知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2012年12月

歓喜の年に

大阪南部に本年最後の夜が明けようとしています。
本年中に知音の旅人に訪問戴いた皆様に感謝とお礼を申し上げます。

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松江の城

1607年から5年の歳月を費やして堀尾吉晴によって築城された。
松江城は千鳥城ともいい、堀尾氏、京極氏、松平氏によって出雲国を領した。

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寄木柱
肥え松の一本柱の外側に板を揃えて寄せ合わせ、これを鉄輪で締めて太い柱が作られている。この柱の方が力学的に強く苦心の力作である。

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桐の階段
板の厚さ10センチ、階段の幅1.6メートル、階段を引き上げたり、防火防腐のために桐を用いた。

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望楼からの展望

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打ち込み接(松江城石垣)

島根県庁は観光客に土日祭は駐車場を開放している、全ての駐車場ではないので要注意。

松江城の石垣は、「野面積み」と「打ち込み接」(全体の6割)という石積み手法で城は5年で完成したが、そのうちの3年を石垣に費やしたといわれている。

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※ 野面積・・・自然石や割石を積む方法
※ 打ち込み接(はぎ)・・・石切り場で切り出した石の平坦な面の角を加工し合わせやすくした積み方

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石に刻まれた刻印は堀尾家の紋で、工事の分担や石切場の区、別合わせ印など土木工事を円滑組織的に行うために付けられた記号と考えられるとしている。

盛り砂

日本刀は使わない状態では良く切れないことがあるので、

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一大事が起こった場合、この盛り砂に数回切りつけてすぐに実践に使用できるようにする為、

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武家屋敷の門から玄関までの間に必ず設けてあったという。

塩見縄手

初代出雲藩主堀尾吉晴が1607年から1611年にかけて松江城築城の際に城地の亀田山と北側の赤山の中間にあった宇賀山を掘削して、内堀と平行する道路および侍屋敷を造成した。

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この道路が塩見縄手と呼ばれる。縄手とは縄のように一筋にのびた道路のことをいい、二百石から六百石程度の中級武士の屋敷が並んでいた。

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この武家屋敷に一時住んでいた塩見小兵衛がのちに異例の栄進をしたため、それをたたえて塩見縄手と呼ぶようになった。

松江市伝統美観保存地区に指定され、昭和62年には建設省「日本の道100撰」に選ばれる。

小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)旧居を訪ねて

英語教師として松江に赴任した八雲はセツ婦人と共に、かねてからの念願であった武家屋敷(松江藩士 根岸家)を借りて暮らし始めた。

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 部屋を取り囲む庭は自然の山水を絡め趣があり退屈を余儀しない。

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住居も庭も趣はあるがこの地方の自然環境を察するに、現代に生きる私から見ると凍てつくほどの寒さには耐えられないと思うが、
私も子供の頃は火鉢と湯たんぽしかない雪深い山奥で住んでいたのだから人は自然にある程度順応するものだとも思う。

北惣門橋(松江城)

 北惣門橋は内堀の東側にあった家老屋敷と城内を結ぶ重要な通路であった。

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明治時代に石造りのアーチ橋に変わり「眼鏡橋」と呼ばれていたが、史跡にふさわしい木橋とするために橋下の発掘調査や絵図・文献資料を検討して現在の橋が復元完成した。

寒牡丹

春と晩秋から冬にかけて花を付ける二季咲きの品種、霜よけの薦をかぶり寒さに耐えて咲く姿は可憐で心を和ませる。

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 別名; 二季咲き牡丹

多久の湯

 露天風呂は風が強く湯煙と共に湯も飛び散っていた。

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所在地 島根県松江市鹿島町北講武885−7

どんづる峯(屯鶴峯)

 「どんづるぼう」 天然記念物

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瀝青岩の噴出をもってはじまった二上山の火山岩屑が水底に沈積して凝灰岩層となり、その隆起と風化水蝕により奇岩・奇勝となったものとある。

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