知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2014年11月

千日前道具屋筋

大阪難波千日前道具屋筋は、法善寺の千日前から四天王寺のお大師さんや今宮戎神社への参道として道筋が栄えました。
参道に沿って古道具や雑貨商が軒を連ねたのが道具屋筋の起こりでした。

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明治45年難波新地の大火災で千日前は焼野原になりましたが大正14年に数件だった古道具屋が20軒に増えて問屋・製造業の専門店として商店街として発展していきます。
昭和2年頃から厳しい時代に入り商店主は仕入れ・販売・配達と店の掃除までも切盛りしていきます。

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昭和10年頃から和食・洋食・中華と飲食店の道具を売る専門店に変わっていきます。
昭和20年、大阪大空襲で焼野原となり、バラック建てでの生活が始まります。生きるために必死で物々交換で生活を支え、そんな忍耐の時代を経験してしだいに発展していきます。

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昭和23年頃から生活が落ち着き得意先が戻り信用もついて道具屋筋か復活します。

家庭菜園

 種から育てたタマネギの植え付けが終わった。

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 キャベツと白菜が巻きだした。

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 今年のダイコンも良さそうだ。

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 良いネギに育っている。

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里程石

江戸時代には一般庶民の社寺詣でも盛んになり、旅人の利便性から高野街道筋には多くの常夜橙や道標、里程石が建てられました。

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道標や里程石には、角柱に加工したものや自然石、お地蔵さんの形をしたものなどがあるが、この里程石は頭の先がとがった30センチの角柱で高さが178センチあります。
安政4年(1857)に建てられ「西是ヨリ高野山女人堂江八里」と彫られています。

三日市宿

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ポタリング

国道を避けて脇道を南進、ロードバイクで和歌山方面に向かう、旧高野街道が走る河内長野から三日市を通り天見へ、往復30キロのポタリングでした。

10キロ地点

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三日市を過ぎたところから天見まで、ほとんど人は通らない遊歩道、国道はカーブが多く自転車は危ない。
千早口駅

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西除川

日本最古の溜池、狭山池には西除川と三津屋川の水が流れてくる。

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この西除川に沿って遊歩道が造られていた。午後のひととき、私には新しい発見だった。

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西除川の水が狭山池に入り込む東側に吉川家住宅があります。
江戸初期の建築といわれ、河内の農家の姿をよく伝えています。屋根は入母屋造り、間取りは田の字型の妻入り四間取り型で、ひさしと座敷は本瓦葺、最も貴重な納戸の部分が原型をとどめており、形式は極めて古風で江戸初期の農家の形態をよく知ることができます。



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備考 狭山藩
天正18 年(1590)豊臣秀吉は、小田原城を攻撃し北条早雲から5代続いた関東の覇者北条氏を降伏させ、ほぼ全国統一しました。江戸時代の狭山を代表する狭山藩北条氏は、北条氏規が歴代藩外祖、第一代藩主が氏盛です。(1600)第二代北条氏信が初めて狭山に入り(1615)、第二十代氏恭が版籍奉還する(1869)まで狭山藩北条氏は270 年間続きました。

狭山池周遊路

行基や重源また片桐且元などによって何度か改修された日本最古のため池である狭山池、平成の大改修によって周遊路が造られた。

近年、早朝から歩く人、ジョギングする人、ゆっくりと散策する人が増えてきた。
私は、毎日45分間速歩で周遊して公園で腕立て伏せをするのが日課としている。

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さくらの葉も色づいてきた。

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3キロ弱の周遊路、マウンテンバイクやロードバイクで3周5周と走ることもある。頬にあたる風が冷たくなってきたが終われば気分爽快となる。

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大坂城代々城主(参)

徳川家康の台頭
慶長4年(1599)3月、豊臣秀吉の居城であった伏見城を自分の居城として、また、同年9月9日、秀頼に対し重陽の節句のお祝いのため伏見から大坂城に入城します。

この頃、北の政所は西の丸に住んでいましたが、家康の来坂直後、西の丸を家康に明け渡し京都の高台寺に移り住んでしまいます。家康はお祝いが済んでも伏見に帰ろうとせず、西の丸に居座ります。

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慶長5年2月、徳川家康は西の丸に天守閣の築造工事を開始します。姫路城の天守閣は大天守を中心に小天守がある造りになっていますが、この時の大坂城は本丸と西の丸からは離れた場所に大天守が2つあることになります。

