知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年06月

片岡源五右衛門高房(赤穂藩)

側用人  児小姓頭
三百五十石
表門隊  行年 三十七歳

源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召し出された寵臣であった。出世加増の少ない元禄時代に初め100石であった。棒禄が19歳で200石、24歳で300石、元禄12年(1699)正月には32歳で350石を給せられている。

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元禄14年(1701)3月14日内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え事態の収拾にあたった。
田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気づいたが主従は共に声なく今生の別れを惜しんだのであった。

討ち入りの時は表門隊に属し、冨森助右衛門、武林唯七と三人組合って、真っ先かけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字鎗をふるって戦った。細川家のお預けののち、二宮新右衛門の介錯で従容として切腹した。

赤穂城内武家屋敷

元禄15年(1702)の赤穂城内侍屋敷図によれば、家老格の重臣の屋敷は城の重要な門の近くに配置され、城の守りのために重臣達にそれぞれの門の警護を受け持たせていました。

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ここは清水門のおさえとして、坂田武右衛門(800石・組外・準家老格)の屋敷があったところです。

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現在は武家屋敷公園として、屋形は345平方メートルで武家門、築地塀井戸屋形、杉皮葺きあずま屋を配しています。

大石邸長屋門(赤穂藩)

この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋です。
間口約26.8メートル、奥行約4.8メートルの建物で、屋根瓦には二ッ巴の大石家の定紋がついており、かつては内蔵助と主税の親子が朝夕出入りし、また、元禄14年3月、主君の刀傷による江戸の悲報を伝える早打ちが叩いたのもこの門であった。

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大石邸庭園
元禄の昔、大石内蔵助・リク夫妻、主悦を始め子女らがそぞろ歩きをし、嬉々として戯れ遊んだ池泉鑑賞式回遊式の江戸初期の古庭園である。

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道明寺

昨日は朝方雨も上がったことから、石川の自転車道を北上して大和川まで行ってみることにしました。
石川橋から上流は大阪府の管理、下流は国土交通省の管理となり河川名も大和川となっていました。少し北上して国道170号線をUターン、近鉄南大阪線の土師の里駅で休憩していたら近くに東高野街道が走っていて道明寺があることに気づき東高野街道を南進する。

東高野街道

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道明寺
古墳造営に携わった土師氏の氏寺(土師寺)として7世紀に建立されたと考えられ、土師氏の子孫の菅原道真ゆかりの寺で、道真の別名道明から道明寺と呼ばれるようになったと説明している。

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もとは、道明寺天満宮の南側にあり、明治時代の神仏分離により天満宮と分離された。江戸時代の境内図から四天王寺式伽藍配置であったことが知られている。

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東高野街道

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本日の走行距離は39キロでした。

赤穂藩上水道

赤穂藩上水道は、下津井藩主池田忠継の代官、垂水半左衛門の指揮のもと、慶長19年から元和2年(1614〜1616)の3ヶ年で完成させ、神田上水(東京都)、福山上水(広島県)と並ぶ日本三大上水道の一つです。

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武家井戸

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江戸時代に敷設され昭和初期頃使われていた汲出枡です。

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上水道は、のちの松平時代、浅野時代に形が整えられ、森時代に受け継がれ、さらに明治・大正・昭和と赤穂の町を潤し昭和19年新上水道に引き継がれています。
赤穂の城下町は、熊見川(千種川)河口デルタ上に形成されたため、海水の混入する堀井戸では、飲料水が確保できず、約7キロ上流の千種川から取水し、導水路で運ばれて水が、こし場で配水管に分岐・配水されていました。
赤穂藩上水道は共同井戸だけでなく町人・武士を問わず各戸まで給水されていたのが特色です。

近藤源八宅跡長屋門(赤穂藩)

近藤源八正憲は甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあり、源八の妻は大石内蔵助良雄の祖母にあたり、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟には加わらなかった。
源八の父である三郎左衛門正純も甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張り設計を行った。

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備考
近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれ、現存している建物は長屋門の長屋部分で門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として使われていました。
現在は、その内の北端部の一戸と南隣の一戸の一部屋が残されています。この長屋門は、十八世紀以降に建て替えられたものと推察されているが、当時は総長二十一間半(約42.3メートル)の長大な長屋門でした。
城内に残された江戸期の建物は大石良雄宅跡長屋門と近藤源八宅跡長屋門のみであり、疎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁等の一部を保存し、入り口部分の土間は、炊事場であったと考えられ、煙出し窓や、天井周囲に残された煤が当時の生活ぶりを偲ばせています。

