知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年08月

果無集落(熊野古道小辺路)

新宮駅前を出発した特急バスは熊野川を北上する。途中、川湯温泉、渡瀬温泉、湯の峰温泉を経由して奈良県十津川村にあるホテル昴に到着した。

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果無集落に行くには一旦、国道にでて柳本橋を渡るルートと野猿に乗って対岸に渡り吊り橋を渡るルートがあるが、ホテル昴前のトンネルを抜けて吊り橋を渡る。

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吊り橋(柳本橋) 全長90メートル 高さ10メートル
この吊り橋は板の境が朽ちているところがあるし、早く渡ろうとするとよく揺れる。

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熊野古道小辺路は、高野山から熊野に至る全長72キロの道です。

北川橋燈籠

この北川橋は江戸時代、南たもとに高札場があって板橋だった。廻船の船着場にも近く、この一帯は熊野古道の交通の要所でした。

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昭和40年代初めまで、隣町の海山町(現・紀北町)を結ぶ乗合いバスの停留所があり尾鷲市の玄関口として賑わっていました。

北川橋の四隅の親柱の上には電気の灯籠があり、町民や旅人に親しまれてきたが長い年月と津波などの被害で昭和初期に消失しました。
平成20年7月、足元を照らす「あかり」の役割と「尾鷲の玄関口」「熊野街道・中井町通りの象徴」として、その歴史を後世に受け継いでもらいたいとの想いで復活したとあります。

馬越の津波

馬越の津波供養塔
宝永四年(1707)、10月4日に発生した「宝永大地震津波」は尾鷲浦にも大きな被害をもたらした。

この塔の三面には、漢文で『男女老幼溺死者千有余人』など、被災状況や流死のありさまが彫刻されている。

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碑文には、溺死者千有余人とあるが、宝永七年(1710)幕府巡見使への報告資料には五百三十余人となっているとある。

惣廻り小屋

江戸時代この辺りに紀州藩尾鷲組の「惣廻り小屋」がありました。
責任者として胡乱者改助役(うろんものあらためじょやく)が別にいて、その支配下に「惣廻り」一名と「番人」複数名がいました。彼らは胡乱者(怪しい者)を監視するとともに、治安を乱す者を取り締まり検挙しました。

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一方、ここから2キロメートル南の旧矢濱村には「八鬼山口番小屋」があり、ここでも番人が往来の人々を監視しました。

文政十三年(1830)七月、伊予出身で西国巡礼の若い女性が一人で尾鷲に着き、路銀もなく難渋していたところ、この惣廻り小屋に泊めてもらえることになり、彼女はその夜ここで出産し七日間留まり、その費用六四二文が尾鷲組から支給されました。彼女はその後、産後の疲れも癒えない身で乳飲み子を抱かえ旅立ったといいます。

近くの商店にはこんな書き物が、

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「尾鷲組大庄屋文書」には、困窮した旅人を惣廻り小屋などに泊めた記録が毎年数十件、多い年には百件以上も確認したという。その宿泊費用は街道沿いの浦村が負担したという。

尾鷲小唄(野口雨情)

熊野古道馬越峠を下った行者堂から10分も歩けば野口雨情の「尾鷲小唄」の歌碑がある。

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     鰤は港に 杉桧は山に 紀伊の尾鷲は よいところ



野口雨情といえば想い出す。あれは平成11年10月、日本平で見た赤い靴を履いた女の子と母の銅像、他に、「雨降りお月さん」「七つの子」「船頭小唄」などがある。

馬越峠

熊野古道伊勢路馬越峠からは急な下り坂となる。石畳の階段道の下りは足にこたえる。
尾鷲側から登ってくる人もかなりきつそうだ。峠の手前で地元の人の話では尾鷲側からの方が急坂とのこと、また、前の台風被害や周囲の山のことなどを聞かせてもらった。

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石畳道と桜地蔵(安兵衛地蔵)
馬越峠の石畳がいつ頃敷設されたか不明であるが遅くとも江戸時代、紀州藩の街道整備(十七世紀前半)に伴って敷設されたことは間違いない。

全国有数の多雨地帯である尾鷲地方の熊野古道石畳は大雨による路面の流出や崩壊を防ぎ、夏草やシダ類などの繁茂を抑えて道路を確保することであった。この付近の石畳は、特に往時の面影を留め、山水を谷川に逃がす排水溝「洗い越し」など、工法に苦心の跡がみられる。

レンガ造りの御堂の地蔵尊は、御堂を改築された畦地安兵衛氏にちなみ「安兵衛地蔵」(桜地蔵・水呑み地蔵ともいう)と呼んでいる。

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馬越公園展望台から、

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馬越公園を越えると民家が見えてくる。

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馬越峠(熊野古道 伊勢路)


