知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年02月

日野曳山モニュメント

滋賀県蒲生郡日野町には、豪華絢爛な16基の曳山があり、それぞれ形が異なり特徴があります。このモニュメントは村井新町の八景閣をモデルにしたものです。

-

-

この曳山モニュメントは日野商人街道の大窪交差点北東角にあります。

若草清水

日野村井横町にある地蔵堂の下に清水あり、「若草清水」と呼ばれている。千利休の七哲の一人だった日野城主蒲生氏郷が茶の湯にこの水を使った由緒ある清水と云われている。

-

慶応二年((1866)、河原田町の谷孝道が若草清水を詠んだ歌碑を建てている。
       たちよれば やがて心の底すみて
                 むすぶにあかね 若草の水

蒲生氏郷

近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれ幼名は鶴千代と名付けられました。

彼は弘治2年(1556)、名門蒲生家の跡取りとして誕生し13歳の時、蒲生家の人質として織田信長のもとに送られ14歳の氏郷は信長の部下として伊勢大河内城の戦に初参戦し大きな手柄を立てた氏郷に対し、信長は身柄開放と娘の冬姫との婚姻で報いました。

日野城(中野城)跡

-


日野に戻った後もさまざまな戦で自ら先頭に立って闘う強者ぶりを見せる一方、氏郷は信長のもとで学んだ城下町づくりの手法を取り入れ、領内の行政、経済の改革に着手、日野は大きな繁栄の時代を迎えました。
そんな彼のもとに、信長絶命の悲報が届いたのは天正10年(1582)のこと、氏郷は信長一族を守るため、日野城に立てこもりました。しかし光秀の反乱は天王山の合戦であっけなく終結し秀吉の傘下に入ることを決めた氏郷は、反乱を企てた北畠氏と伊勢で激突、次々と敵城を攻略し伊勢を平定しました。この功績により、氏郷は伊勢松が島城主として転封。さらに会津に移り、92万石の大名となりました。

-

蒲生氏郷は多くの逸話が残されている。
※ 戦国武将としては珍しく側室を置かなかった。だが二人の実子が早世し、蒲生家の血が絶えたため、このことが蒲生家断絶の遠因となった。
※ 家臣を大切にしたとされ、諸大名からの人望も厚かったとされる。
※ 茶湯に深い理解があり、南化玄興の計らいで谷宗養・里村紹巴、その後、千利休に師事し、利休七
哲の一人に数えられており、鶴ヶ城にある茶室「麟閣」は、利休切腹後に会津に蟄居した利休の子・千少庵からもらったものとされている。又、鶴ヶ城の庭でよく茶会を開いていたとされ、その茶会では家臣のみならず身分に関係なく農民や商人達も招いて茶を振る舞ったとされている。
※ 六角氏が滅亡した後、父の賢秀が鶴千代(氏郷)を連れて信長のもとへ臣従の挨拶に行った際に鶴
千代を見た信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん」と言い、将来自分の娘の冬姫を娶らせる約束をしたという
※ 氏郷は財産を惜しまず家臣に与えた。彼の言葉によると「家臣にとって俸禄と情は車の両輪のような
もの、両方を上手く転がしていかないと家臣は付いてこない。禄を多くしても情をかけなかれば家臣は主家を離れる。 情ばかりかけても給与を配慮しなければこれも同じことであり、どちらが欠 けても家臣の心は主から離れるものだ」という。
※ 手柄を立てた家臣がおり、その家臣の手柄が俸禄だけで優遇できなくなると、氏郷は休日にその家臣を自らの屋敷に呼んでご馳走と風呂でもてなした。しかも氏郷自らが煤で真っ黒になりながら薪をくべるほどの律儀さであり、この時、風呂に入っている家臣に、「命がけの働きに褒美を出してやれなくてすまない、こんなことしかできないが許してくれ」と言ったという。家臣達は氏郷の部下想いに改めて涙を流したという。又、秀吉の御伽衆になった元主君の六角義賢にも分け隔てなくこの風呂に入れたという。この風呂は「蒲生風呂」といわれた。

