知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年11月

伊予松山城(戸無門)

二ノ丸から本丸へ
黒門口登城道は慶長年間に造られ二ノ丸から本丸への通路であった。

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大手門跡

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中ノ門跡
大手登城道の太鼓櫓石垣下に設けられていましたが明治時代に取り壊されました。
この門を設けることで、攻めてきた寄手は門を通りすぎて直進する者と戸無門へ行く者に分かれますが直進した者は乾門下で行き止まりとなります。
太鼓櫓から乾門へ続く石垣は屏風折と呼ばれ石垣が屈折しています。これは寄手がどこにいても弓や鉄砲で射撃できる横矢掛といわれる防衛上重要な構造となっています。

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戸無門
この戸無門は、本丸の大手登城道に設けられた高麗門です。両脇の寄掛柱を石垣にもたせ、脇戸はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱に扉を吊る肘壺の痕跡もないので創建当初から扉を持たなかったものと考えられます。
建築年代は明らかではないが、寛永から正保年間(1624〜1648)の建立と推測されています。また、寛政12年に立て替えられたことを示す棟札が残されています。

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松山城二ノ丸史跡庭園

伊予松山城二ノ丸史跡庭園
松山城の二ノ丸は本丸を防備する為の施設で南と西側には内堀があり、高い石垣と強固な櫓や門、それらをつなぐ塀によって周囲が囲まれていました。

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二ノ丸邸は、蒲生忠知の時代(1627〜1634)に完成し明治5年の火災によって焼失しました。

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この二ノ丸史跡庭園は、表御殿跡と奥御殿跡とに大別され、表御殿跡は北半分にある「柑橘・草花園」で各地のカンキツ類や草花で昔の部屋の間取りを表現し、奥御殿跡は西南部にある「流水園」で水と砂利と芝生で昔の部屋の間取りを表現しています。
また、林泉庭は露岩を背景にした池・滝を配置して「わび」「さび」を表現しています。

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松山城山樹叢
標高132メートルの城山は、加藤嘉明が慶長7年に築城を始めた頃は禿げ山であったがアカマツが植林されて山一面を覆い松の山になったと伝えられる。
現在はアカマツがツブラジイなどの勢いに負けて数少なくなっている。

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ツブラジイの群落に混じって、クスノキ、アラカシ、ホルトノキ、アベマキなどの大木が茂っている。その林の下にはアオキ、タラヨウ、ヤブニッケイ、シロダモ、などの照葉の常緑樹があり、さらに、その下にはいろいろなシダ類も見られる。
また、ここにはシノノメザクラ、ヤマザクラ、ソメイヨシノなどの桜も多い。種子植物、シダ類を合わすと約550種の植物が繁茂している。

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黒門口登城道、二ノ丸跡から本丸まで約20分の登り坂、

伊予松山城

松山城は慶長7年(1602)に加藤嘉明によって築かれた城郭で、本丸をはじめとして二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、東郭、北郭によって形成されており、三ノ丸は藩の主要な施設と中上級武士の屋敷が配されていました。

 三ノ丸跡

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黒門口登城道は三ノ丸から二ノ丸、本丸へと続く大手登城道で三ノ丸からの入口となる黒門周辺は、特に堅固な構えで、わずか100メートル程の間に黒門、栂門、槻門と五度の屈曲が連続し、門には番所が設けられていました。
また、黒門と栂門の間には腰掛が設けられていました。

黒門跡

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備考 腰掛は藩士が登城する際にお供の者を待たせていた建物
    黒門には古文書によると、門の屋根には「矢切」という「忍びがえし」が備えられ、門の左右の石垣
    上には石落や狭間などが備えられた渡塀が続いていたという。

産業まつり

市主催の産業まつりが市立野球場で行われたので昨年に続き行ってきました。

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消防署が子供に子供用の制服を着せてサービスしている。自衛隊も、

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9時30分からなのだが野菜売り場は人・人・人、昨年もそうだった。

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市立図書館の古い書籍が無料で置かれ、沢山の人で賑わっていました。

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昨年の産業まつりの写真をパソコンに入れようとしたら何処かにいってしまった。そういえば、能登島に行った写真もパソコン内で無くなっていた。あれ以来、5ヶ所に保存している。

狭山池

日本最古のため池、狭山池の水質改善検討のため水位を低下させ、池底の一部の天日干しを行っている。
平成の大改修以降、初めて水が抜かれているが随分と時間がかかるものだ。

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中央に野鳥のために造った、二つの島が見えるが浮島だったのだ。

