知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

小倉百人一首第十一番

     わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
               人には告げよ あまのつり舟
                                    参議篁   

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−海原はるかに多くの島々を目指して私を乗せた舟は漕ぎ出していったと、都にいる私の親しい人に告げておくれ。そこにいる漁師の釣舟よ。−

第35回全国都道府県対抗女子駅伝

雪が降りしきる中で行われた全国都道府県対抗女子駅伝は9区で襷を繋いだ時点で1位が京都、2位が28秒差で岡山そして3位が千葉だった。
岡山は28秒差を2秒差まで追い上げたが結果は京都が2時間17分45秒で優勝した。2位が岡山2時間17分47秒、3位は千葉2時間18分24だった。

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原子力発電

原子力発電は、ウランやプルトニウムなどの核分裂反応を利用します。原爆が利用した反応と同じものですが、この反応を利用すれば、核分裂生成物と呼ばれる死の灰が生じます。また、プルトニウムは天然には存在しないため、人工的につくり出す必要があります。天然に存在するウランも核分裂を起こす成分(U-235)は全体の0.7%しか存在しません。そのため、たいへん面倒でかつ厖大なエネルギーが必要な「濃縮」と呼ばれる作業をしなければなりません。
原爆では核分裂反応を瞬間的に起こせますが、原子力発電では反応を制御しながら、持続的に起こすよう工夫されています。そして生じる熱で蒸気を発生させてタービンを回し、電気をを起こします。核分裂反応を利用する以外、その熱効率は33%しかありません。

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放射線の人体への影響はシーベルト(Sv)という単位で表します。1Sv以上の被爆で嘔吐などの症状が現れ、3Sv以上では半数が死亡、7Sv以上ではほぼ全員が死亡するといわれています。1Sv以下の被爆ではこのような急性放射線障害は現れませんが、10年以上経ってから被曝線量に比例してガンなどを発症します。1Svで10人に1人が将来発症する確率で、これを晩発性放射線障害といいます。
原発では、事故がなくとも、そこに働く人々が相当量の放射線の影響を常に受けています。被爆労働者の問題は深刻で、同時に、周辺住民への影響も見過ごすことはできません。
今後、廃炉を決めている国はドイツ・スイス・台湾、増炉を計画している国は中国・インド・韓国がある。

沼津城大手町跡

この地域は沼津城内で本丸は中央公園付近にありました。明治5年城が解体されて、この地は荒れ地となったが同22年東海道本線が開通し沼津駅前の道路に沿って町並みができました。
町名も最初は集成町だったがその後に追手町となり、昭和初期に大手町と改称されました。
明治末頃、駅前広場から南方を写したもの

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ゝ貘膽蠶 旧上町 5貪緩つ さ貉伊膓仰 サ貔邀把

沼津城本丸跡

三枚橋城と沼津城の本丸は沼津中央公園に位置していました。三枚橋城は、天正7年(1579)武田信玄の子勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城したものといわれ、関ヶ原合戦後の慶長6年((1601)には大久保治右衛門忠佐が城主となりました。
同18年、忠佐の死後世継ぎがなかったため大久保家は断絶となり、翌19年、三枚橋城は廃城となりました。

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以後160余年の間当地に城はありませんでしたが、安永6年(1777)、後に老中となる水野忠友が沼津に城地を与えられ築城した。この沼津城は三枚橋城の北半分を利用して造られましたが、規模は三枚橋城と比べ小さなものでした。
慶応4年((1868)水野氏の菊間(現 千葉県市原市)転封の後、城の建物は沼津兵学校の施設として使われたが明治4年兵学校廃止後払い下げられ姿を消しました。

bloglam

bloglam 正常に戻りました。

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蛇松緑道

明治20年、東海道本線建設の資材運搬のために狩野川河口右岸にあった蛇松と沼津停車場設置場所とを結ぶ貨物線が施設されました。

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この貨物線は終点の狩野川の河口辺りに生えていたという蛇松にちなんで「蛇松線」と名付けられました。そしてこの蛇松線は明治21年〜昭和49年まで、主に石油、木材、魚などを運ぶ貨物線として活躍してきました。
ところが貨物輸送が列車からトラックに移るにつれてこの路線も車社会の台頭により、昭和49年に廃線となりました。沼津の発展に貢献した蛇松線は昭和57年に「蛇松緑道」として生まれ変わりました。

若山牧水旧居跡

歌人若山牧水が千本松原の景観に強く心ひかれ、沼津に移住してきたのは、大正9年34歳の夏であった。
大正14年、ここに500坪の土地を求めて居宅を新築し沼津永住の念願を果たした。