赤穂城跡

初代赤穂藩主浅野長直の指示によって、慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近世城郭史上変形輪郭式の海岸平城です。

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備考   赤穂藩家老で軍学師範近藤正純が設計し、そのうち二ノ丸門虎口の縄張は、当時の著名な軍学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられている。
城郭は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある船入は船が出入り出来るようになっていました。

播州赤穂

播州赤穂駅

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山鹿素行
江戸時代前期の儒学者・軍学者(1622〜1685)、元和8年、会津に生まれる。25歳で各大名・旗本兵法儒学を教授する、一介の浪人でありながら門弟3000人を抱かえる。

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息継ぎ井戸
元禄14年(1701)3月14日に江戸城松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけるという刃傷事件が起こりました。早水藤左衛門と萱野三平が大事件を知らせるため、江戸から早駕籠に乗り4日半かかって19日の早朝赤穂城下に到着しています。
その時、この井戸で二人の使者が水を飲み一息継いで赤穂城に向かったと伝えられている。

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義士あんどん(からくり時計)
正面と背面に時計盤が、台座には義士の錦絵があしらわれていて、からくりは9時から20時の毎正時に刃傷松の廊下や勝ちどきをあげるシーンなど、ナレーションと共に楽しむことができます。

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備考 「山鹿素行」
承応元年(1652)、31歳の時に赤穂藩主浅野長直に祿高1000石で仕えることになる。素行は赤穂藩に仕えた万治3年(1660)までの8年間、「修教要録」・「治教要録」・「武教要録」などの主要な本を著し、また、約半年の赤穂滞在中には、赤穂城二ノ丸虎口の縄張りの一部変更など軍学者としての手腕を発揮しています。

その後、民間学者となり寛文6年(1666)、江戸にて「聖教要録」を出版するも朱子学批判の罪で赤穂の地に配流され、赤穂城二ノ丸内の大石頼母助屋敷の一角に預けられることになります。延宝3年(1675)の赦免になるまでの9年間、赤穂で読書と著述に明け暮れる謫居生活を送りました。この時期に「中朝事実」や「武家事紀」などをはじめ多くの著書を残したほか、自叙伝風の遺言状「配所残筆」を記しています。

配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、その思想精神(山鹿流兵法)は、門弟であった大石良雄をはじめ多くの赤穂浪士達に影響を与えたと伝えられている。

大川峠

5月20日、我が家から泉佐野〜尾崎〜みさき公園〜多奈川〜小島と海岸沿いを走り、大阪と和歌山県境の大川峠を越え、加太から和歌山駅へ、

多奈川発電所が見えています。

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小島(とっとパーク)にある「海釣り公園」

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大川峠(現在は徒歩・自転車意外は通行出来ません)

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当初の予定は和歌山から紀ノ川沿いを東進し橋本駅から輪行する予定でしたが、途中でNさんに電話が入り急用の為、和歌山駅から輪行して帰りました。
この日は、少し風があり新緑と相まって気持ちの良いサイクリングでした。本日の走行距離90キロ、

狭山藩下屋敷跡

かつて「さやま遊園」があったこの一帯には、江戸時代に狭山藩北条氏の陣屋の下屋敷がありました。

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北条氏は戦国大名北条早雲末裔で、二代目藩主氏信が元和2年(1616)に狭山池北東の地に陣屋を築き始め、三代目藩主氏宗の代の寛永14年(1637)に完成しました。

下屋敷は五代藩主の氏朝(1669〜1735)が、幕府領半田村の狭山池に臨む景勝の地を借地し、延宝5年(1677)に着工したもので、宝永年間(1704〜1711)に完成し、面積は10164坪ありました。天明2年(1782)上屋敷の火災で類焼し、その後再建されました。

敷地の北西寄りに藩主別邸の御殿があり、それを囲むように東部に藩士の屋敷が軒を並べていました。南部に馬場、西部に的場(弓道場)、狭山池に面して狭山池北堤を守る堤明神、南東部には鉄砲製造所や煙硝蔵(火薬庫)もありました。西側には狭山池、東側には東除川、東側と南側の外周には水濠状の水路を設けて外部と区切った構造になっていました。
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