知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

武野薬局(一身田寺内町)

一身田寺内町の桜門の際である場所で約200年以上前から薬屋を営んでいる老舗です。
店の部分は老朽化により平成17年に建替を行い、昔ながらの町並みに合った木造軸組伝統工法によって建築、床の間・建具・柱は前の物をできる限り使用している。
奥座敷は大正初期の建築である。

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一身田寺内町桜門跡

寺内町一身田の西端にあって、京都方面への出入り口になっていた門で、門の外に桜並木があったので桜門と呼ばれていた。他の二つの門と同じように明六つ(午前六時)に開門し暮六つに閉じられ一身田の治安を守っていました。

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一身田寺内町の環濠

一身田寺内町を特徴付けるものに環濠がある。各地の寺内町の環濠が埋められている現在、一部改修されているとはいえ、ほぼ完全に残っている所は一身田の他にはあまり例がない。

JR一身田駅(三重県津市東部)

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元禄十三年(1700)の古図によると環濠の規模は次のようになっている。

一、東 長百九拾九間半、堀幅貳間半、堀之外三尺之道、土居壱間
一、西 長貳百三十貳間半、堀幅(無記入)、土居三間、堀之外道幅壱間
一、北 長貳百四拾間、堀幅三間、土居三間、堀之外道四尺
一、南 長貳百六十五間半、川幅三間、土居幅三間、三尺之水通し有り、堤鋪三間

ここに記された濠の長さは、現在の環濠の規模と完全に一致する、ただ、濠幅はそに後の改修等でかなり狭くなっている。また、濠に沿って一間ないし三間の土居(堤)があったようであるが寛政四年(1792)の惣絵図では、専修寺境内の西側と北側で濠に面する部分だけに描かれている。この部分の土居は現在もその形跡を留めているが、他は早くから屋敷の中に取り込まれていったものと考えられる。

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綿業倶楽部

東洋紡績専務取締役・岡常夫の遺族から贈られた100万円と関係業界からの寄付50万円、合わせて150万円(現在の75億円に相当)を基に、1931年12月、日本綿業倶楽部の施設として建設された。

近代の日本を代表する施設として国際会議の場として数多く利用され、1932年3月には リットン卿を団長とする国際連盟日華紛争調査委員会メンバー(リットン調査団)が来館するなど、戦前の日本外交の舞台にもなっている。

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1945年3月の大阪大空襲で船場オフィス街は壊滅的な被害を受けたが、この建物は各部屋の窓にワイヤー入り耐火ガラスを使用していたために、窓ガラス1枚とカーテン1枚に被害を受けただけで殆ど無傷であった。

同年7月5日、大阪師団管区司令部はこれを徴用となし、倶楽部は休館のやむなきにいたって寺田ビルを事務所とした。日本敗戦後の同年10月11日、占領軍はこれを全館接収し、1952年5月23日返還するまで使用した。

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設計は渡辺節らによりなされ、外観はアメリカのオフィスビル風でさりげないが、クラブ建築らしく内部は充実しており、室毎に異なるスタイルで装飾されている。ジャコビアン様式(イギリスの初期ルネサンス風)と言われる2階談話室は全室中最も豪華な部屋で、映画やドラマの撮影などにもよく使われる。非財閥の民間の建物でありながら、内外装の細部に至るまでのデザインや最先端の設備の導入がなされるなど、「最高」を求めた造作になっている。
【館内見学】
倶楽部会員と同伴する場合は無料、一般は毎月第四土曜日第1部は11時から昼食付き2600円 第2部14時30分から500円 予約制となっている。

靱公園

1945年の大阪大空襲で一帯は焼け野原となった。

戦後、連合国軍最高司令官総司令部は南北幹線道路である四つ橋筋からあみだ池筋までの京町堀川と海部堀川に挟まれた細長い区域約3万坪を接収し、占領軍の常用飛行場として靱飛行場を置いた。
1952年の講和条約発効から2ヶ月後に飛行場敷地は大阪市へ返還され、戦災復興土地区画整理事業によって1955年に靱公園が開園した。また、同事業によって1959年になにわ筋が敷設され、公園を縦断するようになった。

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第一次大阪大空襲
1945年3月13日23時57分 〜14日3時25分の約3時間半にわたり行われ、B-29が274機襲来した。グアムからの第314航空団の43機が23時57分 〜14日1時にかけて大阪市上空に達した。
アメリカ軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2000メートルの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。
先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した38個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いてテニアンから第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。
さらにサイパンから第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区はアメリカ軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3987名の死者と678名の行方不明者が出た。