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熊野古道伊勢路、馬越峠は三重県海山町と尾鷲市の境で標高325メートルに位置する。
その開設は定かではないが、この平地のところに「馬越茶屋(間越茶屋)」があった。

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茶屋の主、世古平兵衛がこの峠にお祀りした岩船地蔵尊には、享保八年(1723)の銘があり、開業年は更に遡る。茶屋をたたむ明治中頃まで多くの巡礼や旅人をもてなした。

江戸時代の旅人の記録・道中日記に『茶屋にて餅を売る。左の峰に天狗石とて大石あり』『馬越坂上下一里、道へ石を敷き候坂なり。上に茶屋あり。おわし町見える』など、茶屋のことが記されている。

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馬越峠から尾鷲市内を望む

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馬越峠の桃乙句碑(この句碑は尾鷲の弟子達が俳諧師・可涼園桃乙を偲んで建立したもの)
       夜は花の上に音あり山の水   桃乙(とういつ)

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桃乙は、近江国の俳人で、嘉永五年に熊野巡遊の旅に出て、尾鷲地方に約一年滞在して地元の人達に発句(俳句)を指導した。翌六年の秋に新宮へ旅立ったが、馬越峠越えで次の句を残している。

       『くつはむし道に這い出よ馬古世坂』

嘉永七年は十一月に改元され、「安政元年」になった。前年の六月は、アメリカのペリーが国史として浦賀に来航している。

馬越坂(馬越峠)

深い山と森に覆われた紀伊半島を縦断する熊野連山は三千六百もの峰々が連なり、山々を覆う深い森の中へと続くいくつもの道、そのひとつが熊野古道伊勢路です。

中でも紀北町と尾鷲市にまたがる馬越峠は「日本一の石畳」ともいわれるルート、石畳の道は各地にあるが江戸時代の姿がそのまま残っているのはここだけと云われている。

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石積みの祠で、明治までは旅人の無事を祈る石地蔵があったといわれている。やがて地区の人々が小どもの夜泣き封じを祈って「夜泣き地蔵」と呼ぶようになり、今も新しい哺乳瓶が供えられているという。

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鬱蒼と生い茂る木々の間から漏れる陽の光、樹齢300年の大木、「夜泣き地蔵」や「馬越一里塚」などの史跡も多く、立ち止まるたびに思わず、江戸の旅人たちに想いを馳せてしまいます。

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馬越坂の一里塚
江戸時代、全国の主な街道には距離を示す目印として一里ごとに一里塚が設けられた。馬越坂の一里塚は、石畳道の両側にあり、その昔は西側に松、東側に桜が植えられ、峠越えで疲れた旅人たちの憩いの場所であった。

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馬越峠

日本古来の聖地・熊野に詣でのための道、熊野古道(伊勢路)は、平安の昔から今日まで、あまたの人々が足跡を刻んできた。その道程は歴史を後世に伝え続けてきた。

各地から熊野に向かうルートの中でも特に人気があったのが、伊勢から熊野三山を目指す「熊野古道伊勢路」だった。
その170キロの道程のなかで、今回は馬越峠(まごせとうげ)を越える小さな旅でした。

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馬越坂は、熊野道と呼ばれた熊野街道の一部で、古代からの熊野三山信仰に伴って開かれ、その後、大正初期に旧国道が整備されるまで幹線道路であった。

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麓から峠に至る約2キロのかなりの部分が敷石で舗装され、現在もよく往時のおもかげを残している。

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所在地 三重県北牟婁郡紀北町海山区相賀字馬越

相賀駅

馬越峠に向かうべく最寄り駅を5時12分発の一番電車に乗車し、大阪難波から近鉄特急で松坂へ、松坂から多気駅までは比較的スムーズに、

多気駅から参宮線と紀勢本線に分岐する。目的とする相賀駅は、約1時間30分待ち、駅員に紀伊長島駅まで特急に乗った方が早いのか訪ねてみると、接続電車がないので各駅停車でのんびり行ったらとのこと、

この列車で、9時43分発、相賀駅に、

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相賀駅11時50分着

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相賀駅は無人駅、随分前から駅前を想像していたら公衆電話ボックスがあって自動販売機があってバス停がある。家々は古く、街道筋にも思える。
が、行ってみれば大違い、家屋は近代的で、駅前にバス停はない。通りがかった郵便局員に聞くとバス停は国道にあるという。

銚子橋から、河口近いのに流れる水は綺麗、

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銚子橋を渡るとバス停が見えた、時刻表を見ようとするとバスが来たので飛び乗る。
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