どの橋からも 秋の不二

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たたり石

此の石は三嶋大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていました。
たたり(絡垜)は本来、糸のもつれを防ぐ具であり整理を意味する語である。

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後に往来頻繁になりこれを取り除こうとする度に災いがあったと言われ、絡垜が祟りに置き換えられる様になったと言われる。

若山牧水

若山牧水歌碑
          のずゑなる 三島のまちのあげ花火 
                  月夜のそらに 散りて 消ゆなり

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若山牧水は、九州宮崎県に生まれ、大正九年静岡県三島市の西隣の沼津市香貫に住み、三嶋大社の夏祭りの花火を見てこの歌を詠んだ。

白滝公園(三島)

本州で唯一、フィリピン海プレート上に位置する伊豆半島は、かつては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。この海底火山群は、プレートとともに北上し本州に衝突して半島になりました。約60万年前の出来事です。
伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んだ地形を持つ魅力的な半島が形作られています。

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およそ10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士山が誕生しました。約1万年前の噴火では愛鷹山と箱根に挟まれた谷を溶岩が流れ下り三島付近にまで到達しました。「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は静岡県三島市北部の大地を作り出しました。また亀裂や隙間の多い溶岩は地下水の通り道となって溶岩の末端付近に沢山の湧水をもたらしています。
湧水は多くのせせらぎを作り出しました。源辺衛川や桜川などの用水も湧水とともに暮らしてきた人々の知恵で沢山の工夫があります。

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白滝公園の中に、表面に亀裂が入った小さな高まりがあります。富士山から流れてきた溶岩が作った溶岩塚という地形です。また、楽寿園を初めとして三島駅周辺には沢山の溶岩塚があります。

藍染院跡の溶岩塚

静岡県三島駅南口を南に藍染坂を少し下った左に三島溶岩塚がある。

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静岡県三島溶岩は粘性の小さい玄武岩の溶岩で、富士山から約40キロ流下してきたものである。
溶岩塚とは、溶岩流の表面の部分が固まっても、内部はパイプ状になっており、末端付近の表面が押し上げられる作用により小丘となったものをいう。

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ここ愛染院跡にはこの繰り返しによって、溶岩の堆積がいっそう高まり、このように小高い溶岩塚が形成された。
この溶岩塚は三島溶岩流の末端であること、また、岩石や火山活動の研究に貴重であることから指定して保存することになった。
藍染院は室町時代に三島神社別当職勤めたことがあるとも言われている旧市内随一の大寺院であると推定され、当時はその藍染院の庭園の一部ではないかといわれているが確証はない。

朝日文左衛門重章屋敷跡(御畳奉行)

朝日文左衛門重章は、学芸・文化が開花した元禄4年(1691)から享保2年(1717)までの26年間にわたり、日記『鸚鵡籠中記』を著したことでしられる。この地はその屋敷跡である。

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自らの生活や見聞したこと、世相などをそのまま記した『鸚鵡籠中記』は、元禄の人々の生活ぶりを知る貴重な文献で、神坂次郎著「元禄御畳奉行の日記」で紹介された。
朝日氏は、尾張徳川家に仕える100石取りの武士で、御畳奉行を拝命したことにより、役料40俵が支給された。文左衛門は非番の日には好きな魚取り、芝居などに熱を上げ、物見高く城下の内外を往来していたことが記録されている。享保3年に45歳で他界した朝日氏の跡には名古屋コーチンゆかりの海部氏(120石)が明治まで居住した。

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周辺の白壁・主税・橦木町界隈は、中級武士の町から明治以降は陶磁器産業や企業家の住まいが集積する街となった。現在は名古屋城から徳川園に至る歴史文化エリア「文化のみち」の中核として、名古屋市の「町並み保存地区」となり、文化の香を伝えている。

主税町長屋門

この門は江戸時代のもので、当時の位置に残る名古屋城下の武家屋敷の長屋門としては唯一のものです。江戸時代主税町付近には尾張藩の中級武士の屋敷がありました。屋敷の一部に門を設けた形式のものを長屋門と呼び、中級武士の屋敷門としては一般的でしたが石高・役職などで規模や形式が違っていました。

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この門に付している出格子付き番所(武者窓)は武家屋敷のみに設けることが許されたものです。門の築年・創建者は不明ですが江戸中期の城下図には平岩氏・幕末の城下図には室賀氏の名前があり、明治時代には第三師団長官舎、昭和22年頃から43年頃までは佐藤氏の屋敷門として使用されていましたが、その後、塀及び長屋の一部が撤去され現在の大きさになっています。