靱海産物市場跡(靱公園)

江戸時代、この地には、干物や塩魚、鰹節など生魚以外の海産物を売り買いする市場がありました。豊臣時代には、海産物の市場は一つで、今の北浜あたりにありましたが、江戸時代の初め、元和四年(1618)には生魚と乾物などを扱う市場に分かれて生魚市場が本町の辺りに移りました。

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元和八年(1622)には、乾物などを扱う市場も、ここ靱の地に移ってきました。寛永元年(1624)には、海部堀川という水路が開かれ、其の時に人工的につくられた永代浜が、荷あげ用の岸として使われるようになると取引の量も増えて市場も広がり、江戸時代を通して栄えました。

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小西家住宅

1903年、小西屋(後の小西儀助商店、現コニシ)の屋敷兼社屋として約3年間の工期を経て完成した。 南は道修町通、西は堺筋、北は伏見町通にそれぞれ面した約315坪の敷地に建設され、道修町通沿いに建つ主屋とその東側に建つ納屋、堺筋沿いには貸家、伏見町通沿いには土蔵と納屋、更に主屋の裏には湯殿が設けられた。

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主屋は、表通りに面して商いを行う店棟と、その奥にある住まいを中庭で結んだ表屋造と呼ばれるものである。完成当初は主屋の一部が三階建となっており、近代大阪の町屋の特徴である土蔵造、三階建、表屋造を備えていたという。

建築当初は堺筋沿いの歩道の辺りまであったが、1911年、堺筋の拡張工事に伴い堺筋に面した約四間分が道路用地として収用された。「軒切り」と呼ばれたこの道路拡張により、その大部分が道路用地となった貸家はそれを機会に撤去され、主屋も西側約3間分が削り取られた。これに伴い伏見町通との角地となった場所に新しく衣装蔵が建てられた。
また1923年に起こった関東大震災を期に、地震への備えとして三階部分が撤去されたことにより、ほぼ現在の外観となった。この時に撤去された三階部分への階段は現在も残されているという。
所在地 大阪市中央区道修町

旧木村家住宅

木村家は奈良県十津川村にあった農林業を営んだ家で幕末頃には村役を勤めました。建築年代は主屋は文政四年(1821)、納屋及び表門は十九世紀中頃です。木村家を初め奥吉野方面の家々は山深い渓谷の地で山の傾斜地にへばりつくように建てられていました。

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本建物は奈良県北部の民家と比べ、姿や間取りが大きく異なっています。北部の民家は一般に屋根が瓦及び草葺きで、室内には居室に土間が付き、内外の間仕切りに土壁を多用します。しかし、十津川地方やこの家では、屋根を杉皮で葺き、石を乗せ、妻側の端部に雨除けがつく姿で、間取りは三室の横一列型、土間と土壁がなく、すべて板張りとなっています。さらに土間にあたるところにカマドはなく、板敷きとなる等の造りが特徴です。
付属の納屋は屋内を牛小屋と便所に二分して、天井は背面部分上部を突きだしてツシ2階を広くした造りとなています。
この住宅によって奥吉野地方の当時の生活様式を思い起こすことが出来ると共に、主屋の建築当初の規模から増築を経て、さらに納屋・表門が建てられて屋敷構えが拡充してきた過程も併せ示す貴重な建物です。

旧前坊家住宅

旧前坊家住宅 (旧所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山二五七六)
この住宅は吉野山の門前町筋にあって金峯山寺仁王門と発心門(金鳥居)のほぼ中頃、大道を北面して屋敷を構え、代々吉野水分神社の神官を務めたと伝える家です。

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この建物の建築年代は主屋(切妻造一部二階建)廊下及び離座敷の建築年代を示す資料は明らかでありませんが、解体中の各種の部材調査から総合的に判断すれば、主屋の居室、表側の四室の柱が、経年的からみて十八世紀に遡るものとみられる以外、主要軸部材は十九世紀中頃であり、また転入材もあるところからみて弘化年間(一八四四〜七)頃に主屋の大修理・改造を行い順次、渡廊下及び離座敷を建てたものと考えられる。

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主屋は大道に北面して懸造(吉野建)で、離座敷は主屋後方に建て、この間を渡廊下で接続した逆コの字型の建物配置です。
移築前の屋根は母屋と離座敷の一部、庇の桟瓦葺き以外は波形鉄板葺きでしたが全て杉皮葺きに復原した他はおおむね移築前と同じです。

