知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

津城跡

津城は、織田信長の弟信包によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきた時、長野氏の養子に入った。天正八年(1580)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から町屋や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。

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慶長十三年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で堀が「回」の字形に二重に巡っている輪郭式または井郭式といわれる形の城である。

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城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を堀り、東側の守りとしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し万一の場合に備えた。

東鉄門桝形(津城跡)

津城本丸の東側に位置する虎口で、外門の東黒門、内門の東鉄門からなる桝形であった。両門の間で通路は右に折れ、周囲には多門櫓を巡らせた厳重な構造であった。

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東黒門は上部を透かしとした門扉をもつ高麗門であり、東鉄門は鉄板張りの門扉をもつ櫓門であった。それぞれの門内に番所を設けて通行人を監視していた。

西嶋八兵衛

藤堂高虎に重用された西嶋八兵衛は、干ばつに苦しむ地域に出向き優れた土木技術と努力によって、全国の町づくりに多大な貢献をしました。

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「雲出井の開削」は、戸木の取水堰を作り分水して干ばつに悩む雲出本郷町・長常町・伊倉津町などの田を美田に改良しました。
又、讃岐高松などの灌漑用水事業にも貢献し、日本三大公園の栗林公園の整備は有名です。水の守護として、土木事業者、農業関係者、水商売の市民に崇めれてきました。

なつかしの映画ロケ地(一身田寺内町)

「江戸の朝霧」
監督     池田富保
出演     市川右太衛門・羅門光三郎・高山廣子
撮影場所  寺町通り・常盤橋・毛無川周辺

幼くして学才に秀でた麟太郎(後の勝海舟)を貧しくも誇り高く育てる吾子一筋な父性愛を描いた作品

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太鼓門(専修寺)

この門は、最上階に直径1メートルほどの大太鼓が吊り下げられていて、専修寺に法要があるとき、この太鼓が打ち鳴らされて法要の進行役を務めます。

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昔は、この太鼓で町の人々に時を知らしていました。その当時に使われた太鼓は今では皮が破れて使われていませんが、胴の中に享保14年(1728)に作ったとの墨書銘があります。

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専修寺唐門

如来堂の正面に建つ門で、文化6年(1809)に木挽きが始まり、文政10年(1820年)に地築き、天保15年(1844)に棟上げをしている。
屋根は檜皮葺で、正面と背面の軒に大きな唐破風があることから唐門と呼ばれる。控柱4本が腰長押から下で、斜め外に踏み出した形になっているのは注目さ れる。

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材料はすべて欅造りで、厳しく吟味された品位の高いものを入念に施工している。腰長押と飛貫との間、扉、その脇の小壁、欄間には勢いのある菊、ぼた んの透かし彫が彫られ、他の部分にも親子の獅子や力士の彫刻がされるなど、全体に華麗で複雑な構造をした門である。造営時に配られたと思われる木版刷りの 立面図が残っていて、それによると始めは檜皮葺と本瓦葺の2案が考えられていたらしい。

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専修寺山門

御影堂の正面にあり、専修寺の総門にあたる。すぐ前には道をへだてて石畳が伸び、その途中にある石橋や釘貫門、左右にある玉保院、智慧光院、さらには古い町並みと一体になっている。
二階建てで、間口20メートル、奥行き9メートル、高さ15.5メートルの門である。正面の柱間は5間で、そのうち中の3間に扉を付けて入口とし、挿肘木(さしひじき)という肘木が斗(ます)にのらず直接柱に挿し込まれる形になっている。

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全体の形式と組物の用い方は京都の東福寺山門(応永12年(1405)の建立・国宝)とよく似ており、裏側で三間分だけ屋根が張り出している点(裏向拝)は他に例をみない珍しい手法である。
瓦の刻銘その他の史料によると、元禄6年(1693)頃から取りかかり、宝永元年(1704)頃に完成したものと考えられる。
柱など部材の傷みや傾きが激しくなったため大規模な修理が行われた。

専修寺釘貫門

釘貫門とは、柱を立てて並べて横に貫を通しただけの簡単な門のことで、町の出入り口に設けた木戸のようなものを示すこともあります。

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現在は、この山門前の釘貫門だけが残りますが、宝暦年間(1751〜1763)の木版絵図には、他に三ヶ所の矢来(釘貫門)が描かれています。
この釘貫門は、道路を挟んで同型同大の東西二棟からなり、石橋と釘貫門の対向する親柱には、高欄が設けられていた痕跡が残っています。双方を繋ぐ構造や開閉の装置を持つものではありませんが、専修寺では釘貫門と称されています。

