知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年04月

橋本へポタリング

天気が良いのでNさんと和歌山県の橋本までポタリング、三日市を過ぎたあたり、国道を避けて遊歩道を走る。


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紀見峠

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六里道標石

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紀見峠は大阪と和歌山の県境、その昔は番所があったのだ。

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紀見峠にある集落、その昔は宿が何軒かあったようだ。

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紀見峠駅への急坂(高野街道)

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杉村公園にある吊り橋で遅い昼食とする。橋本から紀州街道を南下する予定だったので折りたたみ自転車で輪行袋を用意してきたが公園を下ると15時頃になったので引き返すことにした。

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備考
高野山へ向かういくつかの街道で、最も古く、多く用いられたのが東高野街道である。この街道は京都から八幡、枚方を経て、生駒山西麓を南下し、河内長野から紀見峠を超えて高野山に至るコースで、その成立は平安時代後期まで遡ると云われている。

鐘櫓(福山城)



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鐘櫓
本丸西側に位置し、はじめは鐘を吊り太鼓を懸け、時の鐘と半時の太鼓をうっていたといわれる。石見国(島根県西部)大森銀山の応急監督を命ぜられ、人数をくりだす必要があったためという。
鐘は儒者山室如斉、菅茶山の銘を刻んだものもあったが、現在は無名である。

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備考
元和5年(1619)徳川時代の臣、水野勝成が備後10万石の領主となり、ここ福山に城を築いてから福山の城下町としての歴史は始まり、その後、水野氏5代、代わって松平氏1代、阿部氏10代と廃藩置県に至るまで福山城が藩治の中心となりました。
明治6年廃城となり、天守閣、伏見櫓、筋鉄櫓、御湯殿を除いて、ほとんど取り壊されました。
昭和20年の戦災により天守閣と御湯殿を焼失しました。幸い焼失を免れた伏見櫓、筋鉄御門は昔日の姿を止め国の重要文化財に指定され、城地は国の史跡として保存されている。

月見櫓(福山城)

月見櫓
月見櫓はもと京都伏見城内にあったものを移築したものです。本来は着見櫓のことです。
追手側も入江方面展望できる南西隅に築かれ、藩主等の到着を見極める役割をなしていました。1階南面に石落としがあり、古い建築様式で、明治初年に取り壊されたが昭和41年に天守閣とともに外観復元されました。

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天守閣
福山城の城郭は南面し、天守閣は本丸の北隅に位置している。五重六階地下一階、別に二重三階の付櫓をもつ複合天守で、外見は六重のように見えます。

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一重目の南北面と二重目の東西面は比翼入母屋、その他の各層には千鳥破風や唐破風を設けている。
城号は敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城といい、別名を葦陽城ともいう。

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筋鉄御門(福山城)

竹原からの帰り、時間があったので福山で途中下車して福山城と周辺を散策しました。
この階段を登っていると散歩していた地元の人が福山城の歴史を教えてくれました。

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筋鉄御門
桁行10間、梁間3間、入母屋造り、本瓦葺の脇戸付櫓門で伏見櫓と同じく伏見城から移築されました。
下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋金を鋲打ちし、乳金具を飾るなど、強固な造りとなっています。

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御湯殿

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京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていました。
建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間とにわかれていました。昭和20年の戦災により焼失しましたが、昭和41年秋に、天守閣とともに外装、内部ともに復元されました。

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福山城

いつも「知音の旅人」へ、 ありあとうございます。
次回からの更新は福山城から高野山へと進みますが、4月26日(日)まで休みます。

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青春感謝

岡山駅で見た銅像

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備考
青春感謝
第六高等学校は明治三十三年岡山市に創設され西暦二千年に創立百年を迎えた
昭和二十五年廃校までの五十年を操山下で過ごした六高生の中から国家有為の人材を多く輩出した
三年間の六稜生活は弊衣破帽 文武両道に励み時に街頭に出て放歌高吟することもあったが「六高マン」の愛称で温かく見守られた
ここに感謝の誠を捧げると共に 二十一世紀に向って日本の将来を背負って立つ君たち若人にこの像を贈る

平成十二年三月
第六高等学校同窓会 会長 木村睦男 撰文
京都教育大学 教授 谷口淳一 彫刻

復古館

頼春風の養子である小園は、春風館の西側に隣接して「兼屋」と称し、安政6年(1859)に三男の三郎を分家、独立させました。これが復古館の主屋の建物で、春風館と同じく、茶人不二庵の設計によるものと伝えられています。

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木造切妻造二階建、本瓦葺の数奇屋建築で大小路の通りに面した店棟は、明治16年の建築で入母屋造二階建で、一階部分に広い土間をとり、店の間には「ぶちょう」(あげ戸)がそのまま残っています。みせ棟から母屋棟への空間がつぼ庭となり、その二棟をつなぐ玄関の間によりH型となっています。母屋の座敷より縁側で囲まれた庭の北側に、揚げ縁でつながれた茶室があります。 敷地内には、幕末から明治にかけて酒造業を営んでいた頃の臼場・米蔵・室蔵・新座敷が配されています。

