知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2013年04月

錠前


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瓊花(けいか)

中華人民共和国は江蘇省揚州原産で、かつて隋の皇帝・煬帝が大変お気にめされたことから以来門外不出となったという名花で、鑑真和上の故郷である揚州から贈られた瓊花が見頃となっている。

瓊花

別名「八仙花」と呼ばれる。

何度も足を運んでいる奈良公園周辺を散策した。帰りに少し足を伸ばし西の京を歩き唐招提寺に立ち寄ったところ御影堂供華園が特別公開されていて瓊花を知ることができた。

所在地 奈良県奈良市五条町13−46   唐招提寺

獲物


川鵜と思うが、

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「ちょっと大きすぎたか」   しばらく見ていたが飲み込めない様子だった。

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関ヶ原の合戦

関ヶ原町歴史民俗資料館−史上最大のドラマを史蹟とともに見る

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西暦1600年9月15日、日本列島のほぼ中央で東西交通の要に位置する関ヶ原において天下分け目の戦いが繰り広げられた。
天下の覇権をねらう東軍(約74000)徳川家康と、家康の野望を阻止せんとする西軍(約84000)石田三成の雌雄を決する関ヶ原の戦いは関ヶ原盆地において激突となった。

 笹尾山から

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慶長5年9月15日午前8時頃、井伊、松平が先ず進出して宇喜多の隊に攻撃をした。かくて戦機を東軍右翼の諸隊は石田、小西の隊を攻撃、左翼の藤堂、京極の隊も大谷の隊と交戦し戦いはたけなわとなった。

 決戦地

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家康は最初桃配にあったが、午前11時頃には陣場野に進出して全軍を指揮した。松尾山上の小早川秀秋はかねてから家康に反応の約があったので遂に反旗をひるがえして大谷の隊を突いた。

小早川らの反応で大谷の隊が潰滅すると形勢は逆転した。そして最後に島津惟新は東軍の中央を突破して伊勢街道への脱出に成功した。
その結果東軍が大勝し徳川家康は2世紀半にわたる泰平の世を実現することになった。

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備考: 三成の決起と家康の陣固め
    
    6月18日 家康伏見城を発ち会津遠征に向かう
    7月11日 三成佐和山城で吉継に家康討伐を打ち明ける
    7月25日 家康小山で三成を討つため西上を決定する
    8月10日 三成大垣城に入る
    8月26日 東軍美濃赤坂に結集する
    9月 3日 大谷吉継山中村宮上に布陣する
    9月14日 美濃赤坂に入る
           島右近率いる西軍、杭瀬川の戦いで勝利する
           小早川秀秋、松尾山に布陣する
           三成大垣城を午後7時頃出陣する
           家康赤阪を午前0時頃出陣する

     戦後処理と動向

    9月17日 三成の居城佐和山城が落城する
    9月19日 家康草津に入る
    9月19日 小西行長、伊吹山中で捕らえられる
    9月21日 三成、古橋村(滋賀県木之本町)で捕らえられる
    9月23日 大垣城開城される
    9月23日 安国寺恵瓊、京都で捕らえられる
   10月 1日 三成、行長、恵瓊、京都六条河原で処刑される
慶長8年(1603)
    2月12日 家康征夷大将軍となり江戸幕府を開く

立哨台

立哨台
戦時中火薬庫内の監視・警戒にあたる歩哨(兵士)が昼夜交代で立っていたボックス、かつてこの立哨台はレンガ造りの営門前をはじめ、庫内の重要な場所六ヵ所に設置されていて火薬庫のシンボルとなっていた。

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旧陸軍火薬庫跡
大正初期から昭和20年までの30年間、この区域一帯は火薬庫として使用されていた。周囲6キロ、面積約270ヘクタールと東洋一の規模だったといわれている。

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ここに火薬庫が造られたのは交通の便がよく小高い丘は洞窟を築く上で都合がよいなど、立地条件に恵まれていたといわれている。

所在地: 岐阜県不破郡関ヶ原町

賤ヶ岳

賤ヶ岳の南麓「大音」「西山」の里は製糸業(生糸)の盛んな地方であった。
琴糸や三味線糸は黄色であるがその染色は昔は梔子(くちなし)の実が使われていた。今もこの地方には庭先や畑地には梔子が植えられているとある。

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賤ヶ岳古戦場
「信長公記」によると賤ヶ岳合戦以前天正元年に浅井朝倉方の賤ヶ岳布陣の記録がある。また、「領家文章」には天正元年に「しつかたけの城」とあり賤ヶ岳合戦以前の賤ヶ岳城が確認できる。

1583年、信長の重臣であった柴田勝家と羽柴秀吉がこの賤ヶ岳を中心として信長の後継者争いをし秀吉が勝利し天下取りを決意した戦いだといわれている。

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賤ヶ岳から奥琵琶湖を望む

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余呉湖

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備考: 秀吉方で功名をあげた兵のうち7人は後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる。
     福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元
     実際に感状を得て数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様とある。

    それ以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含めた14人の若手武将が最前線で武功を挙げ
    たと記録されている。

清水谷道(小谷城跡)

小谷城の清水谷入口には清水谷を守るため閉鎖するように作られた幅約20メートルの堀があった。

堀から清水谷中央の道が清水谷道であり、浅井家重臣の屋敷等が建ち並んでおり、御屋敷からは急な登り道となり織田軍が最後の小谷城攻撃で攻め登った谷と言われている。さらに登ると三田村屋敷・大野木屋敷と連なり小谷城主郭の最奥の六坊に至る。

清水谷の最も奥に位置していたのが御屋敷で浅井亮政・久政・長政やお市の方とその子供たちの茶々、初、江が暮らした所と考えられている。

御屋敷跡

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備考: 清水谷道の両脇には、磯野丹波屋敷、遠藤屋敷、木村屋敷、山城屋敷、天徳寺等や井筒があったと云えられている。
清水谷の西の山上には山崎丸と福寿丸があった。

山王丸跡(小谷城跡)

京極丸跡
京極氏の屋敷があったと伝えられている、大広間に次ぐ広大な曲輪である。
前面に馬出のように曲輪を配置し、東側に高さ3メートルの土塁を設けその下に四段の曲輪を配置する。清水谷側斜面にも広い曲輪を設けている。

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小丸跡
二代城主久政が引退した後に居住したところと考えられている。天正元年(1573)八月に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴松太夫の介錯により自刀した曲輪と伝えられる。

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山王丸跡
山王丸は四段からなり最頂部に三王権現が祀られていた。高さ5メートルの比較的大きな石により石垣が築かれ枡形の虎口が考えられ規模は本丸を上回る。小谷城絵図には山王丸から清水谷に向けて搦め手道が描かれている。

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六坊跡にも行きたかったが尾根を下がった所にあるため熊の出没も考え引き返すことにした。
桜馬場跡あたりまで下ると鈴の音が聞こえた、風のない日は遠くからでも鈴の音が響き聞こえる。

伊吹山ドライブウェイ

早く着きすぎて一番乗りとなってしまった。全長17キロのドライブコース。

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2013年開業特典として戴いたタオルとDVD、伊吹山の温度は2度と表示されていた。

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ツタウルシ


小谷城跡清水谷で見たツルウルシ、日本各地に分布する落葉のツル植物、紅葉は他のウルシ属と同様に美しい。

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気根により他の樹木や岩に這い上がる。ウルシ科の中では毒性が強いので要注意。
私は面の皮が厚いのかウルシには触れても何ともないがツルウルシは試したことがない。
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