知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

源氏物語(宇治十帖 (七)

『浮舟』
正月、中君のところに宇治から消息があった。浮舟のことを忘れられない匂宮は、家臣に尋ねさせたところ、まさしく浮舟は、薫君にかくまわれて宇治にいることがわかった。そして、ある夜、闇に乗じ薫君の風を装って忍んで行く。浮舟が事に気づいた時はもう遅かった。
浮舟は、薫君の静かな愛情に引きかえ、情熱的な匂宮に次第にひかれていく。薫君は物思いに沈む浮舟を見て、一層いとおしく思われた。

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如月の十日頃、雪の中、宇治を訪ねた匂宮は、かねて用意させていた小舟に浮舟を乗せ、橘の小島に遊び、対岸の小家に泊まって一日を語り暮らした。

         橘の小島は色もかはらじを
               この浮舟ぞゆくへ知らねぬ

浮舟は二人の間でさまざまに思い悩んだ末、遂に死を決意する。

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三室戸寺庭園

五千坪の大庭園は枯山水・池泉・広庭からなり、五月のツツジ(二万株)・シャクナゲ(一千本)・六月のアジサイ(二万株)・七月のハス・秋の紅葉など四季を通じ楽しめる。

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         山吹や宇治の焙炉の
                   にほふ時     松尾芭蕉

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源氏物語(宇治十帖(九)

『手習』
比叡山の吉川に尊い僧都がいた。初瀬詣の帰りに急病で倒れた母尼を介護するために宇治へ来た。その夜、宇治院の裏手で気を失って倒れている女を見つけた。この女こそ失踪した浮舟であった。僧都の妹尼は、亡き娘の再来かと手厚く介抱し、洛北小野の草庵に連れて帰った。

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意識を取り戻した浮舟は、素性を明かそうともせず、ただ死ぬことばかりを考え泣き暮らした。
やがて秋、浮舟はつれづれに手習をする。

       身を投げし涙の川の早き瀬を
              しがらみかけて誰かとどめし

浮舟は尼達が初瀬詣の留守中、立ち寄った僧都に懇願して出家してしまう。やがて都に上がった僧都の口から、浮舟のことは明石中宮に、そして、それはおのずと薫君の耳にも届くのであった。

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源氏物語(宇治十帖(二)

『椎本』
春、花の頃、匂宮は、初瀬詣の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばれた。
薫君から二人の姫君のことを聞き、ゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君に強く心をひかれていく。
八宮は死期の近いことを感じ、姫君たちに身の処し方について遺言し、信頼している薫君に姫君を頼み、秋も深い頃、阿木梨の山寺で、寂しく静かに波乱の生涯を閉じられた。

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       たちよらむ蔭と頼みし椎が本
            むなしき床になりにけるかな

紫式部

紫式部は「源氏物語」54帖の作者として知られる女流文学者。ここ宇治川の畔一帯に華やかな貴族文化の花が開いた王朝時代に登場した才女とは知られていても、その生涯には謎が多く、生・没年さえ正確にはわかっていない。999年頃藤原宣孝と結ばれたが、宣孝の死後は寡婦生活の日を送り、「源氏物語」の執筆はこの頃から始められたらしい。

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やがて今をときめく左大臣藤原道長から、一条天皇の中宮になった娘の彰子の女房として仕えるようにと召し出され宮仕えの身となる。
「源氏物語」が当時の宮廷社会の実情をリアルに描写し、因果応報の人生観を有する人間性を追求した長編にまとめられているのは、紫式部自身の境遇によるものであろうと思われる。
紫式部には、女房として宮仕えをしていたことの生活を綴った『紫式部日記』(1008秋〜1010春)や、歌人としての非凡な才能が知られる『紫式部集』があり、当時の公家の様子を伝える貴重な遺作となっている。

