知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年06月

高橋克巳(農学博士)


高橋克己は、明治25年(1892年)、和歌山県海部郡木本村(現:和歌山市木ノ本1038番地)に7人兄弟の長男として生まれる。木本尋常小学校、旧制和歌山中学校(現:県立桐蔭高等学校)を卒業、その後第三高等学校、東京帝国大学農学部農芸学科を経て、東京帝国大学院に入学し、鈴木梅太郎教授のもと油脂成分の研究に取り組む。
大正9年、奈良県の藤岡長二郎六女・英子と結婚し、大正11年に長女・ユリが生まれ、大正13年には次女・多恵が生まれている。
卒業後、財団法人理化学研究所でさらに研究を進め、世界ではじめてビタミンAをタラの肝油から分離抽出することに成功した。

さらに、ビタミンAの性質や生理作用についても研究を重ね、多くの病気(特に夜盲症や肺結核等)の治療に効果があることを発見し、「理研ビタミン」の名称で栄養剤として商品化した。

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大正13年ビタミンAに関する業績により鈴木梅太郎とともに帝国学士院賞が授与され、賞金は彼の意志により母校である和歌山中学校(現:和歌山県立桐蔭高等学校)に全額寄附され、同校ではこれを基金として「高橋賞」を設け、大正15年から昭和20年(1945年)に至る間、理化学の成績優秀な生徒に授与された。大正14年農学博士の学位が授与されるが、8日後、病のため死去32歳であった。生誕122年が経過しました。

ブログ更新に想う

2007年1月1日から始めたこのブログ、明日で7年6ヶ月となる。2005年当時はホームページ上で日記を書いていたが約2年経った頃、PSの故障で中断を余儀なくされた。

健康であっても更新しようとする意欲が薄らぐと「今日はいいか」となるし、軽度な病気であっても意欲が旺盛であれば更新は出来る。

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ホームページには「ブログは毎日更新です」と書いていたが何年か前に削除した。2007年から2522件の投稿が記録されている。





ブログの内容は、当初とは変わってきているが、知らないところに行くと躍動を覚えることから続けたいと思っている。
訪問するブログには、見事に文章がまとまっていて見入ってしまうブログもある。感心も納得もする、何度も読み返すブログもある。

また、政治的動向は自分の主張は持っているが、見方・考え方、で賛否両論あることから、最近はなるべく控えることにしている。

松坂徳義社

この駐車場の前身は松坂徳義社のあった事務所です。

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江戸期松阪は紀州徳川藩領でした。秩禄処分、士族授産といった明治維新の変革は武士の生活様式に激変をもたらします。
旧藩士らの疲弊、困窮する様を知った最後の紀州藩主第14代徳川茂承は10万円(現在の数億円に相当)の現金救済を施します。
このお金を財源に紀州と松阪で創設されたのが徳義社です。

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「社中窮者の為に教育・扶助・授産の三事を為す」ことを主たる目的とする徳義社は明治11年(1878)の創設以来、約140年間、時代の荒波を越えつつ紀州藩士族末裔の団体として存続している。

本居宣長旧宅(国指定特別史跡)

この家は本居宣長が十二歳から七十二歳まで住んでいたところで宣長の祖父が隠居所として元禄四年(1691)に建てたものである。

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本居宣長はこの家で医者として仕事をし、古典の講義をしたり歌会を開いたりした。

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鈴屋
広さは四畳半の部屋で勉強や本を書いたりしていました。
二階の書斎は宣長が53歳の時、物置を改造して設けたもので柱に掛鈴を下げていたことから(鈴屋(すずのや)と呼ばれていた。

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宣長さんは「賀茂真淵」先生を大変尊敬していました。
正面の掛軸には「縣居大人之霊位(あがたいのうしのれいい)」と読み、「あがたい」は賀茂真淵のことで「うし」は先生のことです。

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旧飯南郡図書館

旧飯南郡図書館は、明治43年(1910)の皇太子の飯南郡への行啓を記念して建築されたものである。

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本館は左右に翼部、中央に玄関が突出した左右対称の構成に特徴がある。倉庫は本館の東に建つ二階建ての土蔵で漆喰壁を下見板で覆い外観の意匠を本館と合わせている。

現在は松阪市立歴史民俗資料館として利用されている。(国登録有形文化財)

松阪牛

私は三重県で生まれた。四方を山で囲まれた田舎でした。今は市町村合併で松阪市となっている。
親戚も松阪牛を飼育している。

 和田金
 「悪い肉を売るくらいなら商売などやめてしまえ」 和田金兵衛    明治の創業以来百三十余年

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 牛銀  明治35年創業
創業者小林銀蔵は、「日々世の中が変わっていくこの時代、田舎で百姓などするより、町に出て商売をした方がいいわい」

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紫藤

松坂城跡二ノ丸跡にあるこの紫藤は愛知県海部郡鍋田村字森津にあり、当時二百余年経ったのを松阪市中町の脇田藤助翁が明治23年に株分け市に寄贈されたもの。

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通算樹齢約三百数十年経ち、藤棚面積346平方メートル(約105坪)、主幹周囲は5メートル、開花期は4月下旬紫色花房1メートル余りとある。

御城番屋敷

御城番に住む人々の祖先、徳川家康の先鋒隊として功名手柄を競った横須賀党の面々であり、田辺城主である安藤家に助勢する使命を帯びた藩主直属の家臣である。

この長屋建物は松坂城御城番、四十石取りの紀州藩士二十人の組屋敷として文久三年(1863)に建築された。

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一戸あたり、正面五間、裏に一間の角屋が付く広さを持ち、右手に通り土間、左手に田の字型に八畳二間、六畳二間を配置し式台を構える。

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フウラン

気が付くとフウランの花芽がでていた。暫くの間は真白な花で賑やかなことだ。

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松坂城跡

松坂城は蒲生氏郷が天正十六年(1588)四五百森に築城した平山城である。

蒲生氏郷が陸奥黒川へ移封後、天正19年に服部一忠、文禄4年に古田重勝と城主が変わり、元和五年(1619)に徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢洲領(松坂・田丸・白子等)十八万石を統轄する城代が置かれてきた。

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徳川陣屋跡

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中御門跡

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太鼓櫓跡

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金ノ間櫓跡

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本丸跡
中央の金網は何だろうと覗いてみたら井戸だった。

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北に大手、南を搦手とし、本丸・二ノ丸・三の丸・隠居丸・きたい丸からなり、本丸・二ノ丸等には高い石垣を築き、外郭に土塁や堀をめぐらせていた。

三層の天守と金ノ間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが正保元年(1644)の台風で天守は倒壊したと伝えられる。
二ノ丸には寛政六年(1794)に着工された御殿(徳川陣屋)があった。
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