知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年05月

今年の菜園

我が家の菜園も随分と長い、田圃だった土を友人が何度も耕耘機で耕してくれて、肥料や野菜用の土を入れ菜園らしくなってきた。
買ったほうが安いのかしれないが無農薬で結構満足して食している。最近は品数も増やして上手く作れるようになってきた。

 イチゴとタマネギ

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 スイカとマッカウリ                        サツマイモ

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 紫蘇とキャベツ

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 キューリ

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 パセリとナスビ

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 ジャンボピーマンとオクラ

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 ジャガイモ

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金剛山に咲く花々

金剛山展望台から、
天気が良ければ関西国際空港や淡路島まで見えるという。

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吉野川を望む、

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金剛山には様々な草木の花が四季を通じて咲く、特に春先から夏に咲く花が見頃となる頃は登山する人が絶えない。
又、雪の降る冬山の金剛山に登る人も多い。

ヤマツツジ

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石楠花

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九輪草

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ヤマシャクヤク

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シラネアオイ(花は終わっていた)

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ムラサキケマン

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新緑を尋ねて金剛山へ

千早城跡から金剛山へ

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千早本道へ合流(二合目)

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国見山城跡に到着(海抜1125メートル)

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八重桜が満開

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千早城跡

千早城跡(史跡)
元弘二年(1332)楠木正成が構築し翌年5月まで百日間、藁人形等の奇策をもって鎌倉幕府軍の攻撃に堪えて建武中興の原動力となった難攻不落の名城である。

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標高660メートルで、城の南は妙見谷、北は風呂谷、西は大手口(現在地)、三方は急斜面で東方だけが尾根伝いに金剛山に通じる天然の要害である。

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階段は五百数十段あり、右に左につづら折れとなって登っている。

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四ノ丸跡

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二ノ丸跡

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正面の建物のある所が本丸跡

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楠木正成の居城には千早城のほか、上赤坂城下赤坂城があった。
備考: 甲取橋

佐久間艦長

佐久間勉は明治12年9月13日滋賀県北前川(当時は福井県若狭地方は滋賀県に含まれていたと説明を受けた)の佐久間家次男として生まれた。
幼少の頃は小学校まで往復六里の道を歩いて通い、中学校時代には教科書はすべて友人から借りて一字一句丁寧に筆写した。
明治31年12月、広島県江田島海軍兵学校に入学、明治42年12月第六潜水艇の艦長を命ぜられる。

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佐久間艦長生家

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明治43年(1910)4月15日、佐久間艇長は国産初の第六潜水艇にて13名の部下とともに山口県の新湊沖において半潜航訓練中不測の事故により沈没し浮上することはなかった。

艇のなかで艇長以下14名の艇員がそれぞれの部署において最後まで力を尽くし職分を全うした姿のまま引き上げられた。

又、潜望鏡より入る微かな光の中で小さな手帳に書かれた佐久間艇長の遺書が上着のポケットから見つかった。
ここに、父母を敬い、師の恩を忘れず、息を引きとる間際においてもなお部下の家族のことを思いやる優しい人柄あった。

艇長は苦しい呼吸のなか、司令塔にある小さなガラス窓から射し込む微かな光を頼りに遺書を書きつづった。
第一に、天皇陛下の艇を沈め部下を死なせるに至った責任を謝し、艇員一同が職分を全うしたことを述べ、この事故によって潜水艇の発展研究に支障のないように更に研究してもらうべく、沈没の原因や海底に沈んでからの状況が詳しく記されていた。


与謝野晶子は、日露戦争に従軍した弟を思う詩「君死にたまふことなかれ」(明治39年9月)を発表し反戦平和の歌人といわれています。
その与謝野晶子が、第六潜水艇遭難の一年後に「佐久間大尉を傷む歌」として挽歌を15首発表しています。
     海底の水の明かりに認めし永き訣れのますら男の文
     水漬きつつ電燈きえぬ真黒なる十尋の底の海の冷たさ
     やごとなき大和だましひある人は夜の海底に書置を書く

水坂峠

福井県と滋賀県の県境に水坂峠がある。今はトンネルができて峠を越えることはない。

まだ子供が小さい頃、冬の深夜に峠を越えた時、右カーブの下り坂でスリップした。
確か左に民家があってカーブの左に雪だるまがあった。

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ハンドルは右にきっているが車は真っ直ぐ進んで雪だるまに当たって止まった。
たしか、左は杉林でその下は谷となっていて水の音がしていた。

道は凍り、雪だるまもガチガチとなっていた。
助かった。雪だるまがなかったら杉林に落ちていたか谷川まで転落していたかも知れない。

座禅草

山の湿原や谷川のほとりなど、主に湿地帯に群生する座禅草は、サトイモ科の多年草で早春に開花する。

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滋賀県高島市今津町に座禅草の群生地があることは知っていたが、先日、今頃かなと思い行ってみたら何と2月から3月にかけて開花とある。