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文化のみち二葉館

愛知県名古屋市旧川上貞奴邸
この建物は、「日本の女優第1号」の川上貞奴が居住していた和洋折衷の建物を創建当時の姿に移築復元したものです。

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文化のみちの拠点施設として、文化のみちの情報発信をすると共に、川上貞奴関連の資料や郷土ゆかりの文学資料を展示しています。

川留め(大井川)

川留め文化
川越しや川留めにまつわる物語や数多くの俳句が残されている。物語では、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に弥次・喜多が川越賃を値切ったりしながらやっとの思いで越す話がある。
また、浄瑠璃「朝顔日記」では、恋する人を慕って流浪する盲目の娘深雪が大井川のほとりで、川留めの悲運に泣くが、其の時、奇跡的に目が治るくだりがあり、当時江戸で大評判となった。このことから大井川河畔の松を「朝顔の松」と名付けた。

大井川

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朝顔の松公園には、厳谷小波の「爪音は松に聞けとや春の風」や田中波月の「稗しごくとこぼれ太陽のふところに」の句碑がある。

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川越賃銭(大井川)

大井川を渡るには、川札(川越札・油紙ともいい、人足一人を雇うために札一枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡してから人足の肩や連台に乗り川を越した。
川札の値段は、毎朝、待川越が水の深さと川幅を測って定めた。水深は股通や乳通と呼び、股通の場合は川札1枚が四十八文であった。また、大井川の常水は帯通二尺五寸(約76僉砲如∀督婿夕楔淦(約136僉砲魃曚垢叛醂韻瓩砲覆辰拭

現在の大井川

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島田市博物館

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備考
   川越に必要な川札の枚数は、
   肩車 川越人足の肩に跨がって越した。川札は1枚、常水以上は手張(補助者)1人がつくので川
                     札が2枚必要だった。
   連台越し 平連台(並連台) 一人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札(川札の2枚分)の計
                     6枚
                     二人乗りの場合、担ぎ手6人で川札6枚と台札(川札の2枚分)の計
                     8枚
          半高欄連台(半手すり2本棒)
                     担ぎ手は、並連台と同じ4人で4枚と台札(川札4枚分)の計8枚
          中高欄連台(四方手すり2本棒)
                     担ぎ手10人、手張2人、台札(川札の24枚分)の計36枚
          大高欄連台(四方手すり4本棒)
                      担ぎ手16人、手張4人に台札(川札の32枚分)の計52枚

島田大堤

天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(1604〜1605)で決壊し、建設まもない島田宿の全てが押し流されました。

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その後、大堤完成までの確かな記録は不明、島田代官長谷川籐兵衛長勝の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて復興が本格化しました。この頃(正保元年(1644))迄には完全な大堤が完成していたと考えられます。
これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えています。大堤の規模は高さ二間(約3.6メートル)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ三千百五十間(5733メートル)と記録されている。

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松尾芭蕉句碑

     −馬方はしらじ時雨の大井川−   松尾芭蕉

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       −さみだれの空吹きおとせ大井川−   松尾芭蕉

川越制度と川会所

慶長六年(1601)、徳川家康は東海道に宿駅伝馬の制を定め街道整備を行ったが、大きな河川には橋がほとんど架けられず旅人は舟か徒歩で渡るほかなかった。
特に大井川は渡船も禁止され流れが急で不慣れな旅人が渡るには危険であったため川越しの手助けを職業とする人々が現れた。そして、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金などを統一する必要が生じ、元禄九年(1696)に幕府により代官所を通じて川越制度ができた。
その管理のために川庄屋の役職と業務の拠点となる川会所が置かれた。

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川会所には川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役職を置いてその日の水深を計り川越賃金を定め、大名から庶民まですべての通行人に対する渡渉の割り振りや諸荷物の輸送配分などの運営をはかる仕事が行われた。

〈川会所〉     −箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川−

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「川越制度は明治維新まで続けられていたが、明治三年に大井川の通船が許可されたことに伴い廃止された。」

札場

一日の川越しが終わった後、それぞれの番宿で「陸取り」が、川越人足たちから川札を集めて札場で現金に換えました。
なお、換金する際、当日の川越賃銭から二割が差し引かれ、川庄屋、年行事などの給金や川会所、その他の番宿の修繕費等に充てたり、島田宿運営の財源の一つとしても使われました。

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陸取り(おかとり)
川越人足のなかでも、実際の川越しには従事しない世話人的な立場の人です。「陸取り」は各番宿に数人いて、立会人から旅人を引き継いで越場まで案内し、旅人から川札を受け取って川越人足に渡しました。川札を現金に換え、人足たちに分配するのも陸取りの役目でした。

仲間の宿

荷縄屋
荷くずれした荷物をなおしたり、荷連台や馬に荷をくくりつける時に使用する縄を主として用立てたところです。
その他、草鞋や笠も売っていたといわれる。

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仲間の宿
主に年をとった川越人足たちの集まった宿です。ここは、人足たちの仕事上の意見交換や、各組同士の親睦の場として使用されたと伝えられる。

