知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

夢の吊り橋

寸又峡周辺は、千頭山国有林なっていて、大井川の支流寸又川の中流に位置し日本の自然百選に選ばれるなど四季を通じて美しいところです。

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寸又峡には昔から多くの吊り橋があり、谷を渡る吊り橋は山仕事などの通行や集落を結ぶ道として利用されていました。

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夢の吊り橋は長さ90叩高さ8辰蚤膣崟遒叛K川の合流点の上流に位置しています。新緑・紅葉と四季折々の表情を映す湖面や寸又渓谷を見ることができます。
橋の中程でカップルが恋の成就を祈ると願いが叶えられるともいわれ、いつしかこの橋を『夢の吊り橋』と言うようになったと言い伝えられている。

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米つつじ

この米つつじは紀伊半島の十津川村の広葉樹の下に自生していたものを挿し木したもの。5年経過し一度咲いた米つつじです。名のとうり葉は米粒ぐらい、道の駅で買いました。

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シャクナゲ


科・属名 ツツジ科・ツツジ属
原産地 日本、中国、ヒマラヤ、ヨーロッパ
開花期 3〜6月
花の色 白、赤、ピンク、黄、赤、紫など
別名 石南花 西洋石楠花(セイヨウシャクナゲ) ロードデンドロン

石楠花は、ツツジ科ツツジ属の、寒さに強い常緑広葉樹の低木で、ヒマラヤなどの高山奥地という特殊な環境に自生しています。19世紀に中国からヨーロッパにもたらされ、品種改良が盛んに行われました。そうして生み出されたセイヨウシャクナゲが、明治時代に日本に輸入され、今では福島県や滋賀県の県花として親しまれています。

石楠花は「石南花」という漢字でも書かれることから、漢方に用いられる「石南(オオカナメモチ)」と混同されやすいのですが、同じものではありません。中国からシャクナゲが輸入された当時、同一のものと勘違いされてしまったため、「石南花」「石楠花」という漢字が当てられたとされています。

また、石楠花の名前の由来には、背丈が短いことから「尺なし」が変化して「尺なげ」と呼ばれるようになったという説もあります。

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石楠花は、野生状態で約300種類、園芸用としては約5,000種類の品種があるといわれています。赤、黄、ピンク、白など花色が豊富で、イギリスを中心に品種改良が進められてきました。今回は日本固有の品種を中心に、いくつかの石楠花の種類をご紹介します。

アズマシャクナゲ(東石楠花)
東日本に多く分布する品種で、4〜5cmの赤や濃い紅色、白色の花を咲かせます。つぼみから開花すると花色が少し薄くなる特徴があります。

ハクサンシャクナゲ(白山石楠花)
北海道から本州、四国などに自生する品種で、白や淡い紅色の花びらの内側に、薄い緑色の斑点があるのが特徴です。高山地域では約3mまで樹高が生長しますが、家庭では約50cmまでしか生長しません。

ツクシシャクナゲ
日本固有の品種で、本州の紀伊半島・四国・九州の暖地の深い林に自生しています。淡いピンクや紫色、白色の花びらが咲き、樹高が4mほどにまで生長します。

ホンシャクナゲ
日本固有の品種で、ツクシシャクナゲを基本種とする変種です。樹高が1.5〜7mまで生長して、約5cmの花びらを7枚ほど咲かせます。幹が高く太いわりに花が小さく葉っぱが大きいのが特徴です。花びらは、紅紫色や淡紅紫色、白色をしています。

ホソバシャクナゲ
静岡県と愛知県に分布する日本固有の品種で、山地の日当たりがよい岩場に自生しています。1〜2mほどの背丈で、薄いピンク色の花びらを5〜10個ほど咲かせ、約7〜18cmの花びらよりも長い葉っぱをつけます。

ヤクシマシャクナゲ
鹿児島県屋久島の1500m以上の高地にだけ自生する日本固有の品種です。約50〜150cmの背丈で、赤色やピンク、白色のフリル咲きのような花を咲かせます。

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伊勢志摩

思い出の伊勢志摩への旅行、一緒に行った母とリーヤ(名犬)はもういない。

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天開山泰運寺八角大釣鐘

鐘楼の八角大釣鐘は、高さ二、四二叩仝径一、三六叩―杜婿諭八七鼎燃凸未頬_攘舒豐づつ計八巻、総字数、実に六万九千三百三百八十四文字が刻まれている。

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上多気(かみたげ)

ここ上多気はその昔、大和と伊勢を結ぶ伊勢本街道の要所として栄えたところである。神宮を目指す多くの参宮道者が上古から往来し、特に伊勢信仰の盛んであった江戸時代には「一生一度は伊勢参りを」と何百万人もの人たちが、この地の土を踏み宿場として明治中期まで大変栄えた。
そして、夜ごと伊勢音頭の唄声が絶ゆる事無く聞かれたという。「すぐいせ道」と彫られた道標と常夜灯は神宮への道しるべであり、また村内安全と参宮道者の道中安全を祈願して建てられたものである。

