知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年10月

五條から橋本へサイクリング

河内長野の石川に架かる諸越橋を越えると県境の金剛トンネルまで坂道が続く、小深までは来たことがあるが、ここから金剛トンネルまでは未知の世界、車では何度も通っているが景色を見る余裕はない。ロードバイクのドロップハンドルに力がはいる。

金剛トンネル(奈良県側から大阪府側を望む)

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日本最古の民家、栗山邸(重要文化財)

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落合川に架かるアーチ橋(JR和歌山線)

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下兵庫駅(無人駅) 発券機以外何もない

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紀見隧道(1530メートル)
この隧道の上を旧高野街道が走り紀見峠がある。此処まで来ると疲れから紀見峠に登っていく気力がなく隧道の歩道を20分かけて歩いた。

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隧道を抜け、「南天」の写真を撮りに来た天見から我が家に帰るまで走行距離は87キロでした。

女郎蜘蛛

私がNikonFを買ったのが18歳頃だったと記憶している。我が家にも暗室を作って現像をしていた。

一日中、山を歩いて女郎蜘蛛を撮ったこともあった。京都の化野念仏寺で早朝から夕方まで石仏を撮っていたこともあった。

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大坂城の歴史

大坂城の前身に石山本願寺がありました。明応五年(1496)本願寺8代法主蓮如が石山御坊という隠居寺を建てたのが始まりと云われています。山科石山本願寺本坊が徐々に大坂に移されることになり、城郭の造りを形成し石山本願寺と呼ばれるようになりました。

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11代法主顕如の時、織田信長から「石山本願寺の明け渡し」を要求され、織田信長に抵抗し戦となります。元亀元年(1570)から実に10年間に及ぶ石山合戦が起こり、天正八年(1580)に信長に降参することになります。

明け渡し直前に不審火により、三昼夜にわたり炎上し城郭であった御坊は全焼してしまいます。この石山本願寺の炎上が1回目の炎上で、この時、もっとも大きな抵抗勢力を退け勝利した織田信長は、この後、天下統一の礎を築いていくことになります。

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天正八年(1580)八月、石山合戦に勝利した織田信長は石山本願寺跡地に城郭を築きます。これが大坂城です。
しかし、この時の大坂城は後世の城とは規模が違っており、石山本願寺の遺構に応急処置を加えただけの城郭に過ぎませんでした。
信長が大坂城の初代城主となり、重臣の丹羽長秀・織田清澄らを常駐させます。天正10年(1582)6月、本能寺で最期を遂げるまでの2年間、大坂城の城主は織田信長でした。

大坂城千貫櫓

大坂城の大手口を守る重要な隅櫓である千貫櫓は西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができました。

織田信長が大坂を領していた頃も千貫櫓はありました。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった石山(大坂)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓から横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士達の間で噂されたという逸話が残っているという。

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備考 創建は徳川幕府による大坂城再建工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理の際、墨書で 「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかっています。二の丸北西に現存する乾櫓と同様に大坂城最古の建造物でいずれも工事責任者は小堀遠州である。
豊臣秀吉築城の大坂城にも千貫櫓はありました。

南天苑

大阪府河内長野市天見、高野街道沿いにある南天苑は大正2年(1913)に阪堺軌道が堺市の大浜公園に建設した娯楽保養施設「潮湯」の建物のひとつでした。当時「家族湯」と呼ばれ、主に個室風呂や個室の休憩室が配されていました。

この建物が昭和9年に室戸台風で損壊し、天見に移築され、大阪市阿倍野の料亭「松虫花壇」の別館として営業を始めました。

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備考 平成14年に「明治建築研究会」により建物調査が行われ、明治から大正時代にかけて活躍した
    辰野金吾博士の辰野片岡建築事務所の設計によるものであることがわかりました。
    現在の建物は、和風をベースとしながら諸所に洋風モダンな意匠を取り入れた、大正・昭和初期
    の建築様式を偲ばせる貴重な建物といわれる。

ハナミズキ

毎年春になると白や淡いピンクの花を咲かせるハナミズキ、通りに街路樹として植えられている。
駅前のハナミズキがあまりにも鮮やかだったので撮りにいってきました。

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そういえば、ハナミズキに実がなっていたのを見た記憶がないような、花はよく覚えているが実はねェ。

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遊歩道

この遊歩道は自転車も通行できるのでサイクリスト達の良きサイクリング道となっている。

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二時間ほどゆっくりと歩いて小さい秋を見つけた。

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河内長野で東高野街道と西高野街道が合流して高野街道となり、三日市からこの道を通り高野山へと続いている。

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南天

私は「もみじ」が好きだ。五月の若葉も良い、また、11月頃の紅葉した「もみじ」も良い。雨に濡れた「もみじ」の葉も良い。
次ぎに好きなのが「南天」だ。
昨日、天気も良かったので南天を見に南海高野線天見駅から千早口駅まで遊歩道を歩いてみた。少し早いのか色づいていない。

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この辺り南天が多く植えられている。

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山も紅葉はこれからだ、

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大坂城 極楽橋

山里丸と二の丸を結ぶ橋で豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣で落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。

江戸時代には幅約8メートルの木造で、慶応4年に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが97年後の昭和40年に再架橋された。
戦国時代この地にあった浄土宗本山、大坂(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。

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秀頼・淀殿ら自刃の地
慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
平成9年、現在の山里丸の一画に記念碑が建てられた。

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大阪城(明治期)

大阪鎮台の設置
明治2年(1869)5月、五稜郭の戦いが終わり戊辰の役が終結します。兵部大輔に任じられた大村益次郎は8月中旬京阪地区に出張し、新政府の基盤となる軍事施設を精力的に定めていきます。
大阪城内には、陸軍施設(大阪鎮台、兵学校、兵器工場)を設置するよう命じ、早速大阪鎮台が設置されます。
この施設が、後に起こる西南の役において、鹿児島氏族の反乱を鎮圧する根拠地となります。
鎮台は明治21年の兵制改革により第四師団と改称されます。

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兵学寮(陸海軍の士官学)の開校
明治2年11月に客死した大村益次郎の遺志を継ぎ、明治3年4月、大阪城内の二の丸京橋口内側に兵学寮青年学舎(陸海軍の士官学校)が開校されます。

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造兵司(後の大阪砲兵工廠)の設置
陸軍直属の兵器製造工場で、大砲などの重兵器、爆弾などを造る施設です。大阪城城内の青屋口付近に設置されました。
西南戦争勃発
明治10年2月、西南戦争が勃発すると大阪鎮台兵が初めて戦闘に参加します。前線基地となったこの地に負傷兵が次々と運び込まれてきます。
大阪陸軍臨時病院を設立し、負傷兵の治療をおこないます。同年3月31日、明治天皇が内閣顧問官である木戸孝允を従えて訪れ入院患者を見舞いました。
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