知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2013年02月

旧中畑陣屋(県指定重要文化財)

この陣屋は、天保年間、旗本松平氏代官陣屋として創設された。

木造平屋建、寄棟、かや葺、玄関唐破風付

-

母屋は簡素ながら床・棚・書院などを初め、次の間・玄関式台に至るまで書院造の形態をよく示し、二つの座敷の配列などに若干数寄屋風加味するなど、さす組、かや葺や勝手土間などには地域農民住居の手法も残している。

-

西白河郡矢吹町中畑にあったが昭和49年に現在地に移築復元した。

-


所在地 福島県会津若松市東山町大字石山字院内一番地

會津藩校「日新館」

全国三百藩校のなかでも規模内容ともに随一謳われた日新館であり、五代藩主松平容頌の家老田中玄宰の「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の養成にあり」との進言によって五年の歳月をかけ1803年に鶴ヶ城の西側に学問の殿堂として完成した。

−

面積八千坪、建坪千五百坪で幕末に飯森山で自刃した白虎隊の少年達も勉学はもちろん、「ならぬことはならぬ」の精神を学んだ。

「日新」の名は、「苟ニ日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ又日ニ新タニセン」の文に由来し、その教育は藩祖の遺訓を旨として、文武両道にわたる幅広い内容であり、文は漢字を主として天文学、蘭学、舎密学(化学)等にわたる多数教科制で武は兵学をはじめ、弓術、刀術等武芸全体に及び学力の水準は群を抜いていたとある。
水練水馬池(鎧、かぶとを身に付けたまま泳ぐ練習をする池)もあった。

−

日新館入学前の六歳から九歳までの子供達に徹底的に教え込まれた「汁の掟」

一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
  ならぬことはならぬものです

−

日新館は戊辰戦争で焼失したが昭和62年に復元された。

芳洲庵

雨森芳洲は1668年に近江国伊香郡雨森郷に生まれ、十八歳になると学問の道を志し木下順庵の門をたたいた。
やがて師の順庵の推挙で、僻遠の地、津島藩の宗氏に仕える。徳川幕府は鎖国政策を外国との交流のない時代であったが朝鮮とは「通信の国」として交流があった。

-

対馬藩に儒者として迎えられた芳洲は、二十九歳で朝鮮方佐役という外交の実務を担当する役を命ぜられ対馬藩が受け持つ朝鮮外交の担い手として活躍する。

-

当時は、筆談外交の時代であり芳洲は「相手国のことばが語れなくて何が交隣ぞや」と三年間釜山に滞留して朝鮮語を修得した。江戸時代の中期、三音(三ヶ国語)の通じる国際人は雨森芳洲ただ一人であったろうといわれている。

-

芳洲は正徳元年と享保に朝鮮通信使に随行して「誠信外交」を実践した。
八十八歳という高齢で対馬において天寿を全うするが、その生涯は日朝友好の架け橋を渡した先駆者であり今なお輝いている。

余呉の湖

水上勉の小説「湖の琴」の舞台になった余呉湖、始めて余呉駅に降り立ったのは遠い昔、あれから何回通っただろうか、今年も行ってきた。

余呉駅

昨年は積雪が多く余呉湖一周ができなかった。

余呉湖

余呉湖

向井家住宅

江戸時代泉南地域の農家の住宅で、土蔵の棟木に享和2年(1802年)建立の墨書があり、母屋もその頃に建てられたと考えられている。

-

土間の北側に3穴の立ちかまどとながしを置き小屋組「天井」は細い竹材で組まれ太い棟木や梁で重い屋根を支えているとある。
屋根は茅葺きで、庇には本瓦を、一番高い棟には巨大な雁振瓦を乗せている。


内部見学は予約が必要、休館日 月曜から水曜 
問い合わせ先 泉佐野市役所 社会教育課 072−463−1212
駐車場 無

藤樹書院跡

藤樹書院は、江戸時代の陽明学者の中江藤樹(1608〜48)が開いた私塾で、門人たちに講義する場所として建てた会所が手狭になり新築した。
当時の建物は1880年の大火で近在の農家34戸と共に焼失し、現在のものは1882年に再建され元の建物よりも規模が小さくなっている。

