知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2013年09月

市民ふれあいの里

古里橋を渡れば緑化植物園とミニ昆虫館がある。

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家族連れが多い。弁当を持って、

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タイワンリスを触っていた子供が噛まれた。たいしたことはなかったようだ。

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森林に生息し、台湾産のものは腹面の毛が灰かっ色または灰色で、亜種によっては赤かっ色をしている。
1933年頃、台湾南部産の亜種が伊豆大島に移入されて、大島東部で広がり、現在では和歌山県(友ヶ島)、兵庫県(姫路城)、神奈川県(鎌倉)などでも再移入されている。

おもに、朝夕の薄暗い時に樹上で暮らすことが多く、冬ごもりをしない種類として知られている。

電波時計

何となく時計を見ると秒針が「12」で止まっている。「電池切れ」と思ったら分針が動いている。
10秒に一度動いているではないか。暫くすると秒針が動き出した。

時間を合わせていだのだ。「良くできているなぁ」

電波時計

宗谷岬公園(供

ラペルーズ顕彰記念碑

1785年、フランス国王ルイ16世は世界海洋科学調査航海を命じ、海軍士官のラペルーズ伯爵がこの航海の指揮にあたりました。
1787年、2隻の艦艇を率い、北海道北部の海上を探査通過時に、北海道と樺太(現サハリン)の海域に海峡を発見し、世界海洋界はこの発見と航海者の功績を讃えてこの海峡をラペルーズ海峡と命名しました。

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祈りの塔(大韓航空機撃墜事件)

1983年9月1日、ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行き大韓航空007便ボーイング747型旅客機は定められた航路を大きくそれ、ソビエト領空を侵犯しソビエト戦闘機のミサイル攻撃によりサハリンモネロン島付近で撃墜された。
日本時間午前3時26分頃、同機に乗っていた乗客240名と乗員29名計269名の全員が死亡した。
日本人犠牲者は28名、在日韓国人1名、乗客の国籍は16ヵ国に及び平時の民間航空の惨事としては史上最大級のものであった。

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宮沢賢治文学碑

1923(大正12)年8月、宮沢賢治はこの5月に就航したばかりの「稚泊連絡船」で宗谷海峡を渡り樺太(現サハリン)を旅しました。前年に最愛の妹・トシを亡くした傷心の賢治は、この旅をモチーフに多くの詩を残しています。

この碑に刻まれているのは、未定稿の文語詩「宗谷(二)」の一節で、彼の心情がみごとに凝縮されています。
備考 サガレンはサハリンの古い呼称

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宗谷岬灯台

この灯台は1855年(明治18年)に点灯しました。
最初は八角形鉄造灯台でしたが、1911年野火のため全焼し翌年再建され、さらに1954年に改築され現在に至っています。
ここには光の灯台、音の灯台、電波の灯台があり北海道で3番目に古い灯台です。

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宗谷岬公園(機

 旧海軍望楼

この望楼は1902年(明治35年)に旧日本海軍が建設したもので、当時最強といわれたロシアのバルチック艦隊の動きを監視するという任務が課せられました。

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 平和の碑

1943年宗谷岬の沖合で日本とアメリカとの間で5時間に及ぶ戦いが繰り広げられました。この時、旧日本海軍の攻撃でアメリカ海軍潜水艦「ワフー号」が乗組員80名を乗せたまま撃沈されました。

そのワフー号は日本海を北上してきましたが、その途中、関釜連絡船「箟崙丸」をはじめ商船などへの攻撃を繰り返し、多くの日本人が犠牲になりました。この碑は日米両国の人々が戦いで亡くなられた方々を慰霊するために平和を願う両国民が合同で建立したものです。

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 あけぼの像

北海道の牛乳生産量100万トン突破を記念して建立されたもので、彫刻家・峯孝氏の作品で、牧柵の前で若い男女が果てしなく広がる宗谷丘陵を見つめながら力強く立っており、天北酪農の夜明けを象徴しています。

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当地における開拓は、明治中期に始まり末期には雑穀、馬鈴薯など畑作中心の農業が確立されましたが冷害などで苦労が絶えず実りが少なかったことから昭和20〜30年代から酪農への転換が進められました。

里山を訪ねて

歴史の道 西高野街道を通って河内長野市日野の里山を自転車で訪ねた。

石標を見ながら、(高野山女人堂10里)          曼珠沙華も陽のあたるところは終わりか

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河内長野からは南西に進路をとり、「河内長野かつらぎ線」を直進、汐滝橋を渡れば河内長野市日野、

