知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

与謝野晶子

       かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は
                美男におはす夏木立かな    与謝野晶子

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海紅豆

マメ科の常儿睫據▲屮薀献觚胸困韮況遏腺厳邵◆∋淦茲猟垢げ崕に深紅色の花を付ける。

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龍の口

当地は鎌倉幕府時代の刑場跡である。
幕府の公式記録である『吾妻鏡』には腰越、龍の口に於いて斬首との記載が多く見られる。

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菩提樹

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鎌倉時代、日本は内乱や大震災・飢餓疫病の蔓延など、まさに地獄の様な悲惨な状況にあり、それらを憂えた日蓮大聖人は『立正安国論』を顕し幕府に奏上して法華経の教義に基づく国家の安寧と民衆の救済を提起した。
しかし、幕府は政策への中傷と受け止め『貞永式目』の「悪口の咎」に当たると解釈し、文永八年(1271)九月十二日、鎌倉松葉ヶ谷の草庵で説法中の日蓮大聖人を捕らえ、この龍の口に連行した。

日蓮大聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ず刑場に連行した為、幕閣からも異議が出され、処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半に至り処刑中止の使者を送った。

その間にも刑場では評定の決定を待ちかねて、九月十三日子丑の刻(午前二時)、日蓮大聖人を敷皮石(首の座)に座らせ斬首の準備を整えた。
しかし処刑の瞬間、時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来たりて、執行人は眼がくらみ、畏れおののき混乱の中、使者が到着し刑は中止となった。

妙本寺(鎌倉市)

この寺一帯の谷を比企谷(ひきがやつ)といい、源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷がありました。
比企一族は二代将軍・頼家の後継者の際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました(比企の乱)。

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その後、乱から逃れていた末子能本が一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりと云われています。
4月から8月にかけて、さくら、カイドウ、シャガ、ノウゼンカズラ等が花をつけます。

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栴檀

暖地の海岸近くに自生する。本来の自生は四国までとされるが、公園などに植えられたものの逸出、野生化で関東地方〜宮城でも自生が見られる。
樹高は、10〜15メートルくらいで花の時期は、新緑とともに樹の梢にもやがかかったように紫色の花が咲く。
「栴檀は双葉より芳(かんば)し」とする栴檀は日本で言う白檀のこと。

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葉は互生し、2〜3回羽状複葉。小葉は卵形または卵状長楕円形で、縁は鈍い鋸歯がある。複葉の全体は大きいが、小葉は小さい。
花は5〜6月に、今年の枝の基のほうの葉腋から複集散花序を出す。花は小さく2センチほど。萼片、花弁は5枚、雄しべは紫色で花糸が合生し筒状になる。

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本覚寺(鎌倉市)

本覚寺のある場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てたと云われている。その後、鎌倉の公方・足利持氏が寺を建て寄進したのが本覚寺であると伝えられる。

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日蓮大聖人辻説法跡

日蓮大聖人は建長五年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、訪ねた名越家は郎党に命じて、快く自分の土地の松葉ヶ谷に草庵を建てました。
鎌倉時代、この辺りは武家屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺り(小町の辻)を訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられています。

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大銀杏(鶴岡八幡宮)

建保7年(1219)1月27日、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、源実朝を殺害したという伝説があり、隠れ銀杏という別名がある。しかし、当時の樹齢を考えると、人が隠れることのできる太さにはまだ成長していなかったという説もあるため真偽は不明。伝説を疑問視する説もあれば、公暁が身を隠したのは先代の樹であり現在の樹は2代目であるとする説もある。1955年より神奈川県の天然記念物に指定され、樹齢800年とも1000年余とも云われていた。

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2010年3月10日に、強風のために大銀杏は根元から倒れた。元の場所に残された根から若い木が勢いよく伸び出し、移植した幹からも萌芽し葉を付けている。

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鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

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「康平6年(1063)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年(1081)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。」とある。

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鶴岡八幡宮から若宮大路を望む

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鉄の井(くろがねのい)

この井戸は、鎌倉十井の一つです。
かつて扇ヶ谷に所在した、新清水寺に蔵されていたと伝わる鉄観音像の首が、この井戸の中から掘り出されたことから、この名がついたと云われている。

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三河屋本店

三河屋本店は、明治33年創業の酒店で現在の建物は昭和2年に建てられました。伝統的な出桁造りの店構えは複雑に重なり合う屋根、長大な差鴨居などが重厚な雰囲気を醸し出しています。

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敷地の奥には、蔵や運搬用のトロッコも残されており近代の商文化を伝える貴重な建物です。

