知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年02月

法花一字一石塚(大和街道)

法花一字一石塚

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法花全部一字一石塚

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田村造酢
和歌山県は日本一の柿産地であり、中でも紀北地域の特産品となっています。柿果実を利用した「柿酢」には、カリウムやポリフェノールが豊富で健康飲料としても注目されています。

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大和街道妙寺付近

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大和街道

旧大和街道

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初桜酒造(登録有形文化財)
江戸時代の中頃から紀の川上流地域で生産された米を原料として造られてきた風味豊かな清酒「川上酒」、醸造元の初桜酒造は、この伝統を守り、手造りのお酒の良さを今に伝えています。「高野山般若湯」が人気商品です。

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高野口小学校

昭和12年建築の木造校舎としては日本最大級の現役小学校舎(国重要文化財)です。
これだけの小学校を当時の高野口町が建てたということは、この地域の繁栄ぶりがうかがえる。高野口町は高野山への参拝の起点として古くから栄えた町である。

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校舎は1937年(昭和12)、高野口尋常高等小学校が現在地に移転した際に建てられた。同校卒業生で故・薮本芳一氏が設計した。

木造平屋、建築面積は約3500平方メートル、大正12年の関東大震災や昭和9年の第一室戸台風の災害を教訓に太い柱や筋交いなどを多用するという、当時最新の手法を使い頑丈な造りにしている。

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国の文化審議会は、和歌山県橋本市高野口町の旧高野口尋常高等小学校校舎を国の重要文化財(建造物)に指定するよう答申した。昭和初期に建てられた木造校舎で現在の高野口小校舎、現役の小学校校舎の指定は全国で2例目になるという。

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備考
学校創立は1875(明治8)年、当初は「村学」と呼ばれていたが1911(明治44)年に高野口尋常高等小学校、1947年(昭和22)年に高野口小学校と改称した。

前田邸(高野口)

薬種商を営んでいた前田家は江戸時代に遡る町屋で、庄屋や両替商を務めた旧家です。


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江戸、明治、大正、昭和と前田家ゆかりの数多くの収蔵品が展示されているという。
乃木希典将軍の直筆と云われる漢詩のほか松下幸之助から贈られたテレビなど、開館日は日曜日のみで地元のボランティアが案内してくれるという。

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ババタレ坂(高野街道)

ババタレ坂(和歌山県橋本市高野口町)

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明治33年、紀和鉄道高野口駅が開設されて以来、高野山への本道として賑わい多くの参拝客が徒歩や人力車で通ったところです。
高野山の杉材を九度山町入郷の営林署から高野口駅まで牛馬によって運ぶ際に、駅手前の急な坂で牛馬がババ(糞)をしたために、この先の天上川に架かる橋までが「ババタレ坂」と呼ばれるようになたという。

JR高野口駅

JR高野口駅
明治34年に紀和鉄道名倉駅として開業し、その後、JR高野口駅と改称され現在の駅舎は明治末期に改修してから100年余り利用されています。
南海高野線が大正13年に九度山へ延伸するまで高野山の玄関口として栄えました。駅前は参拝客で賑わい九度山町椎出まで人力車を利用する人が多く最盛期は283台もの登録がされていました。

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駅前には葛城館初め、江戸時代の豪商前田邸、昭和初期の木造校舎が残る高野口小学校の歴史的な建物に加え、ババタレ坂や古い町並みが残っています。

葛城館(国登録有形文化財) 和歌山県橋本市高野口町
明治後期建築の木造三階建てで大和街道の宿として、高野山参拝客の宿であった。

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土漠の花

「土漠の花」 月村了衛著

ソマリアの国境付近で、墜落ヘリの捜索救助にあたっていた陸上自衛隊第一空挺団の精鋭たち。その野営地に、命を狙われている女性が駆け込んだとき、自衛官たちの命を賭けた戦闘が始まった。
一人の女性の命を守ることは自分たちの国を守ることでもあった。

絶え間なく降りかかる試練、窮地、想定外、無残な死にひれ伏すか− 紙一重の生を掴みとるか− 極限状況の中で男たちの確執と友情、人間としての誇り−。 

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<著者紹介>
月村了衛 1963年生まれ 早稲田大学第一文学部文芸学科卒業
第34回吉川英治文学新人賞受賞 今、最も熱い物語を書ける作家として注目されている

日野新町の町並

滋賀県日野の中心街大窪の表通りは近代化されているため、古い面影を偲ぶ町並みを見ることは難しいが、大窪の上の方や新町まで来ると、いよいよ日野商人の古里としての町の個性がはっきりと出てくる。

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若村家や西田家などの旧家が軒をつらね、塀につくられた「桟敷窓」や家の入り口の「くぐり戸」が見所の一つである。「桟敷窓」とは、板塀の一部を切り取り、中に桟敷を作って日野祭りを見物する窓のことで、他の地方では見られない珍しい窓である。

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義人太郎兵衛

ここは身を捨て農民を救った義人太郎兵衛の出生地である。
寛永十五年(1638)日野一帯は日照りが続きひどい水飢饉で米が不作で、代官に決められた年貢を出すことが出来ない状態だった。

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この村人の苦しみを見て庄屋太郎兵衛は何度も伏見の代官所へ行き、稲の立ち枯れを見聞するように陳情したが許されなかった。そこで命をひきかえに農民を覚悟した太郎兵衛は代官所へ行き、米の代わりに綿を納めることの許しを得、自害して自分の腹わたを差し出した。
代官は庄屋の行いに驚き、その年の年貢の免除を村に申し渡した。義人太郎兵衛の話は今も町の人々に語り継がれているという。

市橋公家紋割菱

滋賀県日野町内でただ一ヵ寺の日蓮宗の寺(経王寺)である。
明治初期に旧西大寺藩士の家に日蓮宗の道場が生まれ、それがこの寺の創立となった。

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この辺りは江戸時代一万八千石の大名市橋公を藩主とする西大寺藩(仁正寺藩)の藩士達が住んだ地域であり廃藩後、上殿町の更木戸にあった門を経王寺の山門に移した。
鬼瓦に市橋公の家紋割菱を刻むこの山門は数少ない旧西大寺藩の遺構の一つとして歴史上で重要な遺物といえる。
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