知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年06月

明石城跡

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巽櫓

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横山蜃楼句碑
   「鵙(もず)の声屈するところなかりけり」

横山蜃楼は明石の人で、松瀬青々の弟子となり、30歳で倦鳥派の大家となり大正14年月刊俳句誌「漁火」を創刊、門下誌友は全国に及ぶ盛大さという。

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坤櫓(ひつじさるやぐら)

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本丸跡
明石城は、初めから天守閣がなく本丸四隅に三層の隅櫓で固めていた。東北の艮櫓(うしとらやぐら)は本丸の鬼門にあたる櫓として重要であった。

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艮櫓跡
本丸の北東隅に三重の櫓が建っていた。この櫓は五間(9.1メートル)四方の広さで高さは六間一尺九寸(11.4メートル)であったという。

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松平直明公遺愛「お茶の水」
八代城主直明公在城中(1682〜1701)日常この水を使ってお茶を点てられた。明石城内で良い水の出る井戸として親しまれれてきたという。

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アクアロードかしわら

長瀬川は、1704年大和川付け替えという国家大事業で従前の河内平野の農業灌漑水路として古くからその役割を果たしてきた歴史的な水路です。

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昭和30年代の高度経済成長期には沿線の開発が進み、周辺は田畑から工場や住宅地にかわり産業排水や生活汚水の排水路としての役割を果たしてきました。

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大阪府柏原市の市街地中心部を流れる長瀬川

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築留土地改良区
大和川の付け替え後、築留の地に取水樋門を造り長瀬川や玉串川筋の田畑に引く用水路管理のために「築留樋組」がつくられ、その後明治41年に「築留樋普通水利組合」昭和27年以降は「築留土地改良区」とよばれている。

三田家住宅(国重要文化財)

大阪府柏原市まで石川沿いのサイクルロードを北進して大和川を越えJR柏原駅周辺を散策してきました。

三田家住宅

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JR柏原駅

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  旧奈良街道












三田家は、「干鰯(ほしか)」や「油粕」などの肥料を商い、又、柏原船の営業をし地主として栄えた家です。
江戸時代の明和三年(1766)から同五年にかけて建築された母家・土蔵の二棟および塀一棟が国の重要文化財に指定され、また、建築に要した費用や町屋に対する規制など文書も多く残されており、建築時の様子を知ることが出来ます。

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本日の走行距離は42キロでした。

武蔵の庭園(明石城)

明石城跡

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明石城主小笠原家に伝わる「清流話」の中に、初代城主小笠原忠政の命を受けた宮本武蔵が明石城内(現陸上競技場付近)に「樹木屋敷」(御茶屋、鞠のかかり、月山、泉水、滝などを設けた城主の遊興所)を造ったという記録があります。又、宮本武蔵は明石城下の町割りを行ったとも伝えられています。

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御茶屋 (木造入母屋造、一部寄棟造)
樹木屋敷にあった御茶屋は藩主が客を接待する場所と考えられています。

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大滝(雄滝)
宮本武蔵が作庭したとの言い伝えがある寺院の庭に共通して見られるのが大小ふたつの滝です。
大滝は阿波の青石が多く使われています。

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旧日本専売公社赤穂支局

赤穂は古くから塩業で栄え、明治38年に塩専売制になると塩務局が置かれ明治41年にこの建物が完成しました。

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事務所はアーチ状の庇屋根、イオニア風の柱頭飾、ハンマービームを多用した西洋風の建物であり、文書庫は煉瓦造、塩倉庫は11棟が並んでいました。

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備考
この建物は、昭和24年に日本専売公社赤穂支局、昭和57年に赤穂市立民俗資料館となり保存状態も良く、現存する塩務局庁舎としては全国でも極めて稀なもので、明治末期の洋風建築としても価値の高い建物です。

赤穂城下町船入跡

赤穂城下町は、熊見川(現千種川)の河口にあることから河川海上交通の拠点となり、江戸時代には大規模な船着場が造られました。元禄期頃の城下を描いた「播州赤穂城下図(浅野家家中図」には「御船入」と描かれています。

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絵図によると、船入は東西約100メートル、南北約60メートルの広さをもっており、北側の階段状に描かれているところ(雁木)が船着場であったと推定でき、船入の北側には船手奉行や水主(船の乗組員)、船頭の屋敷が置かれ、南側には水軍の駐屯所とするため随鷗寺と遠林寺が配置されるなど、防衛にも力が入れられていました。