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若宮大路

鎌倉駅西口

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鎌倉駅西口から東口に廻って、暫く小町通りを歩きました。

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若宮大路
若宮大路は寿永元年(1182)、源頼朝によって造られた鶴岡八幡宮の参詣道です。中世鎌倉の都市づくりの中心とされた鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に至るまで一直線に造られ、都市造りの基軸線となりました。

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『吾妻鏡』によれば、頼朝は日頃鶴岡八幡宮の参道を造りたいと願っていたが、妻北条政子の安産祈願として道造りをはじめました。頼朝自らが指揮し、北条時政以下の御家人達が土石を運んだと云われています。
現在は県道となり、鎌倉のメインストリートです。車道の両側には松並木が整備され往時を偲ばせています。
二の鳥居以北の道路中央の一段高い道は段葛と呼ばれます。

大巧寺(鎌倉市)

初め大行寺という名でしたが、源頼朝がこの寺で行った軍評定(作戦会議)で大勝したので、「大巧寺」に改めるようになったと伝えられている。
本堂修理中であったが、庭には花がたくさん咲いていた。

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インドはまゆう                           イワフジ

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キョウチクトウ                            あまぎのくさき

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   金糸梅

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北條早雲

北條早雲は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか、伊豆、駿河に勢威を及ぼした小田原北條氏五代の祖である。
『北條記』によれば、明応4年(1495)伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角に松明を結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を打ち破ったという。その後、小田原は、96年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し東国一の都市に発展した。

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終生伊勢性を名のっていた早雲の出生地は、京都、あるいは備中、あるいは伊勢とも云われている。一時、室町幕府に随身していたが、のちに駿河へ下って今川氏に身を寄せ、そこで、卓抜な才知と果敢な行動力で頭角をあらわし、やがて伊豆、相模の二国を支配する大名になった。
そして民政にもよく配慮をしながら、周到な計画性をもって国造り、町造りを進めたという。小田原城には嫡男氏綱を住まわせ、自身は伊豆にあって背後の守りを固めていたが、永正16年(1519)8月15日、88歳の天寿を全うして韮山に没した。戦国武将としては長寿であり、北條姓は二代氏綱から用いられた。

早雲は、東国の戦国時代の幕を切って落とした一代の風雲児と評され、一般には乱世を生き抜いた猛々しい武将という印象を与えているが伝来の北條家の家訓「早雲寺殿二十一箇条」において、早雲は、身を慎み、礼を重んじ、質素倹約を旨とすべきことを説き、学問、歌道に親しむことを奨励している。実際は聡明な教養人であり、また公私にわたる日常生活においても、つねに細心の注意を怠らなかった老練な苦労人でもあった。

小田原城下町

江戸時代の小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展しました。小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋から約80キロの距離にあり、第一宿の品川宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊して小田原に到着します。

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町名の由来は、ここが小田原城大手門に通じていたためと云われ、当時は重臣屋敷が並んでいました。大手前から東に走る道路は、甲州道と交差し、そこには柵門(大手先黒門)があり、その先は唐人町に通じていました。

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東は徒歩渡り(10月から3月の間は橋が架けられていた)酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていました。また、
又、参勤交代で往来する大名行列も同様で、彼らが休泊で利用した本陣4軒・脇本陣4軒の8軒という数は東海道随一を誇ります。
小田原城下は、藩士が居住する武家地と寺社地及び商職人の住む町人地からなっていました。中でも小田原宿の中心であったのが宮前町と本町でした。ここには、本陣、脇本陣だけでなく旅籠の多くが集中していました。

小田原城跡(大手門跡)

この場所は、江戸時代の小田原城の大手門があった所です。この門を入ると西側一帯は三の丸となり、道の両側に小田原藩の家老級の屋敷が並んでおりました。

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それまで箱根口付近にあった大手門を、稲葉氏が城主であった寛永10年(1633)に、三代将軍徳川家光が京都に上るのに備えて、江戸に向く現在地に移し、大手門前までの道は将軍家が小田原城に入るための御成道として整備され、東の入口であった江戸口見附も現在の位置に移されました。
大手門の造りを元禄時代頃の絵図でみると、三の丸の堀に架かる土橋を渡ると外からの攻撃や敵の侵入を防ぐため、馬出と呼ばれる空間があり、さらに冠木門と呼ばれる門から桝形と呼ばれる四角い空間に入ります。この桝形は櫓門や石垣堀で囲われており厳重で立派な門であったことがわかります。

御茶壺曲輪跡(小田原城)

