知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年09月

パソコンが!

私がパソコンを手にして15年以上になる。当初は文章作成に使っていたがインターネットに興味を覚えたのが2002年秋頃と記憶している。
初めてインターネットに繋いで表示されたのが下の写真の画面だった。あれから5台目のパソコン、最近、スイッチを入れて立ち上がりが15分程度かかるようになった。コーヒーを入れて飲む頃にちょうど良い時間なのでそのまま使っている。
クリックすると同じ画面が2枚表示されることもある。そろそろかなと思っている。

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築堤(大阪府河内長野)
江戸時代になると寺ヶ池や水路の築造により新田開発が盛んにおこなわれるようになったが、鳴尾(どんど)地区では水の便が悪く明治時代後期まで水が乏しい状態が続き、わずかに野菜が栽培される程度だった。

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これを憂いた当時の篤志家が、寺ヶ池の水を利用できるように、高さ2メートル、幅4メートルの築堤を行いその上に水路を築造し、農業用水を供給できるようにしたことにより、この土地を肥沃な水田につくりかえることができた。
現在は、この築堤は取り壊され右の土地と共に公園として利用されている。

飛騨のさるぼぼ

願掛け 「なでさるぼぼ」
飛騨地方では、母親が我が子の無事成長を願って「さるぼぼ」人形を作ったと云い伝えられています。
石は古来より永遠不滅で魂が宿ると言われており、この「願掛けさるぼぼ」に願いを込めてなでると念願が叶うという石像です。

☆ 頭をなでると、頭が良くなる。
☆ 心臓をなでると、出世ができる。
☆ 身体の不自由なところをなでると、その場所が良くなる。
☆ その他、商売繁盛、身体健全、学業成就等の加護があると云い伝えられている。

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「さるぼぼ」人形

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手長像足長像

嘉永元年、名工谷口与鹿は出雲神話による、素戔鳴命(スサノオノミコト)と結ばれた奇稲田媛(クシナタヒメ)の父、足名稚(アシナズチ)を足長に、母、手名稚(テナズチ)を手長に具象化彫刻し、高山祭屋台恵比須に取り付けたものを模したものである。

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弥生橋の歴史
第二十三代飛騨代官増田作右衛門が安政五年(1858)に赴任し、急ぎ架設を決めた橋が安政六年に完成した。弥生三月に通行できるようになったと喜びをもって弥生橋と命名された。付近に丸木の引き渡しの橋もあったが橋脚を備えた架設はこれを創始とする。

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備考
弥生橋付近は、護岸の整備が繰り返された所であり、明治初頭に就任した高山県知事梅村速水も、その補強に腐心している。洪水のたびに弥生橋が流失し、その都度復旧してきた。
昭和10年6月の大洪水で流失した弥生橋と破壊された護岸は昭和11年に高山町と大名田町が合併し高山市発足の際の優先工事として昭和12年に永久橋として完成した。
平成になり老朽化と交通路整備のために幅員を拡げて平成14年この弥生橋が架橋完成した。

櫻橋

昔、この橋を筋違橋といった。
橋の両たもとが外側に開き、高欄擬宝珠付きの優雅な橋であった。擬宝珠は、中橋と京橋にしか付けることが許されなかったといわれるが、いつの頃からか櫻橋も擬宝珠付きの橋となった。

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吉島家住宅(重要文化財)
この町屋は名工とうたわれた西田伊三郎の手によって明治40年に竣工した。当時はすでに幕府の禁制はなく江戸時代の豪商の夢が自由に表現されている。
かつて、アメリカの建築界の巨匠チャールズ・ムーアが来日したとき、彼は庭園では京都の西芳寺(苔寺)、建築ではこの吉島家をあげ絶讃した。その意匠と構成は華やかさの中にも品格に満ち、その細部の手法の質また極めて高く、この地方の町屋の典型を示しているばかりでなく、わが国の民家の中で最も優れたものの一つである。

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火垣(国指定重要文化財)
この板塀の右側上部に立ち上がっている袖壁は、防火用の塗壁で火垣という。吉島家北川面に設けられ建物全体を他所から、特に北西の方面からの延焼を防ぐ為のもので、何時頃から作られ始めたか不明であるが明治初年には考案されていたものと考えられる。

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飛騨山娘

飛騨山娘   吉村比呂詩

   妾(わた)しや 奥飛騨 山娘 
     都はなれた山里の 深い谷間に咲いた花
       人に知られぬ 山つゝじ

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琴高童子像   日展会員 藪内佐斗司

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〈作者のことば〉
古記録によると19世紀初頭にはすでに存在していたとされる高山の琴高台は、中段欄間の鯉の彫り物をはじめ伊達柱や緋の大幕など鯉尽くしの屋台として有名です。

屋台名は、中国の周代の仙人のひとりである琴高が赤い鯉に乗ってやって来るという故事に由来します。
わたしは、琴高仙人を老人ではなく生まれたばかりの童子のすがたに作りました。それは、不老長生の術を体得していることを表しています。また、手には神出鬼没の行動力を示す風車と知恵のお経を持ち、あたまには仏のご加護の象徴である蓮の葉っぱを被っています。

幻の五新鉄道

五新線の路盤を利用したバス専用道がトンネルや路面の状態が悪いことから2014年9月30日をもって閉鎖されることになっていることから昨日行ってみた。

文字通り奈良県五條から和歌山県新宮まで紀伊半島を縦断する鉄道建設計画があった。

五条市新町辺り、橋脚は取り壊されているがこれから吉野川を渡ることになる。(吉野川の橋脚は造られたが橋梁は建設されなかったようだ)

