知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年06月

河太郎と河次郎

兵庫県神崎郡福崎町には市川という川が流れています。この川の岸に駒ケ岩という大きな石がありますが、そこには以前、河童の兄弟、兄の河太郎と弟の河次郎が住んでいました。

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二匹は、川へ遊びにやってきた子供の足を掴んで引きずり込み、「尻子玉」を抜いてしまうのです。
やがて、子供達は河童を怖がって誰も駒ケ岩で遊ぼうとしなくなり二匹の兄弟は自分たちのせいだと後悔しました。

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兄の河太郎

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河童の河太郎と河次郎
みんなが寝静まった頃、河太郎たちは柳田國男先生に謝ろうと、駒ケ岩から生家のある辻川公園にやってきたのです。
二匹は柳田國男先生に会いたくて、毎日毎日この池で待っていました。兄の河太郎は池のほとりで、弟の河次郎は皿が乾くと困るので池の中で、それぞれ待つことにしました。
二匹は何年も何年も柳田國男先生を待ち続けました。とうとう兄の河太郎は頭の皿の水がなくなって動けなくなってしまったのです。こうして河太郎は、池のほとりで動けなくなったまま、今も巌橋の方を見て柳田國男先生を待っているのです。
河次郎は30分に一度、池から顔を出して柳田國男先生が来るのを待っているのでした。

大磯の虎女

-長尾街道沿いにある石標










「和州葛下郡今市地蔵尊略縁起」によると、この地蔵院は富士野の仇討ちで有名な曽我十郎祐成に愛された大磯の虎女に始まります。

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「建久四年(1193)、弟の五郎時致(ときむね)とともに曾我兄弟は、苦節18年の末、父の仇を討ったものの討死し、空しく草場の露と消えました。
これを悲しんだ虎女は、出家の後、この草庵にわび住まいし十郎祐成の供養をしました。」とある。

所在地 奈良県葛城市南今市

八木札の辻

古代大和盆地は基準となる道路として、推古9年(601)に東西に横断する横大路が開かれた後、南北を横断する上ツ道・中ツ道・下ツ道が開かれました。近世江戸時代になると横大路は初瀬街道または伊勢街道と呼ばれ河内から伊勢に通じていました。
一方、下ツ道は、北は奈良を越えて山城まで達し、南は吉野・紀伊方面に通じており、後に中街道と呼ばれ、これらの街道の交差点が「八木札の辻」です。

「東の平田屋(旧旅籠)」(八木札の辻交流館)

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下の写真は、嘉永6年(1853)に描かれた「西国三十三所名所図会」の「八木札街(やぎふだのつじ)」界隈の絵図です。この絵図は「札の辻」を西南上方から描いています。

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中央に高札が描かれており、町の賑わいが表現されていて、東の平田屋が描かれています。六角形枠の井戸は半分に削られて東の平田屋の南に残されています。

八木の町並み
八木には札の辻を中心に古い町並みが残っています。

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所在地 奈良県橿原市北八木町2丁目1番1号

「笈の小文」松尾芭蕉

   草臥(くたびれ)て宿かる比や藤の花     はせ越(芭蕉)

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この句は松尾芭蕉が貞享五年(1688)四月十一日(旧暦)「笈の小文」の旅で八木町の宿に一泊した時のものである。

孝子峠

大阪府と和歌山県の県境「孝子峠」を越えて岩出までサイクリングです。

河内長野から外環状線を走り、岸和田、貝燹熊取そして第二阪和国道を南西に進み、泉佐野、阪南、深日町から孝子峠を越えて、和歌山市内を流れる紀の川に架かる北島橋を渡り、大和街道を東進して岩出橋から岩出駅まで

外環状線

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     第二阪和国道-








みさき公園駅前

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    南海本線孝子駅付近-










孝子峠

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北島橋

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          岩出橋-











JR岩出駅

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本日の走行距離は88キロでした。

道明寺の合戦(大坂夏の陣)

豊臣方、徳川方の最後の決戦が始まった慶長20年(1615)泉南地方や八尾・若江など各地で大きな戦が繰り広げられていた。
その中でも、大坂の関ヶ原とも言われる激戦が繰り広げられたのが「道明寺の合戦」である。

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備考
慶長20年5月6日未明、大坂城を出た後藤又兵衛基次は徳川方の出鼻をくじくため河内国分へと2800の兵を進めた。道明寺に着いた又兵衛は、石川を渡り小松山に上がり河内国分を見下ろすと、そこにはすでに数万の徳川軍が集結を終えていた。
かまわず果敢に戦いを挑んだ又兵衛は奥田忠次三郎衛門を討ち取るなどの戦果をあげたが多勢に無勢、8時間にわたる激闘の末、水野勝成や伊達政宗に圧されて自刀、隊は壊滅した。勢いづいた徳川軍は、石川を渡って道明寺へと進軍した。
そこへ、遅れて到着した薄田隼人正兼相や明石全登が迎え撃つも徳川勢の勢いは止まらず薄田隼人は善戦空しく討死した。