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釘貫門は、山内寺院と町屋を隔てる堀の北側に位置し、堀上に架けられた石橋と併せて聖俗の結界をなす装置となるもので、本来の形式を留める現存する貴重な例です。

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この石橋は、山内寺院と町屋を隔てる堀の上に架かる橋です。堀上に円弧状の橋板11枚を並べた石造りの反り橋で、橋の南側の橋詰めでは、高麗は親柱から水路に沿って折れ曲がりますが、東側では一部部材を欠き、その一部は近年新材となっています。
製作時期は、『高田史料』第3巻(松山忍明編)の宝暦10年(1760)編に、「三月八日、山門前石橋成る、初渡式」との記述があることから、その建立時期が明確です。

一身田寺内町の町並み

「一身田」(いっしんでん)は珍しい地名ですが、その由来には諸説あり、奈良・平安時代の制度で、政治上功績のあった貴族に対して特別にその身一代に限って与えられた田からきたとも、律令制度の「三世一身の法」で与えられた田からきたとも伝えられています。

人々がこの一身田に集落を形成し出したのは寺内町が生まれる前のことであり、それを示す最古の資料として、一御田神社(いちみたじんじゃ)の棟札に嘉吉3年(1443)という記録が残されており、そのころは農村集落であったと考えられています。

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一身田が大きく変わったのは、寛正5年(1464)、真宗高田派僧真慧が、東海北陸地方の布教活動の中心として、この地に無量寿院を建立してからで、この無量寿院が現在の専修寺の前身です。
その後、栃木県の高田にあった高田専修寺が戦火にみまわれて、僧真慧が一身田に移って来たことで、一身田が高田教団の中心となりました。

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一身田寺内町がいつごろ成立したのかは明らかではありませんが、天正20年(1592)の一御田神社の棟札に「寺内」という呼び方がみられることから、その頃にはすでに寺内町が成立していたものと考えられます。

16世紀の中頃までは、一身田寺内町は現在の区域の半分足らずの大きさでしたが、万治元年(1658)に津藩の2代藩主である藤堂高次の四女いと姫が専修寺の門主に輿入れするにあたり、当時の専修寺の西側の土地を寄進したことによって、現在の寺内町の形となりました。

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明治時代になり、宗教団体が境内と墓地以外の寺領を持ち統治することを禁じる法律が制定されたため、専修寺も多くの寺領を失いました。そして、明治7年(1874)には、赤門・黒門・桜門の三つの門が全て売りに出されるなど、寺内町も大きく変わっていきました。
しかし、今もなお、一身田寺内町では専修寺を始めとする多くの寺院や古い民家などのたたずまいが、往時の面影を残しています。

武野薬局(一身田寺内町)

一身田寺内町の桜門の際である場所で約200年以上前から薬屋を営んでいる老舗です。
店の部分は老朽化により平成17年に建替を行い、昔ながらの町並みに合った木造軸組伝統工法によって建築、床の間・建具・柱は前の物をできる限り使用している。
奥座敷は大正初期の建築である。

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一身田寺内町桜門跡

寺内町一身田の西端にあって、京都方面への出入り口になっていた門で、門の外に桜並木があったので桜門と呼ばれていた。他の二つの門と同じように明六つ(午前六時)に開門し暮六つに閉じられ一身田の治安を守っていました。

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一身田寺内町の環濠

一身田寺内町を特徴付けるものに環濠がある。各地の寺内町の環濠が埋められている現在、一部改修されているとはいえ、ほぼ完全に残っている所は一身田の他にはあまり例がない。

JR一身田駅(三重県津市東部)

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元禄十三年(1700)の古図によると環濠の規模は次のようになっている。

一、東 長百九拾九間半、堀幅貳間半、堀之外三尺之道、土居壱間
一、西 長貳百三十貳間半、堀幅(無記入)、土居三間、堀之外道幅壱間
一、北 長貳百四拾間、堀幅三間、土居三間、堀之外道四尺
一、南 長貳百六十五間半、川幅三間、土居幅三間、三尺之水通し有り、堤鋪三間

ここに記された濠の長さは、現在の環濠の規模と完全に一致する、ただ、濠幅はそに後の改修等でかなり狭くなっている。また、濠に沿って一間ないし三間の土居(堤)があったようであるが寛政四年(1792)の惣絵図では、専修寺境内の西側と北側で濠に面する部分だけに描かれている。この部分の土居は現在もその形跡を留めているが、他は早くから屋敷の中に取り込まれていったものと考えられる。