夢浮橋之古跡

「源氏物語」は十一世紀初めに作られた長編小説です。作者は藤原彰子に仕えていた女房紫式部であると伝えられています。
物語は全部で五十四帖からなります。このうち最後の十帖は、光源氏の息子薫や孫の匂宮と宇治に住む三姉妹との実のらね恋の物語で、特に「宇治十帖」と呼びます。「橋姫」で始まり、「夢浮橋」で終わる「宇治十帖」には、朝霧にけむる宇治川の流れが不可欠でした。
「源氏物語」は実話ではありませんが、いつの頃からか、物語の舞台はここであってほしいという人々の思いによって、宇治川周辺に宇治十帖の古跡が作られました。

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源氏物語(宇治十帖(一)

古代より、水辺、特に橋は心霊が宿るところとされており、橋姫神社は明治3年の洪水で流失するまでは宇治橋の西詰めにありました。交通の要衝として発展してきた宇治にとって、宇治橋はとりわけ大きな意味を持っており、橋姫神社を巡って数々の伝承を生み出しています。
宇治が主要な舞台となっている源氏物語宇治十帖の第一帖は、「橋姫」と名付けられており、橋姫神社はその古跡となっています。

【平等院参道】

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「橋姫」
「その頃、世に数まへられ給うはぬふる宮おはしけり。」と「宇治十帖」は書き始められる。光源氏の異母弟の八宮は、北方亡き後、宇治の地で失意と不遇の中に、二人の姫君をたいせつに育てながら俗聖として過ごしておられた。世の無情を感じていた薫君は、宮を慕って仏道修行に通い、三年の月日が流れた。
晩秋の月の夜、薫君は琵琶と琴を弾かれる姫君たちの美しい姿を垣間見て、
「あはれになつかしう」思い、
     橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしずくに袖ぞぬれぬる   と詠んで大君に贈った。
出家を望まれる八宮は、薫君を信じ、姫君たちの将来をたのまれる。その後、薫君は、自分が源氏の実子ではないという出生の秘密を知ることになる。

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橋姫神社は、
      高浜原発から75キロ、大飯原発から74キロ、美浜原発から91キロ、敦賀原発から98キ
      ロ、高速増殖炉もんじゅから96キロ。

県神社

県(あがた)とは、大和政権が西日本の要地に設けた地域組織で、特に畿内にあった県は政治と祭祀に重要な位置を占めていたといわれており、当時の宇治が属したといわれる栗隈県(くりくまあがた)に社名の起源を求めることができます。

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祭神は木花開耶姫(このはなさくやひめ)といわれ、永承七年(1052)に藤原頼道が平等院を建立した時に、その鎮守としたとも伝えられている。

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平等院多宝塔跡(復元基壇)

かつて平等院には鳳凰堂以外に多くの堂塔が建てられていましたが、その大半は廃れ、場所すら不明となっています。
この多宝塔跡は発掘調査によって発見され、同じ場所に鳳凰堂の基壇を参考に復元したもので、平等院に塔が建てられたのは、鳳凰堂建立の8年後(1061)で、建立者は藤原頼道の娘の郢劼任后
文献には多宝塔と記されていますが、発掘成果からは珍しい単層の塔(宝塔)の可能性が指摘されています。

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詠み人知らず

       ちはや人宇治川
          波を清みかも旅行く人の立ちがてにする

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この歌の作者は未詳で、「宇治川の川波があまりにも清らかであるからであろうか。旅人たちはここから立ち去り難く思っている」という意味である。

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柿本人麻呂

          もののふの八十氏河の網代木に
                  いざよふ波の行く方しらずも

この歌は、柿本人麻呂が近江国より奈良へ帰る途中に、宇治川付近で作った歌で「宇治川の網代木で一時停滞し、やがて行方知らずとなる波のように、滅びさった近江の都に仕えていた人々はいったいどうなったのであろうか」という意味、
網代は秋から冬にかけて魚をとる仕掛けのことで、杭を川のなかに上流に向かってV字型に打ち、杭の間に竹等で編んだ簀を張り氷魚(鮎の稚魚)をとるもので、この網代に用いる杭を網代木という。

