知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年02月

武家屋敷(西大寺藩)

滋賀県日野には、江戸時代1万7千石の大名として、この地に西大寺藩の藩庁を置いていた市橋公の家臣たちがこの付近一帯に屋敷を構えていたが、藩士の邸宅として一部を残すのは渡辺家だけである。

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渡辺家は市橋家譜代の藩士であり、旧祿高は110石と記録され給人格に加えられていた。藩士約300人中の上位侍であった。土塀と門は往時のまま残っている。

境界石

この石柱は滋賀県蒲生郡日野村井町(旧水口藩領)と西大寺(旧西大寺藩)の境界にあたるこの場所に明治時代初期に建てられた境界石である。
滝宮神社境内へ滝となって落ちる川が境界で、そこに架けられた橋は江戸時代には「土橋」と呼ばれていた。

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土橋のたもとには「従是東 仁正寺(西大寺)藩領」と刻まれた境界石が江戸時代には二本建てられていたが、明治時代になって「藩領」という言葉がふさわしくないということで撤去され新たに建てられたのがこの境界石であった。

桟敷窓のある風景

滋賀県蒲生郡日野町には、「桟敷窓」と呼ばれる窓のある家屋が数多く残っている。桟敷窓とは道路に面した家屋の板塀を四角くくり抜いた窓のことで、普段は閉めているが毎年5月に行われる日野祭の際には御簾を垂らして緋毛氈をかけ、塀の内側の中庭部分に桟敷席をつくるのである。

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日野祭は800年以上の歴史を持つ祭りで、桟敷窓は通りに出ることなく御輿や曳山の様子を見物できるようにしつらえられた窓である。

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日野商人の旧家が軒を連ね、日野祭り見物のための塀に作られた桟敷窓などに往時の面影を見ることができる。

日野鉄砲の里(下鍛冶町)

天文二年(1533)、日野城主蒲生定秀が城下町作りをした時、多くの鍛治師をここに住まわせ「鍛冶町」と名付けた。
天文十二年、種子島に鉄砲が伝わると、その数年後、定秀は刀鍛冶に鉄砲作りを命じ、新兵器「日野鉄砲」の製造地となったが江戸時代世の中が平和になるにつれて衰え、明治になって様式銃が入ってくると日野鉄砲は伝統の技術を生かすことなく歴史の幕を閉じた。

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鞍子の辻
滋賀県日野下鍛冶町会所どなりの西の辻は「鞍子の辻」と呼ばれている。
日野城下町の頃、馬の鞍を作る職人の鞍工が住んでいたため名付けられたもので、当時馬に付ける道具は戦いに使用する刀や槍と共に武士にとって大切な物だった。また、日野鉄砲を作る際、人手が早く必要なため、この辻の細い道を上下鍛冶町の鉄砲師たちが槌を持って行き来したので「合槌の辻」ともいわれている。

正野感応丸

江戸時代日野椀に代わって行商の有力商品となり、日野商人を発展に導く大きなものに合薬があった。創始者は正野法眼玄三である。
玄三は18歳の時、日野椀や茶・布を持ち行商に出たが母の病気で帰郷した。

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当時、京都の名医の診療で母の病気を治すことができたことから医師を志し、医師になった後は医薬に恵まれない山間辺地の人や日野商人の長旅用の道中薬として感応丸を作った。
この合薬を日野商人が全国に持ち歩くうち効き目が評判となり、地元日野で製造する人も増え、現在も伝統産業として息づいている。

日野越川町

滋賀県日野越川町は天文二年(1533)蒲生定秀が日野城下町を作る際、近在の人の移住を進めたが、この時愛知川宿から移ってきた人達が住んだ所で、日野町内には先住地を町名にしたものが今も多く残っている。

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交差点を見ると辻が鉤形に食い違っている。これは城下町を造る時、戦略上の必要からつけられたもので、辻ひとつにも城下町の特色を見ることができる。
町内の集会所には日野祭の祭礼記録が保存され、日野祭の歴史を知る貴重な資料となっていると記されている。

清水町の陣屋畑

滋賀県日野清水町は、江戸時代東の端に広い面積を持った陣屋が置かれていた。陣屋というのは領主にかわってその土地の行政をしてゆく代官のいる役所で主に年貢等の収納がおこなわれた。

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正徳二年(1712)になると、それまでの幕府領だった大窪は水口藩の領地に変わり、水口領の陣屋が明治初年まで置かれていた。屋敷番号は陣屋から始まり今も一番屋敷と読み取れる古い番号札が残され、陣屋の取り除かれた敷地は「陣屋畑」と呼ばれている。

塗師安

日野椀の歴史は古く、天文二年(1533)蒲生定秀が城下町を作った時、塗師や木地師を住まわせ塗師町堅地町と名をつけた。

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当時は日野椀作りが盛んで町の半分以上の家が椀に関係した仕事をしていたという。久田家も代々日野椀の木地に漆をかける仕事を続け、江戸後期、日野椀の生産が止まった時は看板や重箱、膳等に漆をかける塗師の仕事を続けてきた旧家であった。

保知煙管

滋賀県日野保知町は元和元年(1615)頃から煙管が製造されたところで、煙管を作る職人が保知町中町に住んでいたことから「保知煙管」の名がおこった。
当時の保知煙管は名が高く、多くの人達に広く使用された日野商人の重要な「持下り品」であった。

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保知煙管は火皿が大きく美しい模様が描き込まれているのが特徴で、日野の旧家には現在も保知煙管が大切に保存されているという。

山中兵右衛門(日野商人)

軒先まで掃除の行き届いた町並みに長い板塀の続くこの邸宅は、江戸時代の創業から300年の歴史を誇る旧山中兵右衛門宅である。

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初代兵右衛門は親戚から日野椀二駄を借りて行商に出た。後には、御殿場を初め各地に支店を持つ大商人となった。行商時、農夫に畑の大根をわけてもらい昼食がわりにするなど、その倹約ぶりは有名であった。

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この建物は日野町に寄贈され「近江日野商人館」として活用されている。
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