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船入には、千種川を往来する高瀬舟や海上輸送のための廻船が出入りし賑わっていました。江戸時代後期(1800年頃、森時代)になると船入は埋め立てられ田畑として利用されました。

赤穂義士宅跡(赤穂藩)

21名が赤穂の城下町や城内に屋敷を構えていた。現在は民家や公園、空き地などになっているが、それぞれの義士宅跡には義士を紹介する説明板と石標が立っています。


「藩士総登城大評定
主君長矩切腹江戸藩邸の接収などの凶報に内蔵助は藩士三百余人に総登城を命じ十九、二十、二十一の三日間更に二十七、八、九日と城中大広間で大評定が行われた。籠城論、復讐説、開城論、殉死嘆願説など連日に互って斗わされ、結局無血開城ということとなったが内蔵助に従う者五十余人に過ぎなかった。」

大石瀬左衛門信清宅跡

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「無念の城あけ渡し
四月十九日幕府の収城使竜野藩主脇坂淡路守は大手門から四千五百人備中足守の城主木下肥後守は塩屋門から千五百人の軍勢を引き連れて入城、内蔵助らは本丸玄関で上使を迎え赤穂城はここに無事あけ渡された。内蔵助は三代五十七年間のお城に名残を惜しみつつ無念の涙のうちに退出していった。」

岡野金右衛門包秀宅跡

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「祇園一力茶屋
内蔵助は城あけ渡しの残務整理も終わった六月の末赤穂を退去して山科の家へ移り播州や上方或いは江戸の同志と連絡をとりながら浅野家の再興に努力をすると共に上野介に対する復讐の計画も進めた。そして吉良や上杉のスパイの目をくらますため連日祇園や島原に入りびたって遊びほうけた。」

間喜兵衛光信宅跡

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「恋の絵図面取り
神崎与五郎の営む小豆屋善兵衛の小間物屋に手代として住込んでいた岡野金右衛門は若くて美男子で独身であったからいつしか吉良邸出入りの大工棟梁の娘お艶と恋仲となり、この事を幸いに吉良邸の絵図面を入手しようとお艶の父親が普請のとき作った屋敷の図面を持ち出させて討ち入りのとき役立たせたという。」

岡嶋八十右衛門常樹宅跡

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「炭小屋にいた上野介
戦うこと約二時間目指す上野介はどこへ雲隠れしたか見付からなかった。しかし午前六時頃台所に続く炭小屋に隠れていた上野介に間十次郎が一番槍武林唯七が一番太刀をつけ小屋の外へ曳き出し合図の呼子笛で一同が集まった。
そこで上野介が止めの一刀を刺し一番槍の十次郎が首を挙げて目出度く本懐を遂げた。」

赤穂城跡

浅野長直によって慶安元年(1648)から3年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近世城郭史上珍しい変形輪郭式の海岸平城です。
藩の家臣で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二の丸門虎口の縄張は、軍学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられ、城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある船入りは船が出入りできました。

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明治10年代頃の本丸門

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本丸は中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、刎橋門、厩口門の3門と、天守台には天守閣は当初から築かれず4ヵ所の櫓台のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形として配されていた。

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天守台

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本丸大池泉

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天守台から本丸跡を臨む

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厩口門
浅野家時代には「厩口門」、森家時代には「台所門」と呼ばれていた。

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大石頼母助屋敷門(赤穂藩)

大石頼母助良重は、大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人物で家老職にあった。藩主浅野長直に重用され二の丸屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。

山鹿素行が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で八年余りを過ごした。

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備考
平成10〜13年にかけて実施された二の丸庭園の発掘調査によって、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかり、門は発掘調査によって見つかった遺構に基づき規模及び構造が検証され薬医門形式の屋敷門として平成21年に整備された。

赤穂城二の丸門跡

二の丸門跡は二の丸の入り口として、虎口はやや南よりの西方白虎に開かれた切妻式櫓門が構えられていた。二の丸門虎口の縄張りの一部は、浅野長直に仕えた儒学者山鹿素行が、承応2年に変更したと云われている。

二の丸の面積は、1万7259坪で、二の丸門は櫓門で桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪の規模であった。

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文久2年(1862)12月9日に、赤穂藩主森家の国家老森主税が藩改革を唱える藩士達に暗殺された。この事件は「文久事件」と呼ばれ明治4年の日本最後の集団仇討ち「高野の復讐〈和歌山県高野町〉」の発端となった。
ここに置かれている半畳ほどの二つの石は小石で叩くと「かんかん」と音をたてることから、誰云うとなく「かんかん石」と呼ばれているという。

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