知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

紀州鉄道(御坊寺内町)

JR御坊駅(和歌山県御坊市)

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紀州鉄道
JR御坊駅と市街地を結ぶ御坊臨港鉄道(後の紀州鉄道)が開業したのは昭和6年でした。このあたりは廻船業が盛んであったことから輸送・流通の重要性から鉄道に対して熱い期待と希望をいただいていたことが伺えます。
当時は美浜町の煙樹が浜まで線路を延長し、観光地として開発する構想が立ちましたが夢に終わり、現在は営業距離2.7キロの西日本一短い鉄道「紀州鉄道」だ。

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学門駅
御坊駅に着いたのが正午過ぎ、次の電車が1時間待ちなので学門駅まで歩くことにした。

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東町の町並み

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西御坊駅

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菅公御歌

      − 桜花 主をわすれぬ ものならば
                吹きこむ風に ことづてはせよ −   菅原道真


『桜の花よ、主人を忘れないでいるならば、太宰府にいる私のほうに吹いてくる東の風に伝言をしておくれ』

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      − 海ならず たたへる水の 底までも
                   清き心は 月ぞ照らさむ −    菅原道真

『海よりもさらに深く清水を湛えた水の底までも清く、澄みきっている私の心底を、ただ月だけが照らしてくれるだろう』

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菅公頌徳詩

菅公頌徳詩(かんこうしょうとくし)

『 冤罪左遷されて一身を虔(つつし)み詩を詠じ学を研きて天真を養う
                 誠忠滅せず志を埋むと雖ども遺徳長えに伝う文教の神 』

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菅原道真
長岡天満宮周辺は、もともと菅原道真の所領でした。道真は当時、在原業平らと共に、この地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝えられていまず。
菅原道真は、幼くして学問に優れ、その聡明さと政治的手腕から宇多天皇の信任を受けます。以後も政府の要職を歴任し、宇多天皇が法皇となったのち醍醐天皇のときに右大臣にまで登りつめました。しかし、時の権力者・藤原氏は道真の出世を快く思っていませんでした。

昌泰4年(901)、左大臣の藤原時平は、醍醐天皇に「道真が娘を斉世親王に嫁がせ、醍醐天皇を失脚させようとしている」と虚偽の報告をします。宇多法皇の政治的影響力を疎ましく感じていた醍醐天皇は、この讒言を聞き入れ、道真に九州・太宰府への左遷を命じました。

                    −東風吹かば匂いおこせよ梅の花
                                  主なしとて春な忘れそ−

八条ヶ池

長岡天満宮の東側に南北に細長くのびるこの池は、江戸時代に当地一帯を領した八条宮智仁親王が、寛永15年(1638)に境内の東側に池を開き、翌年境内周囲に堀を掘ったと云われています。

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池のほぼ中央にのびる中堤には、きりしまつつじが参道の両側に植わっています。
きりしまつつじは、「霧島ツツジ」の意で、九州南部にある霧島山にちなんで名付けられたものです。当地のきりしまつつじは野生に近い品種で、大きく株別れしており、高さ2.5〜3メートルあります。

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神足(西国街道)

江戸時代の神足村
神足村は西国街道沿いに位置し、寛永10(1633)年〜慶安2(1649)年まで、後の高槻藩主永井直清の領地となり、直清転封後は幕府の蔵入地、女院料など京都代官支配地や寺社領が入り組む、「相給」の村となりました。「相給」とは、幕府が1 つの村を複数の領主に知行させることをいい、京都近郊の村々では天皇や女院の御料、公家や寺社などの領地が少しずつ複数の村にわたって設定されたため、この「相給」の村が一般的でした。

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『旧石田家住宅主屋』 国登録有形文化財
この住宅は、店舗と住まいを兼ねた町屋で、規模が大きく江戸時代末期の町屋建築の基準となり、西国街道に面して建つ切妻造で、三面に庇を廻しています。
表構えに格子と出格子を並べ、大屋根下の白壁に二箇所の虫籠窓を開いています。玄関を入ると、通り庭が奥に続き、煙出しや六寸角の大黒柱、繊細な細工を施した座敷などが残っています。
神足村の旧家岡本家一族の商家で、江戸時代には「紙屋」の屋号で和紙などを商っていたようです。

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ガラシャおもかげの水(勝龍寺)

「ガラシャおもかげの水」

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この水は、細川ガラシャ(玉)が、夫忠興と勝龍寺城で過ごした日々、水面にその姿を映し出したでろう歴史のロマンに因んで名付けたとある。 (地下水100%水道水)

