知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年05月

日本庭園(堺市大仙公園内)

堺は古来より大陸文化の上陸地のひとつとして、大陸と日本を結ぶ重要な位置を占め、中世には遺明船の基地として大陸から渡来した先進技術や文化を日本文化へ昇華させることに貴重な役割を持つと同時に自由都市として栄えました。

-

-

映波橋と印月橋
この二つの橋は、大海を見立てた池泉の河口の島に架かっています。四季折々の風情を映し流れるさざ波の様子や水面に映る月を楽しみます。

-

-

春燕橋
この橋は流れの勢いも弱まり、小石や砂利が堆積した河原の浅瀬に架かっています。上流に石津渓・下流に池泉を望み、新緑の頃には、橋のたもとの柳をかすめて飛ぶ燕が眺められます。

-

-

-

桃源台
この台地は、石津渓の流れの源となる昔日の泉北丘陵を桃源郷と想定し、広場の周辺には桃、梅、ぼたん等の花木が栽培されており四季折々の風情が楽しめます。
広場には流杯亭があり、その床面には堺の友好都市中国の連雲港市から贈られた盤石に流れを彫み、曲水の原点を再現したといわれています。

-

曲水の宴は、日本中国に於いては古代から文化人の間で天下泰平を祈願して行われ、現在日本では京都城南宮、福岡太宰府天満宮、岩手毛越寺で宴が開かれています。

-

この日本庭園は、上記歴史を背景にして作庭されたもので、庭園様式は「築山林泉回遊式」、対岸には遙か中国大陸を望む名勝を模して造られており、全国で見られる藩主が造った名庭園とは趣が異なる造りとなっています。

与謝野晶子

堺市大仙公園内にある与謝野晶子の歌碑

-

     花の名は 一年草もある故に忘れず 星は忘れやすかり

-

竜佐山古墳(堺市)

この古墳は前方後円墳で前方部を西に向けています。大きさは長さが約66メートル、後円部の直径約48メートル、後円部の高さ約7メートル、前方部の幅が約32メートルです。

-

堺市の調査では古墳の表面に並べている石(葺石)や古墳に立てられていた埴輪の大きなかけらなどがみつかっています。
古墳を取り囲むように堀がありましたが前方部の北隅では古墳と外とがつながっていたようです。この古墳は東にある孫太夫山古墳、収塚古墳などと同じく仁徳陵と特に関係のある古墳(陪家)と考えられています。

-

孫太夫山古墳(堺市)

古墳時代中期の前方後円墳(帆立貝式)で、墳丘長56メートル、後円部径48メートル、前方部幅30メートル、全長67メートルである。

-

その名称は、江戸時代、大鳥郡中筋村庄屋南孫太夫の所有にあったことに由来し、明治初期に南家から国におさめられ大仙陵陪塚とされた。
古来大仙陵の濠水は、廣大なる農地を潤すのをつねとし、代々庄屋たる南家は陵池の修復にあたった。

-

伸庵庭園(茶室)

数寄屋普請の名匠といわれた仰木魯堂が粋をこらして建てた茶室で、もと東京芝公園にあったものです。魯堂は明治、大正、昭和を通じて棟領として天下一といわれただけでなく、松永耳庵翁など、大茶人とも深く交わり、各所に名茶席を残しています。

-

-


-

-

建物は茶室を含めて十室の和室をもつ風雅な二階建で懐石料理や茶事を催すことができます。

-

黄梅庵庭園(茶室)

旧浄土寺九重塔
この石塔は明治維新の廃仏毀釈により廃寺となった大阪府南河内郡千早赤阪村小吹の浄土寺にあったものです。
背面に嘉元四年(1306)の刻銘のある基礎の上に立ち、高さ約3.6メートル、各部の曲線は力強く、姿態もよく整った花崗岩製の九重塔です。