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(宇治川に掛かる朝霧橋または橘橋を渡り橘島にこの歌碑がある。この歌碑は護岸改修中のため一時移動保管中である。)

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源氏物語

紫式部が11世紀に書いたといわれる源氏物語は全体で54帖からなっていますが、45帖から54帖までは、宇治を主要な舞台にしていることから「宇治十帖」と呼ばれています。

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物語の前半部分は、華やかな宮廷生活を舞台に、光源氏と彼をとりまく女性たちの織りなす様々な人間関係が華麗に描かれていますが、これに対して「宇治十帖」は光源氏亡き後、子の薫、孫の匂宮と大君、中君、浮船の三人の姫君の切なくもはかない悲恋の物語が描かれており、「橋姫」「椎本」「総角」「早蕨」「宿木」「東屋」「浮船」「蜻蛉」「手習」「夢浮橋」の各帖で構成されています。

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源氏物語はフィクションですが宇治川の周辺には源氏物語を愛する人々によって、いつの頃からか宇治十帖の各帖に因んだ古跡が設定され、、当時と変わらぬ宇治川の清流や木々の緑、静かな佇まいを見せる周辺のまちなみとあいまって、訪れる人々を源氏物語の世界へ誘ってくれます。宇治十帖モニュメントは、浮船と匂宮が小舟の上で愛を語りあう場面をモチーフに宇治十帖の象徴として建てられたものです。

早蕨(源氏物語(宇治十帖(四)

年改まり、宇治の山荘にも春が来た。今年も山の阿闍梨から、蕨や土筆などが贈られてきた。

中君は亡き父君や姉君を偲びつつ、
     この春はたれかに見せむ亡き人の
               かたみにつめる峰の早蕨
と返歌なさった。
                             
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二月の上旬、中君は匂宮の二条院へ迎えられ、行先の不安を感じつつも、幸福な日々が続く。夕霧左大臣は、娘の六君を匂宮にと思っていたので失望し、薫君にと、内意を伝えたが、大君の面影を追う薫君は、穏やかに辞退した。
花の頃、宇治を思いやる薫君は二条院に中君を訪ねては懇ろに語るが匂宮は二人の仲を疑い始める。

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与謝野晶子(宇治その5)

   【さわらび】
       さわらびの歌を法師す君に
           良き言葉をば知らぬめでたさ   与謝野晶子       

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「離宮いろは」の紅葉

宇治上神社の拝殿に寄り添うように時の流れを積み重ねてきた「いろは紅葉」 ・・・・・ そこから名前を『離宮いろは』と名付けられ、「いろは紅葉」というのは葉は小さく、分かれた裂片を「いろはにほへと・・・・・」と数えたことが由来となっている。

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秋には褐色がかった黄色から紅色に紅葉して散り春には濃い紫色の花をつけます。

宇治七名水

桐原水
お茶の町宇治にはいたる所に名水が湧き出していました。
その中でも特に有名だったのが「宇治七名水」と呼ばれた井戸でした。その多くは失われていますが宇治上神社に湧く桐原水からは今も清水が湧き出しています。

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与謝野晶子(宇治その4)

   【宿り木】
       あふけなく大御女をいにしへの
               人に似よとも思ひけるかな   与謝野晶子


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平等院鳳凰堂(世界遺産)

京都南郊の宇治の地は、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。
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鳳凰堂には52049枚の瓦が使用されており、建立当時は木製瓦を使った木瓦(こがわら)葺きだったが約半世紀後の康和3年(1101)の修理で粘土瓦を使った総瓦葺きに改修された。粘土瓦は平等院の荘園であった「玉櫛荘(たまくしのしょう)」(現在の大阪府八尾市)の向山瓦窯跡で1100年初頭に製造されたとされ、2012年9月に始まった改修作業でも平安期の陶器瓦がまだ1560枚そのまま屋根に残っていることが確認された。