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綿業倶楽部

東洋紡績専務取締役・岡常夫の遺族から贈られた100万円と関係業界からの寄付50万円、合わせて150万円(現在の75億円に相当)を基に、1931年12月、日本綿業倶楽部の施設として建設された。

近代の日本を代表する施設として国際会議の場として数多く利用され、1932年3月には リットン卿を団長とする国際連盟日華紛争調査委員会メンバー(リットン調査団)が来館するなど、戦前の日本外交の舞台にもなっている。

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1945年3月の大阪大空襲で船場オフィス街は壊滅的な被害を受けたが、この建物は各部屋の窓にワイヤー入り耐火ガラスを使用していたために、窓ガラス1枚とカーテン1枚に被害を受けただけで殆ど無傷であった。

同年7月5日、大阪師団管区司令部はこれを徴用となし、倶楽部は休館のやむなきにいたって寺田ビルを事務所とした。日本敗戦後の同年10月11日、占領軍はこれを全館接収し、1952年5月23日返還するまで使用した。

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設計は渡辺節らによりなされ、外観はアメリカのオフィスビル風でさりげないが、クラブ建築らしく内部は充実しており、室毎に異なるスタイルで装飾されている。ジャコビアン様式(イギリスの初期ルネサンス風)と言われる2階談話室は全室中最も豪華な部屋で、映画やドラマの撮影などにもよく使われる。非財閥の民間の建物でありながら、内外装の細部に至るまでのデザインや最先端の設備の導入がなされるなど、「最高」を求めた造作になっている。
【館内見学】
倶楽部会員と同伴する場合は無料、一般は毎月第四土曜日第1部は11時から昼食付き2600円 第2部14時30分から500円 予約制となっている。

靱公園

1945年の大阪大空襲で一帯は焼け野原となった。

戦後、連合国軍最高司令官総司令部は南北幹線道路である四つ橋筋からあみだ池筋までの京町堀川と海部堀川に挟まれた細長い区域約3万坪を接収し、占領軍の常用飛行場として靱飛行場を置いた。
1952年の講和条約発効から2ヶ月後に飛行場敷地は大阪市へ返還され、戦災復興土地区画整理事業によって1955年に靱公園が開園した。また、同事業によって1959年になにわ筋が敷設され、公園を縦断するようになった。

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第一次大阪大空襲
1945年3月13日23時57分 〜14日3時25分の約3時間半にわたり行われ、B-29が274機襲来した。グアムからの第314航空団の43機が23時57分 〜14日1時にかけて大阪市上空に達した。
アメリカ軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2000メートルの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。
先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した38個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いてテニアンから第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。
さらにサイパンから第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区はアメリカ軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3987名の死者と678名の行方不明者が出た。

靱海産物市場跡(靱公園)

江戸時代、この地には、干物や塩魚、鰹節など生魚以外の海産物を売り買いする市場がありました。豊臣時代には、海産物の市場は一つで、今の北浜あたりにありましたが、江戸時代の初め、元和四年(1618)には生魚と乾物などを扱う市場に分かれて生魚市場が本町の辺りに移りました。

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元和八年(1622)には、乾物などを扱う市場も、ここ靱の地に移ってきました。寛永元年(1624)には、海部堀川という水路が開かれ、其の時に人工的につくられた永代浜が、荷あげ用の岸として使われるようになると取引の量も増えて市場も広がり、江戸時代を通して栄えました。

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小西家住宅

1903年、小西屋(後の小西儀助商店、現コニシ)の屋敷兼社屋として約3年間の工期を経て完成した。 南は道修町通、西は堺筋、北は伏見町通にそれぞれ面した約315坪の敷地に建設され、道修町通沿いに建つ主屋とその東側に建つ納屋、堺筋沿いには貸家、伏見町通沿いには土蔵と納屋、更に主屋の裏には湯殿が設けられた。

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主屋は、表通りに面して商いを行う店棟と、その奥にある住まいを中庭で結んだ表屋造と呼ばれるものである。完成当初は主屋の一部が三階建となっており、近代大阪の町屋の特徴である土蔵造、三階建、表屋造を備えていたという。