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権三わらじ
江戸時代、川越人足が川越しの際、履いたわらじです。川底は滑りやすく渡る際の履き物には最適とされましたが、旅人が履いた道中わらじと異なり、わらじの縁にひもを通す作りになっています。これは川を越える途中でわらじに小石や砂利などが挟まっても、手を使わずに取り除くための工夫です。

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三番宿

川越人足がふだん詰めていた待機所です。川越人足は10組に分けられ各組が一つの番宿に詰めました。各番宿には連台5丁が備えてあったと考えられています。
川越は各組が輪番制であたりましたが、当番ではない組の人足のそれぞれの番宿で50人ほど待機していました。

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「川越人足」
大井川の川越しに従事した人足たちで、15歳以上50歳以下の屈強な男が勤めました。川越人足の数は、江戸時代の元禄年間は150人程度でしたが、その後、増員され、江戸時代の終わりには約650人に達したと考えられています。
当時の大井川は水量も豊富で素人に務まる仕事ではありませんでした。川越人足になるためには12〜13歳頃から見習いとして、弁当や薪、炭を運ぶなど雑用から始めました。15歳以上になると川越しに従事しましたが、最初は川を渡ることもできず、何年も訓練を重ねた後に川庄屋から採用が伝えられました。

文政9年(1826)に大井川の川越しを経験したドイツの医師シーボルトは、急流を楽々と越す川越人足をその手記のなかで「半人半漁の男たち」と評しています。
金屋宿側にも川越人足がおり、互いに往きは客を運びますが、原則として帰りは自分たちだけで越えました。これは川越人足の共存を図ると共に、人命を預かる重要な仕事なので過重労働にならないようにとの配慮があったと考えられています。

マドンナリリー

マドンナリリー(ユリ科) 原産 ヨーロッパ
キリスト教では白いマドンナユリは純潔の象徴、19世紀に育てやすい日本のテッポウユリがヨーロッパに伝わりマドンナユリはほとんど栽培されなくなりました。
現在では世界的にも希少なユリとなりました。

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口取宿

大井川川越し人足の定年は45歳でしたが、なお、仕事を希望する者には口取宿に詰めさせました。
彼らは川越しする人や荷物を各組に公平に割り当てたり、現役へのアドバイスや番宿間の連絡、忙しい時の手助けをしました。

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上段の間(塚本家)

「上段の間」とは、奥の一室が座敷より一段(約20僉帽發なっていて、身分の高い人をお迎えする特別な部屋のことで、江戸時代、大名や公家などの宿泊する本陣には必ず備えられていました。

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塚本家に伝わる文書によると、九州肥前(長崎県)で古い家柄を持つ大名、大村藩(二万七千九百石余)によって建てられた家です。大村藩の参勤交代や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が、大井川を渡るときに、特別の便宜をはかり、川越しの準備や手続きを代行しました。
その間、大名を座敷の上段の間にお通しして接待し、休憩や昼食をとったことが伝えられています。なお、宿泊は、定められた宿場の宿泊施設以外では原則禁じられていましたので、大名は島田宿内の本陣に泊まりました。建物はその後、修理や改築の手が加わっていますが、基礎や上段の間には当時の様子が残されています。
塚本家歴代の主人の多くは「三太郎」を名乗り、家系の記録では、元禄まで遡りますが、川越し場が開設された当時からの旧家と推察されます。

升形跡(宿西入口)

宿場の出入り口には、「見付」と呼ばれた施設があり、もともとは城門の見張り施設のことを言いました。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道の直角や鉤の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った桝形の見付もありました。

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島田宿の西入口は、川沿いに土手で囲い、東側は正覚寺入口の小路で囲った、例の少ない升形の見付が設けられていました。
ここに宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所とされている。

参道石垣

この石垣は、悠久の昔から変わることなく流れつづける大井川から江戸時代に川越稼業の人足たちが日々の業を終えて帰る際に河原から石一つを持ち帰り蓄積して、この土手(堤)石垣を築いたものである。

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写真は静岡県島田市大井町にある大井神社の参道、

ジギタリス

ジギタリス(ゴマノハグサ科) 原産 ヨーロッパ
葉に含まれる成分は有毒ですが、強心成分を含んでいるので、昔から薬用に栽培されてきました。

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パッシフロラ・アラタ

岩石獅子(サボテン科)

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パッシフロラ・アラタ(トケイソウ科の常緑つる性植物) 南アメリカ原産
花の形が時計を思わせることから「時計草」の和名がある。 果実は10cm程度あり食用になる。

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