森川家住宅

森川家は元塩田地帯に総石垣(高さ二間)で敷地を造成し、沼隈(福山市南方)から明治前期の富豪山路家の母家を移築し改造して母家とし、その背後に座敷を新築し大正初期に完成した。

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そして、離れ座敷を新築して、さらに竹原を中心に幕末から明治前期に活躍した文人、不二庵作の茶室を市内から移築した。
現在は周囲の塩田がすべて埋め立てられ、壮大な石垣が埋没して往時の景観は見ることができないが、母家をはじめ、離れ座敷、茶室、隠居部屋、土蔵、表門、脇門、土塀などの付属屋が完存しており、大正期の素封家住宅の状況を伝えている。

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母家は、土間部分は移築以前のままと考えられるが、床上部分は移築時に改装されている。正面に玄関式台を突き出し、玄関の間から鉤の手に、移築時に加えられた平室部分を含めて五室の座敷を並べ、さながら江戸時代の大名屋敷を想わせる。

照蓮寺

照蓮寺は戦国時代、曹洞宗仏通寺派で定林寺と呼んだ。鎌倉幕府から備後沼田荘の地頭を補任された小早川遠平の子孫は、やがて安芸都宇庄・竹原荘も治めるようになる。
小早川家では此の寺を学問所としていて、代々子達の教育の場としたと伝える。定林寺が出てくる最も古い文書は、毛利家関係文書の「萩藩閥閲録三」に「康安元年(1361)十一月九日・寄附 都宇庄濱新堤(定林寺新開発)田地 事 右限永代、所奉寄進也」がある。

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朝鮮の鐘

照蓮寺には国重要文化財と指定された高麗時代の鐘がある。銘にある峻豊四年は日本暦で應和三年(963)にあたる。高麗第四代の王光宗は昭大王と呼ばれ、二十六年間在位し其の間宋国建隆元年を高麗峻豊元年に替え、一時期峻豊年号を用いた時代であった。

峻豊年代は僅か五年間という短年代であったため峻豊銘のある鐘は、半島に残っている二個を合わせ僅か三体という。日本国内にある朝鮮半島鐘で古いものは島根県安来市雲樹寺の八世紀前半とされる新羅時代のもの、次いで福井県常宮神社に新羅時代833年のものがある。古さに於いて照蓮寺は六番目か七番目となる。“か”と云う表現は岡山市観音院の鐘は十世紀年代とされているが照蓮寺鐘963年の前後何れか判断が出来ないからである。明治四十三年、照蓮寺の鐘は国の重要文化財に指定された。

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備考
天文十三年(1544)、安芸国吉田の毛利元就は十三歳の第三子徳寿丸を、安芸竹原小早川家の継嗣とし竹原庄の木村城に入らせた。徳寿丸はのちに名を隆景と改め、天文十九年(1550)には本家筋に当る隣接沼田小早川家に迎えられ、沼田と竹原両家をあわせ継ぐこととなった。小早川隆景成人してからは、知略・武勇を兼ね備えた武将として活躍し、早くから瀬戸内海の戦略的重要性を睨み、永禄十年(1567)、国内では珍しい、海に突き出た三原城を築いた。
織田信長の石山合戦の終るまえ天正五年(1577)頃からは、瀬戸内海の制海権すべてを毛利一族が掌握し、内海海賊衆の雄備後国因島村上・伊予国能島村上ら水軍を勢力下に収めた。
豊臣秀吉の天下統一後は徳川家康・前田利家・宇喜田秀家・毛利輝元と並んだ豊臣政権五大老の一人となる。
慶長二年(1597)六月、備後三原で隆景没するの報に接した秀吉は、「この人、唯毛利家の蓋(がい)なるに止まらず日本の蓋にも余りある方なり」と涙を浮かべながら感に耽ったという。

頼惟清旧宅(広島県史跡)

山陽の祖父又十郎は、宝永4年(1707)頼兼屋弥右衛門善裕の長男として生まれ、諱を惟清といい晩年には亨翁と称した。

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交運のさかんな竹原の町に紺屋を営みよく詠じたが天明三年(1783)77歳で没す。その子春水(山陽の父)、杏坪はともに広島藩の儒官となり、第2子の春風は竹原の家を継ぎ医院を開いた。
この家は重層屋根入母屋造り本瓦葺の母家と、道路に接する単層屋根切妻造り本瓦葺の離れ座敷からなっており、双方とも塗りごめ造りである。母家の道路側八畳は紺屋の店であったものと考えられている。

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備考
江戸時代後期の儒学者や詩人として活躍した文人、頼山陽の祖父・惟清が紺屋を営んでいた町屋。紺屋用、家事用、書道用の井戸がある。
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