知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年04月

神戸元町南京町

1868年に神戸港が開港し、外国人用の居留地が設けられ、当時、清国との間には通商条約を結んでいなかったため、華僑は居留地内に住むことを許可されず西隣に住み始めたのが南京町の始まりとされてる。

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南京町の中央通りは、十字路になっていて中央の広場には「あずまや」、東は「長安門」、西は「西安門」、南は「南楼門」という名前の門がある。

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神戸大空襲で全焼し戦後は主に進駐軍相手の歓楽街として復興したが、その名残もあって退廃化が進み、1970年代までは路地の舗装もされず、周辺には船員向けのバーが立ち並び夜になれば街娼が立つようなエリアとなっていたようだ。

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横浜中華街、長崎新地中華街とともに日本三大チャイナタウンの一つに数えられ、東西約200m、南北110mの範囲に100余りの店舗が軒を連ねる。

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横浜中華街、長崎新地中華街、神戸元町南京町と行っているが、長崎新地中華街が何となく合うような気がする。

旧新港第五突堤信号所


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この信号所は神戸港に入港する船舶に対する信号所として大正10年に新港第4突堤に建設され、昭和12年に新港第5突堤に移設されました。

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以来、平成2年に役目を終えるまで神戸海上保安部の運営のもとで半世紀以上にわたって神戸港を見守り続けました。

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笠戸丸(ブラジル移民船)

日本人の海外移住には船が重要な役割を果たしたが世界への定期航路をもつ神戸港は海外移住の基地として多くの移住者を海外へ送り出してきた。

 笠戸丸

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我が国移住史上記念すべき「第1回ブラジル移民船・笠戸丸は、781人の移住者を乗せ1908年4月28日午後5時55分に神戸港を出港した。

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京都御所

京都文化博物館で開かれていた「印象派展」の帰り京都御所の一般公開がされていたので昨年に続き行ってみました。

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参観順序は、車寄せ、新車寄せ、回廊(東側)、紫宸殿、建礼門、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿の順で参観者は宜秋門から参入して清所門から退出することになっています。

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昨年は閉まっていた建礼門が今年は開いていました。

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清涼殿北側から小御所へと向かう廊下(御拝道廊下)にある杉戸絵です。
鶴は障壁画の題材として京都御所内で大変多く作品名に鶴が入るものは8種121面あり、そこには234羽描かれているそうです。

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御三間北御御縁座敷にある杉戸絵です。
「寿老人」は長寿を授けると言われる長頭の老人を描いた古くからの画題のひとつで杖と団扇を持ち鹿を連れているのが特徴です。皇后常御殿にも同題の杉戸絵があるようです。

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蛤御門

江戸時代末期元治元年(1864)、この門の周辺で長州藩と御所の護衛に当たっていた会津藩、薩摩藩、桑名藩との間で激戦が行われた。

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この戦いが「禁門の変(蛤御門の変)」で、この門は新在家門といわれていましたが、江戸時代の大火でそれまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて蛤御門と呼ばれるようになったと言われています。

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京都文化博物館

これぞ印象派と云うべきか、京都文化博物館に於いて「光の賛歌 印象派展」が開かれているので行ってみました。
世界9ヶ国43有名美術館から印象派の名画が展示されている。

モネ、ルノワール、マネ、シスレー、ピサロらの73点、セーヌやノルマンデイの水辺を描いた光の中の風景に圧倒されます。

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京都文化博物館別館は旧日本銀行京都支店、重要文化財です。

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建物の前を東西に延びる三条通は江戸時代に東海道の西の起点として賑わったところで、近代になると集書院、郵便局、商店、銀行、保険会社などが建てられました。

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土日は混み合うだろうと思い金曜日に行きましたが、凄い人でエレベーターに乗るにも本館廊下を一周し外にまで溢れていました。
記念に写真集を買って帰りました。

神戸海援隊の碑

1863年、幕府の軍艦奉行・勝海舟が設立した「神戸海軍操練所」があった、藩士・浪人も入学を許可した画期的な海軍訓練所で練習生の坂本竜馬が海援隊を作るためのメンバーを集めるなど海援隊の基盤を神戸で作った

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神戸ポートタワー

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世界初のパイプ構造の建造物で、和楽器の鼓を長くしたような外観が特徴である。
その独特の構造・形状から「鉄塔の美女」とも称され、日本で初めてライトアップされた建造物でもある。

阪神淡路大震災では未曾有の被害だったがポートタワーは被害がなかった。それは、地上より地下の方が重量があり安定性があった。
大きな地震が起きた時の為に何度も実験を繰り返し造られたという。

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天気に恵まれれば、東は大阪、西は淡路島、南は関西国際空港、北は六甲山の山並みを見ることができる。

メリケン波止場

メリケン波止場は、兵庫県の神戸港にある波止場の名称で、明治政府がこの波止場の近くにアメリカ領事館があったことからメリケン波止場と呼ばれるようになりました。

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1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の爪痕が残されていました。

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メリケンパークでは南側の護岸が崩れて海中に没し護岸周辺は傾斜して公園全体が約40センチほど沈下しました。

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ポートアイランドと六甲アイランドを結ぶ高架式のハーバーハイウェイは地震の激しい揺れによってコンクリート脚が各所で壊れ鉄筋が外部に飛び出したりする被害があり通行不能になりました。

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六甲アイランドのコンテナバースでは岸壁が海側に傾いたためにクレーンの基礎部分が壊れてガントリークレーン1基が崩れ落ちたほか、すべてのクレーンが被害を受け背後の舗装も沈下しました。

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新港第8西突堤は臨港鉄道が敷設された突堤で老朽化していた上屋は震災によって東側の1階と2階部分をつなぐ柱が壊れて上屋全体に被害が及びました。

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天誅組

文久3年(1863)8月17日未明、三日市宿に太鼓や鐘が鳴り響いた。公家 中山忠光を盟主とする尊皇攘夷派の志士の一行が天皇の大和行幸を契機として倒幕の兵を挙げる大和五条に向かうため、油屋に到着したのであった。

彼らは休息し、この間に体勢を整えた。当時、当主の油屋庄兵衛は三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配など、彼らの世話をしたと語り伝えられている。

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早朝一行は、観心寺に向かい楠公首塚の前で決起した。その後、千早峠を越え、夕刻、五条代官所を襲撃し「五条新政府」の名乗りをあげた。

しかし、京では「八月十八日の政変」により彼らを支援していた長州藩や公家の三条実美等が失脚し天皇の行幸は中止となり彼らは目的を失い転戦するも幕府軍に追撃鎮圧されてしまう。

この事件が「維新の先駆け、天誅組」である。
時代が明治へと大きく動く5年前のことであった。
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