紀州御殿
明治18年(1885)、和歌山城二の丸の主館であった白書院、黒書院、遠侍の三建造物延べ350坪が陸軍の手で大阪城本丸に移築され、第四師団司令部庁舎として利用されていたものである。元々は江戸時代初頭に和歌山城の二の丸御殿として建造された桃山様式の豪壮な書院造りの建築であったため、明治初期の和歌山城破却の際、陸軍幹部が破却するに忍びないという事でわざわざ大阪城へ移築されることが決まったという。
紀州御殿は第二次大戦中の戦災も奇跡的に免れたが戦後、連合軍によって大阪城が接収されていた昭和22年に失火による火災で焼失してしまった。大阪市消防隊が大手門前まで駈けつけたにもかかわらず城内への立ち入りが許可されず消火活動は出来なかったという。
時報を告げる大砲
大阪天保山砲台にあった大砲が明治維新後大阪城へ移されました。明治3年から時刻を知らせる号砲として用いられ、最初は1日に3回でしたが、明治7年以降は正午のみ大阪市内を空砲が轟きました。
「お城のドン」「お午(ひる)のドン」という名で親しまれていましたが、大正期になり火薬の節約等の理由から中止となりました。
今でも仕事が午前中のみの場合「半ドン」という言葉が使われています。
明治18年(1885)、和歌山城二の丸の主館であった白書院、黒書院、遠侍の三建造物延べ350坪が陸軍の手で大阪城本丸に移築され、第四師団司令部庁舎として利用されていたものである。元々は江戸時代初頭に和歌山城の二の丸御殿として建造された桃山様式の豪壮な書院造りの建築であったため、明治初期の和歌山城破却の際、陸軍幹部が破却するに忍びないという事でわざわざ大阪城へ移築されることが決まったという。
紀州御殿は第二次大戦中の戦災も奇跡的に免れたが戦後、連合軍によって大阪城が接収されていた昭和22年に失火による火災で焼失してしまった。大阪市消防隊が大手門前まで駈けつけたにもかかわらず城内への立ち入りが許可されず消火活動は出来なかったという。
時報を告げる大砲
大阪天保山砲台にあった大砲が明治維新後大阪城へ移されました。明治3年から時刻を知らせる号砲として用いられ、最初は1日に3回でしたが、明治7年以降は正午のみ大阪市内を空砲が轟きました。
「お城のドン」「お午(ひる)のドン」という名で親しまれていましたが、大正期になり火薬の節約等の理由から中止となりました。
今でも仕事が午前中のみの場合「半ドン」という言葉が使われています。