旧松井家住宅

この住宅は、元、奈良県宇陀市室生区上笠間にあった農家です。当家の口伝によれば、その昔、代官を務めた子孫と伝えられています。
この主屋の建築年代は解体中に発見された祈祷札から文政13年(1830)頃と考えられます。室生地区笠間は、当村山間を通る伊勢三街道の内、笠間越えと称する街道が、当地区中央部を東西に通っていました。
当主屋は、この街道を見降ろす丘陵の中腹に、南南東を正面に建てられていました。

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この主屋は、間口五間半、奥行四間の規模で、入母屋造りの藁葺きでふきおろした素朴な外観を呈しています。
間取りは向かって右半が土間、左半が居室4室です。土間部には表側の隅に馬屋(牛小屋)、この東側は風呂場が付設されています。さらに土間奥には板敷きのひろしき・カマド・流しを設けています。
居室の4室は表側2室、裏側2室で、表側の上手の部屋には床・仏壇・押し入れが付いています。また、吹き放しの縁が表裏につき、このうち、表側の西端に便所を設けています。尚、この建物の特色は、平面は間口方向に喰違う四間取りで、前座敷型三間取りから発達した間取りです。構造は表側の上屋筋に柱を立て、せがい風の小天井を造るが、背面の柱筋では差物・梁で受けて柱を抜き、居室と土間を広く取り込む構造法です。

旧岩本家住宅(宇陀 東山集落)

元、奈良県宇陀郡室生村黒岩にあって農林業を営んだ家で庄屋年寄りを務めたと伝えられています。建築年代は19世紀中頃です。

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室生村黒岩は、女人高野で有名な室生寺から東南方へ約5キロへだたり、胎ノ川の支流、黒岩川の中程で谷間の南斜面を利用した村落です。
また、畿内より伊勢に向かう伊勢街道が古くから地区を通っていました。岩本家はこの街道下にあって主屋は河岸段丘部を造成して建てられていました。

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この主屋は、間口7間、奥行き5間半、入母屋造りの茅葺きで葺きおろした素朴な外観を表しています。
向かって左手の土間には、表側隅に馬屋を設け、この奥側に「カマド」、流し、唐臼を備えて台所と作業場を兼ねた土間です。
右手の居室は六室ですが、表側を二分して、上手には前後に三室並び、下手には前側に六畳室が、後ろ側は半間土間に張り出して、長六畳二室が左右に並んだ間取りです。
この間取りは、三間取りに座敷三室を加えたもので、喰い違形の発展形式と考えられるほか、間仕切り箇所は開放的で、居室の表と右側に縁を付け、この外側で戸締まりするのは新しい形式です。
構造では表側をせがい造り、土間上を太い梁で半間間毎に架けるなど、この地方の特色をよく示しています。

旧八重川家住宅

旧八重川家は奈良県山辺郡で代々農業を営んでいたと伝えられている。当住宅の建築年代について確たる資料は欠くが建物の形式手法上からみて、19世紀初期の建築と考えられている。

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移築前の外観は寄棟造りで棟通りの瓦を葺き屋根は茅葺きで軒先まで葺きおろす素朴な外観を呈していました。
間取りは向かって右半が土間、左半は三室となっていましたが、解体時の調査によって当初は二室であったと判断されます。建物の復原は部材痕跡等によって建築当初の間取り、外観に復原されています。

旧萩原家住宅

この民家は桜井市下に所在していたが萩原家より寄贈を受け移築復原したものである。
萩原家は位牌木札によると元禄十六年(1703)宝永五年(1708)等の年号がみられ、その頃に建築されたと考えられます。
移築前の外観は草葺、切妻屋根の両端に桟瓦葺の落屋根をつけ周囲に庇を巡らしていた。

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平面の間取りは六間からなり、西側には懸造りの座敷と、北側には二階建ての離れ座敷が接続していたが、これらは後世に増改築されたことが明らかとなり建築当初の姿に復原した。
復原平面は下手三間を土間とし正面側に「うまや」背面側に「かまや」を設け居室部は正面側に「みせのま」「ざしき」背面側は「だいどころ」「なんど」の四間取りで「ざしき」には仏壇、とこ、脇床も設けている。

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この民家は葺降しの屋根、突止め溝の使用、土間、居室境の閉鎖等古式な手法を伝える貴重な遺構である。

旧赤土家離座敷

この建物は奈良県香芝市狐井に所在していた農家の離れ座敷であったが赤土家より寄贈を受け移築したものである。

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赤土家は下田村史によると、楠木氏の一族和田蔵人の子孫と伝えられている。この離座敷は八畳一間に「とこ」違い棚 出書院を付け、三方を縁で囲み、外観は入母屋造りの茅葺屋根で周囲の庇を本瓦葺としており、小規模でありながらまとまりのある建物である。
この離座敷の建築年代は十八世紀初期と考えられ、当初は香芝市狐井にあったものではなく他の地から移築したものと考えられている。

