知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年11月

愛媛県庁本館

愛媛県庁本館は1929年完成、工事費100万円、設計は木子七郎、施行は安藤組、老朽化により、1994年に大修繕が行われたとある。

ドーム状の屋根と左右対称が特徴で戦前は緑色で塗装されていたようだ。

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鋳物師(いもじ)

美原町(現大阪府堺市美原区)は、鋳物師発祥に地、鋳物師(いもじ)とは鉄や銅の金属を溶かして鋳型に流し込み鍋や釜から梵鐘にいたるまで、鋳物製品を鋳造した技術者のことです。

     梵鐘の音は時を越えて

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中世、「河内鋳物師」と呼ばれる鋳造技術集団が、当時の美原で「大保十軒」と呼ばれるほどの賑わいをみせ、鎌倉時代に再興された東大寺の大仏等鋳造にも参加し、また、鎌倉の大仏や日本全国の梵鐘など数多くの作品を残すなど、鋳物技術の先駆者であったと考えられています。

なんじゃもんじゃの木

和名 ヒトツバタゴ  モクセイ科の落葉高木で、愛知県犬山市、岐阜県岐阜市などに野生し、長崎県対馬の鰐蒲の海崖に自生地がある。
雌雄異株であるが雄株と両性花異株に分かれる。

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和名はトネリコの葉によく似た葉を持つことに由来する。トネリコの葉は羽状複葉であるがヒトツバタゴの方は単葉をつける。このことから「単葉のタゴノキ」という意味でヒトツバタゴと名付けられた。

また、別名の「なんじゃもんじゃ」は名前がわからないので「なんていうもんじゃ・・・」と尋ねたことからナンジャモンジャの木と呼ばれていたという。
五月に白雪のような花をつけ香りが良い。

伊予松山城

松山城は松山平野の中央に位置する勝山を中心に築かれた平城で、山頂に本丸が南西の山麓に二之丸や堀と土塁に囲まれた三之丸が配されています。

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松山城の築城は、関ヶ原の戦いでの活躍により、この地を与えられた加藤嘉明によって始められ築城にあわせて勝山の南を流れていた湯山川を付け替え、三之丸と城との周囲に侍町をその外側に町人地を置き、さらに勝山の北側にある御幸寺山の山麓に城を防備するために寺町を置きました。

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加藤嘉明は正木城(伊予郡松前町)から慶長8年10月に新城下に移りました。この頃から松山と呼ばれるようになったと伝えられています。
城の完成は寛永4年に嘉明が会津へ転封された後、蒲生忠知によると伝えられ、忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年、松平定行が松山藩に入り、以後、明治維新を迎えるまで松平家の居城となりました。

碧梧桐

     「 さくら活けた
          花屑の中から一枝拾ふ 」   河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう)

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碧梧桐は、愛媛県松山市千舟町に生まれ、虚子と子規門の双璧で、子規没後、日本俳句の選者を継ぎ、やがて非定型自由律の俳句を唱えた。
碧梧桐最初の句碑で、昭和6年松山刑務所内に情操教育のため、虚子の句碑とともに建てられた。

伊予松山城本丸

松山城本丸は城の防衛上最後の砦となる郭で、高さ10メートルを超える高石垣に囲まれ、南北300メートル東西約30〜180メートルという規模を誇っています。

本丸北側には、城の中心である連立式天守の本壇が配置され、南側には大手(正面、表口)である大手門、北側には搦手(背後、裏口)である乾門があります。乾門付近には、乾櫓や野原櫓という城内で最古の櫓が残されています。

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本壇
本丸の北側に位置し、天守、小天守などの城の中枢となる建物が配置されています。

本丸広場より更に8メートル高く築かれ、出入口は一ヵ所に限定されるなど防備は厳重で天守は更に4メートルの高さの石垣の上に構築されています。本壇石垣の隅々には櫓が配置され、渡塀または多聞櫓などで接続されています。

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紫竹門
本丸の大手と搦手を仕切る脇戸付き高麗門で、本壇北側にあった中仕切門とあわせ搦手を固める重要な門です。
小天守下に紫竹が植えられていたことからこの名がつけられ、扉の上下は竪格子となっており、そこから外を覗き見る工夫がなされています。

