知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年09月

中秋の名月

久しぶりに満月を見た。雲ひとつない空に月が浮いていた。

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昔のことになるが三重に海釣りに行くとき、大台ヶ原あたりで空を見上げたら何と、「ダイヤモンドをちりばめたような」というが、夜空に星がこんなにあったんだと忘れていたことを思いだしたように確認した。

山のなかの澄みきった空にしか見えない。

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さくら井戸(奈良県五條市)

弘法大師が水を求められた時、老婆がわざわざ吉野川の水を汲みに行ったので、弘法大師は楊枝で地面を掘って水を出したと伝えられる井戸、

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井戸には鯉が放たれていました。

天誅組本陣跡

文久三年は五條代官所を舞台に、明治維新の魁となる天誅組の変が起こり、代官による支配の終焉を迎えます。その後、奈良県が設置され、さらに五新鉄道の建設が戦争によって工事途中で断念されるなど、あわただしい時代の波にのまれた歴史がありました。

天誅組は代官所を焼き払った八月十七日から「八月十八日の政変」を受け急いで天辻へ本陣を移す二十日までの間、櫻井寺に「御政府」の看板を掲げ本陣とした。

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櫻井寺には、さらし首となった代官鈴木源内の首を洗ったとされる首洗鉢が残っている。

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井澤宜庵宅跡

井澤宜庵(いざわぎあん)は文政六年(1823)に紀伊国伊都郡に生まれ、医者をしていた(現在の五條小学校あたりで)。天誅組には軍医として参加し、高取城攻めで負傷した吉村寅太郎の手当てもした。

丁寧な治療により大将の中山忠光から褒美として刀を贈られたという。

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天誅組は尊皇の志が厚い十津川に立てこもり、そこで兵を集めてなおも抵抗を続けたが、天誅組が反乱軍となった事実が十津川郷士に知れると、彼らも離反して勢力は日に日に弱まり、吉野郡鷲家口(現在の東吉野村)でほとんど全滅した。

天誅組の変は生野の変とともに尊皇攘夷派によって試みられた最初の反幕府武装蜂起であった。

五條代官所

奈良県五條市役所がある場所に五條代官所が建っていた。五條代官所は寛政七年(1795)に設置され宇智郡(現在の五条市)を中心に五郡、七万千石余の天領を支配する幕府の出先機関だった。

文久三年(1863)八月十七日の七つ時(午後4時頃)、天誅組は此処を襲撃し、代官鈴木源内を殺害して代官所を焼き払った。

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史跡公園にある五条代官所長屋門
元治元年(1864)十月、幕府は代官所を立て直し、明治元年(1868)五月に、代官所は奈良県に引き継がれ、明治三年二月五條県発足のおり五條県庁となり、その後、警察大屯所や中学校として利用され、明治十年(1877)には五條区裁判所となりました。

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天誅組は、当時先の侍従だった中山忠光を大将とする尊皇攘夷の志士たちで、折りから朝廷内の尊皇攘夷派によって計画されていた。倒幕のための孝明天皇の大和行幸に呼応し、その先鋒になろうとして決起した。

代官所襲撃後、支配下の領地を朝廷に差し出すと宣言して、後は孝明天皇の行幸を待つばかりとなったが、突然起きた「八月十八日の政変」によって朝廷内で尊皇攘夷派が排除されると、天誅組は一転して反乱軍とされてしまった。

元興寺

この門は鎌倉時代の建物として、東大寺西南院にあった門を元興寺の極楽坊正門として応永十八年(1411)に移築されたものである。

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極楽坊本堂(国宝)「極楽堂・曼荼羅堂」
外観は寛元二年(1244)、改修時の姿であるが、内陣に奈良時代僧坊の身舎部を残し、西流れの屋根に見る行基葺古瓦は当寺の全身飛鳥寺から移築の際に運ばれたものである。

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かえる石(大坂城の蛙石)
江戸時代の奇石を「雲根志」に載せられている大坂城の蛙石、河内の川べりにあった殺生石だった様だが、後に太閤秀吉が気に入って大坂城に運び込まれたという。
淀君の霊がこもっているとも云われ、近代には乾櫓から堀をはさんだ対岸隅にあった。大坂城にあった頃は堀に身を投げた人も必ずこの石の下に帰るといわれ、縁あってこの寺に移され極楽堂に向かって安置された。

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極楽坊禅室(国宝)
主要な構造部材及び礎石は奈良時代の創建当初のものが残り、官大寺僧坊遺構を伝え、内部の間取りに奈良−鎌倉時代僧坊のおもかげをよく残す貴重なものである。

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浮図田(ふとでん) 二千五百余基の石塔、石仏類

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湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区

紀州湯浅は、古代より熊野古道熊野参詣において上皇や貴族が滞在する宿所であり、平安時代末期から勢力を誇った土豪の湯浅氏の本拠地として栄えました。

中世に入り、熊野信仰が武士や庶民の間にも広まると「蟻の熊野詣」と表現されるほど多くの人々が熊野三山へ赴くようになり、室町時代後半には東部の丘陵地を通っていた参詣の道が西方の海寄りに移るとともに町場が発達し、16世紀末期頃になると、熊野街道の西方に市街地が開発され、江戸時代の寛文元年(1661)には、さらに西方に臨海市街地域が拡大されています。

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近世の湯浅は、藩内有数の商工業都市として発展しました。漁業や魚網製造なども盛んで、近海から遠く九州や関東、北海道まで漁場を開拓していますが、最も特徴的なものは、鎌倉時代に伝来した金山寺味噌の製造過程から生まれたといわれる醤油醸造です。

紀州藩の手厚い保護を受けて藩外販売網が拡張され、文化年間(1804〜1818)には92軒もの醤油屋が営業していたといわれるほど、代表的な産業となりました。

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湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区
保存地区は旧市街地の北西に位置し、16世紀末期頃に開発されたといわれる北町、鍛冶町、中町、濱町を中心とする醤油醸造業が最も盛んであった一帯にあって「通り」と「小路」で面的に広がる特徴的な地割と、醸造業関連の町屋や土蔵を代表とする近世から近代にかけての伝統的な建造物がよく残されている。

レモンの実

毎年、レモンの木に実はなるのだが、小さいうちに落ちてしまう。今年はどうしたことか初めてピンポン球大に育った。
このまま大きくなれば食べられるかも、

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カリンの実は毎年大きくなるのだが、

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果無集落

果無(はてなし)坂の入り口に着きました。
熊野古道(小辺路)、ここからは果無集落までは石畳の上り坂が続く、

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開けた処からの展望、陽が当たるので暫くはとても暑い、

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果無集落が見えてきました。

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民家の庭を小辺路が走っている。

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「世界遺産 熊野詣道 小辺路」と書いてありました。

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下りはバス道でと思って100メートルほど歩くと地図があり約3倍ほどの距離がある。しかたなく、小辺路を下ることにしたが、小辺路の下りは石畳の土が雨で流されたのか、それとも最初から傾斜をつけてあるのか石が水平になっていないので足に負担がかかる。

めったに来ないバスに運良く乗れたので十津川温泉に入ってから帰る予定だったが、乗ったバスで帰らなければ次は16時前までない。まだ12時過ぎ、4時間近くも待てないので帰ることにする。五條駅着15時30分、

向井去来

熊野古道小辺路、柳本橋のたもと果無登山道の入り口に、松尾芭蕉の弟子である向井去来の句碑がありました。


       『 つづくりも はてなし坂や 五月雨 』
                           向井去来

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備考 向井去来(慶安4年−宝永元年 1651〜1704)江戸前期の俳人、芭蕉門下十哲の1人といわれた。
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