旧西川家土蔵

旧西川家土蔵  旧所在地 奈良県天理市二階堂北管田町166番地

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西川家は奈良・橿原間を結ぶ旧街道に面して建てられており、その昔「庄屋彦兵衛」と呼ばれこの地の庄屋を務めていました。西川家には元々、三棟の土蔵(米蔵・高蔵・北蔵)が建っていましたが、この土蔵は「高蔵」と呼ばれているもので食器・衣類等が収納されていました。

旧吉川家住宅

この民家は奈良県橿原市中町に所在していたが吉川家より寄贈を受け大和民族公園に移築復原したものである。
吉川家は元禄16年(1703)山之坊村の吉川家より分家したとの記録もあり、その頃に建築されたと考えられます。

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現在の屋根は当初建築された入母屋造り上屋を茅葺き下屋は四面とも茅葺きです。吉川家は国中(くんなか)の自作農家で喰違い四間取りを採用し民家の間取りの変遷を知る上で資料的価値の高い民家とされています。

旧臼井家住宅

旧臼井家住宅
この民家は、奈良県高市郡高取町上土佐にあった町屋で、臼井家から寄贈を受け、民俗公園に移築復原したものである。
高取町は古くから奈良盆地と吉野を結ぶ旧街道にあたり、高取町上土佐(旧土佐町)は植村藩の城下町で半商半農的な町場でした。

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臼井家はこの城下で、大手へ通じる道の北側に屋敷を構え、屋号を「伊勢屋」と称し藩の公用伝馬の役を務めるかたわら酒・醤油の販売を営むほか、大年寄も勤めたと伝えられている。

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この主屋は、正面左二間を格子構えとしながら農家風の正面・外観を持つのは、当時の城下町の性格を表しているようです。この建物は二階建で外部を全て土壁で塗り固め、貴重な品物や道具を納めた建物です。

主屋  切妻造、茅葺、桁行九間、、梁間三間、二面庇付本瓦葺、東北面便所付属
内蔵  土蔵造本瓦葺、二階建

旧鹿沼家住宅

「町屋集落」 旧鹿沼家住宅  旧所在地 奈良県大和高田市永和町 建築年式 十九世紀前半

この民家は、大和高田市にあった町屋で、鹿沼治三郎家から寄贈を受け、民俗公園に移築復原したもので、大和高田市は古来から東西に旧横大路(初瀬街道)と南北には下街道の主要路が交差した要所で、近世では宿場町・商業の町として発達した地域です。

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鹿沼家は横大路の北側に屋敷を構え、代々米屋治兵衛を名乗り米屋を営んだと伝えられています。
この主屋は、切妻造りの二階建てで、正背面に庇を付け屋根はすべて桟瓦で葺き、表側の角太格子や、二階の出格子、両側の袖壁など町屋特有の姿を表しています。

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二階は物置で箱階段で上り下りをします。二階の軒は高く、小屋組に登り梁を採用して空間を広く取り、正面に出格子を取り付けるこの形式は奈良県内で最も古い事例にあげることができます。

主屋  切妻造、桟瓦葺、二階建、正背面庇付、背面角座敷

大和民族公園

奈良県郡山市西郊、矢田丘陵の一角に26.6haの敷地を有する大和民族公園は野外博物館的要素をもった都市公園です。近年注目されている「里山」の環境を生かしつつ、「みんぱく梅林」「しょうぶ園」ほか四季折々の草花を楽しむことができる。

大和民族公園正面入口

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「ニシキギ」

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「カラタチ」

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「キンケイ」

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「クチナシ」

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「ハクモクレン」

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奈良県は、その地形的特徴から奈良盆地(北西部)、大和高原・宇陀山地(東北部)、吉野山地(南部)に大きく分けることができる。それぞれの土地で、その気候風土にあった暮らしが営まれてきた。
公園内にある民族博物館では、各地域の暮らしを支えた仕事として、奈良盆地の稲作、、奈良高原の茶業、吉野山地の林業について、機械化が進む以前の作業と各工程で使われた用具を展示している。
また、昔の暮らしとして、当時の衣食住や子どもの遊びなどについて紹介している。(65歳以上は無料となっている)