建築当初は堺筋沿いの歩道の辺りまであったが、1911年、堺筋の拡張工事に伴い堺筋に面した約四間分が道路用地として収用された。「軒切り」と呼ばれたこの道路拡張により、その大部分が道路用地となった貸家はそれを機会に撤去され、主屋も西側約3間分が削り取られた。これに伴い伏見町通との角地となった場所に新しく衣装蔵が建てられた。
また1923年に起こった関東大震災を期に、地震への備えとして三階部分が撤去されたことにより、ほぼ現在の外観となった。この時に撤去された三階部分への階段は現在も残されているという。
所在地 大阪市中央区道修町

旧木村家住宅

木村家は奈良県十津川村にあった農林業を営んだ家で幕末頃には村役を勤めました。建築年代は主屋は文政四年(1821)、納屋及び表門は十九世紀中頃です。木村家を初め奥吉野方面の家々は山深い渓谷の地で山の傾斜地にへばりつくように建てられていました。

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本建物は奈良県北部の民家と比べ、姿や間取りが大きく異なっています。北部の民家は一般に屋根が瓦及び草葺きで、室内には居室に土間が付き、内外の間仕切りに土壁を多用します。しかし、十津川地方やこの家では、屋根を杉皮で葺き、石を乗せ、妻側の端部に雨除けがつく姿で、間取りは三室の横一列型、土間と土壁がなく、すべて板張りとなっています。さらに土間にあたるところにカマドはなく、板敷きとなる等の造りが特徴です。
付属の納屋は屋内を牛小屋と便所に二分して、天井は背面部分上部を突きだしてツシ2階を広くした造りとなています。
この住宅によって奥吉野地方の当時の生活様式を思い起こすことが出来ると共に、主屋の建築当初の規模から増築を経て、さらに納屋・表門が建てられて屋敷構えが拡充してきた過程も併せ示す貴重な建物です。

旧前坊家住宅

旧前坊家住宅 (旧所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山二五七六)
この住宅は吉野山の門前町筋にあって金峯山寺仁王門と発心門(金鳥居)のほぼ中頃、大道を北面して屋敷を構え、代々吉野水分神社の神官を務めたと伝える家です。

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この建物の建築年代は主屋(切妻造一部二階建)廊下及び離座敷の建築年代を示す資料は明らかでありませんが、解体中の各種の部材調査から総合的に判断すれば、主屋の居室、表側の四室の柱が、経年的からみて十八世紀に遡るものとみられる以外、主要軸部材は十九世紀中頃であり、また転入材もあるところからみて弘化年間(一八四四〜七)頃に主屋の大修理・改造を行い順次、渡廊下及び離座敷を建てたものと考えられる。

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主屋は大道に北面して懸造(吉野建)で、離座敷は主屋後方に建て、この間を渡廊下で接続した逆コの字型の建物配置です。
移築前の屋根は母屋と離座敷の一部、庇の桟瓦葺き以外は波形鉄板葺きでしたが全て杉皮葺きに復原した他はおおむね移築前と同じです。

旧松井家住宅

この住宅は、元、奈良県宇陀市室生区上笠間にあった農家です。当家の口伝によれば、その昔、代官を務めた子孫と伝えられています。
この主屋の建築年代は解体中に発見された祈祷札から文政13年(1830)頃と考えられます。室生地区笠間は、当村山間を通る伊勢三街道の内、笠間越えと称する街道が、当地区中央部を東西に通っていました。
当主屋は、この街道を見降ろす丘陵の中腹に、南南東を正面に建てられていました。

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この主屋は、間口五間半、奥行四間の規模で、入母屋造りの藁葺きでふきおろした素朴な外観を呈しています。
間取りは向かって右半が土間、左半が居室4室です。土間部には表側の隅に馬屋(牛小屋)、この東側は風呂場が付設されています。さらに土間奥には板敷きのひろしき・カマド・流しを設けています。
居室の4室は表側2室、裏側2室で、表側の上手の部屋には床・仏壇・押し入れが付いています。また、吹き放しの縁が表裏につき、このうち、表側の西端に便所を設けています。尚、この建物の特色は、平面は間口方向に喰違う四間取りで、前座敷型三間取りから発達した間取りです。構造は表側の上屋筋に柱を立て、せがい風の小天井を造るが、背面の柱筋では差物・梁で受けて柱を抜き、居室と土間を広く取り込む構造法です。

旧岩本家住宅(宇陀 東山集落)