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この辺りが一番浅瀬なのか、随分水が引いたものだ。

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期間は11月上旬から来年3月下旬までとなっている。

黒門市場

大阪市中央区日本橋に浪速の台所として知られる黒門市場、その歴史は明治末期まで圓明寺という寺があったことから「圓明寺市場」と呼ばれていました。

圓明寺には黒い山門があり、この山門の存在が黒門市場と呼ばれたゆえんであります。

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備考
「摂陽奇観」に「文政5年〜6年の頃より毎朝魚商人、この辺に集まりて魚の売買をなし、午後には諸方のなぐれ魚を持ち寄りて、日本橋にて売り捌くこと南陽の繁昌なるや」とあり、この記述が黒門市場の起源と考えられています。

明治45年1月の難波の大火災で、圓明寺黒門と共に消失し、また先の戦争で昭和20年3月、黒門市場界隈は焦土と化しましたが戦後まもなく元の商人たちが集まり市場の復興に尽力いたしました。
以後、食い道楽、浪速っ子の胃袋をあずかり、卸売と小売の機能を兼ねそなえた市場として親しまれ今日に至っている。

織田作之助の作品の中で、黒門市場と、その周辺の様相を次のように書かれています。

「夜更けて赤電車で帰った。日本橋1丁目で降りて、野良犬がごみ箱をあさっている。ほかに人通りもなく静まり返った中に、ただ魚の生臭い臭気が漂っている黒門市場の中を通り、路地へ入ると、プンプン良いにおいがした。」(夫婦善哉)
「坂を下りて北へ折れると市場で、もう店を仕舞うたらしい若者が猿股一つの裸で鈍い軒燈の光をあびながら将棋をしていました。」(アドバルーン)

加藤嘉明

三河国永良郷賀気村(愛知県)に永禄6年(1563)に生まれ、天正3年(1575)に羽柴秀吉に見出されて羽柴秀勝の小姓となり加藤性を名乗る。

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備考
天正11年(1583)、秀吉と柴田勝家との戦いでは、「賤ヶ岳七本槍」の一人として奮戦して3000石の知行を与えられる。
その後、秀吉の旗下として多数の武功をあげ、文禄4年(1595)、伊予松前6万石に転封した。
秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601)、伊予半国20万石に加増される。
慶長7年(1602)正月、松山城の築城を創める。翌年居城を松前から松山に移す。
文禄4年(1595)、から6年間の松前時代と慶長6年(1601)から26年間の松山時代に城主として城下町の整備や重信川・石手川の利水を整え良田を開発し、更に殖産に意を注いで領民の生計安定に努めた。
寛永4年(1627)、65歳の時、陸奥会津40万石に加増転封となる。
寛永8年(1631)、69歳の時、江戸桜田の会津藩邸にて死去。

おじいちゃん

       ゆうれいは こわい
       でも、おじいちゃんには会いたい


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大鳴門橋

神戸淡路鳴門自動車道

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兵庫県淡路島と徳島県鳴門を結ぶ大鳴門橋、眼下に渦潮で有名な鳴門海峡が見える。

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その昔、大阪の深日港から淡路島にフェリーで渡り、淡路島福良港から徳島県にフェリーで渡り、徳島市内から吉野川沿いを走り大歩危、小歩危を通り高知市内から四万十川を渡り愛媛県は南宇和の武者泊まで海釣りに何度も行ったのだが13時間かかった。

今はフエリーに乗ることもなく高速道路で7時間で行ける。

大阪日本橋電気街

でんでんタウンは、大阪市浪速区日本橋付近に位置する日本有数の電気街である。
江戸時代には長町と呼ばれ、裏通りの長町裏は大阪最大のスラム街であった。上方落語の「貧乏花見」には長町裏の住民が花見に出かける様子が描かれている。

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第二次世界大戦後、自作のラジオ向け等のパーツや工具等を扱う店がこの界隈に現れたことが、電気街としてのこの街のおこりであった。

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冷蔵庫、洗濯機、テレビ等の家庭電化製品が発売されるにつれ、徐々に家電小売業への転換が進み、力をつけた電気店のいくつかは大型化・多店舗展開を行い、日本橋以外の郊外にも進出していく。その後も、昭和40〜50年代のオーディオブームや、パソコン等のいわゆる情報家電の登場等、その時代時代に求められていた商品とともに、関西一円に求心力を持つ「電気の街」「趣味の街」として成長してきた。

値段の安さはもちろん、値段交渉の駆け引き、掘り出し物を探す楽しさなどがあったが大型量販店が梅田や難波に進出し、一般的な家電を求める客足は次第に梅田・千日前方面に遠のいていった。この為、主に関西資本の家電量販店やパソコンショップ等、当地に複数店舗を展開していた企業では店舗の整理統合が進み、数を減らしていった。
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