いよいよ崩れかけた豊臣方を立て直したのが真田信繁(幸村)であった。幸村は、誉田八幡宮付近に布陣した。これには、伊達政宗の武将片倉重長が盛んに攻め立て両者相譲らず、戦いは膠着した。
そこに届いたのが、八尾・若江の戦線で豊臣方の防衛が突破されたとの知らせであった。この知らせを受け戦場を縮小し大坂城の守りに転ずべしとの毛利勝永の采配で、戦いの舞台は道明寺から天王寺へと移された。
その際、殿軍を務めた幸村は「関東勢百万と候へ、男は一人もなく候」と徳川軍を嘲笑しながら悠然と立ち去ったと言われている。翌5月7日、真田幸村は討死、大坂城は陥落した。

田原本陣屋跡

旗本交代寄合平野氏の陣屋跡、初代平野権平長泰は、豊臣秀吉の近習で加藤清正らとともに賎ヶ岳七本槍として勇名を馳せ、その功績を嘉賞されて文禄4年(1595)、田原本村他6ヶ村で5000石を知行した。

写真の田原本庁舎には藩士の住居があり、これより以南に陣屋が置かれていた。

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長泰は文禄5年領内に寺内町を取立て、商業的都市を開き田原本発展の基礎を築いた。陣屋は中世土豪の館跡に、2代平野長勝が寛永12年(1635)、築造に着手し京・伏見の屋敷から移ってきた。
江戸時代、田原本は「大和の大坂」ともいわれ、中和地方の拠点的商都として栄え、田原本領の治世は初代長泰から明治4年の廃藩置県まで10代約280年間続いた。
この間、明治元年に10001石となり諸侯に列し田原本藩となった。

田原本の町並み

奈良盆地のほぼ中央、東に初瀬川、西に飛鳥川が流れる地に位置する磯城郡田原本町の町並み

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下ッ道

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田原本は弥生時代の唐古鍵遺跡から始まり飛鳥・奈良時代には下ッ道が開通しこの下ッ道が大和国条里の基準となる。
又、弥生時代から大陸文化の入口であった難波津(大阪湾)と田原本・今里浜を結ぶ大和川による水運が江戸時代に大和盆地の中心である田原本が問屋町として発展し近世田原本の礎となった。

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浄照寺
慶安四年(1651)田原本二代領主平野長勝により創建され、御門跡兼帯所として本願寺御坊に列せられ大和に七十二ヶ寺の末寺や配下を有していた。当初は円城寺といい、本末改めなどの手違いからか寛延二年(1749)寺号を改め浄照寺と称した。

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本誓寺
草創は鎌倉時代で、正和五年(1316)花園天皇の頼願所として本覚院と号し、もと八幡町にあった。賤ヶ岳七本槍で武名を馳せた平野権平長泰は五千石をもって当地を領し、教行寺退去の跡へ正保四年(1647)二代長勝が今の位置に移して菩提寺とした。

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行者堂

田原本駅

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延享三年(1746)行者堂の前身堂として行者堂の東、ムクの木の傍らに地蔵堂田原本・平野藩・寺院本末御改メ帳に「本誓寺末寺 地蔵堂 開基・開山は不詳、本堂 二間四面、本尊 地蔵菩薩、境内 東西四捨三間、南北三間 但シ無年貢地」とあり「この場所から「卍」模様の小型軒瓦があった。」
 
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明治時代 地蔵堂が廃絶の為、地蔵堂役行者倚像、前鬼像、後鬼像(伝・熊野地方より伝来)を「戸屋久」の妻が自宅離れで祀るも、逝去のため本誓寺へ預け。
大正三年頃風邪が大流行し、これは「役行者倚像 前鬼像、後鬼像」を地元新地で祀ら無くなったための「祟・タタリ」であるので、新地青年団が中心となって田原本陣屋町総堀の三間程の南堀を埋め立てて行者堂を建立し現在に至る。

所在地 奈良県 磯城郡田原本町

旧波門崎燈籠堂

明石漁港

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明石港

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旧波門崎(はとざき)燈籠堂(明石港旧灯台)

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備考
明石港旧灯台は、明暦三年(1657)に明石城主松平忠国によって、舟人の目標とする灯明台として造られたと云われている。
第五管区海上保安部刊「航路標識年表」によれば、近畿で4番目に造られた灯台になります。また、現存する旧灯台のうち設置年代は日本で二番目に古く石造りでは一番古いものとなります。
終戦後、連合軍の司令により昭和26年に所有権が明石市から国に移管されました。
この旧灯台は港の歴史を示すシンボルであり、明石の貴重な歴史遺産であることから、兵庫県と明石市が国に対して譲渡の働きかけを行い、明石市へ譲渡されました。
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