知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

東尋坊(天然記念物名勝)

九頭竜川河口三国港から雄島を経て梶浦に至る間の海岸は其の基盤が第三紀層より成り柱状節理を成せる数々の火山岩が之を貫いている。其の中東尋坊岬に近く露出しているのは並立粗大なる柱状節理を呈せる複輝石安山岩で、その海に面した絶壁の部分を東尋坊といっている。

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見返り橋

福井県を代表する民謡「三国節」の歌詞に「唄の上ハ町 情けの出村 わずか隔てて 地蔵坂」とあります。三国には廓が二つありました。
福井藩領の「上ハ町(うわまち)と丸岡藩領の「出村」です。
二つを繋ぐ坂道が地蔵坂というわけです。その地蔵坂を下ったところ、細い辰巳川に架かる小さな橋、ここが「見返り橋」です。

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もう一筋、川下側の通りには「思案橋」があり、廓へ遊びに行こうか止めようか、橋の袂で思案して、遊んだ後に名残を惜しんで見返るという港町ならではの艶のある名付けです。

高見順の生家

昭和を代表する作家高見順は明治40年この家で生まれた。父は当時の県知事阪本デ圭、母は高間古代。2歳の時に上京し、東京大学を卒業、作家活動に入る。「故旧忘れ得べき」で芥川賞候補に挙げられ、以後、人気作家として活躍。昭和40年食道ガンの為没する。
日本海を望む海岸崖上に古里三国に想いを寄せた「荒磯」の詩を刻んだ文学碑が建つ。

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「われは草なり」
われは草なり 伸びんとす 伸びられるとき 伸びんとす 伸びられぬ日は 伸びぬなり 伸びられる日は 伸びるなり
われは草なり 縁なり 全身すべて 縁なり 毎年かはらず 縁なり 縁のおのれに あきぬなり
われは草なり 縁なり   縁の深きを 願ふなり ああ 生きる日の 美しき ああ 生きる日の楽しさよ われは草なり 生きんとす 草のいのちを生きんとす

散歩

散歩は連日10000歩以上を目標にしているが、連日の猛暑には勝てず早朝4時半頃はまだ暗いが歩きはじめる。電池を点けて歩いている人や犬の散歩の人が結構いる。10分もすれば明るくなってくる。
陽が昇る頃には家に帰っている。

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森田銀行

二階へ

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この部屋は貴賓室とも呼ばれ、vipのお客様だけが入ることを許された部屋です。床は寄木板張りで仕上げられており、腰板の模様は、木の象嵌の技法で作られています。
尚、テーブルや椅子は昔のままですが、椅子の座面は張り替えています。照明とカーテンは、雰囲気に合わせて新調してあります。
大正時代のモダンなデザインの良さと、三国の職人の高い技術に支えられて部屋全体が上品な仕上がりとなっています。

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森田銀行

九頭竜川の河口に位置する坂井市三国町は、古来より越前の玄関口ともいうべき経済の要港として発達してきました。 その三国湊にあって中世以来、湊の発展を支えてきたのが、北前船による廻船業を生業とした豪商たちで、その中のひとつが森田家です。

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明治時代になり廻船業の衰退を察知した森田三郎右衛門は、1894年(明治27年)に森田銀行を創業し、業種転換を図りました。森田銀行は確かな信用のもと、県内上位の優良な銀行に成長します。そして、1920年(大正9年)この建物が新しい本店として落成しました。
外観は西欧の古典主義的なデザイン、内部は豪華な漆喰模様があります。細部のデザインや技術へのこだわりは建築思想の質の高さの表れであり、県内に現存する鉄筋コンクリート造の最古のものです。設計技師は横浜市開港記念会館や長崎県庁も手がけた山田七五郎氏。大工棟梁は地元の四折豊氏です。

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森田銀行はその後、福井銀行と合併し、近年まで福井銀行三国支店として営業されていました。1994年(平成6年)坂井市(旧三国町)の財産となり、詳細な調査を踏まえて復元保存工事を行い、平成11年7月より一般公開しました。坂井市は、この建物を三国湊繁栄をしのぶ大切な文化遺産として保存に努め活用を図るものです。なお、この建物は平成9年12月に文化庁の登録有形文化財に指定されています。