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徳川家康と石田三成の対立
西の丸に天守閣を建てた家康に石田三成などが対抗します。慶長5年(1600)、関ヶ原で家康の東軍と三成の西軍がぶつかり、家康が勝利します。
慶長8年、征夷大将軍に任じられた徳川家康は江戸に幕府をひらきます。

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第5代城主 松平忠明
幕府は大坂夏の陣で灰になった焼け跡を整理し、伊勢亀山5万石の領主だった松平忠明を大坂城主に起用します。忠明の母は家康の長女亀姫で家康から見ると忠明は孫にあたります。

備考 大阪堺市の南宗寺境内に徳川家康の墓があります。云い伝えによると、大坂夏の陣の折、豊臣
    方の武将(後藤又兵衛の説あり)が家康本陣近くに攻め入り、慌てて籠で逃げる家康を槍で刺し、
    虫の息で堺に辿り着いた家康はそこで息絶え南宗寺に葬られたと、

    それを裏付けるものとして、元和9年(1623)7月に第2代将軍徳川秀忠、第3代将軍徳川家光が
    8月に南宗寺を訪れているという。
    明治期に旧幕臣山岡鉄舟も南宗寺を訪れ家康の墓の横に「無銘ノ塔 家康諾ス」と刻んだ石碑を
    残している。
    決定的な確証はないが可能性はあるのではという説も残っている。

大坂城代々城主(弐)

第3代城主 羽柴秀吉
秀吉は柴田勝家を破り、名実ともに信長の後継者となります。天正11年(1583)、池田恒興を大垣に移封させ、秀吉自らが大坂城主となります。

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秀吉は大坂を政治の中心地とすることに決め、大坂城を安土城のような大規模な巨城にしようとし、天正11年9月1日から工事を開始します。
天正13年に一期工事が終了します。外郭工事が終了するのは、秀吉が病没する慶長3年(1598)でした。約15年に及ぶ工事は、想像を絶する力の入れようでした。

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豊臣期の大坂城は、本丸(五層の天守閣)、山里曲輪(茶室がいくつもあり千利休が活躍した場所)、二の丸、三の丸、現在の大阪城よりも数倍広大なものでした。
下水道は現在でも使用され、建物と建物が背中合わせになっているところに溝が掘られたので「背割下水」あるいは「太閤下水」と呼ばれています。

本丸があった場所は、「豊臣時代大坂城本丸図」によると現在の天守閣がある東北約100メートルの処にありました。

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第4代城主 豊臣秀頼
秀吉の死後、子の秀頼が後を継ぎ第4代大坂城主に就きます。秀頼は年が若く、秀吉のような影響力がないため、五大老のひとりである徳川家康が次第に勢力を拡大させます。同じく五大老のひとりであった前田利家が亡くなり、ますます徳川家康の力が強大化していきます。

大坂城代々城主(壱)

初代城主 〜 織田信長
天正8年(1580)8月、石山合戦に勝利した織田信長は石山本願寺跡地に城郭を築きます、それが大坂城です。
この時の大坂城は後世と比べ規模が小さく本願寺の遺構に応急処置を加えただけの城郭に過ぎませんでした。

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織田信長が大坂城の初代城主となり、重臣の丹羽長秀・織田清澄らを常駐させます。
天正10年6月、本能寺で明智光秀に襲撃を受け、信長は最期を遂げ、それまでの2年間、大坂城の城主は織田信長でした。

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第2代城主 〜 池田恒興
天正10年6月27日、信長の家臣たちが清洲城に集まり、遺領配分を決める会議を行い、結果、池田恒興が摂津国を領することになり大坂城主に就任します。
その後、池田恒興は豊臣秀吉に仕え大垣城主となり大坂城主は1年未満でした。小牧長久手の合戦で豊臣秀吉と徳川家康が対戦した時には、秀吉方につき長久手の合戦で討ち死にします。

真土山トンネル(旧和歌山線)

明治31年紀和鉄道として唯一のトンネルが開通し、その後、国有鉄道のトンネルとして二度の拡張工事が行われたが、地盤沈下等のため昭和26年トンネルが廃止となり、現在は天女山の東側をJR和歌山線が運行し「トンネル」だけが過ぎし日の姿をとゞめている。

(かつてはSLが走っていた真土山トンネル)

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真土山トンネルの南100メートルにある落合川に架かる橋も真土山トンネルと同様にレンガ造りだが草が覆い被さりよく見えない。

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現在のJR和歌山線もSLが走り、ガソリン車、ディーゼル車から電化された歴史があったと地元の人に聞いた。

(左の山が天女山)

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