-

「藤樹規」及び「学舎座右戒」がつくられ、「藤樹規」には、

一、大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民を親しむに在り、至善に止まるに在り。
一、天命を畏れ、徳性を尊ぶ。
一、博く之を学び、審らかに之を問い、慎んで之を思い、明らかに之を弁じ、篤く之を行う。
一、言ふに忠信、行うに篤敬。念を懲らし、欲を塞ぎ、善に還り過を改む。
一、其の義を正して、其の利を謀らず。其の道を明らかにして、其の功を計らず。
一、己の欲せざる所、人に施すなかれ。行なって得ざること有れば、諸を己に反り求めよ。

-

「村民の之を尊信すること神の如く」であり、彼が亡くなった時には「隣里郷党皆涕泣して柩を送る。其の状恰も親戚を喪するが如し」だったと伝えられている。

-


所在地 滋賀県高島市安曇川町上小川225
     書院の横に見学者の休息施設「良知館」がある

雑賀の舟鉄砲

司馬遼太郎は野に咲くタンポポや菜の花が好きだったことから2月12日の命日を「菜の花忌」という。
東大阪の小坂にある司馬遼太郎記念館は菜の花でいっぱいになる。かなり前になるが「二十一世紀に生きる君たちへ」を買って帰った。

数ある作品のなかに「雑賀の舟鉄砲」がある。

石山合戦は織田内大臣信長が、海内経営の用地として摂津石山の地に着目し、本願寺上人顕如に立ちのきをせまったところから端を発している。

-

主人公雑賀市兵衛は門徒のひとりとして石山本願寺に入るが、働けば金穀を貰えると思っていた。合戦によって武功をかせがなければ分家を建て嫁をもらうことがでないのである。

ところが、手柄をたてたとき、「そこもと働き、殊勝である。いよいよ精を出さば、極楽往生は決定であろう」という門主からの感状一枚であった。
死んで極楽往生はいい。しかし、生きて嫁をもらわねば、人として生まれてきた何の甲斐があろうと思う。

武士は手柄をたてれば領地を与えられ石高は増え金銀がふるまわれる。門徒衆は金穀を共せられるわけでもなく、位階をもらえるわけでもなかった。数万の門徒はすべて弾丸糧秣を自弁していた。
「働らかば、極楽浄土に連れまいらすぞ」という本願寺上人のことばであった。

市兵衛は鉄砲の腕をかわれ播磨三木城へ行くことになり、そこから人と人との出会いが始まる。見事なタッチで描く司馬作品は読み出せば引きずり込まれとまらない。



明々庵(県指定文化財)

明々庵庭園から松江城を望む

-

松江藩七代藩主松平不昧公によって1779年に建てられ、松江から原宿へ、そして四谷へと次々と移築を繰り返した。

-

まさに流転の茶室で松江に帰ったのは1966年のことであった。

雪が降る

近年はめったに雪は降らない、そして降っても積もることは少ない。
予報どうり雨だったが、夜明け前に粉雪に変わった。

−

うっすらと降り積もったが昼過ぎには止んでしまった。

和歌山県の新宮だったか、長野から大型トラック8台の雪が運ばれ子供たちが楽しく遊んでいる姿がニユースで紹介されていた。

宇和島城天守(国重要文化財)

1596〜1601の藤堂高虎創建時には大半が海に面する地形を巧みに活かし、石垣や天守、矢倉は、1615年に入部した伊達家により修築された。

-

現在は道路の辺りがかなり埋め立てられていると聞いた。

-

丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に二ノ丸、藤兵衛丸、代右衛門丸、藤兵衛丸、長門丸を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀を隔てて侍屋敷が置かれた。
外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接していた。
記事検索
おきてがみ
web拍手
Archives
メール
  • ライブドアブログ