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勝龍寺城跡(供

東辺土塁と多門櫓
本丸の東辺に築かれた土塁上の平坦面で二列の石垣が見つかり、その幅4メートルの間に北東隅の建物(隅櫓)とつながった長屋風の建物(櫓)があったと考えられる。このような構造の建物は多門櫓と呼ばれ、中に弓矢や槍、鉄砲、火薬などの武器が収められ、城外の敵を攻撃できるようになっていた。
また、土塁の斜面にはテラス状の平坦面をつくり井戸を設けていた。

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北門跡
本丸の北西隅から北の出入口が見つかっている。この出入口を囲む土塁は高さ2メートル以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。城内に入るには、堀を渡って第一の門をくぐり四角い形の広場に出る。突き当たりを左に折れ、第二の門を通り、やっと城内に入れる。これは攻め入る敵を土塁上から攻撃し、簡単に城内に入れない構造になっていた。
この門から明智光秀が逃げ出したといわれる。

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沼田丸への通路
西辺土塁の中央部で、土塁の頂上にある平坦部を深さ1.5メートル掘りくぼめ、土塁が南北に分断されていた。この土塁斜面を発掘調査したところ、斜面は階段状に掘られ、二箇所で段差が見つかり、多量に石が埋まっていた。このことから、土塁の斜面に石を使って階段を造り土塁の頂上まで登り、沼田丸へ渡ったものとみられる。

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勝龍寺城土塁・空堀跡

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永禄11年(1568)に、足利義昭を奉じて織田信長が入京すると、それに従った細川藤孝(のちの幽斎)は、暫くして勝龍寺城に入りました。
藤孝は元亀2年(1571)に、信長の許可を得て勝龍寺城の改修を行い、ここに現存する土塁と空堀は、城下町を囲うように設けられた外郭線の一部で其の時の改修に伴うものと考えられています。

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天正8年(1580)に藤孝は丹後へ移封となり、翌9年には織田信長の近臣である矢部家定と猪子高就が勝龍寺城の城代となります。天正10年の山崎の合戦では、明智光秀の軍勢が陣取りますが、その後、廃城となりました。

忠興とガラシャ(玉)

明智光秀の娘玉(のちのガラシャ)が16歳で細川忠興のもとに嫁いだ城であり、丹後地方の宮津に移るまでの3年程、幸せな新婚時代を過ごした思いでの地、
輿入れから4年後、本能寺の変に続く山崎合戦では父の光秀がここで敗れ、落城、波乱の歴史を刻んだ。

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勝龍寺城跡

勝龍寺城跡は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応二年(1339)に築いたと云われる。
城は京都南西部に位置し、西国街道と久我吸を同時に押さえうる交通の要所に築かれている。

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応仁・文明の乱(1467〜1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると織田信長からこの地域を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀二年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正10年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ落城した。

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この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)が16歳で藤孝の子忠興(16歳)のもとに嫁いだところで歴史とロマンスを秘めた城としても全国に知られている。

妙長寺と泉鏡花(鎌倉)

泉鏡花は、明治6年に石川県金沢市に生まれ、北陸英和学校を中退した。明治23年、尾崎紅葉の門に入ろうとして上京したが紅葉を訪問する勇気がなく方々を彷徨した。明治24年に鎌倉に来て、妙長寺に二ヶ月間滞在し、その後、10月に紅葉を訪ね入門を許された。以後創作に励み小説家として認められ数々の名作を残した。
明治31年に小説「みだれ橋」を発表し、後に「星あかり」と改題した。

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『星あかり』
もとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ッばかり重ねて臺にした。其の上に乗って、雨戸の引合わせの上の方をガタガタ動かして見たが開きさうにもない。雨戸の中は相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ。法華宗の寺の本堂に隣つた八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向つて左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫学生が、四六の借蚊帳を釣って寝ているのである。(中略)
門を出ると右左、二畝ばかり慰みに植ゑた青田があって、向う正面の畦中に、琴弾松といふのがある。一昨日の晩宵の口に、その松のうらおもてに、ちらちら灯が見えたのを、海濱の別荘で花火を焚くのだといひ、否、狐火だともいった(後略)

九品寺(鎌倉)

鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に敵方であった北条氏の戦死者を供養するために材木座に建立しました。
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山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は新田義貞の筆を写したものと伝えられています。

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ナニワイバラ

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和田塚

和田塚は、建保元年、鎌倉幕府内部抗争による北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日まで伝承されている。
和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと伝えられている。大正末年頃の開墾などによって多くの塚が壊されたが、五輪塔をならべた和田塚はかろうじて残った。鎌倉の歴史を語る上で貴重な遺跡である。

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江ノ島電鉄「和田塚駅」

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寸松堂

この建物は、鎌倉彫の店舗兼用住宅として建てられたもので、一階店舗部分のガラス戸、ショ−ウインド−などに近代洋風建築の技術が見られますが、全体としては寺院建築と城郭建築が合体したような特異な外観が印象的です。