旧森田銀行本店

九頭竜川の河口に位置する三国町は、古来より越前の玄関口と言うべき経済の要港として発達してきた。その三国湊にあって中世以来綿々と港の発展を支えてきたのが、回船業を生業とした豪商森田家である。
明治時代になり回船業の衰退を察知した森田家は1894年に森田銀行を創業し、業種転換を図った。森田銀行は確かな信用のもと、県内上位の優良な銀行に成長する。そして1920年洋風のこの建物が新本店として落成した。

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外観は西欧の古典主義的なデザイン、内部は豪華な漆喰模様が美しい。細部のデザインや技術へのこだわりは建築思想の質の高さの表れであり、県内に現存する鉄筋コンクリート造りの最古のものである。

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設計技師は横浜市開港記念会館も手がけた山田七五朗氏で大工棟梁は地元の四折豊氏である。森田銀行はその後、福井銀行と合併したことから近年迄福井銀行三国支店として営業されていたが1994年三国町の財産となり、詳細な調査を踏まえて復元保存工事を行った。
三国町はこの建物を三国湊繁栄をしのぶ文化遺産として保存に努め活用を図るものである。

内田本家跡

内田家の祖は朝倉氏の家臣と伝えられ、元禄16年(1703)に三国湊へ来住し、屋号を室谷と号し、回船業を営み財をなし、三国湊の要職を務めた。

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中でも、六代目惣右衛門は、天保の大飢饉に際して三國神社の造営整備事業を主唱実行した。窮民を救済するという大きな功績は永く称えられた。今は庭にあったタブノキがその面影を伝える。

旧岸名家

旧岸名家は代々新保屋惣助(屋号新惣)を名乗り、木材商を営んだ。この建物は川方の商家造りの典型である。建築様式は妻入りの全面に平入りの屋根を伴った「かぐら建て」という三国湊独特のもので、江戸後期に建てられ、明治大正昭和と時代にあわせて改造された。

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先祖は宝永4年(1707)創設された俳諧の結社の初代宗匠で岸名昨曩(きしださくのう)と称す。平成16年三国町が修復して一般公開、平成17年国登録有形文化財に指定。

三国湊は粋かいな

三国は江戸時代(350年前)北前船の寄港地として栄え、江戸末期から湊の周辺には花街が賑わいました。料亭・御茶屋(19軒)が並び芸者置場(17軒)貸座敷(遊郭28軒遊女約100名)などがありました。芸妓の多い時は80人近くいたといわれています。
三国芸妓は日本でも5本の指に数える程の高い芸を持ち江戸時代の番付表(色道大鑑)の上位にランクされています。

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歴史を飾る松ヶ下の遊女・三国小女郎。そして遊女俳人歌川の句「奥底の知れぬ寒さや海の音」は大変有名です。
三国が豊かに繁栄したのもこの花街の芸妓・遊女の陰の活動があったからと考えられ、当時は三国の演舞場(芸妓のための三味線・舞踊・笛・太鼓の稽古場)から熱心に、「芸」を磨く音色が流れていた。その芸妓が残していった、お座敷唄と三味線は、三国を代表するものの一つです。

幸橋

幸橋は、福井市街を二分する足羽川に架かる橋で有り中心部の中央と毛矢を結んでいる。江戸時代、中級武士の居留地「毛屋(毛矢)」の対岸は、城郭の中心部であることから架橋を許されず、毛矢侍が城え出仕する際には、両岸に渡した綱をたぐって往来する繰舟を用いていた。
ところが、貞享3年(1686)に福井藩領が半減し、多くの浪人が生じて毛矢の武家地も空屋敷となったため繰舟も廃止された。

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その後、亨保6年(1721)に支藩の松岡が廃藩となり、松岡より移住した武士のために毛矢の家中屋敷が復活した。元文4年(1739)に毛矢侍の要請で繰舟渡しが再開されたが利用できたのは藩士と武家奉公人のみ、時間も朝6時から夕方6時頃までと「繰舟御条目」によって制限されており、このような不便な状態は幕末まで厳守されていた。
文久2年(1862)に毛矢侍の由利公正が要職に抜擢され、その提案により木造橋が架けられた。宿願かなった人々は、これを大いに喜び「幸橋」と命名した。
その後も明治20年、同38年にも木造橋で架け替えられた。

旧毛矢町

享保16年(1731)、松岡藩が福井藩に吸収された際、旧松岡藩士の多くが旧毛矢町に移住し、「毛矢侍」と呼ばれた。「五箇条の御誓文」の原案を作成した由利公正(三岡八郎)も毛矢侍でした。

