知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2013年06月

甲賀流忍術屋敷

この建物は甲賀忍者五十三家中の筆頭格、望月出雲守の住宅として元禄年間に建築された。

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外見は一般住宅の装いであるが内部構造は外敵に備え複雑な仕組みになっている。

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襖の向こうは地下に抜け穴が掘られている。

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陶芸の森


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   【火の神】

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   【幽霊】

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   【風の門】

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旧足守藩侍屋敷

この屋敷は江戸時代中期頃の足守藩木下家2万5000石の家老職のもので、長屋門、母屋、御成門、内蔵、土蔵などが残っている。

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母屋は寄棟造、茅葺、総廂の平屋建で正面に唐破風をもった威厳のある玄関がある。

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式台をあがると上床つきの八畳、右に折れて一三畳の広間、その上手に八畳(一の間)の座敷がある。これらが表向き(公式用)の書院に属し、一の間には床と付書院を設け、付書院には花頭窓を開く、二の間との境に珍しい香図組欄間を入れ、天井はすべて竿縁天井、外側に縁をめぐらした質素なうちに格式のある構造である。

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私生活に使う奥向きには六畳の間、三畳、二畳、七.五畳が配置され二畳(仏間)は武士の家には必ず設けた一室である。

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書院の前には遠州流と伝えられる庭があり、御成門は藩主の来邸のときに使用した。

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旧足守藩木下家陣屋跡

足守藩祖木下家定は、もと杉原家定と称していたが、実妹の「ねね」が豊臣秀吉の正室であったので秀吉の立身出世に伴って一族に所遇されて、木下、羽柴を、そして豊臣の姓を名乗ることと、豊臣家と同じ菊花紋と五七桐紋の家紋を使用することを許されていたという。

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秀吉の死後、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦のときには2万5千石を領有して姫路城主であり、ねねを守護して中立の立場をとり、徳川家康の天下となった後の慶長6年(1601)3月に、備中賀陽郡と上房郡内に同じ石高で移封されて、足守藩を立藩することとなった。

家定が慶長13年(1608)に死亡した後、徳川家康が長男勝俊と二男利房の二人に、遺領を継ぐように命じたが、ねねが勝俊一人に相続させようとしたため、翌年に足守藩主木下家の領地は没収されて、浅野長晟が藩主に封じられた。

その後に長晟は和歌山藩主に転出して、足守藩領は幕府の直轄領となった。ほどなく、元和元年(1615)の大坂夏の陣の後に、家康の幕下に属していた木下利房が再び足守藩主に封じられ、6年目にして足守藩主木下家は復活し、以後明治維新に至るまで存続して13代の藩主を数えた。

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旧木下権之助屋敷表門(北木門)

木下権之助は足守藩三代藩主木下利房が養子とした、権之助利古を家祖にした藩主一門の家柄で当主が代々「権之助」或いは「権輔」を名乗り、北木下家とも呼ばれていた。

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当初の屋敷は陣屋町とは足守川を隔てた川向こうに位置していたが後年に陣屋町中心部に移り、また、この長屋門は屋敷の表門として弘化3年(1846)に再建されたとある。

近水園(おみずえん)

旧足守藩主木下氏の庭園で、旧藩邸(陣屋)の背後に続く宮路山(御殿山)の麓に造られた池を中心とした地泉回遊式の庭園。

近水園

近水園

近水園

吟風閣

第6代藩主家定が、宝永5年(1708年)京都の仙洞御所を造営した際、その残材で建築したと言われる建物である。

吟風閣

近水園

十二滝


国道168号緑沿いに十二滝と称する滝がある。

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滝の下に召波の句碑がある。

       「十津川や
          耕す人の山刀」     召波

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天誅組本陣遺趾

「天誅」は、そのとき暗殺者が叫んだ言葉で、「天」あるいは「天皇」に代わって誅(ころ)す、罰を与えるという意味合いで使われた。

天誅組は、代官所襲撃のあと交通の要地であった天辻峠に本陣を構えた。

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文久三年(1863)八月十七日、大和国五條の代官所が襲撃される事件が起こった。
天誅組の乱である。
襲撃したのは、土佐藩の吉村寅太郎、備中藩の藤本鉄石ら三十八名の天誅組で、この事件は幕末史における初の倒幕を意図した挙兵とされる。

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この地は鶴屋治兵衛の屋敷跡で天誅組の本陣が置かれた場所である。

竹林院の大屋根

竹林院群芳園裏山から見た本館の大屋根

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大屋根の端を拡大すれば、この屋根は何なのだろうか、梵鐘があったのだろうか。

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竹林院群芳園

きなりの湯(下北山温泉)

奈良県は吉野から国道169号線をひたすら南下して伯母峯トンネル入り口手前をワサビ谷に沿って登っていくと大台ヶ原に、今回は伯母峯トンネルを抜け上北山村さらに南下すると下北山村にでる。

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上池原あたりの左側にスポーツ公園が見えればそこは「きなりの湯」だ。
我が家から片道100キロ、「ちょと温泉に」、という距離ではない。

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なかなか良い湯質だった。

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掬星台(摩耶山)


手で星が掬えるほど美しい夜景を展望できることからその名がついたといわれる。

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昼は市街地や港を一望でき夜は地上に星をちりばめたような夜景が、ここからの夜景は長崎、函館と併せて日本三大夜景に挙げられている。

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