知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年10月

紀州御殿

紀州御殿
明治18年(1885)、和歌山城二の丸の主館であった白書院、黒書院、遠侍の三建造物延べ350坪が陸軍の手で大阪城本丸に移築され、第四師団司令部庁舎として利用されていたものである。元々は江戸時代初頭に和歌山城の二の丸御殿として建造された桃山様式の豪壮な書院造りの建築であったため、明治初期の和歌山城破却の際、陸軍幹部が破却するに忍びないという事でわざわざ大阪城へ移築されることが決まったという。

紀州御殿は第二次大戦中の戦災も奇跡的に免れたが戦後、連合軍によって大阪城が接収されていた昭和22年に失火による火災で焼失してしまった。大阪市消防隊が大手門前まで駈けつけたにもかかわらず城内への立ち入りが許可されず消火活動は出来なかったという。

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時報を告げる大砲
大阪天保山砲台にあった大砲が明治維新後大阪城へ移されました。明治3年から時刻を知らせる号砲として用いられ、最初は1日に3回でしたが、明治7年以降は正午のみ大阪市内を空砲が轟きました。
「お城のドン」「お午(ひる)のドン」という名で親しまれていましたが、大正期になり火薬の節約等の理由から中止となりました。
今でも仕事が午前中のみの場合「半ドン」という言葉が使われています。

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家庭菜園

昨日採れたミョウガ、我が家のミョウガは終わっているのに菜園のミョウガはまだ採れる。1キロも離れていないのに、太陽のあたりぐわいなのだろうか。それとも土が、或いは2種類あるのだろうか。

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この時期、牛肉でミョウガを包み炊き合わせるとシャキシャキ感は無くなるがほろ苦さは残っており酒にもご飯にも合う。

大阪城天守閣復興

天守閣の復興が議会で可決
昭和3年11月、昭和天皇即位の式典が行われるにあたり大阪市の記念事業として、寛文5年(1665)1月の落雷で焼失して以来、約270年間失っていた天守閣の復興が大阪市議会に提案され満場一致で可決しました。

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昭和3年から募集した寄付金はわずか半年で目標額の150万円に達しましたが、大阪城内は明治以降、陸軍の軍用地になっており、あらゆる施設が建っていたため一般の市民や観光客が自由に出入りすることは困難が予想されました。
そのため陸軍からいくつかの条件が出され、それを認めることで再建が進められました。その条件とは、募金額の6割を新庁舎の新築に充て残りの4割を天守閣再建と大阪城公園の整備に充てること。また、いざという時は天守閣を軍部に明け渡すということでした。

新築された第四師団司令部の庁舎は、戦後、進駐軍の本部、大阪市警察本部と移り変わり、大阪市立博物館として2002年3月まで利用されていました。
豊臣期の天守閣の復興が望まれ、数少ない資料から現在の天守閣が設計されました。

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大阪城天守閣

陸軍により閉鎖された大阪城
昭和12年に日中戦争が開戦となり、これ以降は戦時体制となったため大阪城の観光客に対し規制が強まります。
昭和15年大手門で写真機が取り上げられるようになりました。次第に規制が強化され天守閣の展望台を閉鎖し窓はすべて鎧戸で覆い隠されてしまい館内の展示品以外は見ることができなくなりました。
これにより、一般客は大阪城内の軍事施設や軍需工場をまったく見る事ができなくなります。

天守閣の一般公開を閉鎖
昭和17年9月25日、ついに復興された天守閣が軍部に接収され市民の公開が閉鎖されました。その後、敗戦により進駐軍に明け渡すまでの期間中、この天守閣をどのように使用していたかは不明のままです。

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昭和20年8月24日午後1時頃、アメリカ軍のB29戦闘機145機が大阪城とその周辺にある軍の施設や砲兵工廠を空襲しました。1トン爆弾をばらまいたため民間人を含め大きな打撃を蒙りました。