     由利公正(三岡八郎)

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明治10年、当地に「福井職工會社」が設立されました。京都で近代的製職法方法を学んだ細井順子は、この福井職工會社で優秀な絹織物織工を数多く育成しました。毛矢町は、後に「羽二重王国」といわれる福井の絹織物産業の発展に大きく貢献したのです。

俵万智

さくら

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「啓発録」橋本左内

「啓発録」は嘉永元年(1848)郷土の偉人橋本左内が、15歳の時に自分の生活を反省して、自分自身を激励し、言い聞かせる意味で述べたものです。

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おくの細道の旅

松尾芭蕉は元禄2年(1689)3月27日、曽良を連れ立って東北、北陸を巡る旅に出ました。この旅は同年8月21日、大垣(岐阜県)に到着して終わりますが、これが有名な『おくの細道』の旅です。
芭蕉が北陸越後(新潟県)に入ったのは7月初めで、1ヵ月後の8月10日頃に加賀大聖寺を経て越前(福井県)に入りました。松岡で一泊したのち福井の洞哉を訪ね、ここで2泊して敦賀へ向かいます。
越前を数日かけて旅したことになります。

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越前での句は「おくの細道」で5句よまれています。
松岡
物書きて扇引きさく余波哉
敦賀
月清し遊行のもてる砂の上
名月や北国日和定めなき
いろの浜
寂しさや須磨にかちたる濱の秋
波の間や小貝にまじる萩の農
これらの句の他にも、芭蕉がこの旅で詠んだ句が知られています。そうした句からは芭蕉が西行を代表とする古典に詠まれた名所に引かれて行脚をしていたことが伺えます。

洞哉

洞哉は、松尾芭蕉の紀行文「おくの細道」に福井の俳人等栽として描かれた人物です。洞哉については、江戸時代の記録等から同書で書かれた等栽の他、等栽、可卿等の俳号をもつことが知られているのみで、その人物像は全くわかっていません。

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洞哉の住んでいた家の正確な場所ははっきりとしていませんが、俳人石川銀栄子氏の研究から、洞哉が芭蕉の枕にと木片を借りたお堂が、左内町の顕本寺に建てられたことが明らかになりました。

芭蕉宿泊地洞哉宅跡

松尾芭蕉が、「おくの細道」の旅の途中、福井の俳人洞哉を訪ねたのは、元禄2年8月11日(1689年;陽暦9月21日)のことだといわれます。

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この洞哉という人がどのような人物であったかはあまり知られていません。芭蕉の死後約100年後の寛政4年(1792)、福井の俳人たちが百回忌の法会を営みました。その時の記録の中に、「洞哉という人は、貧しい暮らしをしており、芭蕉が訪れた時も枕がなく、幸い近くの寺院でお堂を建てていたので、ころあいの良い木片をもらってきて芭蕉の枕とした」(道の恩)という話があります。
このような人柄が、芭蕉に気にいられたのか、芭蕉は洞哉の家に2泊したのち連れだって敦賀へと向かいます。

橋本左内

橋本左内は、幕末福井藩士です。16歳の時に大坂に行き蘭学や西洋医学を学ぶなど、若い頃から熱心に勉強をしました。左内は24歳の若さで藩校「明道館」の学監同様心得に就任し、欧米の優れた学問を学ばせようとしましたが、「むやみにまねるのではなく、日本古来の道徳など精神的な学問を助けるものとして学ばなければならない」と洋学を学ぶ時の注意も忘れませんでした。

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将軍の後継問題が起きると、福井藩主松平春嶽の命令を受けて、一橋慶喜を将軍にしようと江戸や京都で活動しました。しかし、徳川慶福を将軍にしようとした井伊直弼が大老になると、左内は捕らえられ、安政6年26歳の若さで処刑されました。

由利公正宅跡

この付近は、かの明治政府初代の財政担当者として、また五箇条の御誓文の起案者として知られている福井藩出身の逸材由利公正の宅跡である。彼は在藩時代三岡八郎と称して、ここに居を構えていたが幕末維新の大立物坂本龍馬や福井藩の賓師としての名声のあった横井小楠が彼を訪ねてここに足跡を印したことがある。

