知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年01月

枚方宿

徳川幕府は、17世紀初頭から全国的に街道整備・宿駅設置を進め、東海道の延長として伏見・淀・枚方・守口の4宿を設けました。
枚方宿は東見附から西見附まで797間(約1.5キロ)、問屋場・本陣のほか旅籠や商家など多くの町屋が軒を連ねて宿場町として賑わいを見せました。

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紀伊徳川家は、藩主吉宗が八代将軍に就いた後、六代藩主宗直の寛保元年(1741)の参勤交代から、大坂・京に将軍家の権威を示すために東海道を通ることが多くなり、参府・帰国とも枚方宿に宿泊することが常となりました。

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枚方は淀川水運の中継港で米や河内木綿、菜種など物資の集散地であったため、在郷町としても繁栄し人と物が行き交う水陸交通の要衝として重要な役割を果たしていました。

妙見宮常夜灯石灯籠

この石灯籠は、高さ2.8メートルの花崗岩製で柱には「妙見宮」「天下泰平」「驛内安全」、柱裏側には「嘉永七甲寅年」と刻まれている。
嘉永七年は開国の年であり、京都・大坂間の往来が増え社会不安が高まるなか、奉納した人達が天下泰平と枚方宿内の安全を祈願したものと思われる。

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 枚方宿高札場跡

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枚方宿本陣跡

枚方宿本陣は、三矢村に建っており池尻善兵衛家が代々経営しており、天明五年(1785)に枚方宿が幕府の役人に提出した書類によると間口約20間、奥行約24間の敷地に約215坪の立派な建物が建っていた。

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本陣は、大名や旗本・幕府役人などが休泊する施設で、原則として一般の旅人は休泊できません。
参勤交代の大名が宿泊するときは、たいそうな物々しさで、ことに御三家である紀州藩の大名行列は有名で、見物人も多かったようです。
八代将軍となる徳川吉宗も、紀州藩主時代に枚方を通ったと云われています。

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慶応四年(1868)1月、鳥羽・伏見での敗北によって幕府の影響力は衰えると、明治新政府は天皇親政をアピールするため明治天皇の大坂行幸を企てます。その時の枚方宿本陣は天皇の休息所にあてられました。
明治3年に本陣は廃止され、明治21年には浄念寺にあった茨田・交野・讃良郡役所が本陣跡地に移りました。

御茶屋御殿

京・大坂を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろす地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄四年(1595)のことでした。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶殿」を建てたことが確認できるようです。

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伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内膳正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも云われています。
京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間をしばしば行き来していました。中間にあたる枚方にも立ち寄り、文禄五年の淀川堤防修築に際しては対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話が残っていると伝えられる。

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江戸時代になると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には二代将軍徳川秀忠が、寛永3年(1626)には三代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には「大茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されています。

ムクノキ(椋の木)

椋の木は、ニレ科の落葉高木で葉の表面がざらざらしており鋳物製品の研磨にも用いられたとされ、鋳物師あるところムクノキありといわれています。

田中家の椋の木

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田中家は、代々河内鋳物師として鍋・釜や梵鐘などを製作しており、この木は枚方金屋のシンボルでした。
樹齢600〜700年、樹高21メートル、幹周り5.4メートル、で大阪府の天然記念物に指定されています。

万年寺山

淀川沿いに細長くのびる旧枚方宿の町並みを眼下に見下ろし、こんもりと緑に包まれて突き出た丘が万年寺山です。摂津・丹波の山々や、豊かな淀川を一望に見渡せる風光明媚なこの丘は、京阪二都の中間にあり、数々の歴史の舞台となってきました。
言い伝えによると、推古天皇の時代、高麗(高句麗)の僧恵灌が、この地の風景のすぐれているのを愛で、眺めが唐の林岸江に似ているとして草庵を営んだのが万年寺のはじまりと云われています。

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一千余年の法灯をを伝え、夕暮れを告げる晩鐘は人々に親しまれてきましたが、明治の神仏分離令により、この地に意賀美神社が遷ってきました。いまも参道の石段横に「長松山萬年寺」と刻んだ石柱や十三重の石塔が苔むしており、往時を偲ばしてくれます。
近年、境内に植えられた紅白梅が大きくなり梅の名所となっています。北には豊臣秀吉の御茶屋御殿跡があり、展望広場として整備されています。