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建物は木造二階建て79坪で全11室あり、牧水が夢に描いていたとおりのものであった。牧水は、千本松原を愛したように、この居宅を非常に愛していたがこの家にはわずか3年暮らしただけで、昭和3年の秋、43年の短い生涯をこの地に閉じている。牧水の建てた家は戦災で焼失した。

井上靖文学碑

井上靖は、「私が小説を書くようになったのは、沼津の町のお陰である。人生というものがどんなものか、生とは、死とは、文学とは、−そうしたことに関する最初の関心を、私はこの町とこの町の友達教わったのである」と述べ、中学時代に、文学少年と香貫山を歩き廻ったり、千本浜で泳いだりして過ごしたすばらしい青春の日々に思いを寄せ、井上文学の原点が沼津中学時代にあったと述懐しています。

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この文学碑は昭和38年沼津中学卒業生が中心となって建立されました。御影石の台座には井上靖の代表的作品名が刻まれています。

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blogram

blogramの訪問者欄が正常に表示されなくなりました。
暫くの間、外して様子を見るこことします。

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この子のかわいさ


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   この子のかわいさ(沼津地方の子守歌)

        坊やはよい子だ ねんねしな
        この子のかわいさ 限りなさ
        天にのぼれば 星の数
        七里ヶ浜では砂の数
        山では木の数 萱の数
        沼津へ下れば千本松
        千本松原小松原
        松葉の数より まだかわい
        ねんねんころりよ おころりよ

若山牧水歌碑

       幾山河 こえさりゆかば 寂しさの
               はてなむ国ぞ けふも旅ゆく   牧水

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歌人若山牧水は、明治18年宮崎県に生まれ、旧制延岡中学時代から短歌に親しみ早稲田大学在学中に中国路を旅し、この「幾山河」の歌を作った。24歳のときに出版した歌集「別離」が歌壇に認められ一躍世に出た牧水は大正9年夏一家を挙げて沼津に移住した。
その後、千本松原の景観に魅せられ、この松原にほど近い地に新居を構えた。旅と自然に親しみ、酒をこよなく愛した牧水は調べの美しい多くの名歌を残し昭和3年43歳で永眠した。

知音の旅人

当ブログ「知音の旅人」は2007年1月1日から始めて本日で丸10年となりました。

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これまでの投稿数3182、

角田竹冷句碑

角田竹冷(本名真平)は、安政三年(1856)富士郡柚木村に生まれ、沼津で働きながら苦学し、やがて東京へ出て代言人(弁護士)となった。東京府会議員、衆議院議員、東京代言人組合長等多くの公職を歴任したのち、大正八年62歳で亡くなった。

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幼少の頃から俳諧を好み、明治28年、尾崎紅葉らと秋声会を結成、「秋の声」を刊行した。毎日新聞に俳句欄を設けたり、読売新聞の政治面に俳句を挿入したりして評判となった。
また、明治20年6月、日本橋の浜町河岸で起こった箱屋殺しで弁護を引き受けたが、この事件が後に歌舞伎の「月梅薫朧夜」として取り上げられ竹冷役を尾上菊五郎が演じて大きな話題となった。
この句碑は、
「時は弥生 瓢枕に 鼾かな 竹冷」と刻まれている。

若山牧水記念館

若山牧水記念館の周囲は沼津垣で囲まれています。沼津の風土に育まれた沼津垣は箱根竹で作られ美しい模様が特徴です。

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旅を愛し、自然を愛し、人を愛した若山牧水は、43年の人生の中で8794首にも及ぶ短歌を詠み、詩情溢れる紀行文や随筆を残しました。

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所在地  静岡県沼津市千本郷林1907-11

富士山

沼津港外港辺りから富士山を望む

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富士山は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山で、標高3776.12メートル日本最高峰の独立峰は、懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。

大型展望水門「びゅうお」

駿河湾は、伊豆半島をのせたフィリピン海プレートが本州の下に沈み込むことでできた、日本で最も深い湾です。この深い海ではさまざまな海の幸が得られる一方、プレートの沈み込みによって過去何度も大きな地震が繰り返されてきました。こうした地震にともなう津波から、狩野川河口の低地に広がる沼津のまちを守るために、この大型水門が造られました。

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高さ30メートルの展望回廊からは、駿河湾はもちろん、ゆるやかな弧を描く千本浜や、富士山や箱根などの火山、伊豆の山々など360°の眺望を楽しむことができます。晴れた日には遠く南アルプスの山々も見渡せます。

本居長世

本居長世は童謡という日本の文化財を人に先駆けて製作した先覚者である。大正9年秋、彼が野口雨情の作詞した「十五夜お月さん」に付けた曲は子供たちの間に親しかったわらべ歌の音階・旋律をもとにして作ったもので、それまでの文部省唱歌のみを歌っていた子供たちに本当の日本の子供の歌を教えた記念すべき作品であった。