日野商人の里

最寄り駅から乗り継ぎして京都から草津へ、草津線で貴生川駅から近江鉄道に乗って日野駅へ、
今回は近江商人で有名な滋賀県の日野商人の里です。

近江鉄道

-


日野駅

-

日野は、蒲生氏の城下町として楽市令が布かれ、諸役免除の特典を与えられ商工業が栄えました。
地場産業の日野椀や売薬、帷子、小間物をもって全国へ行商することが盛んになりました。なかでも正野玄三の売り出した「万病感応丸」は携帯商品として大ヒットとなりました。

日野商人は諸国商品流通の便益を提供するものとして幕府の公認するところとなり、元禄3年(1690)、幕府による売掛代金の回収保証と東海道・中山道における特約旅館制度を二本の柱とする、日野大当番仲間を日野の全商人を集めて結成しました。
そして主に東北・関東・東海道と、京阪の間を商圏としながら、行商と店舗開設による活動を広げていったのです。とくに日野商人の店舗は、「日野の千両店」と呼ばれる、出先の商人との共同出資(乗合商内)のかたちをとった小規模であるが沢山の店舗をかまえ、それを前進基地としていくことに特徴がありました。

日野商人像

-

近江商人のなかには、近江八幡を中心とする八幡商人が早くから活躍しました。豊臣秀次の時代に建設された八幡山城下町には、織田信長の安土城下の商人や、近在の湖東の村々の人々が移住して八幡町民を構成しました。彼らは、中世の近江商人の本場である保内や五個荘の商人の流れを汲む人々でした。

また、五個荘、愛知川、能登川、高宮などの愛知川流域を中心とする地域から出た湖東商人は、特産の近江麻布を持ち全国行商を始めたのです。繊維品を主に取り扱った湖東商人は、京坂や東海道で仕入れた呉服・綿関係品を関東・信州で売却し、関東・東北で仕入れた関東呉服・生糸・紅花類を名古屋・近江・京坂等で販売する産物廻しの商法に従事しました。

あなたが気づけば

あれは和歌山の電車の中だった。中国人観光客が大声で喋っていた。

オーストラリア行きの飛行機のなかで5〜6人の韓国人男性が大きな声でバクチを始めた、小声で何度も注意を受けていたが知らん顔だった。溜まりかねたのか大声で注意した。大声にビックリしたのかやっと席に着いた。

人の迷惑も気づかずに、

-

座って足を広げた。となりの席が消えた。
Sit down with your legs spread out wide and the free space next to you disappears.

地蔵堂(臺鏡寺)

石段を登って山門の正面に本堂がある。右には地蔵堂と経堂があり、眼下に枚方の町が見える。

-

地蔵堂
安置されている地蔵菩薩像は丈6尺の石像で足先と衣紋の裾に多少の破損があり汚れてみえることから、これは夜に修行に出かけたためと伝えられ、「夜歩き地蔵」の名がある。
また、宿場町の悲しい身の上を持つ遊女たちの悩みを聞き、結縁地蔵としても有名で遊女たちの参拝で賑わったと伝えられる。

-

本堂

-

見仏山臺鏡寺(だいきょうじ)境内

-

左が観音堂と梵鐘

-

宗左の辻

枚方駅北口を南西に進むと十字路がある、ここに京街道と磐船街道の追分を示す道標があり「宗左の辻」と呼ばれていました。南東角に石標が残っています。

-

石標には「大坂みち」、「左京六リ、やわた二リ」と刻まれ、京街道と盤船街道の分岐点で、江戸時代には製油業を営んでいた角野宗左の邸宅があったことから宗左の辻と呼ばれるようになったとある。

-

枚方宿の遊女たちが客を送る際に、「送りましょうか送られましょか せめて宗左の辻までも」と歌い別れを惜しんだという。

備考
慶長20年(1615)の「大坂夏の陣」の後、幕府は東海道を大坂まで延長し、伏見、淀、枚方、守口の4宿を追加した。幕府の公文書にも「(東海道は)品川宿から守口宿まで」と記録されており、五街道を支配する道中奉行の管轄下にあった。
枚方宿は、泥町、三矢、岡、岡新町の4村で構成され、東西13町17間、道幅2間半で、人足100人、馬100疋を常備することになっていた。
天明年間(1781〜1789)には、341軒が街道の両側に軒をならべ、本陣のほか旅籠は32軒、茶屋は6軒、商人や職人は47軒を数えるなど、人口およそ1,600人の賑やかな町だった。
記事検索
おきてがみ
web拍手
Archives
メール
  • ライブドアブログ