枚方寺内町

京街道沿いの浄念寺

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枚方は浄土真宗とゆかりの深いところで、戦国時代の順興寺建立に遡る。永禄二年(1559)に蓮如27子実従が入寺し、一家衆(本願寺宗主の一族)寺院として栄えます。
実従は「私心記」という日記を残し、枚方に住む人々の様子を描いている。これによると順興寺を中心に蔵谷・上町・下町などの町場が形成され、油屋、塩屋、味噌屋等の屋号を持った商人等、多くの人々が住んでいたことがわかります。このような真宗寺院を中心とした集落を寺内町といいます。

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枚方寺内町は現在の枚方上之町を中心に台地上にありました。しかし本願寺勢力の低下とともに順興寺は廃され寺内町は衰退します。
江戸時代になると淀川沿いに枚方宿が形成され、台地上にあった都市機能も宿へと移ってきたと考えられています。
その後、本願寺は東西に分裂し、天和二年(1682)に東本願寺は枚方に再興した寺院に願生坊の名を与え、西本願寺は浄念寺を本寺兼帯所(本山直轄の寺院)として特別な扱いをしました。
地域の人々は、願生坊を東御坊、浄念寺を西御坊とも呼んでいたようです。

田葉粉屋(枚方宿)

木南喜衛門家  田葉粉屋(屋号)

東海道枚方宿泥町村の木南家は楠木一族の後裔と考えられ、江戸時代初期から庄屋と問屋役人を兼ね、幕末期には農業経営を発展させ金融業をも営んでいた。
また、くらわんか船の茶船鑑札を所持し宿駅と村の運営に大きな影響を行使した。

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本建物は明治期と推定され長い間口に出格子虫籠窓が連なる伝統的な構成をもつ表屋造りで、広い敷地内には四棟の土蔵を配している大規模な町屋である。

鍵屋(枚方宿)

 京街道

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 京街道沿いにある鍵屋
鍵屋は、天正年間(1573〜1592)創業と伝えられ、江戸時代に大坂・伏見間を就航する客船「三十石船」の船宿として栄えました。
「淀川三十石船歌」に「鍵屋浦には掟は要らぬ三味や太鼓で船止める」と謳われ、淀川筋ではよく知られた名所でありました。

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現在の鍵屋主屋は十九世紀初頭の建築とされ、枚方宿で街道と淀川が最も接近する堤町にあります。表玄関を街道に開き、裏口は淀川に接しており、船の乗降に最適な構造となっていました。

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淀川舟運・枚方浜(問屋浜)跡
「過書船と伏見船の船番所」   通行手形を持つ特権川船のことを過書船と称し、享保初年(1716)には、乗客を主とした三十石船671艘、貨物運送を主とした二十石船507艘が大坂と京・伏見の間を航行していました。
一方、過書船の営業独占に対向して、元禄11年(1698)に伏見船の営業が認められたため両者は激しく競合しました。泥町村には過書船・伏見船の船番所がそれぞれ設置されました。

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三十石船とくらわんか船
三十石船は船頭4人、乗客定員28人で、伏見から大坂への下りは半日か半夜、上りは竿をさしたり綱を引いて船を曳きあげるため一日か一晩を要しました。
船客相手に飲食物を商う煮売茶船は「餅くらわんか、酒くらわんか」という売り言葉から俗に「くらわんか船」と呼ばれました。

淀川洪水碑

明治18年、6月15日朝から降り始めた豪雨で、淀川の水位は急上昇し、ついに18日午前3時、三矢村・伊加賀村の淀川堤防が決壊しました。
その切れ口は約180メートルに達し、濁水はたちまち淀川左岸一帯を水没させました。7月にも豪雨にみまわれ、復旧中の堤防が再び決壊し、濁流は寝屋川流域にも広がり、大阪府内で七万戸余りが浸水するという未曾有の大洪水となりました。

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決壊箇所は水深が約5.5メートルもあり、水勢も激しいことから、旧堤防から後退して弓形に仮堤防が築造されました。土砂は御殿山から採取され、大勢の人夫を動員して、全長約400メートルに及ぶ大規模な工事でした。

この洪水碑は明治19年に建立されたもので、洪水と復旧の経過が記され淀川治水の重要性を伝えています。
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