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艮門
艮門と同東続櫓は、本丸の北東に配置された脇戸付きの櫓門と二重櫓で、城の東側の防衛を担っています。
また、ここから出撃し、大手や搦手に迫った寄手の背後を急襲するという役割を担っていたと考えられています。

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松山城の石垣
「登り石垣」の石材には、主に花崗岩が使用され隅部はほとんどが算木積みで、本丸を囲む高石垣は高さ10メートルを超える扇勾配と屈折を連続させることで防御性を高めた屏風折が特徴です。

加藤嘉明による築城時(慶長七年)の典型的な石垣が残され、その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打込ハギの乱積です。

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本壇の石垣は北側と南側で異なり、北側は時期は不明であるが打込ハギ布積で、隙間に合わせて加工した間詰石が詰め込まれている特徴がみられ、南側は嘉永年間(1848〜1854)天守などが再建された際に、新しく積み直され、充分に手間をかけた切込ハギの布積で隙間のない整った外観となっている。

公園にて

この公園は早朝にゲートボールをする団体、ボール遊びをする子供達、犬の散歩をする人、子供を遊ばせる母親など市民の憩いの場となっている。

「おやすみのところ すいませんが 席を譲っていただけますか」と、そっといってみる。

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井戸(伊予松山城)

本丸の太鼓門櫓前にある井戸
築城時に谷だった場所を埋め立てるのにあわせて、泉を掘り下げ石を積み上げて造られたと伝えられています。
深さは44.2メートル、水深は9メートルあり、戦前までは釣瓶が備えられ、冷水を汲み上げて飲むことが許されていました。

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上屋は戦災で焼失したため城内で初めて再建されました。

井戸には、
   1.底がない
   2.天守と二ノ丸への抜け穴がある
   3.大こうもりがいる
   4.水を綺麗にするため大判・小判が投げ込まれている
などの言い伝えがありましたが、いずれも真実でないことがわかっています。

巽櫓(伊予松山城)

太鼓門
本丸大手の正門と位置づけられている脇戸付きの櫓門で巽櫓や太鼓櫓とともに防衛線を構築しており、隠門や筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く第2の防衛線となっています。

残念ながら1945年の戦災で焼失したため、門は欅、階上は栂で復元されました。

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巽櫓
本丸の南東に位置する二重櫓で、一重目南面に千鳥破風が付けられています。太鼓門と一体となって防衛線を構築しています。
巽櫓西塀は長さ7.82メートルで6ヵ所の狭間が設けられています。これも1945年の戦災で焼失したため復元されました。

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太鼓櫓
本丸の西南隅に配置された矩折(かねおり)の二重櫓です。この櫓は巽櫓・太鼓門・同西塀と同じ高さ(約7メートル)の石垣の上に築造されており、これらは一連の防衛線となっています。
築城時に建てられたものと考えられ、明治時代に石落や突揚戸などが改変されたが同じく戦災で焼失しました。

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隠門(伊予松山城)

筒井門
筒井門と隠門は本丸大手の重要な固めで、城内で最も堅固な建造物の一つです。
筒井門は脇戸付きの櫓門で、慶長年間(1596〜1615)の築城に際し、正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられる城内最古の建物の一つでした。

門の棟木裏には、「慶長七□□年四月マサキヨリウツス也」と墨書きされていました。放火により焼失しましたが復元されました。

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隠門
この門は正門である筒井門の奥の石垣に隠された埋門(うずみもん)形式の櫓門で、戸無門を通過して筒井門に迫る寄手の側面を急襲する策略が秘められています。
欄間は戸無門同様の格子欄間で、2階は筒井門東続櫓と隠門続櫓とを結ぶ渡櫓となっています。

慶長年間の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重な建造物です。
これを過ぎると太鼓櫓と巽櫓に進みます。

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筒井門西続櫓と同東続櫓は筒井門の両側に設けられた平櫓で筒井門・隠門とあわせて大手の防備を担っています。

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隠門続櫓は隠門2階の渡櫓の東側に接続する平櫓で、長者が平(なる)からの登城道を監視する目的で揚木戸門前の本丸石垣の上に建っています。
平面形は、石垣に合わせて東側に突き出た変則的なものとなっており、西側は隠門渡櫓につながっています。

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