知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年03月

桃園(大阪城)

私は大阪城に幾度となく足を運んでいる。
大阪城のことは隅から隅まで知っていると思っていた。が、桃園があることは知らなかった。

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 桃園全体から見ると少し早い感がしたがカメラを持った人たちが多く賑わっていた。

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 ベニバスモモ(ベニスモモともいう)
 遠くから見ると桜の花に見える。成長した桜の木そっくりであった。実は堺市都市緑化センターでも見て
 いた。

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 第45回日展(大阪市立美術館)
 日展は、明治40年の第1回文展(文部省美術展覧会)に始まり、帝展(帝国美術院美術展覧会)を経
 て、戦後、日本美術展覧会となった伝統ある総合美術展で組織改正後、今回は第45回になります。

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 大阪市内の友人が美術館入場券も用意しくれていた。
 日本画、洋画、彫刻、書など、とてもじゃないが私には批評はできない。

琵琶湖疎水記念館


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琵琶湖疎水をつくるためには、大津と京都の間の距離と高低差を正しくあらわした地図をつくる必要がありました。
そこで、琵琶湖の水面からの高さを地面に直接記録しておくために大津から京都までの間に四角い石に丸い印をつけた石点がおかれました。

写真はその一つで、第2トンネル出口と第3トンネル入り口の中間付近の道に置かれていたものです。

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第1疎水建設の頃は、材料・機械が不十分なうえ電気もなく、工事のほとんどは人力で進められました。4年8ヶ月間の工事に延べ400万人が疎水建設工事に従事しました。

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「疏水」という言葉は水路を開いて水を通すことを意味しますが、琵琶湖疎水は明治14年から予備調査を始め,明治18年6月に起工、明治23年4月、第一疏水第一期工事(夷川の鴨川合流点まで)が完成しました。また、鴨川合流点から伏見墨染のインクラインまでは,明治25年11月に起工、27年9月に完成しています。

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「工事は北垣知事の下,工部大学校(東京大学工学部の前身)を出たばかりの田辺朔郎(1861〜1944)を設計・指導者として日本人の力だけで施工されました。」という。
また、「延長2436メートルもある滋賀県側の長等山疏水トンネルは、当時としては日本で最長のものでした。山の両側から掘るほかに、山の上から垂直に穴を掘り工事を進める竪坑方式を採用して工事の促進をはかりました」とある。

測量機器や工事機械がない時代にどのようにして高低差や距離を求めたのだろうか。
琵琶湖の水位(O.P約85メートル)蹴上船溜(インクライン上部)の水位(O.P約81メートル)の差は4メートルあり、琵琶湖第1疎水の水は約8劼竜離を自然流下で流れています。
勾配は場所によって違うが平均では約2000分の1となります。(O.Pとは大阪湾の水位を0とした時の標高を表します)

鹿ヶ谷通

禅林寺から鹿ヶ谷通を南下して、

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聴松院から南禅寺三門前を前方に見ながら右折れして、

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川沿いに西行して白川通にある琵琶湖疎水記念館に向かう。

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禅林寺

東山を背景に阿弥陀堂をはじめとする古建築が、緑と水に恵まれた庭に調和し、古来、都びとに愛された優美な景観のなかで静かなひとときを過ごす。

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唐門(勅使門)
勅使を迎える四脚形式の向唐門であり、江戸末期の文政十三年(1830)に再建された。
入母屋造、檜皮葺の前後を大唐破風造に納め軒先の木鼻に架空の動物の獏を置き、各所を雲龍や唐草の彫刻で飾る。
唐門の内側には、釈迦堂前庭があり白砂を小判形に盛って市松模様をあしらった盛砂がある。勅使は盛砂を踏んで身を浄めて入堂した。

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京都東山山麓、南禅寺北側に位置する永観堂禅林寺は境内が広い、大玄関にあるスリッパに気が付かず靴下のまま板の長い廊下を歩くとこの時期は足が痺れるように痛くなる。

修行僧ではないので我慢にも限界がある。

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哲学の道

真如堂東参道を下り白川通を越えて哲学の道を南禅寺方面に南下してみた。

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この時期は緑は少なく殺風景だがのんびりと散策する人々が絶えない。

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思ったより天気が良く、上着を脱げば荷物になるし我慢して歩く。この辺りはまだまだ元気に歩いた。

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真如堂

大阪淀屋橋から京阪電車で出町柳まで、出町柳駅前からバスで真如堂前で下車して歩いて真如堂へ、

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 真正極楽寺という天台宗の寺である。

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 本堂(重要文化財)

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平安中期の永観2年(984)、比叡山延暦寺の僧・戒算上人が延暦寺の常行堂にあった阿弥陀如来像を東三条院藤原詮子(一条天皇の母、藤原道長の姉)の離宮に移し、安置したのが始まりとされる。

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当初、現在地の東北に位置する元真如堂(換骨堂)の地にあったが、応仁の乱で荒廃した後、各地を転々とし、元禄6年(1693)に現在地への再建が開始された。

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舟板塀

下舟町及び上舟町は船持ちや船乗りが多く住んでいたことに由来する。

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上舟町、 元禄8年家数24 人口111人

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長浜の名水

長浜の名水は、伊吹山系石灰岩の地層深く浸透し太古より清冽な水を湛える巨大な地底湖に水源をなす地下数百尺の伏流水の湧き水で、極めて高品位の水質、言い知れぬ天然水の旨味で長浜の名水といわれる。

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長浜曳山博物館

「曳山」はお祭りに用いられる山車のことで、長浜曳山祭は毎年4月に行われる祭礼で曳山の舞台上では子ども歌舞伎が行われます。

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曳山博物館では長浜曳山祭に出る実物の曳山を展示しています。

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長浜御坊表参道

正面に白く覆われているのが、大通寺三門(現在修復中)

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十軒町、天正年間から明治12年までの町名、豊臣秀吉の城下町造営により戸数が10軒あったことに由来する。元禄8年の家数10軒、人口49名。

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三門修復中で判らなかったがこのお寺2010年に来ている。円山応挙や狩野派の襖絵など多数あり、今回は素通りした。

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