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実際の由利公正宅跡は、明治33年から34年かけて行われた河川改修工事によって消滅しており、現在はその跡を見ることはできない。

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龍馬の歌碑

文久三年(1863)5月、坂本龍馬は神戸海軍塾資金調達の為福井へ来た際に由利公平(三岡八郎)宅へ夜半にも関わらず、幸橋(文久2年架橋)を横目に小舟に棹さして福井藩政治顧問・横井小楠と共に訪れた。そこで、肝胆相照らす仲となり福井藩の挙藩上洛の話や、ニッポンの洗濯の話など熱い想いを歌に託し、この地にて謡ったと伝わっています。

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「そこで三人が炉を抱へて飲み始めたが、坂本が愉快極まって、
     −−−君がため捨つる命は惜しまねど心にかかる国の行く末−−−
という歌を謡ったが、その声調が頗る妙であった。翌朝、坂本は勝つと大久保に会いにいくという事で江戸に向かった。」(由利公正伝)

日下部太郎

この像は、日下部太郎とウイリアム・エリオット・グリフォスの師友関係を象徴したもので日下部太郎(1845〜1870)は慶応3年(1867)福井藩で初めて海外留学生としてアメリカに渡りニューブランズウイック市のラトガース大学に入学し学問の研鑽に励んだ太郎は広い分野で優秀な成績をおさめたが、卒業を目前にして病気の為26歳若さで客死した。

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彼の死は大学関係者や一般の市民に惜しまれ、大学は太郎に卒業生と同等の資格を与えると共に、同校の優等生で組織されるファイ・ベータ・カッパー協会の会員として彼を推薦し、その印として金の鍵を贈った。
ウイリアム・エリオット・グリフォス(1843〜1928)は大学の先輩として太郎を指導していたが、その勉学態度を見て日本人の節度、勤勉さに心を動かされ、日本に興味をもつようになった。
明治4年グリフォスは福井藩からの招聘に応じ藩校「名新館」における理化学の教師として来福し多くの若者を指導した。国内情勢の変化のため、グリフォスはわずか10ヶ月で福井を離れたが、その後も『皇国』という本の出版をはじめ数多くの講演や執筆活動を行いアメリカにおける日本紹介と理解に貢献した。

横井小楠

横井小楠は熊本藩士であったが、優れた政治思想家として松平春獄公の政治顧問となり、招かれて四度来福した。文久三年(1863)にはこの地に寄留し藩政を指導した。

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渡辺 洪基生誕の地

渡辺 洪基(わたなべ こうき)1848年1月28日(弘化4年12月23日) - 1901年(明治34年)5月24日)は明治時代の日本の官僚、政治家。

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越前国武生(福井県武生町 (現在の越前市中心部))生まれ。慶応義塾大学卒。漢学、蘭学を修め、佐藤舜海、福沢諭吉の塾で学ぶ。学習院次長、元老院議官、工部少輔、東京府知事、帝国大学(東京大学の前身)初代総長、文官試験局長官、駐オーストリア公使、衆議院議員、貴族院議員を歴任し、東京統計協会(日本統計協会の前身の一つ)、国家学会、日本建築学会、工業化学会(日本化学会の前身の一つ)など多数の学会会長を務めたほか、工手学校(工学院大学の前身)、大倉商業学校(東京経済大学の前身)の設立に関わった。

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蔵の辻

福井県越前市蓬莱町(JR武生駅から徒歩約10分)に白壁の蔵が建ち並ぶ通称「蔵の辻」と呼ばれる一角があります。この地区では江戸時代以降関西から北陸方面への物資の中継基地として栄えており、それぞれ商人たちの蔵が並んでいました。今は市街地活性化の一環として整備され、蔵の辻としての新名所となっています。

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大門通り

旧北陸道から金灯籠を背にして東に走る通りは、江戸時代から今日まで大門通りと呼ばれ府中南部の基幹道路であった。金灯籠の下で分水した町用水は、通りに沿って東に流され途中で北に落とされていた。通りを東に進めば本多公御館の表御門から南に伸びている馬場通りにぶつかりる。

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近世は聖武天皇ゆかりの河原町帆山寺に詣でる参道でもあり、通りの由来は帆山寺大門に因むといわれ、通りの周辺は殷賑を極めたといわれる。
通りの中程に「くわんおん東三丁 帆山寺」と刻まれた石柱が建っている。
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