知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年05月

家塾跡

西高野街道が天野街道との分岐点の辺りが岩室集落である。

家塾跡
嘉永5年5月開設から明治25年に至る 初代塾長 中林喜市郎

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岩室郵便局跡
駅逓総官 前島密より発令  岩室郵便局長(堺県大鳥郡岩室村戸長) 中林喜市郎

竹内峠(竹内街道)

竹内街道は、堺の大小路から金岡、松原の岡、そして羽曳野の古市経て東へ向かい、途中で四つの高野街道と交差し、二上山南、ここ竹内峠を越えて奈良県の長尾神社に至る街道です。

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古代には歌人らも訪れ、
「大坂を 我が超え来れば 二上に もみじ葉流る しぐれ降りつつ」
「明日香川 もみじ葉流る 葛城の 山の木の葉は 今し散るらし」
中世には自治都市・堺と大和を結ぶ経済の道として、江戸時代には高野山や聖徳太子御廟、伊勢神宮、大峰山などへの参拝道として賑わいました。

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鴬の関跡
「我おもふこころ もつきず行く春を 越さでもとめよ鴬の関」   康資王母

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綿弓塚(芭蕉旧跡)

竹内街道
推古天皇21年(613)に、難波と飛鳥京の間におかれた街道は、飛鳥時代にわが国最初の官道として栄え、大陸からの文物を大和飛鳥にもたらしました。
中・近世には、伊勢、長谷参詣が隆盛し、茶屋、旅籠が峠を行く人々の旅情を慰めました。竹内街道の風景には多くの文化人達が筆をとり、貞享5年に松尾芭蕉が河内に向かい、幕末嘉永6年に吉田松陰が竹内峠を経て儒者を訪ね、文久3年には天誅組の中山忠光等7名が志果たせぬままここに逃走しています。

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この句碑は、「野ざらし紀行」に「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」とあり、この時の好句を記念するため、芭蕉の歿後115年を経た、文化6年10月に建てられたものです。

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この地は、芭蕉の門人千里の郷里で、芭蕉は貞享元年秋千里の案内でこの地に来り、数日間竹の内興善庵に滞在している。さらに元禄元年春再びこの地を訪れ、孝女伊麻に会って、その親を思う美しい心にこの上もなく感激し、「よろづのたつときも、伊麻を見るまでのことにこそあなれ」と友人に手紙を送っている。

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俳聖芭蕉は貞享元年秋、元禄元年春その他数回当地を訪れたとおもわれ、数々の句文を残しています。

「里人は 稲に歌よむ 都かな」 「楽しさや 青田に涼む 水の音」 「世に匂ひ 梅花一枝の みそさざい」等、 

清水の町並み

和歌山県橋本市にある清水の町並みを見ようとクロスバイクで行ってきました。紀見峠を超えて橋本駅に着いたのが8時30分、紀の川に架かる橋本橋を渡り右折れして暫く走ると右に常夜灯が見えてくる。

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清水は紀の川南岸の三軒茶屋から学文路を経て、女人堂に至るこの道は、京都・大坂から高野山への高野街道の宿場であった。
紀ノ川南岸の賢堂三軒茶屋に渡し場を示す宝暦2年(1752)の常夜灯が2基残っている。

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清水村は元和10年(1624)には家数197軒、人数879人であった。高野街道の伝馬所として栄え、街道には参詣人の道中の安全を守るために六つの地蔵を祀っていた。

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この地は古くから高野山領で、天正19年(1591)に豊臣秀吉が興山寺の木食応其(もくじきおうご)に与えた1000石の領地であった。それは、織田信長の全国統一事業を受け継いだ秀吉が、天正13年(1585)紀州攻めを行い根来寺を焼き払い、太田城を水攻めにした。高野山は木食応其を秀吉のもとに送って、戦わずして降伏したことによる。

南海高野線紀伊清水駅

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紀伊清水駅で9時15分、ここから五條・御所・葛城と走り、竹内峠を超えました。

これは、まぼろしの鉄道と云われた五條から新宮(五新線)跡、

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本日の走行距離は85キロでした。

斑鳩の業平井戸

五百井戸とか弘法井戸とか呼ばれ五百井(いおい)村の名前の由来になっています。黒い鉄の蓋をとって中を覗くと立派な石組の井戸で深さが5メートル程あります。
この井戸の南側を古代以来の竜田・奈良街道が通り、どんな干ばつでも枯れない井戸として街道をゆく旅人の喉を潤してきました。