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旧伊勢本街道沿いに位置する旧三木屋は、江戸の時代より多くの宿泊客で賑わい、宿場町多気を代表する旅籠であった。
この三木屋周辺には、『すぐいせみち・すぐはせみち』と刻まれた道標(嘉永6年)や常夜燈(元治2年)などが集中しており、旧三木屋とともに往時をよく偲ばせている。『美杉村・多気の歴史遺産調査』によっても、この旧三木屋とその周辺の重要性を指摘されたが、その当時の建物の痛みが激しくやむなく取り壊した。将来この調査時の資料をもとにして旧三木屋を再生する計画がある。

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向井去来

向井去来

慶安四年(1651)〜宝永元年(1704)江戸前期の俳人である。芭蕉門下十哲の一人といわれた。

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    つゞくりも はてなし坂や 五月雨

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果無集落(世界遺産)

果無峠登山口から急な石畳を登ったところに昔茶屋を営んでいたという数件の集落があります。来た道を振り返ると、十津川温泉方面の眺望が広がります。

柳本橋 (長さ90叩々發毅隠悪叩望辺路(熊野古道)

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果無峠を経て、

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北川橋灯籠

この北川橋は江戸時代、南たもとに高札場があって板橋でした。廻船の船着場にも近く、この一帯は熊野古道の交通の要所でした。
また、昭和40年代初めまで隣町の海山町(現 紀北町)を結ぶ乗合バスの停留場があり、尾鷲市の玄関口としてにぎわいました。
北川橋の四隅の親柱の上には電気の『灯籠』があり、町民や旅人に親しまれてきましたが、長い年月と津波などの被害で昭和初期に消失しました。平成20年、足元を照らす「あかり」の役割と「尾鷲の玄関口」「熊野街道・中井町通りの象徴」として、その歴史を後世に受け継いでもらいたいと復活しました。

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馬越の津波供養塔

江戸時代・宝永四年(1707)十月四日に発生した『宝永大地震津波』は尾鷲浦にも大きな被害をもたらした
この『経塚・三界万霊』塔は、その大津波で流死した犠牲者の七回忌・正徳三年(1713)十月四日に供養建立したものである。

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碑文には、溺死者千有余人とあるが宝永七年(1710)幕府巡見使への報告資料は五百三十余人となっている。

野口雨情の尾鷲小唄

   鰹は港に
     杉檜は山に
   紀伊の尾鷲は
     よいところ
           雨情
                    (11月9日から11日まで三重県に行きます。) 

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石畳道と安兵衛地蔵

馬越峠の石畳がいつ頃、敷設されたは不明である。遅くとも江戸時代、紀州藩の街道整備に伴って敷設されたことは間違いない。
全国有数の多雨地帯である尾鷲地方の熊野古道・石畳は大雨による路面の流出や崩壊を防ぎ、夏草やシダ類などの繁茂を押さえて道筋を確保するためであった。この付近の石畳は、特に往時の面影を留め、山水を谷側に逃がす排水溝『洗い越し』など、工法に苦心の跡がみられることから、昭和59年、尾鷲市有形文化財(建造物)に指定された。

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レンガ造りの御堂の地蔵尊は御堂を改築された畦地安兵衛氏にちなみ『安兵衛地蔵』(桜地蔵・水飲み地蔵)と呼んでいる。
その昔、旅人の安全を願って奉納されたと伝えられ、改築前は『石墨のほこら』であった。子供の夜泣きに霊験あらたかであるところから『夜泣き地蔵』と呼ばれて参拝者が多かった。

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馬越坂と石畳道と夜泣き寺蔵

馬越峠
馬越坂は、くまの道と呼ばれた熊野街道の一部で、古代からの熊野三山信仰に伴って開かれ、その後大正初期に旧国道が整備されるまで、当地方の幹線道路であった。
麓から峠に至る約2劼里なりの部分が敷石で舗装され現在もよく往時の面影を残している。

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石積みの祠で、明治までは旅人の無事を祈る石地蔵があったといわれている。やがて地区の人々が子供の夜泣き封じを祈って「夜泣き地蔵」と呼ぶようになり、今も新しい哺乳瓶が備えられている。

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馬越峠の茶屋跡

ここは海山町と尾鷲市の境、馬越峠(標高325叩砲任△襦その開設は定かではないが、この平地の所に『馬越茶屋(間越茶屋)』があった。
茶屋の主・世古平兵衛がこの峠におまつりした岩船地蔵尊には、享保八年(1723)の銘があり、開業年は更に遡るという。茶屋をたたむ明治中頃まで多くの巡礼や旅人をもてなした。

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江戸時代の旅人の記録・道中日記に『茶屋にて餅を売る。左の峰に天狗岩とて大石あり』『馬越坂上下一里、道へ石を敷き候坂なり。上に茶屋あり。おわし町見える』など茶屋のことが記されている。
茶屋跡からは、西国第一の難所といわれた熊野古道・八鬼山(672叩砲よく見える。