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本居は静岡県沼津の地を愛し、毎夏家族と共に滞在して町の人と親しみ、作曲にいそしんだが、ここに掲げる西条八十作詞の「残り花火」は当時の夏の沼津の浜の風景を写して遺憾なく、本居の作曲はまた夏の沼津を慕い、懐かしむ子供の心情を表現しおおせて完璧の出来である。  〈金田一春彦〉

勝田香月と『出船』

名曲「出船」の作詞者 勝田香月(本名穂策)は明治32年3月静岡県沼津市本町に生まれた。その後、幼い時に、現在の富士宮市大宮町に移った。
香月の稚号は、師事した詩人 生田春月の『月』と沼津の香貫山の『香』から名づけられたという。『出船』は香月満18歳の時、石川啄木を慕い北国に憧れ、北海道から秋田へ廻り大館から十和田湖行く途中の大滝温泉で作られた。『出船』に描かれている哀愁は、港で日頃から出船を見てきたものでなければとらえられないものを感じさせる。香月は粉雪が舞う小樽港と秋田県能代港での見聞をヒントにしたと言うか、幼少時の沼津で見た出船の残像が底にあったのであろう。

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大正11年に出した第3詩集「心のほころび」の巻頭に掲げられ、同年懇意だった作曲家の杉山長谷夫が曲をつけ、声楽家藤原義江がレコードに吹き込み大ヒットした。当時の世相を反映した物悲しい曲想が大衆の心を捉え全国に流れた。これにより香月の作詞家としての評価は高まり、以後多くの歌曲を作詞している。

下津港

JR紀勢本線 下津駅

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下津港
紀伊国屋文左衛門出港の港

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当時江戸では毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」があり、この祭りでは、鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて地域の人に振舞う風習があったが、紀州から船が来ない事でミカンの価格は高騰していた。
紀州では安く、江戸では高い。これに目をつけたのが文左衛門は早速文左衛門は玉津島明神の神官で舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した。大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門はついに江戸へたどり着く事が出来て大金を得たという伝説がある。

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沼津御用邸(東附属邸庭園)

東附属邸は明治36年に皇孫殿下(昭和天皇)の御学問所として、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築して造られました。夏期には隣地の学習院遊泳場とともに、ご利用の機会も多かったようです。

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新たに設けられた茶室、
『駿河待庵』

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沼津御用邸(西附属邸)

沼津御用邸は、明治期から昭和中期まで利用されていた御用邸。1893年7月、大正天皇(当時は皇太子)の静養のため、静岡県駿東郡静浦村(現・沼津市)の島郷御料林内に造営された。1969年に廃止され、現在は沼津御用邸記念公園となっている。

西附属邸は明治38年昭和天皇の御用邸として設けられ大正11年現在の形となりました。

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明治時代の歴史的建造物は貴重な木造平屋建の和風建築です。

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家具備品も保存されており、和室の畳に絨毯を敷く和洋折衷方式がとられています。

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1945年、沼津大空襲で本邸を焼失し、1969年12月に廃止されて沼津市へ移管される。そして翌年1970年7月、残された東附属邸と西附属邸を中心として周囲の緑地と共に、沼津市が沼津御用邸記念公園として開設した。

ヒトツバタゴ

ヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃの木)
モクセイ科の落葉高木で葉はて托葉のない単葉で、長い葉柄があり対生する。緑色、楕円形、、長さ3〜7僂如⇔¬未砲漏貎Г量咾生える。
花は4月下旬から5月中旬に純白で円錐状の集散花序を小枝の先につける。果実は核果で熟すと黒くなる。
別名については、昔、上野に大きな木があったが名前が判らないので「ナンジャモンジャ」と呼んだことに由来すると伝えられる。

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日本の渚百選

牛臥山が「ひよっこりひょうたん島」そっくりに見えます。

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牛臥山

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日本の渚百選
牛臥・島郷・志下海岸
平成8年7月「海の記念日」制定にちなみ、全国から応募された渚の中から優秀な百箇所が選ばれたものです。

沼津垣

沼津垣は昔から沼津周辺で浜の潮風を防ぐために用いられてきた垣根で、景観的にも実用的にも優れたものです。
旧沼津御用邸でも多く用いられたことから一般的に知られるようになりました。

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沼津垣

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材料は箱根竹と呼ばれる細い篠竹を十数本ずつ束ねて網代編みにしています。この束を「手」といい、どの束にも別の二つの束を超えて編んでいるため、この編み方を「二手越し」と呼ばれています。
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