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民家は増え新しい道路もできていたが昔に見た面影は残っていた。

 稲刈りも始まっていた                     栗も皮が弾けていた

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宗谷岬

日本最北端の地の碑
この碑は私たちが自由に往来できる日本の領土地しては最も北に位置する宗谷岬の突端にあり、北緯45度31分22秒に建てられています。北極星の一稜を象徴した三角錐をデザインしており、中央のNは北を、台座の円形は「平和と強調」を表しています。

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対岸のサハリン島クリリオン岬迄は43キロほどの距離で天気の良い日は宗谷海峡の彼方に、かつての日本領(樺太)だったその島影を望むことができます。


間宮林蔵の立像

江戸幕府の命を受け北方探索に赴いた間宮林蔵は、1809年に間宮海峡を発見して、樺太(現サハリン島)が「島」であることを確認しました。
この発見は、当時の世界地図の空白を埋める偉業であり、林蔵は世界地図にその名を残しました。

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その後、師である伊能忠敬の事業を引き継ぎ、蝦夷地の地図作成にも多大な貢献を果たしています。


「宗谷岬」音楽碑

碑面に、歌詞と楽譜が刻まれているのは、ここ宗谷岬の春の光景を歌った郷土の歌「宗谷岬」です。
地元の吉田弘さんが詩を作り、船村徹さんが作曲しました。「宗谷岬」は最果ての旅情をかきたてる叙情歌として歌い継がれています。

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宗谷岬に最北のガソリンスタンド「安田石油店」がある。そこで貰った給油証明書と写真の手作りの「おみやげ」、

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備考 北緯45度上にある世界の都市を挙げると、イタリアのミラノ、カナダのモントリオール、フランスのリヨンんど、東京は北緯35度、石垣市は24度に位置しています。 

電子基準点

千畳岩(北オホーツク道立自然公園 枝幸町)

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電子基準点 北緯45° (枝幸町)

この基準点は、地上約20.000キロメートルの高さを周回するGPS衛星が発信する電波を受信し、この地点の位置を観測するための施設で、この受信データは、土地の測量、地図の作成、地震、火山噴火予知の基礎資料に使われる。

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四角い波

 紋別
紋別港は弁天岬と呼ばれる500メートルほどの岩礁がオホーツク海に突き出し、海流を防いで南東側に湾を形成する天然の防波堤となっている。

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 カリヨン広場   定期的に美しい鐘の音が聞こえる。

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 四角い波

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北海道立オホーツク流氷科学センターを見学した。


ガリンコ号
日本最北の海、オホーツク、雄大な自然がこの季節ここにだけに届けてくれる白い使者、それが流氷−神秘と感動の流氷を体験することができる。機会があれば冬に訪れたい。(写真はオホーツク・ガリンコタワーホームページより拝借)

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 高さ 12メートル 巾 6メートル 重さ 7トン

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備考 紋別港周辺のオホーツク海沿岸部には緊急時の避難港がなかった事もあり、1906年(明治39年)には紋別築港の運動が生じた。このような中で1922年(大正11年)9月29日の暴風雨により、オホーツク海で出漁操業中のホタテ漁船350隻中100隻以上が転覆し、漁師1700名中260名が死亡するという大惨事が起きた。これを機に翌1923年(大正12年)に弁天岬から防波堤を延ばす北防波堤工事が始まり、あわせて湾内の海底を浚渫し、船入澗や岸壁が築かれた。

自転車で

今月14日に映画「許されざる者」を観に行くのに大阪難波に行く予定をしていたが泉北ニュータウン内に東宝シネマがあることを知った。

電車か自転車で行くか! 自転車だと片道約10キロ、運動の為に自転車で行くことにした。

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往復20キロ、さほど疲れを感じなかった。

能取湖

能取岬(Notoro Misaki)
能取岬から見るオホーツク海と知床連山は景観の名所とされる。

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能取湖
網走国定公園に含まれる周囲35キロの湖である。日本の湖沼では13番目の面積規模を有する。
以前は海水流入部の湖口が季節的に開閉しており汽水湖であったが、1973年(昭和48年)に護岸工事が行われて湖口が固定され現在は完全な海水の湖となっている。

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サロマ湖遠望台から
展望台は道の駅「サロマ湖」から少し紋別側に走ったところ(標識あり)を左折れして地道を4キロ登ると駐車場がある。
眼下に見えるサロマ湖は、面積約152k屐⊆囲91キロで、日本で3番目に大きい湖、湖口は海と繋がっている。

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