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バス専用道入り口

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五新線の沿線は吉野杉などを鉄道で輸送させる構想で1937年に建設に着手するがルート決定までに時間がかかったり、太平洋戦争が始まり資材不足ため工事が中断したりするが、1957年に工事を再開し、1959年に五条駅から西吉野村城戸(現・五條市西吉野町城戸)まで路盤が完成した。

しかし、西吉野村民は鉄道派とバス派とが村を二分することになり西吉野村は鉄道としての部分開業に反対しバス路線としての開業を主張したり、さらに近畿日本鉄道が吉野口 −五条 −阪本の電化工事を負担し大阪阿部野橋駅から電車による乗り入れの構想が表明され、南海電気鉄道も同様に工事費を負担し難波駅から橋本駅経由での気動車運転の構想を表明したため、混乱に拍車がかかり、結局、五条 −城戸の路盤をバス専用道路として暫定使用する一方、城戸 −阪本は引き続き建設し、この区間の完成後はバス専用道路を鉄道に切り替えるという、バス派と鉄道派の両者を立てた決着が図られた。

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城戸停留所 土日祝のバスは一日一往復のみ西吉野温泉まで行っている。 

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城戸 - 阪本の建設工事は進められたが、国鉄再建法施行により1982年に工事が凍結され、結局列車が走ることなく計画は断念された。
城戸停留所の先のトンネルは閉鎖されていた。

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ここまで来たので西吉野温泉にある「きすみ館」で温泉に入った。ここは若い頃に来た記憶が残っている。玄関を入ったところはリフォームはされているが当時は芋の子を洗うように混雑していた。

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備考
五条 - 城戸間は国鉄・JRバス専用道路として国鉄・西日本JRバスが運行していたが、並行道路の改良が進み専用道路の優位性がなくなったことから、開業時は続行運転をしていた程の乗客もほとんど無くなり、2002年10月にJRバスは撤退し、その後は地元自治体の委託を受ける形で奈良交通のバスが運行されている。しかし便数は減少の一途を辿っており、現在では土休日は早朝の1往復だけとなっている。

旧高山町役場

明治28年に高山町役場として建築され、現在は高山市政記念館として明治維新後の行政資料を収蔵し展示閲覧する目的で開館された。
建物は、当時飛騨の名工の坂下甚吉、舟坂直蔵によって伝統的町屋建築の技法と西洋建築の様式を取り入れた明治時代の近代的な代表的公共建築物であった。

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二階天井は変形折上格天井(へんけいおりあげごうてんじょう)

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土蔵は大正三年に三百五拾円をかけて造られ、間口六間、奥行五間で大正建築の様式をよく表し、内部の構造は今もって狂いが生じていないという。

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備考 明治28年当時の本館建築費用 3719円1銭6厘

中橋の畔で

中橋(なかばし)は、岐阜県高山市本町一丁目と上三之町を結ぶ宮川に架かる橋で擬宝珠や欄干をそなえ全体を朱色にまとった特徴を持つことから赤い橋とも呼ばれる。

高山が城下町として栄えていた時代に架けられた橋であるが、幾度か水害により流失している。現在の橋は1925年(大正14年)に架け直され、1965年(昭和40年)に現在の形に改造されたものである

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陣屋だんご店(みたらしだんご) 行列が絶えない店

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車屋さんの派犬社員(ミニチュアダックスフンド)

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三町伝統的建造物群保存地区

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この日は高山市内を4時間歩き、ホテルは温泉付き、やはり温泉は疲れがとれる気がする。

高山陣屋

 表門

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 玄関

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北の御白洲 (民事を扱った法廷、孝子節婦の表彰も行われた)

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広間(書院ともいい、儀式・会議・講釈等がおこなわれた)

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御白洲(吟味所)
犯罪者を吟味する。一般庶民は白洲、由緒ある浪人や御用達町人は板縁、武士・僧侶・神官は縁側で吟味を受ける。

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元禄五年(1692)七月、六代高山城主金森頼旹(よりとき)は、出羽国上ノ山に移封となり、飛騨国は江戸幕府の直轄領となった。幕府は関東郡代伊奈半十郎忠篤に飛騨代官を兼務させ、加賀国前田加賀守綱紀に高山城在番を命じた。
伊奈代官は金森氏家臣四家の屋敷を会所として金森氏移封後の事務処理に当たった。
元禄八年(1695)、高山城の取り壊しが始まり、三代高山城主金森重頼の三人の娘が居住していた向屋敷に代官所を移して「高山陣屋」と称した。以降明治維新に至るまで、飛騨国内の政務は高山陣屋で執行された。

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山岡鉄舟

山岡鉄舟、名は高歩、通称鉄太郎、幕末明治の政治家、禅に通じ剣をを極め、書を能くした。
陣屋の松をみて、

       「降雪と
         力くらべや
            松の枝」  亀半  と詠んだ。

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弘化二年(1845)飛騨郡代として着任した父 小野朝右衛門 母 磯について高山陣屋へ入った。書は高山の書家岩佐一亭に教えられ十五歳で弘法大師流入木道の伝統を継承した。
剣は江戸から招請した北辰一刀流の井上清虎に学び、のち一刀流正伝を継ぎ、無刀流の一派を開いた。
禅は十三歳頃に初め国・漢学 絵画等も高山在住時代の約八年間に学ぶなど人間形成の礎は飛騨の風土の中で培われたものと考えられている。

父母死去後、江戸に帰り、のちに山岡家の養子となった。勝海舟や義兄の高橋泥舟等と共に幕臣として活躍する。慶応四年(1868)三月、西郷隆盛と会見して、江戸を戦火から救い徳川家に安泰を導いた。
維新後は明治天皇の侍従をつとめ宮内小輔を拝命する。
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