知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年04月

発電場跡(大久野島)

大久野島で毒ガスを製造する際に、電力を供給していた発電場跡です。

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ディーゼル発電機が8基設置され重油を燃料にしていました。

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この建物で1944年11月〜1945年4月までの間、「ふ号作戦」に使用する風船爆弾の風船を膨らませ、弱い部分を補修する作業も行われていました。
使用された風船は学徒動員の女学生が和紙をコンニャク糊で貼り合わせて作っていました。

北部砲台跡(大久野島)

日露戦争が始まる前の1902年に設置された芸予要塞の大久野島保塁北部砲台跡です。
ここには24cm加農砲が置かれていました。

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日露戦争当時、北部砲台前の広場には発電機関舎がありましたが、毒ガスの生産が始まるとルイサイトのタンクが置かれました。
戦後の毒ガス処理でタンクは切断し処理されました。

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大久野島は広島県竹原市忠海町にあります。

中部砲台跡(大久野島)

中部砲台は日露戦争前の1900年頃、旧陸軍によって築かれたものです。

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大久野島には、中部に4門、南部に4門、北部に8門の砲台が据え置かれて、芸予要塞として役目を果たしていました。これらの砲台は第1次世界大戦のとき取り外されて前線に送られました。

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ここに使われている赤レンガはロシアから輸入されたと云われています。

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いたる所にウサギがいます。歩いていたり立ち止まるとウサギが寄ってきます。歩き出しても追いかけてくることはありません。

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展望台(大久野島)

展望台に向かいます。

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大三島が眼下に見えます。

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細い道が続きます。

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展望台です。360度見渡すことができます。

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正面右が小久野島、その左が松島、

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瀬戸内海は温暖な気候と海運に恵まれ、古くから人々の生活と深いかかわりがありました。人文景観(例えば大三島の大山袛神社の社叢林等)としても特徴があります。

地図から消された島(大久野島)

至る所に「うさぎ」がいます。
大久野島北西部から展望台に至る道がついています。

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瀬戸内海国立公園は、昭和9年に雲仙国立公園、霧島国立公園などと共に我が国で最初に指定された公園で東の紀淡、鳴門、西の関門、豊予の4つの海峡に囲まれています。
瀬戸内海は、島の密集した部分と島の少ない「灘」と呼ばれる開けた海域の部分に分けられます。
瀬戸内海国立公園の景観の特徴は、多島海景観と呼ばれる島々の重なりにあり、目の前の芸予諸島(広島県「安芸国」と愛媛県「伊予国」の間の島々)は、代表的な景観となっています。

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 坂道を登ります。

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 北部砲台跡
ここは日露戦争が始まる前の1902年に設置された芸予要塞の大久野島保塁北部砲台の跡です。大久野島島内には、北部・中部・南部の3箇所の砲台が設置され、合計22門の大砲が置かれていました。
この敷地には、12cm速射加農砲が4門置かれていました。

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地図から消された島(大久野島)

 当時の日本庭園跡

P3120040

 当時のトイレ跡

P3120045

長浦毒ガス貯蔵庫跡
旧陸軍は、1929年から敗戦まで、この島でひそかに毒ガスの製造を行っていました。主な製品はイペリットとルイサイトで、いずれもぴらん性ガスと呼ばれ、皮膚をただれさせる性質を持ち、年間生産量は多い時は1500トンに及び製造期(15年間)の総生産量は6616トンと言われています。
第二次世界大戦が終わると同時に進駐してきた連合軍の指示のもと日本人作業者によって、この島にあった毒ガス工場や製品を1946年から約1年かけて、薬品で消毒したり太平洋の沖に沈めたり、火炎放射器で焼いたりして処分しました。

P3120047

この建物はそれら毒ガスの貯蔵庫の一つでした。コンクリートの内側が黒く焼け焦げているのは、当時、火炎放射器で焼却した跡です。
建物の前には高さ3〜4メートルほどの小山を築き、コンクリートを迷彩色で塗ることで海上から見えないようにしていました。

P3120051
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