元、奈良県宇陀郡室生村黒岩にあって農林業を営んだ家で庄屋年寄りを務めたと伝えられています。建築年代は19世紀中頃です。

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室生村黒岩は、女人高野で有名な室生寺から東南方へ約5キロへだたり、胎ノ川の支流、黒岩川の中程で谷間の南斜面を利用した村落です。
また、畿内より伊勢に向かう伊勢街道が古くから地区を通っていました。岩本家はこの街道下にあって主屋は河岸段丘部を造成して建てられていました。

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この主屋は、間口7間、奥行き5間半、入母屋造りの茅葺きで葺きおろした素朴な外観を表しています。
向かって左手の土間には、表側隅に馬屋を設け、この奥側に「カマド」、流し、唐臼を備えて台所と作業場を兼ねた土間です。
右手の居室は六室ですが、表側を二分して、上手には前後に三室並び、下手には前側に六畳室が、後ろ側は半間土間に張り出して、長六畳二室が左右に並んだ間取りです。
この間取りは、三間取りに座敷三室を加えたもので、喰い違形の発展形式と考えられるほか、間仕切り箇所は開放的で、居室の表と右側に縁を付け、この外側で戸締まりするのは新しい形式です。
構造では表側をせがい造り、土間上を太い梁で半間間毎に架けるなど、この地方の特色をよく示しています。

旧八重川家住宅

旧八重川家は奈良県山辺郡で代々農業を営んでいたと伝えられている。当住宅の建築年代について確たる資料は欠くが建物の形式手法上からみて、19世紀初期の建築と考えられている。

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移築前の外観は寄棟造りで棟通りの瓦を葺き屋根は茅葺きで軒先まで葺きおろす素朴な外観を呈していました。
間取りは向かって右半が土間、左半は三室となっていましたが、解体時の調査によって当初は二室であったと判断されます。建物の復原は部材痕跡等によって建築当初の間取り、外観に復原されています。

旧萩原家住宅

この民家は桜井市下に所在していたが萩原家より寄贈を受け移築復原したものである。
萩原家は位牌木札によると元禄十六年(1703)宝永五年(1708)等の年号がみられ、その頃に建築されたと考えられます。
移築前の外観は草葺、切妻屋根の両端に桟瓦葺の落屋根をつけ周囲に庇を巡らしていた。

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平面の間取りは六間からなり、西側には懸造りの座敷と、北側には二階建ての離れ座敷が接続していたが、これらは後世に増改築されたことが明らかとなり建築当初の姿に復原した。
復原平面は下手三間を土間とし正面側に「うまや」背面側に「かまや」を設け居室部は正面側に「みせのま」「ざしき」背面側は「だいどころ」「なんど」の四間取りで「ざしき」には仏壇、とこ、脇床も設けている。

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この民家は葺降しの屋根、突止め溝の使用、土間、居室境の閉鎖等古式な手法を伝える貴重な遺構である。

旧赤土家離座敷

この建物は奈良県香芝市狐井に所在していた農家の離れ座敷であったが赤土家より寄贈を受け移築したものである。

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赤土家は下田村史によると、楠木氏の一族和田蔵人の子孫と伝えられている。この離座敷は八畳一間に「とこ」違い棚 出書院を付け、三方を縁で囲み、外観は入母屋造りの茅葺屋根で周囲の庇を本瓦葺としており、小規模でありながらまとまりのある建物である。
この離座敷の建築年代は十八世紀初期と考えられ、当初は香芝市狐井にあったものではなく他の地から移築したものと考えられている。

旧西川家土蔵

旧西川家土蔵  旧所在地 奈良県天理市二階堂北管田町166番地

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西川家は奈良・橿原間を結ぶ旧街道に面して建てられており、その昔「庄屋彦兵衛」と呼ばれこの地の庄屋を務めていました。西川家には元々、三棟の土蔵(米蔵・高蔵・北蔵)が建っていましたが、この土蔵は「高蔵」と呼ばれているもので食器・衣類等が収納されていました。

旧吉川家住宅

この民家は奈良県橿原市中町に所在していたが吉川家より寄贈を受け大和民族公園に移築復原したものである。
吉川家は元禄16年(1703)山之坊村の吉川家より分家したとの記録もあり、その頃に建築されたと考えられます。

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現在の屋根は当初建築された入母屋造り上屋を茅葺き下屋は四面とも茅葺きです。吉川家は国中(くんなか)の自作農家で喰違い四間取りを採用し民家の間取りの変遷を知る上で資料的価値の高い民家とされています。
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