知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年09月

飛騨高山から古川へ

飛騨高山から古川を歩いてきました。
高山は4度目になるが古川は初めて、何時もどんな所か想像するが期待を裏切ることが多い。

 高山駅

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 野麦峠

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河崎なつ

河崎 なつ1889年6月25日 - 1966年11月16日は、奈良県五條市出身の政治家、女性解放運動家、評論家、教師、

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「母親がかわれば社会がかわる」を唱えて国会議員を務め、女性差別や働く母親の権利といった女性の問題と闘った。西村伊作、与謝野夫婦(与謝野鉄幹、与謝野晶子)らと共に文化学院を創立し、自らも国語の授業を行った。

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鈴木源内と五條代官所役人

文久三年(1863)八月十七日、天誅組に襲撃された五條代官所では当時の代官鈴木源内と代官所役人長谷川岱助、伊藤敬吾、黒澤儀助および不運にも居合わせた按摩師の嘉吉が殺害された。

後日、同じく代官所役人の木村祐治郎、高橋勇蔵も命を落とし、最終的に代官所役人の犠牲者は六人となった。

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事件終息後、志に殉じた志士と同じく、幕末動乱の犠牲者となった代官所役人の菩提を弔うために誰とはなしに墓所が建立された。
墓所には、鈴木、長谷川、木村、高橋の四基と黒澤、伊藤が合祀された一基の墓石がある。

森田節斉

幕末維新期の儒学者森田節斉は、文化八年(1811)五條の医師文庵の子として生まれ、文政八年に京都に出て頼山陽に学びました。

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文政十二年(1829)に江戸の昌平黌に入り、各地を歴遊したあと京都三条に塾を開く。尊皇攘夷や佐幕開国などで世論が騒然とするなかで起こった安政の大獄の際、吉田松陰はじめ彼の弟子や同士は、その多くが処刑され、ついで起こった天誅組の変には彼の門人である乾十郎らが加わり、同じく多くの同士友人が斬られた。

森田節斉自身は明治維新の表舞台に出ることはありませんでしたが、思想面での指導者として多くの勤王志士に影響を与えている。

乾十郎

天誅組の五條代官所襲撃から櫻井寺を本陣とする手はずを整えたのは五條出身の医者、乾十郎でした。

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4歳にして孟子を諳んじるほどの秀才で、森田節斉・梅田雲浜に学問を学び、大坂に出て町医を開業した後再び五條に戻り、吉野川に放流する木材に課せられる木材税を不当として紀州藩に撤廃を談じ込み成功させたり、容認はされなかったが吉野川の水を大和平野に疎通させて灌漑設備を整えようと上書したりしています。

飛騨撮影旅行

飛騨高山から古川辺りを旅します。

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8月に集中豪雨があったので延期していましたが15日〜16日に撮影旅行にでかけます。

松倉豊後守重政

松倉家は代々、郡山筒井家の家老の家柄であった。筒井順慶の養子定次に仕えた松倉豊後守重政は、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに二十七歳で出陣し武勲を挙げ、慶長十三年(1608)七月、徳川家康の命により一万石余の大名として大和五條の二見城に入城した。

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備考
松倉重政は直ちに城下の整備に取りかかり、諸役免許の特権を与えて、近郷近在より九十三軒の商家を集め二見村と五條村を結ぶ伊勢街道沿いに新しい町「新町」を創設した。
松倉重政が整備した新町は二見村、五條村、須恵村とともに近世商人が活躍する繁華な町として発展し、町民自治の伝統がこの新町で育まれた。

元和元年(1615)大坂夏の陣で、大坂勢郡山城攻撃の知らせを受けた重政は七十騎を従え郡山に駆けつけ大坂勢を撃退した。夏の陣最初の武功に喜んだ家康は重政に黄金を下賜した。翌年、重政四十三歳の時、幕府の命により、肥前国有馬日之江(島原)に四万三千石の大名として転封された。

日本最古の民家

旧伊勢街道の名残で今も江戸時代の商家の町並みを残している五條新町界隈のなかでも、特に目を引くのが国の重要文化財に指定されている栗山邸、

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棟札に慶長十二年(1607)の銘があり、建築年代の判っているものでは日本最古の民家といわれています。

哀しい恋の物語

悲恋の末、大阪千日寺の墓地で遊女の美濃屋三勝と心中して果てた赤根屋半七は五條新町通りで染物屋を営む半兵衛の息子でした。

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元禄八年(1695)12月9日、ふたりは互いの体を赤絹裏の服紗縮緬で結びあわし、ともに咽喉を掻き切って死んでいたという。

男およそ34、5歳、女およそ24,5歳、半七たちの哀しいはかない恋はすぐさま「三勝半七艶容女舞衣」として歌舞伎の舞台にのぼり、次いで「三勝半七浮名の雨」「三勝半七道行尾花露」など矢継ぎ早に劇化され、大坂・江戸の観客たちを魅了した。
「三勝半七艶容女舞衣」は今もなお国立文楽劇場をはじめ上演されている。

五條新町

関ヶ原の戦いの功績により二見城主に封じられた松倉重政は、城下町の振興策として93軒の町屋を取り立て、その諸役を免許したことで五條新町を商人の町として繁栄させました。

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慶長二十年(1615)に重政が島原に移った後は、新町は幕府の天領となりました。
この頃の新町は紀州街道に沿う宿場町としての性格を強めていきます。諸役免許は引き続き維持され、商売が営まれ、定期的に市も開催されていました。

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交通の要衝として栄えた五條新町は、南和地域の政治経済の中心として着実に発展してきました。

道しるべ
国道24号線から168号線に入る本陣交差点には、伊勢街道、紀州街道、高野街道を示す古い道しるべが残っています。

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