天守閣の被弾
この時の空襲で大阪城天守閣は奇跡的に壊滅せず残りました。しかし、2発の1トン爆弾を近くに落とされ石垣が相当ずれました。
また、焼夷弾により天守閣の屋根も随分傷みました。天守閣は石垣に重みをかけないという特殊な工法で建てられていたため大きな打撃を受けずに済みました。

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大阪城の被弾、大阪砲兵工廠壊滅
豊臣期の大坂城焼失では徳川政権が安泰となり、幕末期の大坂城焼失では、薩摩・長州を中心とする天皇政権の安泰へとつながっていきます。この時の被弾により天守閣は形を残したものの、周辺の砲兵工廠の建物などが壊滅しました。
そして、政府も大日本帝国の軍国主義から民主主義の国家へ移り変わっていきます。

大坂城の石垣

羽柴秀吉掟書
天正十一年(1583)八月二十八日付の黒田勘兵衛宛ての掟書、大坂築城工事に関する指令書の中でもっとも古いもので工事の方針が書かれている。
第一条、採石場は公開とし一人独占は認めない。
第二条、石運び要員の宿舎は石場に野陣を張ること。大坂に宿舎のある者は別途対応のこと。
第三条、石運びは大石を引く者に道を譲ること。
第四条、喧嘩口論は厳禁のこと。
第五条、石運びの人夫が百姓に理不尽なことをすれば犯罪行為として断固処罰せよ、もし見逃したりす
      れば、その主人まで責任を問う

このような内容の指令書が黒田勘兵衛に与えられたのは彼が普請奉行といった重要な任務についていたからであった。

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天下人徳川家康の居城にふさわしい堂々たる石垣の巨石はどのような方法で行われたのか、
石垣の高さは内堀の東部が最高で、水面から24メートル、水深約6メートル、堀底から根石まで2〜3メートル、合計32〜33メートルと推定される。

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使われている石材は100万個とも推定され、100トンもある比類のない巨石が用いられていることも特徴の一つにあげられる。
これらの石垣は元和・寛永年間(1620〜29)の徳川再建工事によって築かれた。

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石垣築造に至る過程は筑前黒田家の覚書によると、
1.石掘割り(石切場での採石) 2.山出し(海岸までの石材運搬) 3.浜出し(水上運搬) 4.水上げと修羅曳き(石船から陸揚げし丁場まで修羅で曳く) 5.栗石持ち(栗石を丁場まで運ぶ) 6.根石置き(丁場より石を曳き栗石を栗石を運び、根石を据える) 7.石積み(石垣を積み上げる) 以上のような行程があるが、実際は堀の掘削、石の運搬路建設、石置場の整備、仮宿舎の建設などがある。

重量物運搬用の修羅

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年金制度

難波駅前で署名と集会が行われていた。

年金をもらている人の半数近くが月額10万円未満で、基礎年金のみの人は1047万人、その月額は平均5万円、最多は3〜4万円。とくに、ひとり暮らしになることが多い女性の年金は低額できびしい生活を強いられているという。

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働く人の賃金は、ここ10年下がり続け、非正規雇用の割合は増え続け全労働者の4割近くにまで上がり、その多くが厚生年金に入れない、国民年金の保険料納付率は20代〜30代で半数を割っているという。

提案は、最低保障年金度は、すべての高齢者に月額8万円を支給する全額国庫負担による「最低保障年金」を1階部分とし、収入に応じて納付した保険料額にみあう年金を2階部分とする制度としている。

備考  国連も勧告
北欧を中心にヨーロッパ諸国、ニュージーランド、オーストラリア、カナダなどの先進国は、いずれもなんらかの年金の最低保障制度をもっています。2013年5月には、国連社会権規約委員会が日本政府に対して、無年金・低年金の存在、また、女性の低年金に懸念を表明し、最低年金制度の確立を勧告したという。