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庭園 は 中島に鳳凰堂の建つ阿字池を中心とした浄土式庭園、(国指定の名勝)、平成2年からの発掘調査により平安時代築造の州浜が検出され、現在は創建当初の姿に復元整備されている。鳳凰堂への入堂も池の北岸から2つの小橋を渡る当初の形式に復されている。

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与謝野晶子(宇治その3)

   【総角】
       こころをば火の思ひもて焼かましと
                  願ひき身をば煙にぞする   与謝野晶子


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小倉百人一首第六十九番

        あらし吹く み室の山のもみじ葉は
                   竜田の川の 錦なりけり   能因法師 

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−激しい風によって吹き散らされた三室の山のもみじ葉は、やがて竜田の川に散り、ほら、水面を錦織の布のように鮮やかに彩っているよ−

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与謝野晶子(宇治その2)

   【椎が木】
       朝の月涙の如し真白けれ
             御寺のかねの水わたる時     与謝野晶子

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与謝野晶子(宇治その1)

   【橋姫】
       しめやかに心の濡れぬ川ぎりの
            立舞ふ家はあわれなるかな       与謝野晶子

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さわらびの道(宇治)

さわらびの道

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         妹らがり今木の嶺に茂り立つ
                嬬松の木は古人見けむ

この歌は、菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)の宮所で歌われたもので作者は不詳、
「妻の家へ今着たという名の今木の峰に枝葉を茂らせて立つ松、夫の訪れを待つように、今も立っている松の木を昔の人もきっと見たことであろう」という意味で宮所は宇治神社あたり、今木峰は朝日山の古名とされている。

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大吉山展望台

与謝野晶子の歌碑が見当たらない、仏徳山(通称大吉山)に歩いて行き下山してきた人に聞いたところ東屋の左にあると聞いた。随分登ったところに東屋があり歌碑もあったが作者不詳の歌碑だった。
眼下には宇治川を挟んで平等院が見える。

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   『そらみつ 倭(やまと)の國 あおによし 奈良山越えて 山代の 管木(つつき)の原 ちはやぶ
     る 宇治の渡瀧つ屋の 阿後尼(あごね)の原を 千歳に 闕(か)くる事無く 萬歳(よろづよ)
      に あり通はむと 山科の 石田の杜の すめ神に 幣帛(ぬさ)取り向けて われは越え行く 
        相坂山を』

「この歌の作者は不詳で、「大和の国の奈良山を越え、山城の国の管木の原、宇治川の渡し場、滝つ屋の阿後尼の原と続く道を、いつまでも欠かさず、永久に通いたいと、山科の石田の神社の神に幣帛を手向けて祈り私は越えて行く相坂やまを」 という意味である。

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総角(源氏物語 宇治十帖(三)

紫式部が11世紀に書いたといわれる源氏物語は全体で54帖からなっていますが、45帖から55帖までは、宇治を主要な舞台にしていることから「宇治10帖」と呼ばれています。


総角(あげまき)
八宮の一周忌がめぐってきた。薫君は仏前の名香の飾りに託して、大君への想いを詠んだ。
       総角に長き契りを結びこめ
             おなじ所によりもあはなむ

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大君は父宮の教えに従い、自らは宇治の山住みで果てる意志が堅く、妹の中君をこそ薫君に委ねたいと望まれた。
薫君は中君と匂宮とが結ばれることによって、大君の心を得ようとされたが、意外な結果に事が運ばれてしまう。
匂宮は中君と結ばれたが気儘に行動され得ない御身分故、心ならずも宇治への訪れが遠のく。大君は「亡き人の御諌めはかかる事にこそ」と故宮をしのばれ、悲しみのあまり病の床につき、薫君の手あつい看護のもとに、冬、十一月に、薫君の胸に永遠の面影を残して帰らぬ人となった。

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