知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2012年10月

女川

女川町も甚大な被害

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何処も瓦礫の山が、

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防災対策庁舎(南三陸町)

テレビや新聞で何度も報道された防災対策庁舎

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平泉から陸前高田に
なだらかな下り坂をすぎると目に入ったのはプレハブの商店
さらに下ると家屋の基礎しか見えない
海辺では復旧にあたる人々やトラックが行き交っている

鉄路(石巻線)

石巻線 渡波〜女川間不通 女川周辺の被害が大きいため、2013年度運転再開を目指し復旧工事が進められている。

                   レールは赤く錆びていた
                     10月12日現在

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二蕉庵紫香句碑

       もみじして
        落葉して呵々
         朽ば哉

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紫香は幕臣として江戸に生まれ漢方医であった。(履歴は明らかではない)山口に往来したのは日露戦争の頃、近隣の青年男女に漢籍や俳句を教え多くの人々から敬愛された。大正八年八十歳没

遣水(やりみず)

遣水は池に水を取り入れる水路であり、玉石を底に敷き詰め流れには水越し、水切りの石、その他水の曲がり角や池への注ぎ口に石組みを配するなど平安時代の「作庭記」の様式を余すところなく伝えている。

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その美しい流れとせせらぎは浄土庭園に風雅な趣を添えており、「曲水の宴」の舞台ともなるとある。

みちのく深沢温泉

八甲田山駐車場から少し下ったところで温泉を見つけた。道路から温泉までは珍しい地道、

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入り口は下の写真だが温泉はとても良い。

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タオルはあるかと聞くと後ろを指指した。
湯船には誰も居ない、露天風呂に行くと先客が一人居た。

青森市内から週に2〜3回来るという。
手が届きそうな露天の下の川にカルガモの親子が泳ぐこともあるという。

絵になる風景だった。写真が撮れなかったのが残念だ。

八甲田丸

青函連絡船として1964年から1988年まで青函航路に就役していた八甲田丸の船体をほぼ往時のまま残して展示したもの、

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太宰治

太宰治(1909〜1948) 本名 津島修治
青森県津軽の大地主の家に生まれる、父親は貴族院議員も務め邸宅には30人の使用人がいた。

「苦悩の年鑑」のなかで、
「私の生れた家には誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が私たちの祖先なのに違ひない。私は無智の食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に名を知られ始めたのは曾祖父惣助の時代からであつた 」

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エル・グレコ展


没後400年を迎えるスペイン絵画の巨匠、エル・グレコの油彩の傑作ばかりを集めた国内で最大の回顧展が大阪中之島の国立国際美術館で開催されたので観に行った。

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通称「エル・グレコ」(1541〜1614)は16〜17世紀にかけてのスペイン絵画黄金期に活躍し、ベラスケス、ゴヤとともにスペイン三大画家の一人に数えられる。

展覧会は、プラド美術館、メトロポリタン美術館、ボストン美術館など、世界十数カ国の美術館やトレドの教会群から油彩ばか約50点を集めたという。

御薬園(国指定名勝)

中央に広い池を配置し、中島をおき茶亭を設けて楽寿亭と称す。池の奥には右には男滝、左に女滝があり、後方に低い築山を設けて東山連峯の風景を取り入れている。

 楽寿亭

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三代藩主 松平正容のときに朝鮮人参の栽培に成功して御薬園と呼ばれる。池を中心とした借景池泉回遊式で敷地面積が5100坪あり、まさに大名庭園である。

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 御茶屋御殿

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茶席、書院、御慰所として用いられ、戊辰戦争のときには西軍傷病者の治療所となった。


所在地 福島県会津若松市花春町8−1
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