知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2013年04月

中丸跡(小谷城跡)


御局屋敷跡
本丸の西下(清水谷側)にある曲輪、御馬屋敷跡から続く帯曲輪で本丸を守るために設けられた。
谷から帯曲輪までは何本かの竪堀が配置されている。

-

大堀切跡
本丸跡の北にある大規模な堀跡で尾根を大きく削ってある。
番所跡から本丸跡までとその上をくぎるためのものと説明する。

-

中丸跡
大堀切跡の北にある曲輪で三段からなる。
石垣はみられるが土塁は設けられていない。虎口を左右に振り分け攻めにくくしている。

-


帯曲輪跡
御馬屋敷跡から中丸跡近くまで清水谷側の斜面に幅3〜5メートルの帯曲輪があり、大広間付近には高さ1メートルの石垣が築かれている。
主尾根斜面の曲輪の配置は清水谷側に多く、これは地形が東側は険しく曲輪の必要がなかったためと、清水谷にあった浅井氏の居館や家臣団の屋敷群を守るためである。

本丸跡(小谷城跡)


黒金門跡
大広間入口に設けられた門であり、鉄を打ち付けた門であったと考えられる。

-

大広間跡
別名「千畳敷」と呼ばれ、長さ約85メートル幅約35メートルあり前面に現在は崩れているが高さ4メートル(桜馬場跡)の石垣が積まれており東寄りに黒金門跡がある。
東側には1.5メートルの石垣が築かれ大広間跡には建物跡がある。北東隅には石組の井戸跡と北西隅には蔵跡が確認されている。

-

本丸跡
江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており鐘丸がその機能を表していると考えられる。
南北約40メートル東西約25メートルの広さを持ち上下二段からなる。
大広間跡側に石垣が築かれ、東西の裾に土塁が築かれている。

-

桜馬場跡(小谷城跡)

御馬屋敷跡から登って、

-

首据石
黒金門跡の手前にあって、天文二年(1533)一月、初代亮政は六角氏との合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる。

-

桜馬場跡
御馬屋敷の上方にある曲輪で細長く左右二段からなる。西側の曲輪では建物の礎石が確認されている。

-

NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」でロケ地となった桜馬場跡、

-

左の虎御前山は織田信長が小谷城攻めの拠点とした。
山本山は小谷の支城、山本山城があった。
丁野山は小谷の支城、丁野山城と中島城があった。
山崎丸跡は清水谷を挟んで向側の山上にある。

お茶屋跡(小谷城跡)

お茶屋跡
番所跡の上にある曲輪で主郭の最先端に位置する。L字型の土塁の内部には小規模な御殿があり、西側には庭が存在したと考えられている。

-

馬洗池跡
湧水ではないが往時は年中水が絶えなかったと云う。
馬を洗った池と解するよりは、桜馬場下の石垣に取り付くことを防ぐ為の水堀と考えられる。

-

御馬屋跡
高い土塁が三方を囲んだ構造を持つ曲輪であり、馬屋があったかどうかは意見が分かれる。
本丸跡の前面にあり本丸を守る為の曲輪であり、中央に井戸があったことが確認されている。

-

清水谷側(西側)の斜面に本丸跡後方まで幅2メートルの帯曲輪があり、いくつかの堅堀もみられる。

-


金吾丸(小谷城跡)

山の雪も溶けたころと思い2月に登らなかった小谷城跡に行ってみた。
今回は番所跡から、

入り口付近にこの看板、万が一のことを思い杖を借りていく。

-

金吾丸跡
1525年(大永5年)、六角高頼が小谷城を攻めたとき、越前の朝倉金吾教景がここに布陣したといわれ教景の名乗りを取って金吾丸と名付けられたと伝える。四段の曲輪と土塁からなる。

-

伏虎像

江戸時代の和歌山城は別名「虎伏山竹垣城」と呼ばれ、これは城の建つ山が海上から見ると猛虎が伏している姿に似ているからである。
現在は「伏虎城」、「虎伏城」とも呼ばれている。

-

この像は二代目にあたる、初代の虎は立像であった。
和歌山県出身の有吉佐和子著「紀ノ川」に登場し、「虎の前足と後足が同時に前進しており不自然である」と登場人物に語らせるくだりがあり広く知られるようになった。
初代「伏虎像は銅像であったために昭和17年に供出されている。

内陸直下地震

13日早朝、私は名神高速道路桂川PAで休憩と時間調整をしていた。
現地でゆっくりしょうと窓を少し開けて走っていた時だろうか、地震には気付かなかった。

夕方、自宅で見た夕刊は一面に「淡路で震度6弱」と大きく報道していた。

エリアメールや自宅からのメールも帰宅してから気が付いた。
鉄道は一時ストップし、淡路市では瓦が落ちたり塀が倒れたり、5府県で21人が怪我をしたとの報道、

縦揺れはなかったようだが阪神淡路大震災を思い出す。近い将来必ず来ると言われている南海地震、プレートや断層の多い日本列島、どこへ避難すればよいのだろうか。

石垣の刻印(和歌山城)

和歌山城の石垣のうち2110個に刻印がある。
刻印のデザインは多種多様で家紋やその省略文字であったり方位や日付、人名と考えられるものもある。何のために刻印されたかは諸説がありわかっていない。

-

刻印のある石垣が和泉砂岩に限られ、浅野家が城主だった時代(1600〜1619)に修築された石垣にしか使われていないことなどから浅野家の家臣が主家の城普請に協力したしるしとして刻印したという説がある。

西ノ丸庭園(和歌山城)

この庭園は、紀州徳川藩祖 頼宣公が、西ノ丸御殿に築造したもので紅葉渓の名で親しまれてきた。

-

虎伏山の山稜を利用した起伏の変化に富んだ庭園で南西の高地には三つの滝と、その落水を導く渓流、出島と巨大な舟石が浮かぶ池、柳島のある堀池からなり、斜面や護岸には紀州の名石で石組が施されている。

 鳶魚閣(えんぎょかく)
堀池に4本の花崗岩による石柱を立て造営された木造宝形造り檜皮葺花頭付き釣殿風の建物、

-

二の丸跡(和歌山城)

和歌山城は本丸が山上にあり不便で手狭なため二之丸に藩主の居館や政庁が置かれた。
二之丸には多くの御殿があり、その使われ方で東から表・中奥・大奥に分かれていた。
その広さは21200屬任△辰拭

二之丸跡(大奥部分)

-

表は藩主が謁見や儀式を行うとともに藩の政庁として諸役人が政務を執る場所であった。
中奥は藩主の居間や家老や側近のものが詰める場所として使われた。
大奥は側室や奥女中が生活する場所で藩主しか入ることができなかった。

また、表は脇玄関の中ノ口を入ると番所、控室、詰所、執務室などの御用部屋が設けられ藩士は身分格式で座る部屋が決められていた。

唐門は幕府の上使を迎える門で、通常は横の表玄関から入り、遠侍(来客や警備の侍の控室)大広間(公式行事の場)対面所と続く、


大広間を中心とした建物は大阪城に移築され紀州御殿と呼ばれた。

-
記事検索
おきてがみ
blogram
blogramによるブログ分析
足あとを残せます。
後ほど訪問致します☆
Archives
  • ライブドアブログ