2013年11月
説明によると、平家に仕えた名門武士、斉藤時頼(滝口入道)が雑仕横笛(ぞうしよこぶえ)と恋におちたが、実らぬ恋と悟って時頼は出家し嵯峨の往生院に入りました。
後に高野山で多門坊淨阿(たもんぼうじょうあ)と称し、仏門修行の毎日を送りました。
横笛も跡を追い、奈良の法華寺で生涯を終えたとか、桂川に諸説はがありますが、治承三年(1179年)高野山に入った時頼のあとを慕いここに庵を結び、恋しい人にあうこともなく十九歳で病の為に亡くなったと伝えられています。里人により庵のそばに葬られたという塚、それが横笛の恋塚です
「かつらぎ町今むかし話」によると……
たまたま天野を通った僧から、横笛の話を聞いた
滝口入道は心のあかしの和歌を横笛におくった。
そるまでは うらみしかども あずさ弓 まことの道に 入るぞうれしき
横笛は、この和歌を受けて
そるとても なにかうらみん あずさ弓 引きとどむべき 心ならねば
と優しく答えました。
横笛の、病のとこに、滝口入道から送られてきた和歌は、
高野山 名をだに知らで 過ぎぬべし うきよよそなる わが身なりせば
それにこたえて横笛は、
やおや君 死すればのぼる 高野山 恋もぼだいの たねとこそなれ
と、今もかわらぬ思いを伝えました
「西行(1118〜90)俗名 佐藤義清は、田中莊領主の出身(那賀郡打田町)、鳥羽上皇の北面の武士。23歳で出家して法号円位、諸国を行脚して花と月と旅を主題に心の思いを率直に表現した平安後期の天才歌人、遁世修行を行うなかで多数の秀歌を残した。山家集は遁世者の感懐をみごとに歌いあげている。
「新古今和歌集」の代表的な歌人の一人でもある。出家後も、昔の同僚で時の権力者、平清盛との人脈を活用、熱心な交渉者として、高野山のために働いた。
西行の妻と娘が住まいとした庵を、天野の里人は西行堂として昔から守り続けてきた。
妻は、西行出家の二年後この地を訪ねて庵を建てました。娘も十五歳の時、出家して母とともに生涯を過ごした。」
との説明がある。(堂は西行を慕った村人が建てたとも)
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