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鎌倉文学館

侯爵 前田利嗣の鎌倉別邸として建てられたが、1910年に火事により失われ、現在の建物は侯爵 前田利為が1936年に洋風に全面改築した建築物である。渡辺栄治が設計し、竹中工務店が施工している。

戦後の一時期、デンマーク公使や内閣総理大臣 佐藤栄作の別荘として使用されたが、1983年に前田利建から鎌倉市に寄贈され、外観をそのままに内部の補修・収蔵庫の新築をおこない、1985年10月31日に開館した。

残念ながら月曜日で休館でした。

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のり真安齊商店

のり真安齊商店(鎌倉・長谷)
安齊商店は、長谷界隈の商業地としての歴史を伝える貴重な建物です。石造の基礎や土間、揚戸など近世の商家を思わせる造りは創建当初の姿をよく留めています。店舗の奥には、昭和13年に建てられた倉庫兼住宅が残されています。

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萬屋本店

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与謝野晶子

       かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は
                美男におはす夏木立かな    与謝野晶子

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海紅豆

マメ科の常儿睫據▲屮薀献觚胸困韮況遏腺厳邵◆∋淦茲猟垢げ崕に深紅色の花を付ける。

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龍の口

当地は鎌倉幕府時代の刑場跡である。
幕府の公式記録である『吾妻鏡』には腰越、龍の口に於いて斬首との記載が多く見られる。

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菩提樹

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鎌倉時代、日本は内乱や大震災・飢餓疫病の蔓延など、まさに地獄の様な悲惨な状況にあり、それらを憂えた日蓮大聖人は『立正安国論』を顕し幕府に奏上して法華経の教義に基づく国家の安寧と民衆の救済を提起した。
しかし、幕府は政策への中傷と受け止め『貞永式目』の「悪口の咎」に当たると解釈し、文永八年(1271)九月十二日、鎌倉松葉ヶ谷の草庵で説法中の日蓮大聖人を捕らえ、この龍の口に連行した。

日蓮大聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ず刑場に連行した為、幕閣からも異議が出され、処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半に至り処刑中止の使者を送った。

その間にも刑場では評定の決定を待ちかねて、九月十三日子丑の刻(午前二時)、日蓮大聖人を敷皮石(首の座)に座らせ斬首の準備を整えた。
しかし処刑の瞬間、時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来たりて、執行人は眼がくらみ、畏れおののき混乱の中、使者が到着し刑は中止となった。

妙本寺(鎌倉市)

この寺一帯の谷を比企谷(ひきがやつ)といい、源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷がありました。
比企一族は二代将軍・頼家の後継者の際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました(比企の乱)。

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その後、乱から逃れていた末子能本が一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりと云われています。
4月から8月にかけて、さくら、カイドウ、シャガ、ノウゼンカズラ等が花をつけます。

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栴檀

暖地の海岸近くに自生する。本来の自生は四国までとされるが、公園などに植えられたものの逸出、野生化で関東地方〜宮城でも自生が見られる。
樹高は、10〜15メートルくらいで花の時期は、新緑とともに樹の梢にもやがかかったように紫色の花が咲く。
「栴檀は双葉より芳(かんば)し」とする栴檀は日本で言う白檀のこと。

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葉は互生し、2〜3回羽状複葉。小葉は卵形または卵状長楕円形で、縁は鈍い鋸歯がある。複葉の全体は大きいが、小葉は小さい。
花は5〜6月に、今年の枝の基のほうの葉腋から複集散花序を出す。花は小さく2センチほど。萼片、花弁は5枚、雄しべは紫色で花糸が合生し筒状になる。

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本覚寺(鎌倉市)

本覚寺のある場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てたと云われている。その後、鎌倉の公方・足利持氏が寺を建て寄進したのが本覚寺であると伝えられる。

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日蓮大聖人辻説法跡

日蓮大聖人は建長五年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、訪ねた名越家は郎党に命じて、快く自分の土地の松葉ヶ谷に草庵を建てました。
鎌倉時代、この辺りは武家屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺り(小町の辻)を訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられています。

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大銀杏(鶴岡八幡宮)

建保7年(1219)1月27日、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、源実朝を殺害したという伝説があり、隠れ銀杏という別名がある。しかし、当時の樹齢を考えると、人が隠れることのできる太さにはまだ成長していなかったという説もあるため真偽は不明。伝説を疑問視する説もあれば、公暁が身を隠したのは先代の樹であり現在の樹は2代目であるとする説もある。1955年より神奈川県の天然記念物に指定され、樹齢800年とも1000年余とも云われていた。

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2010年3月10日に、強風のために大銀杏は根元から倒れた。元の場所に残された根から若い木が勢いよく伸び出し、移植した幹からも萌芽し葉を付けている。

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鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

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「康平6年(1063)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年(1081)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。」とある。

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鶴岡八幡宮から若宮大路を望む

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