知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2012年04月

長谷寺

先日はうかつにもバッテリーが切れた。

 長谷寺仁王門

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 今回は充分に準備した。

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 五重塔

 
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 一切経堂

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 本坊

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 咲き始めた牡丹 例年よりも10日遅いという。

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東寺 五重塔


 五重塔は落雷などによって4度焼失し、この塔は1644年に再建された。

東寺 五重塔

 金堂と五重塔

金堂と五重塔

 国道1号線を北上すれば南大門に突き当たる。右折れすれば九条通り何度も通った道、

旧柳生藩家老屋敷

柳生藩(一万石)幕末の家老 小山田主鈴の旧邸

柳生藩家老屋敷

柳生藩家老屋敷

柳生藩家老屋敷

念ずれば


       念ずれば
       花ひらくなる必ずや
       柳生坂道来ます日
       待たむ

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旧柳生藩陣屋跡から正木坂を下って市営駐車場からは芳徳寺まで上り坂となる。
その途中にこの石碑があった。

遠い記憶

ニコンFを買ったのが17歳位だった。その頃、長谷寺に行ったことを記憶している。
仁王門は記憶から消えていたが登廊とその右にボタンの花が咲いていた。雨に濡れていたような記憶がある。

登廊

 仁王門(携帯電話のカメラで撮影)

仁王門


何度か撮影した真新しいコンデジを手にして出かけたため登廊で何枚か撮ったら電池切れ、やはり今までのコンデジの方が電池も少し大きいし機能も多いから良いようだ。
ボタンの花が咲いた頃にもう一度行ってみよう。

葛城の道

数々の遺跡や社寺を訪ねる全長15キロメートルの散策路「葛城の道」は葛城山と金剛山の山麓を歩く緑豊かなルートとなっている。

九品寺周辺

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蓑虫庵


伊賀における芭蕉ゆかりの草庵はには、瓢竹庵、東麓庵、西麓庵、無名庵、蓑虫庵がり、後に芭蕉五庵と称したが現存するのは蓑虫庵のみとなっている。

蓑虫庵

蓑虫庵

旧崇廣堂

1821年伊勢津藩第10代藩主藤堂高兌の時代に伊賀・大和・山城の領地に住む藩士の子弟を教育するため、津の藩校有造館の支校として建てられた。
 御成門

御成門

 中庭

中庭

 講堂

講堂


 所在地; 三重県伊賀市丸の内78番地の1

カクレミノ


ウコギ科 カクレミノ属
分布 関東以西 暖帯の林内に生える
葉形がみのに似る

カクレミノ

史跡 比曽寺跡

 園城寺三重搭はもと大和国の比曽寺(現代の世尊寺)にあった東塔を慶長6年(1601)に移したもので大和地方における中世の塔の風格を持っており鎌倉時代和様の様式を伝える南北朝時代頃の建築とされているとの説明がある。

 園城寺三重塔

園城寺三重搭

 三間三重の塔婆の形式で本瓦葺きの屋根を持ち、各重の落ちも大きく初重目に縁をつけ、また二重目、三重目に菱格子を用いているのは珍しく国の指定文化財となっている。

 移したとの説明に「なぜ」と疑問に思い世尊寺に行ってみた。
 大和国と言っても吉野に近く南大和と言った処か。上比曽となっていた。

 世尊寺(比曽寺跡)三門

世尊寺

世尊寺

 東塔は寺伝によると、聖徳太子が御父三一代用明天皇のために建立され、その後、鎌倉時代に改築されたことが礎石の一部によって知ることができるとある。

 文禄3年(1597年)豊臣秀吉によって伏見城に移され、さらに四年後、慶長6年(1601年)徳川家康によって大津の三井寺に移築されたとあった。

 東塔跡

東塔跡


 飛鳥時代に創建されたとされる西搭は33代推古天皇が夫の帝30代敏達天皇のために建立したが相次ぐ戦乱に災いされ、惜しくも西塔は「賊の手によって焼失せり」と、古今物語に記されているとある。

 西塔跡も残っているが、東塔跡との間が狭い、多分、後から盛り土され礎石を置いたと考えられる。比曽寺当時は境内も広く東塔西塔間も距離があったのではと推測した。
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