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馬越坂の一里塚

江戸時代、全国の主な街道には距離を示す目印として、一里(約4辧頬茲飽賣つ佑設けられていた。
馬越坂の一里塚は、石畳道の両側にあり、その昔は西側に松、東側に桜が植えられ、峠越えで疲れた旅人たちの憩いの場であったことが想像される。
町内には、他に小笠原(船津)・上里・馬瀬に、それぞれ一里塚があったが現在は残っていない。

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明神池

【入る谷無し 出る沢無し なのに決して涸れず】(奈良県下北山村)

ひとりでに水位が上昇することがある。
周囲を小高い峰に囲まれた「明神池」は、注ぎ込む谷も出てゆく川もない。
しかし常に満々と水をたたえ、どんな日照りのときでも、池が干上がったことは一度も無いという。      
   (浅瀬では水が澄みきっているのがわかる)

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湯ノ口温泉

トロッコに乗って行く温泉、2012年8月当時。

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藤堂高虎公

弘治二年(1556)、近江国犬上郡藤堂村(のち在土村、現滋賀県甲良町)に生まれる。15歳の時、浅井氏に仕え、姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦し、天正4年(1576)21歳で長浜城主木下秀長(豊臣秀長)に300石で抱えられ、天正13年(1585)には紀州粉川(和歌山県粉川町)ではじめて一万石の大名となった。

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その後、豊臣秀吉の下で伊予宇和島七万石となり、二度の朝鮮出兵にも参加した。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ヶ原の戦いの時には家康に味方して勝利をおさめ、伊予今治二十万石の大名となった。
慶長13年((1608)、いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に二十二万四千石で移され、大坂の役の後に加増され三十二万三千余石の大大名なった。

入徳門

文政三年(1820)、第10代藩主藤堂睹次覆燭さわ)は藩士やその子弟を教育する為の藩校として有造館を創設した。その中心である講堂の正門がこの門である。
明治4年、有造館は廃校となったが、その後に創設された小学校第1校、師範学校、津中学校、三重女学校兼付属幼稚園、入徳幼稚園の正門として使われた。

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昭和20年の戦災時には奇跡的に類焼は免れた。戦後は当地にあった県立図書館の正門となるも昭和42年の同館移築によりこの門のみ残された。この間、入徳門は何回も場所を移り、昭和46年現在地に建てられたが老朽化が激しくなり保存修理工事を実施した。

紀伊半島縦断

緊急事態宣言が解除されましたので紀伊半島を縦断します。期間は10月12日から14日迄とします。
この間は訪問が出来ませんが宜しくお願い致します。

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津城跡

津城は織田信長の弟の信包によって築城された。天正八年(1580)に五層の天守閣が完成し、それまで柳山あたりにあった町屋が移されて城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受け、津の町は戦火にあい荒廃した。慶長十三年(1608)に藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、本丸の北側を広げて石垣を高くして、両隅に櫓を新築したり内堀・外堀とも整備したりするなど大改修を加えた。そして城を中心に北・西・南に武家屋敷を、東には町屋を置き、町外れを通っていた伊勢街道を城下町に引き入れ町の発展に努めた。

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また、城下町の東の隅に堀川を掘り、船を入れて商業発展に利用するとともに、城下の外側の守りとした。また、堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合の防御の最前線とした。西側の武家屋敷の西一帯は湿田で、ここに町屋を建てることを禁止し、万一の場合と火災に備えた。

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【本丸】
石垣が切れたところには埋門と呼ばれる門があった。周囲には丑寅三重櫓をはじめ5つの櫓があって多門櫓と呼ばれる渡り廊下のようなようなものでつながれていた。

太鼓門

専修寺の東辺に位置し江戸時代の寛文年間(1661〜73)のいと姫の輿入れの際に津藩から寄進されたといわれ、創建時の一層の櫓を載せた形式から文久年間(1861〜64)の整備で三層となり、明治期に全解体修理が行われました。
この門は最上階に直径1団の大太鼓が吊り下げられていて法要があるときや町の人々に時を知らせていました。

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専修寺山門

御影堂の正面にあり、専修寺の総門にあたる。すぐ前には道をへだてて石畳が伸び、その途中にある石橋や釘貫門、左右にある玉保院、知恵光院、さらには古い町並みと一体になって、本山の門前にふさわしい雰囲気をつくっている。

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なつかしの映画ロケ地

「かごや判官」
【監督】冬島泰三 (昭和10年松竹)
【出演】林長二郎(長谷川一夫)高田浩吉
【撮影場所】太鼓門周辺・寺町通り
 駕籠屋の権三と助十は、米屋の隠居が百両の金を奪われた上に殺されるという事件の下手人らしき人物を目撃します。しかし奉行所に届けをせぬ間に無実の男が捕らえられてしまい・・・小市民の浅知恵と大岡越前守の名推理が落語の世界で繰り広げられる戦前のコミカル劇。

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映画ロケ地

「江戸の朝霧」
【監督】池田富保(昭和17年大映)
【出演】市川右太衛門・羅門光三郎・高山廣子
【撮影場所】寺町通り・常磐橋・毛無川周辺
ー幼くして学才に秀でた麟太(後の勝海舟)を貧しくも誇り高く育てる吾子一筋な父性愛を描いた作品。ー

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