知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年06月

長谷川家(松阪木綿商)

長谷川家は江戸時代以来、三井家・小津家・長井家等とともに松阪を代表する江戸店持ちの豪商でした。
創業の祖とされる三代政幸は、延宝三年(1675)30歳で独立、「丹波屋次郎兵衛」を名乗って江戸大伝馬町で木綿仲買商を始め、貞享三年に木綿仕入問屋になりました。

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創業後、政幸は松阪へ戻り江戸店の経営はすべて支配人に任せています。そして松坂木綿を中心とする伊勢国産の木綿や尾張・三河国産の木綿を松阪本家で仕入れ江戸で販売するなど、その殆どを木綿一筋に江戸時代を歩んできました。

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その後、分店・新店・向店を開業、また、分家の武右衛門家を亀屋開業、六郎次家を戎屋の屋号で江戸大伝馬町で開店しました。

松阪においては、紀州藩の御為替組御用を務めながら士分格で苗字・帯刀を許された「独礼格地士(どくれいかくぢし)」として五十人扶持を下賜されていました。

本居宣長旧宅跡

本居宣長が12歳から72歳で生涯を閉じるまでの60年間を過ごした旧宅跡、本居宣長は医者を開業する傍ら、日本の古典を研究し「古事記伝」や「源氏物語玉の小櫛」など78種206冊に及ぶ著述をなし、また、五百余名の門人を指導した。

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本居宣長の住んだ居宅は明治42年保存公開のため松阪公園に移築された。

旧宅跡に礎石とともに残る家は宣長の長男・春庭の旧宅と本居家の土蔵である。

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移築前の本居宣長旧宅

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新上屋

和歌山県新宮から三重県松阪に移動し宿泊の後、早朝から松阪城趾周辺を散策しました。

元、江州日野にあった蒲生氏郷が松ヶ島に移るとき随伴して来たものを、天正16年更に松阪へ移住せしめた、その後、日野から招き寄せたもので、旧地名をとって日野町と名付けた。

 通り日野町

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 新上屋跡(しんじょうや)−通り日野町
新上屋は、宝暦十三年(1763)五月二十五日、ここに宿泊した賀茂真淵に本居宣長が面会し国学の指導を受けた宿屋である。

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本居宣長28歳のとき、江戸から帰った人が賀茂真淵の書いた「冠辞考」という本を見せてくれました。
本居宣長は何度も読み返し、ぜひ真淵に会いたいと思うようになります。宣長34歳のとき、「夕べ真淵さんが松阪に泊まって伊勢へ向かった」と聞き追いかけるが会うことが出来ませんでした。

その数日後、再び賀茂真淵が「新上屋」に泊まったと聞き訪ねます。
この一夜の対面で宣長は「古事記を研究したい」と話し真淵の励ましと教えを受け門人となり「古事記伝」執筆をすることになります。

馬越峠(世界遺産)

新宮から尾鷲へ

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尾鷲駅から尾鷲港に向かって坂を下ると、熊野古道馬越峠の標識が目に入る。

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松の湯
馬越峠に向かって歩いていると古い銭湯があった。大正元年創業とある。

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尾鷲駅の手前の相賀駅は特急が止まらないことから新宮に行ってから尾鷲駅から馬越峠を越え相賀駅から松阪へと考えたのが間違いだった。

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この標識から1キロぐらい歩いただろうか、あと少し歩けば馬越公園だが時間がない。最終の特急に間に合わない、新宮駅で臨時特急の時間をみて信じたのが間違いの元、平日の臨時便はない。馬越峠は又の機会に行くことにしょう。

堀内氏屋敷跡

戦国時代から近世初頭にかけて、奥熊野地方を支配した堀内氏の平城跡、

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周りが五町ばかりあり、四方を水堀で囲った屋敷であったようだが現在は裏手(西方)と北方の一部に小川が残るのみである。
堀内氏善は天正19年(1591)、豊臣秀吉から熊野総地の支配権を許され約6万石を領したが、関ヶ原の合戦で西軍に参加したため敗北した。

梶井基次郎文学碑

  「城のある町にて」

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      − 今 空は悲しいまで晴れてゐた
        そしてその下に町は甍を竝べてゐた
        白堊の小学校 土藏作りの銀行
        寺の屋根 そして其処此処 西洋
        菓子の間に詰めてあるカンナ屑
        めいて 緑色の植物が家々の
        間から萠え出てゐる −

佐藤春夫句碑

和歌山県新宮出身の文豪、詩人で文化勲章を賜った佐藤春夫の句碑があります。
参道入り口の正面町の彼方に見えるのが丹鶴城趾(紀州徳川家々老水野家居城)で山麓が佐藤春夫が育ったところです。

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   「秋晴れよ 丹鶴城趾兒に見せむ」

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秋空に浮かぶ丹鶴城趾に指さして子供達に想い出を語る佐藤春夫の顔が見えるようです。

徐福

中国・秦の時代、始皇帝の命で渡来したとされる徐福は、熊野の地に、捕鯨を始めたなど多くの起源伝承を残している。
実在したとされる徐福の渡来地伝承は全国に点在するが何せ紀元前のはなし、

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江戸時代、紀州初代藩主徳川頼宣の命で建てられた徐福の墓は、墓として存在するのは全国でここだけ、

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徐福墓畔も栄枯盛衰を重ねるが、新宮鉄道が開設され新宮駅ができると、この界隈も大正中期から次第に新開地となってゆく。
佐藤春夫の父が界隈に家を建て、春夫の姪が新宮高等女学校に通い始め、春夫もここで過ごしたり執筆したりすることも増えてくる、
春夫に「若草の妻とこもるや徐福町」の句があり、春夫の中学時代以来の友人奥栄一など文学仲間の溜まり場にもなる。

新宮城跡(丹鶴城)

新宮城(別名 丹鶴城)は、関ヶ原合戦後、和歌山城主となった浅野幸長の家臣・浅野忠吉が新宮領を与えられて慶長6年(1601)に築城を開始した城である。
元和元年(1615)の一国一城令で一旦廃城となるが、同4年再建を許され再び築城が始まる。

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元和5年(1619)、浅野氏に代わり徳川家康の十男・頼宣が紀州に入国し同時に頼宣の付家老として新宮に水野重仲が入った。
重仲は忠吉の築城工事を継続し寛永10年(1633)完成をみる。以後、明治の廃藩置県により廃城となるまで紀州藩新宮領支配の中枢として機能した。

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この城は独立丘陵上にあり、東の最高所に本丸と天守台がその西方に鐘ノ丸と松ノ丸が配置される。
本丸の北には出丸があり熊野川の河口、上流方面が見通せる。

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浮島の森

和歌山県新宮市にある浮島の森は、昔、神倉聖の神聖な修行場でした。

 「おいの伝説」

ある日のこと、「おいの」という美しい娘が父と一緒に薪を採りに島に渡り、弁当の箸を忘れたため「カシャバ」の枝を求め奥深く入っていき、大蛇に呑み込まれたと伝えられています。
今も「蛇の穴(がま)」という底なしの穴があります。

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「おいの見たけりゃ 藺の沢(いど)へ 御座れ おいの藺の沢の蛇のがまへ」という俗謡を背景に上田秋成が「蛇性の淫」(『雨月物語』として小説にしています。
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