知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年04月

抱え地蔵と胡堂

「静かに持ち上げてお願い事をしてください。きっとあなたに幸運がきます。」と書かれています。
また、「次の真言を唱えながら抱かえてお願い事を念じてください。オンカカカビ サンマエイソワカ」とも書かれています。私は持ち上げませんでしたが、

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胡堂
竹原の町並み保存地区本町通りの北端に建っているのが胡堂です。前室付、一間社流造りという祠ですが、胡堂は大林宣彦監督の映画「時をかける少女」の舞台ともなりました。

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備考
胡堂(恵美須社)は1500年代に出雲の国より分神を迎えて建てられたものです。大国主命 事代主命を祀り数度の補修再建を経て今日に至っております。塩田と酒造によって栄えた下市村(竹原)の人々が家運隆昌に掛ける心の支えとなし、又 出雲の国に因んで善男善女の縁結びに幸運を運ぶと伝えられております。−古老口伝−

西方寺(竹原)

もとは田中町に在る禅寺で地蔵堂の隣にありました。現在地には、もと禅寺の妙法寺があり、慶長7年(1602)に火災で焼失し、翌年、妙法寺跡のこの地へ移り浄土宗に改宗しました。境内には、本堂、鐘楼、庫裡、法界地蔵堂、山門などの建築が建ち並びます。

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西方寺本堂横の高台に位置する普明閣は、宝暦八年(1758)の建築で西方寺の地に妙法寺があった頃の本尊であり、木造十一面観音立像(県重要文化財)を祀っています。方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根、舞台作りとなっており、京都の清水寺を模して建立されました。

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木像十一面観音立像
この仏像は、西方寺寺伝によれば、もと唐の育王山より迎えられ平重盛の持念佛であったと伝えられる。
観音堂の普明閣に安置されていたが、守護堂に移され年に一度お開帳の法要が勤められる。玉眼入りで、刀法は鋭く複雑な衣文の構成は宋朝風の影響がみられる。宝相華唐草文様を透し彫りにした金銅製舟形光背も仏像と一具で室町時代の作と考えられている。

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大林宣彦監督の映画「時をかける少女」のロケ地となりました。

竹原の文化

江戸時代の竹原は、多くの町人儒学者輩出し、頼山陽の祖父にあたる頼惟清は、春水、春風、杏坪の三子を儒学者として大成させ自らも儒学や和歌を学び、竹原の学問、文化の向上に貢献しました。

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1781年に広島の藩校の教授となり後に幕府の昌平坂学問所で講義を行った頼春水の意志により、その弟春風と町の人が開設した郷塾竹原書院は明治43年に再興され歴史民俗資料館となっている。また、春風も儒学と医学を修め医業のかたわら弟子の教育を行った春風館は残っている。

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塩づくりは重労働でしたが、全国で塩を待っている人々の為に頑張った浜子(塩田で作業をする人)のおかげで良質の塩が作られ、塩田経営をする人が増えていきました。
塩田を増やすために海をどんどん埋め立て最大約100軒の塩田ができ、現在の地形をつくりました。

竹鶴酒造(竹原)

竹鶴政孝は明治27年この家で誕生しました。ここは竹鶴本家であり、政孝の家は分家筋でその実家は現在の「道の駅たけはら」の対岸、当時の塩田の一角にあり、製塩業と回船業を営んでいました。

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政孝は子供の頃この酒蔵で遊んでいたが、父「敬二郎」は大きな桶の中で発酵する「もろみ」を政孝に見せながら「一度命を失った米に再び命を与えて酒を造るんだよ。酒は心で造れ、心が通い合って本物の酒が出来るのだよ」と教えた。

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政孝は竹原尋常高等小学校から忠海中学校へ、大阪高等工業学校(現・大阪大学)醸造科を卒業し、当時の酒類醸造ではトップメーカーでウイスキーも生産していた大阪の摂津酒造に就職した。
当時のウイスキーはアルコールに着色料や香料を混ぜた模造品であったが、阿部社長は本物のウイスキーを製造したいと政孝に託して留学費用一切を負担しスコッチウイスキー本場スコットランドに留学させた。

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政孝は期待に応え2年半でウイスキー製造技術を習得し、併せて現地で結婚した妻「リタ」を伴って帰国したが時代は変わっており第一次世界大戦の大不況により摂津酒造には資金的余裕がなく、政孝によるウイスキー造りは中止と決定されたことを受け、社長の恩義を考え断腸の思いで退社した。

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NHK連続テレビ小説「マッサン」は2014年9月から2015年3月まで放送されました。

