久能山は日本平と共に海底の隆起に出来たものでその後浸食作用等で孤立したが昔は日本平と続いていた。
武田信玄は、1568年久能寺を北矢部に移し山上に城塞を設け久能城と称した。1582年武田氏滅びて駿河の国一帯が徳川氏の領有するところとなった。
1616年4月17日家康公の死後、久能城を廃止して東照宮を建立した。
楼門
拝殿
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心にのぞみおこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば害其の身に至る。己を責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり
慶長八年正月十五日 家康(花押)
「家康公は1542年12月26日三河国岡崎城に生まれ、あらゆる艱難辛苦の末、戦国時代に終止符を打ち江戸時代二百六十年に亘る、世界に其の比を見ない長期平和の礎を打ち立てられ、学問、産業、文化の基礎を確立し、晩年は駿府城に隠居され御遺命により当山に葬られた」とある。
武田信玄は、1568年久能寺を北矢部に移し山上に城塞を設け久能城と称した。1582年武田氏滅びて駿河の国一帯が徳川氏の領有するところとなった。
1616年4月17日家康公の死後、久能城を廃止して東照宮を建立した。
楼門
拝殿
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心にのぞみおこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば害其の身に至る。己を責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり
慶長八年正月十五日 家康(花押)
「家康公は1542年12月26日三河国岡崎城に生まれ、あらゆる艱難辛苦の末、戦国時代に終止符を打ち江戸時代二百六十年に亘る、世界に其の比を見ない長期平和の礎を打ち立てられ、学問、産業、文化の基礎を確立し、晩年は駿府城に隠居され御遺命により当山に葬られた」とある。