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仏像の光背に似た卵形の仏炎包につつまれたような花の愛らしい姿はまるで僧侶が座禅を組んでいるようと、いうのが座禅草の名の由来とか、

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この地域のザゼンソウ群落は湧水により湿地化したタブ、ハンノキ、モウソウチクなどの樹林内にあり、まとまった面積に高密度に生育しており、良好な自然環境を形成していることから緑地環境保全地域に指定されている。

山田 方谷

山田 方谷(文化2年2月21日(1805年) 〜明治10年(1877年))は、幕末期の儒家・陽明学者

山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。方谷はお家再興を願う父、五朗吉(菜種油の製造・販売を家業とする農商)の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれる。5歳になると、新見藩の儒学者である丸川松隠に学ぶ。20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。
その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功した。

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方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。

理財論は方谷の経済論。漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。

擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。

この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。(ウィキペディアから)


方谷は、岡山の人々の依頼で、寛文10年(1670年)に池田光政が設立し、明治3年(1870年)まで続いた閑谷学校(日本最古の庶民学校)を、陽明学を教える閑谷精舎として明治7年(1874年)に再興した。

旧高梁尋常高等小学校

高梁市郷土資料館は、明治37年建築の旧高梁尋常高等小学校を活用し昭和53年に開館しました。
建物は明治期の代表的な建造物として高梁市重要文化財に指定され、臥牛山のモミ材を使い、無節柾目の良材で丁寧に施行され、100年以上経過した現在でも大きな狂いはないといわれています。

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二階の講堂は天井を高く取り、格式ある二重折上格天井を用い明治期の教育にかける熱意を感じる建造物です。
館内には、高梁市の歴史を物語る、江戸末期から昭和にかけて、生活の変化によって姿を消した生活用具や農耕機具など3000点が展示されています。

1階展示室には、人々の生活のなかで使われていた灯火具や蓄音機、玩具や時計など日常生活の道具類、備中高梁駅に関する資料、学用品などが展示されている。
また、農家の間、商家の間では往時の生活の様子を一部再現しており人々がどのような空間で生活していたのか、その雰囲気を感じることができる。

2階展示室には、高梁川を往来していた高瀬舟の部材や舟(模型)を展示し、地元のお祭りで使われていた千載楽(せんざいらく 神輿に随行するだんじりの一種)や地域の特産物であった煙草や麦稈真田、酒造りに関する資料、農耕や商工業に使われていた道具類などが展示されている。

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2階は講堂として使われていた場所で、御真影を掲げた奉安殿が当時のまま残されています。

煙草作りの道具や生活用品など、良く収集したものだと、見応えのある資料館でした。

池上邸(本町通り)

本町、下町、南町の通りは松山往来と呼ばれた街道筋にあり、ほぼ直線に配置された備中松山城の大手道の要素をもっていました。
かつての商売の中心地で平入りの町屋が立ち並んでいます。

「平入りの町屋」
高梁の伝統的町屋の形態は、敷地は東西に長い短冊形が基本で、間口が狭く奥行きの長い敷地に建ち、のそ敷地の道路側に主屋が設けられ、背後に炊事場、風呂、便所、土蔵などの付属屋が連なっていく形式です。

池上邸(現在は商家資料館、無料休憩所となっています)
古い商家の並ぶ本町通りにある池上邸です。池上家は享保年間(1716〜1735)、徳川八代将軍吉宗の時代に、この地で小間物屋「立花屋」を始めました。

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代々小間物屋を営みながら高梁川水路の船主・両替商などもして財を築きました。
明治28年(1895)、八代目の当主、池上長右衛門の時立醤油として醤油の製造販売を始め、昭和37年に閉業するまで年間約1000石を生産し、近隣はもとより市外へも販売していました。

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延喜びな(約20年前のおひな様)

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現在残る建物は天保の大火災の後、天保14年(1843)に七代目当主によって建てられ、一部大正時代に改築されたものです。

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備考 
    町屋の特徴
 
   ※ 平入(ひらいり) 建物の棟が道路に並行
   ※ 厨子二階(ずしにかい) 天井の低い二階で倉庫として利用
   ※ 虫籠窓(むしこまど) 虫かごの形をした二階の窓(厨子二階の換気)
   ※ 格子(こうし) 平格子と出格子(丸棒格子もある)
   ※ 絵様持ち送り(えようもちおくり) 庇の支え木(寺社風、装飾用がある)
   ※ 板暖簾(いたのれん) 日射しを防ぐため庇の下に吊し下げた板
   ※ なまこ壁(なまこかべ) 壁面保護のため方形の平瓦を張り漆喰で塗装
   ※ 袖壁(そでかべ) 二階側面にある防火用壁(うだつ)
   ※ 起り屋根(むくりやね) 上面が凸曲線となっている屋根

    町屋の建設年による特徴

   ※ 江戸〜明治初期     厨子二階、虫籠窓
   ※ 明治中期〜大正初期  中二階(座敷として利用)、出格子(大正時代は丸棒)
   ※ 昭和初期          高い二階で塗り壁 
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