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一方、この井戸は在原業平が河内高安の恋人、河内姫のもとを尋ねる際、水鏡にしたので「業平の姿見井戸」との伝承もあり、「ここは並松(なんまつ)/業平さまが/姿井戸とは/このことか」の歌も作られています。

初代 吉田奈良丸頌徳碑

初代 吉田奈良丸(1851~1915)浪曲家
本名は、竹谷奈良吉、後に引退して竹廼屋養徳齋という

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嘉永4年3月、大和の国広瀬郡百済村(現北葛城郡広陵町)に出生、兄3人、妹1人の4男として生まれ、少年の頃から利発で、しかも孝心あつく読書を愛好し、能楽にも通じていました。
壮年になって、大阪に問屋支店を設け自ら経営を行っておりました。ある日、同輩と千日前で遊びチョンガレ(弔歌連)を聞き大変感動し、芸術をもって身を立てることを決心し、浪曲(浪花節)を吉田音丸に学びました。

師匠についたというものの殆ど自分で創作したものが多く、芸を極め尽くした奥深く優美な語りで、その評判は遠方まで広がり、60人余りの弟子が斑鳩町の並松の家に出入りしておりました。その門生のなかでも広橋広吉は芸名を小奈良といい、門弟中の最上でありました。その小奈良に芸名奈良丸を譲りました。

初代奈良丸は自ら竹廼屋養徳齋と称し、その余力を門生の養成と台本の改作等に務め、二代目奈良丸は、関西の雄として東の桃中軒雲右衛門とともに天下に並び称され、平易、優美な節調と美文調の歌詞とによって大衆を魅了しました。養徳齋は病を得て大正4年65歳で逝去した後、二代目奈良丸を中心とする知人や弟子によって頌徳碑を建立しました。

大坂街道(当麻街道)

この街道筋の龍田は、浪速・奈良・伊勢・当麻への分岐点として、龍田神社を中心に商家・旅籠が軒を並べ、西和地方の商業の中心地でした。

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街道筋の龍田は、郡山に次ぐ宿場町として栄え、その賑わいは、「龍田宮前はかいでもきれいな宿屋の女がスソではく」とまで歌われ、当時の繁栄ぶりがうかがえます。
当麻街道は信仰の道として、法隆寺と当麻寺を結んでいました。当麻からは法隆寺参りの道と呼ばれ、法隆寺からは当麻参りの道と呼ばれていました。

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法隆寺へサイクリング

風薫る五月晴れの新緑眩しい日に、富田林市を流れる石川河川敷のサイクルロードを通って柏原市国分から奈良県王寺へ、大和川に流れる竜田川沿いに北上し法隆寺までサイクリングです。

竜田川に架かる岩瀬橋から三室山を望む
     「嵐ふく 三室の山のもみじ葉は たつ田の川の 錦なりけり」   能因法師

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JR法隆寺駅

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奈良街道は、大坂と奈良を結ぶ街道として栄え、大坂からは奈良街道・奈良からは大坂街道と呼ばれました。

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竜田公園にて、
     「ちはやぶる 神代も聞かず たつ田川 唐紅に 水くくるとは」   在原業平

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備考
奈良県と大阪府との府県境に源をもつ竜田川は、生駒山地と矢田丘陵にはさまれた生駒谷を北から南に流れ、斑鳩町で大和川に流れ込んでいます。
竜田川沿いを走っていると、道路を横断しようとしている亀を見つけたので、両手で持って階段をおりて竜田川に逃がしてやりました。
本日の走行距離は75キロでした。

大仙公園

世界最大の墳墓仁徳陵と履中陵周辺を包もうと、昭和22年に都市計画されて以来、市民の森運動による記念植樹や堺市博物館、平和塔等が整備され、市制100周年記念に「日本庭園」や大芝生広場、都市緑化植物園等の整備により「人集い 歴史香る」大仙公園が造られました。

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大仙公園内にある茶店の木陰で五月風を受けながら珈琲とよもぎ餅を頂きました。

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「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」  仁徳天皇御歌

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日本庭園(堺市大仙公園内)

昨日に続き堺市大仙公園内にある日本庭園です。

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石津渓

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傘亭
この亭は、池泉を一望できる小山にあり、からかさ様の意匠となっています。眼下に中国や日本の景色が映ります。

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虎渓
この名は、「廬山」にある渓流に由来します。

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甘泉殿
この休憩所の名は、そばに清く甘い水が湧くことに由来します。中国の仙鏡にあるような雰囲気と相まって観月には優れた場所となっています。

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