和食

グリコの看板などによって象徴される道頓堀は、大阪・ミナミの代表的な繁華街です。道頓堀の名は、慶長17年(1612)に私財をなげうって川を開削した安井道頓の名前に由来するといわれる。

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道頓堀川は東横堀川の南端から西流して木津川に合流する全長約2.9kmの河川で、西横堀川以西は西道頓堀川とも呼ばれる。日本橋 - 浮庭橋間では、両岸に遊歩道「とんぼりリバーウォーク」が整備され、道頓堀や宗右衛門町の繁華街を川岸から楽しむことが可能になったが流れる水は汚れている。

道頓堀橋から見た道頓堀川(戎橋方面)、

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すらんど割烹日本
落ち着いた雰囲気の個室で四季折々の日本料理が楽しめる「すたんど割烹日本」、

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備考 道頓堀川に架かる橋
    下大和橋、日本橋 、相合橋、太左衛門橋、戎橋 、道頓堀橋、新戎橋、大黒橋
    深里橋 、浮庭橋、住吉橋、西道頓堀橋 、幸橋、幸西橋 、汐見橋 、日吉橋

だんじり祭り

今年も2日間の「だんじり」(秋祭り)

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一旦停まって、この信号を左折れする。

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今年のだんじりは子供は参加していない。

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合図で一斉に、うまいもんだ。見ていると右に転けないかとひゃひゃする。

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見事にカーブを曲がり切りました。

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我が地区は、浦之庄、狭山、前田、東村、川向、5台のだんじりが揃えば圧巻だ。

廣瀬武夫(海軍中佐)

この銅像は明治三十八年に建立されたが第二次大戦中に胸像のみ応召され、胸像なきまま放置するに忍びず昭和四十二年中佐の偉勲と徳風を景仰し補修復元した。

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廣瀬中佐は、明治元年五月に大分県竹田町に生まれる。父が高山裁判所長として赴任したため明治十年、高山煥章学校に学び明治十五年小学校を卒業、海軍兵学校に入学、明治二十四年少将に任官、明治二十七、二十八年の日清戦争には軍艦扶桑の航海士として参加する。

明治三十七年、日露開戦に於いて旅順港で同年三月戦死する。
部下、杉野兵曹長の姿を求め「杉野はいずこ杉野・・・・・」と叫びつつ戦死した有様は軍人の鏡として戦前の教科書にとりあげられた。柔道は三十歳で四段、没後講道館より六段を贈られた。

高山城趾

古川から11時台の鉄道はなくバスにて高山に戻り、高山城跡に登ってみることにした。

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二之丸屋形跡

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水手門跡

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搦手之門跡

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標高686.6メートル、通称城山、別名を臥牛山、巴山ともいう。金森入国以前は「天神山城」と呼ばれ飛騨の守護代である多賀出雲守徳言によって文安年間(1444〜49)に築城され、近江の多賀天神を祀ったことから多賀天神山、城は多賀山城と呼ばれた。永正年間(1504〜21)には高山外記が在城していた。
拾間櫓跡

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本丸屋形跡

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備考
天正十三年(1585)七月、金森長近は豊臣秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜った。城地として最初は鍋山城を考えたが、後、天神山古城跡を選定した。飛騨の中央にあり、東西南北の街道が交差する最も適所と考えたのである。

築城は天正十六年(1588)から初め、慶長五年(1600)までの十三年で本丸、二之丸が完成し、以後、可重によって更に三年で三之丸が築かれた。高山城は織田信長の安土城構築直後に築かれ、大きな影響を受けている。
軍事的機能を最優先させた城ではなく、御殿風の古い城郭形式をもち外観二層、内部三層の構造をもつ天守を備えているのが特徴で、秀吉の大阪城築城以前における城郭史上初期に位置づけられる。

本丸屋形には台所、風呂、大広間、茶室などがあった。南の大手方面には南之出丸、北の搦手方面には東北曲輪、中段屋形が配置される。
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