御茶壺曲輪は、箱根口から入る最初の曲輪で周囲を水堀で囲われていて、江戸時代には幕府御用の茶壺を宇治(京都)から江戸まで搬送する「茶壺道中」が行われ、小田原宿に宿泊する際に茶壺を収納した『御茶壺蔵』がこの曲輪内に設けられていた。

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御茶壺曲輪跡から銅門を望む

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小田原城址小峯橋(御茶壺橋)

この橋は本来木橋で、正式名称は「小峯橋」と言います。現在は石橋に架け替えられ「御茶壺橋」と言います。

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「御茶壺橋」という名は、江戸時代に宇治(京都府)から将軍家に御茶を献上する際の御茶壺道中と呼ばれる行列に由来します。
行列は、往路は江戸から宇治まで東海道を通り、空の茶壺と購入代金が運ばれました。そして、御茶を詰めた復路の道中は、御茶が湿気ないように河川の少ない中仙道を通って江戸まで戻ったとされます。

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小田原城には、この橋を渡った「御茶壺曲輪」に空の茶壺を保管する蔵があったことから、この橋が「御茶壺橋」と呼ばれるようになったと云われています。

小田原城南曲輪西南二重櫓

小田原城は、明治3年に廃城となり、明治34年には二の丸内に御用邸が建設されましたが大正12年の関東大震災で石垣が崩落し壊滅的な被害を受けました。御用邸は廃止され二の丸堀北側一帯や住吉堀などが埋め立てられました。
昭和4年、銅門一帯には小田原高等女学校(小田原城内高等学校)や町立第二尋常小学校(城内小学校→三の丸小学校)が建設されました。昭和初期には、二の丸の石垣などが復旧されましたが第二次大戦後は本丸周辺には動物園や遊園地が、御用米曲輪には市営小田原球場が建設され城跡としての景観は失われていました。

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小田原城は北条氏の中世城郭と江戸時代の近世城郭の複合的な城郭として知られていますが、本丸・二の丸の範囲は近世城郭としての整備が進められ、一方、丘陵部に展開する戦国時代の城郭遺構は、八幡山古郭東曲輪や三の丸外郭の清閑亭土塁、新堀土塁など史跡指定が進められ史跡公園として公開されています。

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天守閣(小田原城)

「天守」とは、城の象徴ともいえる建物で、城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。江戸時代迄は「殿主」「殿守」などと記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからと云われています。

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江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っている。
元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、入り口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年の廃城・解体までその姿を保ちました。

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現在の天守閣は、昭和35年に市制20周年の記念行事として鉄筋コンクリート造りで復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。
平成28年には、耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われ、天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています。標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。

本丸東堀跡(小田原城)

江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいて、絵図によると堀は二の丸堀とつながる水堀となっていました。

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発掘調査によって本丸東堀の位置が確認され最も幅があるところでは20メートル以上もあることがわかりました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で水鳥の池は堀の名残といえます。

イヌマキ

樹相
目通り幹囲   4.5メートル
株元周囲    約6メートル
樹高       約20メートル
枝張り状況   東西25メートル
          南北13メートル
イヌマキは、関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られる。

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この木は幹回り4.5メートルに及び小田原市内で最大のイヌマキで主幹は左巻きにねじれ、地上5メートルのところで四支幹に分岐している。
以前は四方へ密に枝を広げて傘状の見事な姿をしていましたが、台風で北側の大枝が折れて支幹の一部があらわになり現在に至っています。

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銅門模型(小田原城跡)

この土塀模型は小田原城銅門建設に際し事前に製作したものです。
銅門は、江戸時代の工法、技術を採用しているために使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確認する必要があり、模型は重要な役割を果たしました。

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ビャクシン

ビャクシンは、主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹です。

樹相   目通り幹囲    3.1メートル
      株本周囲    約3.9メートル
      樹高       約15メートル
      枝張り状況   東西約12メートル
                南北約15メートル

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この木は小田原市内最大級のもので、主幹の地上約4.5メートルのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。
ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。

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銅門(小田原城跡)

銅門は、小田原城二の丸の表門で南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉堀によって隔てられており、江戸時代には馬出門土橋から城内に入り銅門を通って二の丸御殿や本丸・天守へと進むようになっていました。

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銅門(あかがねもん)は明治5年に解体され、現在の銅門は昭和58年から行われた発掘調査や古写真・絵図などを参考に平成9年に復元されたものです。
銅門の形式は、石垣による桝形、内仕切門、櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で本来の工法で復元されました。

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天守閣に通じる登城ルート上に設けられ、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその呼び名がついたと云われている。
櫓門の梁;マツ   柱・扉;ヒノキ

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