-

-

茶室の四天王と称された故松永安左衛門が奈良県高市郡今井町の今井宗久所領の茶室を小田原の地に再興したもので屋敷内の梅実が黄熟する頃に完成したので黄梅庵となづけ天下の茶人を招いて茶味三昧の日々を過ごす、
八畳の広間に三畳下座床の茶室が接続し、勝手水屋等が付加されている。

-

天誅組河内勢志士

国の重要文化財を見に行こうと大阪府富田林市川西へロードバイクで行ってきました。

社殿は、明治45年特別保護建造物、昭和8年に国宝の指定を受け、昭和25年国宝査定基準変更に伴い本殿と両摂社が重要文化財となったと書かれています。

-

錦織神社がある地域、富田林市宮甲田は古代律令制における河内国錦部郡最北端にあたり、錦を織る技術者の集落として、また、水の合流点栄え、かつてこの宮は錦部の一の宮といわれ「河内三水分」の一つとして称えられていました。

-

天誅組河内勢志士の顕彰碑

-

備考
文久3年8月17日、天誅組河内勢六十余人は中山忠光を盟主とし皇軍の先鋒として甲田水郡邸を出発し、同日長野三日市経て観心寺の後村上天皇陵を拝し、大楠公首塚の前で結盟を誓い千早峠を越えて大和に入り、五條代官を屠りてその所領を天朝直轄の御地御民と宣言し、倒幕の第一声を挙げた。
然るに翌18日、突如として京師に政変起こり、廟議一変し却て逆徒として追討せられることとなる。然れども少しも之に屈せず、至誠の必ず天朝に達することあるべきを確信し、兵を十津川郷に募り吉野の山野を血汐にそめて孤軍奮闘し遂に刀折れ矢尽きて、僅か40日にして9月24日、或いは鷲家口に戦死し、或いは紀州龍神に捕らえられて、翌元治元年7月20日京都に於いて斬首された。実に明治維新の魁として花と咲き花と散った人々である。

とうろん台

このやぐら台を通称「とうろん台」と呼び、坂越湾を航行する船舶に海洋気象を知らせる施設でした。当時は、神戸海洋気象台から坂越郵便局に入電する気象情報を鳥井町にあった役場の人が日中は布製蛇腹の吹き抜きを「とうろん台」の柱の上に掲げ、夜はランプを吊って船舶に報せました。

この櫓は当時のものを縮小再現したもので、当時の高さは一間半、やぐら台上面は三間四方下部は五間四方、また、吹き抜きの布製蛇腹は直径約1メートル、高さ約1メートルの大きさでした。

-

坂越湾に浮かぶ生島

-

エイゴの井戸
道路下の磯辺に二つの井戸がありました。豊富な水が尽きることのない「永劫」を意味するものか、特に下の井戸は船の飲料水として利用されていました。

-

旧坂越浦会所

大道井(Daido-I)
大道井は、「井筒」とも呼ばれ「生島の船井」「海雲寺の寺井」とともに坂越の三井と言われた古い井戸でした。
坂越の人々の生活用水として大切にされ、また坂越浦に寄港する船や旅人の飲み水としても利用されていました。
写真右の石は大道井の井戸枠の一部です。大道井は道路の下に残っているとあります。

-

旧坂越浦会所
浦会所とは、港を治める役所のことで、坂越の人たちは浦会所に集まって港のことを話し合いで決めていました。浦会所の前はすぐ海で大きな帆船(廻船)が荷物をいっぱい積み込んで坂越の港から船出しました。この建物はその頃の姿に復元したもので、二階には赤穂のお殿様が港を訪れた時に使った部屋があるようです。

-

-

奥藤酒店

坂越の町並み

-

-

-

奥藤酒店
慶長6年創業の、兵庫県で二番目に古い酒蔵、「忠臣蔵」や「乙女」といった銘酒が造られています。一画に郷土資料館があり、酒造りの道具や商品を積み込んで上方まで運んだ船の復元模型などが展示されています。

-

-
記事検索
おきてがみ
blogram
blogramによるブログ分析
足あとを残せます。
後ほど訪問致します☆
Archives
  • ライブドアブログ