熊澤蕃山

熊澤蕃山(1618〜1691)
江戸時代前期の儒学者、16歳で岡山藩主池田光政に仕え、一時京都の中江藤樹の門に学ぶ。光政の信任を得て藩政に深く寄与するが、名声があがる一方で蕃山の思想を危険視する流言も多く、幕命により明石藩主松平信之に預けられた。延宝七年(1679)、信之が郡山に移封となったのに従い矢田山麓の地に移り住む。蕃山61歳の時であった。

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貞享二年(1685)信之は下総國古河に転じ、代わって宇都宮から本多忠平が郡山に入る。引き続き郡山に住んでいたが、幕府はこれを認めず貞享四年、古河に移され、元禄四年没、73歳。
蕃山の郡山の在住は九年間であったが、その名声を聞き教えを乞うものが後を絶たず、郡山藩の文教の発展に大きな影響を与えた。

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源氏物語(宇治十帖 (七)

『浮舟』
正月、中君のところに宇治から消息があった。浮舟のことを忘れられない匂宮は、家臣に尋ねさせたところ、まさしく浮舟は、薫君にかくまわれて宇治にいることがわかった。そして、ある夜、闇に乗じ薫君の風を装って忍んで行く。浮舟が事に気づいた時はもう遅かった。
浮舟は、薫君の静かな愛情に引きかえ、情熱的な匂宮に次第にひかれていく。薫君は物思いに沈む浮舟を見て、一層いとおしく思われた。

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如月の十日頃、雪の中、宇治を訪ねた匂宮は、かねて用意させていた小舟に浮舟を乗せ、橘の小島に遊び、対岸の小家に泊まって一日を語り暮らした。

         橘の小島は色もかはらじを
               この浮舟ぞゆくへ知らねぬ

浮舟は二人の間でさまざまに思い悩んだ末、遂に死を決意する。

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三室戸寺庭園

五千坪の大庭園は枯山水・池泉・広庭からなり、五月のツツジ(二万株)・シャクナゲ(一千本)・六月のアジサイ(二万株)・七月のハス・秋の紅葉など四季を通じ楽しめる。

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         山吹や宇治の焙炉の
                   にほふ時     松尾芭蕉

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源氏物語(宇治十帖(九)

『手習』
比叡山の吉川に尊い僧都がいた。初瀬詣の帰りに急病で倒れた母尼を介護するために宇治へ来た。その夜、宇治院の裏手で気を失って倒れている女を見つけた。この女こそ失踪した浮舟であった。僧都の妹尼は、亡き娘の再来かと手厚く介抱し、洛北小野の草庵に連れて帰った。

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意識を取り戻した浮舟は、素性を明かそうともせず、ただ死ぬことばかりを考え泣き暮らした。
やがて秋、浮舟はつれづれに手習をする。

       身を投げし涙の川の早き瀬を
              しがらみかけて誰かとどめし

浮舟は尼達が初瀬詣の留守中、立ち寄った僧都に懇願して出家してしまう。やがて都に上がった僧都の口から、浮舟のことは明石中宮に、そして、それはおのずと薫君の耳にも届くのであった。

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源氏物語(宇治十帖(二)

『椎本』
春、花の頃、匂宮は、初瀬詣の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばれた。
薫君から二人の姫君のことを聞き、ゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君に強く心をひかれていく。
八宮は死期の近いことを感じ、姫君たちに身の処し方について遺言し、信頼している薫君に姫君を頼み、秋も深い頃、阿木梨の山寺で、寂しく静かに波乱の生涯を閉じられた。

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       たちよらむ蔭と頼みし椎が本
            むなしき床になりにけるかな

紫式部

紫式部は「源氏物語」54帖の作者として知られる女流文学者。ここ宇治川の畔一帯に華やかな貴族文化の花が開いた王朝時代に登場した才女とは知られていても、その生涯には謎が多く、生・没年さえ正確にはわかっていない。999年頃藤原宣孝と結ばれたが、宣孝の死後は寡婦生活の日を送り、「源氏物語」の執筆はこの頃から始められたらしい。

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やがて今をときめく左大臣藤原道長から、一条天皇の中宮になった娘の彰子の女房として仕えるようにと召し出され宮仕えの身となる。
「源氏物語」が当時の宮廷社会の実情をリアルに描写し、因果応報の人生観を有する人間性を追求した長編にまとめられているのは、紫式部自身の境遇によるものであろうと思われる。
紫式部には、女房として宮仕えをしていたことの生活を綴った『紫式部日記』(1008秋〜1010春)や、歌人としての非凡な才能が知られる『紫式部集』があり、当時の公家の様子を伝える貴重な遺作となっている。
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