「竹原 町並み保存地区」

竹原の伝統的建造物群は、江戸時代の中期から明治にかけて建てられた町屋群であり、上市・下市を中心に、新町および田の浦川以北の諸町に広く残っています。

本町通り

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町屋は、型式の異なる都市住宅が数多く残っており、外観は棟が道路に平行に通る平入りの町屋と直角に通る妻入りの町屋があります。妻入りの町屋は、本町通りの北部と南部近くに多くあり、街路に面して平入りの町屋と妻入りの町屋が混在しているのが竹原の街路景観の特徴となっています。

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本町通りの北隅にある胡堂や南端近くの地蔵堂は、かつては町持ちの堂であり、寺山の西麓に並ぶ照蓮寺、西方寺、長生寺などの寺の諸堂も竹原の町人信仰により建設されたものです。

胡堂

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竹原の歴史的街区は、町並みと寺とが一体になって町を構成した環境が残っています。

塩田(竹原)

新港橋から本川を望む

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大正から昭和初期頃の港と対岸の掛町の町並み、当時は今よりも川幅は広かったが交通手段が船から車に変わり役割を終えた港は道路や住宅地に埋めたれられました。

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江戸時代初期、竹原では海を開拓して新しい田畑を開拓しましたが、塩分濃度が高すぎて失敗しました。
そんな時、竹原を訪れていた赤穂の商人から「塩田にしてみては」との助言を受け、潮の満ち引きを利用した「入浜式塩田」という画期的な方法を取り入れました。

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日の丸写真館の左奥、山の中腹に見えるのが普明閣(住吉橋から)

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入浜式塩田
この潮づくりは、瞬く間に竹原の主要産業と成り、310年間竹原の繁栄を支えました。

塩田から見た普明閣(西方寺)

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かもめの水兵さん

詩人・武内俊子は、明治38年に広島県三原市西町にある浄念寺において住職である父・渡辺俊哲と母・ツナの長女として誕生しました。

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大正13年、広島市の広島県立女子専門学校に入学しましたが、約半年で退学し、その後、上京して武内邦次郎と結婚して世田谷の三軒茶屋に住居を構えました。
昭和4年頃から文筆活動を開始した俊子は、有名な「かもめの水兵さん」の他に「赤い帽子白い帽子」「リンゴのヒトリゴト」「船頭さん」など数々の童謡を書き残しています。

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かもめの水兵さん  作詞 武内俊子  作曲 河村光陽

かもめの すいへいさん ならんだ すいへいさん
白いぼうし 白いシャツ 白いふく
波にちゃっぷ ちゃっぷ うかんでる

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葉ざくら

昨日、午前中は雨、関東地方は雪の降った地域があると報道された。
午後になって雨が上がったので速歩をかねて狭山池遊歩道を歩いてみると葉ざくらが目立ってきた。

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ユキヤナギの花もほとんど落ち、狭山池の水も水面から5メートル下げられていたが元に戻り、東除川から取水された水が田圃に張られる。

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私はなぜか、サクラは花よりも葉桜が好きだ。

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頼山陽

竹原駅

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頼山陽座像
頼山陽は竹原を故郷とし、名は襄、字は子成、幼名を久太郎と称し山陽は号である。
安永九年十二月二十七日、大阪(江戸堀)に生まれる。父に春水(弥太郎)母に梅颸(静子)、山陽は文化文政の江戸時代文明の最盛期に活躍した儒者でである。詩文は一世を風靡し歴史に残る代表的な「日本外史」「日本政紀」の二つの大書によって明治維新の原動力となり、日本の夜明けに多大な影響を与え歴史家としても著名である。

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       鞭声粛粛夜河を過る 暁に見る
       千兵の大牙を擁するを 遺恨十年一剣を磨き 流星光底長蛇を逸す
 
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書も亦よくし画、煎茶、水石の趣味など秀逸の範囲は広くまた孝心篤かったことは、余りにも有名である。

芸予要塞時代の桟橋(大久野島)

芸予要塞時代に、石で造られた固定の桟橋は毒ガス工場時代も当初は人間の上陸に利用されていましたが、その後は資材などを陸揚げするために使われました。

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その後、新たに整備された表桟橋や西側の長浦桟橋が使われるようになりました。毒ガス工場の秘密を守る意味でも本土からよく見えるこの桟橋を使用できなかったためと考えられます。

大久野島は終わり、一旦、山陽本線の三原まで戻って駅前のホテルに宿泊して、明日の一番電車で呉線の竹原に向かいます。
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