知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年07月

関札(宿札)

関札は別名、宿札ともいい、江戸時代に大名や幕府役人などが本陣に休泊する標識として、休泊する者の氏名や官職、休泊の別(宿・泊・休)を記し、尺廻り(約30センチ)高さ3間(5.5メートル)の青竹に取り付け、本陣の前や宿場の出入り口に建てられたものです。

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関札には、木製と紙製の2種類があり、田中七左衛門本陣には木製のものが460枚、紙製のものが約2900枚と膨大な関札が残されています。

脇本陣(藤屋与左衛門家)

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平入り正面上部の虫籠窓風の意匠や漆喰で塗り込められ出桁などが町屋らしい雰囲気をかもし出しており、鬼瓦には文政13年の銘がみられる。
街道に平行した切妻造の背面で、棟が直交するT字型の屋根形式となっており草津宿の町屋にみられた特徴をもっている。

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草津宿には本陣が2軒、脇本陣が時代によって2〜4軒ありました。

覧富士記

     「近江路や秋の草つはなのみして
               花咲くのべぞ 何處ともなき」
   
将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。

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この歌は「覧富士記」に収められており、堯考法師の作と云われています。室町時代の歌人で頓阿の曽孫、常光院と号し応永21年(1414)には二条派の中心歌人であった。
正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来、飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、永享四年(1432)の富士見にお供して「覧富士記」を残した。

草津宿高札場

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草津宿追分

草津川隧道                      草津川は7月31日9時から工事のため通行ができ
                              なくなります

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草津宿追分
この道標はかつての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点であった。文化13年(1816)3月に建てられた火袋付きの道標で、江戸時代に東海道や中仙道を行き交う多くの旅人の道しるべとなっていました。
立木神社境内には延宝8年(1680)に、草津追分に建てられた県内最古の道標が残っています。

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草津川隧道
草津川トンネルは草津川が天井川であったことから出水に悩みまた通行にも不便をきたしていたことから、従来の堤防を登り川越のルートから草津川に隧道を掘って人馬・通行の便を図ろうと明治17年、中仙道筋草津川隧道開削新築事業起工の儀願書を県令あてに提出し、明治18年、総工事費7368円14銭9厘を以て着工された。

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道標(草津宿)

草津宿の江戸方入口であった草津川の堤上に建つ火袋付石造道標です。この道標は日野の豪商中井氏の寄進によって文化13年(1816)に建てられました。

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竿には「右金勝寺志がらき道」
     「左東海道いせ道」 と行き先が刻まれています。

つかの間の涼を求めて

昨日の早朝にベランダにでると西風が吹いていて清々しい朝を迎えた。夏の風だ。
「ROUTE 218 OSAKA  河内長野かつらぎ線」を南進すると滝畑ダム、

ダム湖下の水は前日の雨により濁っていた。            ダム湖も少し濁っている。

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出会橋     ここまで来ると殆ど濁っていない、外気温25度。

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渓流で顔を洗い一休み、何と気持ちの良いことか。

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本日の走行距離は39キロでした。夏休みは27日で終わります。

久宝寺寺内町ぶら〜り散策

夏休み中ではありますが天気が良いので、
大阪府富田林市を流れる石川沿いの自転車道を通って柏原へ、

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柏原の長瀬川沿いに北進して久宝寺船着場跡へ、

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久宝寺船着場跡

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久宝寺寺内町

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本日の走行距離は53キロでした。

東海道(草津)

東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。

(写真右 東海道 中山道はトンネルの上の砂川(旧草津川)に上がり川を渡っていた)

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その里程は、江戸日本橋から相模小田原宿を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由して勢田橋を渡り大津宿を経て京三条大橋に至るもので東海道五十三次と称された。
草津では小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3キロ)の草津宿を経て矢倉・野路・南笠を通過し勢田に至った。

      『明日より夏休みと致します』

石造道標(草津宿)

(南面)
伊勢大神宮 延宝八庚申年
七ヶ年中履行月参拝願成就所 みぎハたうかいとういせミち
山城愛宕山 十一月吉日
(西面)
                     京みぶ村
ひだりは中せんたうをた加みち   万宝院 
                     あしだの行者

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この道標は東海道と中山道との分岐点である草津宿の中央部に位置する追分の地に建てられていたことが伺われ、現在の草津追分に建てられている文化13年銘石道標(1816)の前身のものと推定されています。
道標の建立年代は、「延宝八庚申年」(延宝八年(1680))と刻銘にあり、滋賀県下で最も古いと云われている。

草津宿黒門跡

草津宿は、東海道と中山道が交わる宿場町であるため、宿場の入口は東海道の江戸方入口と京方入口および中山道入口がありました。
宿場町入口には、一般に見附と呼ばれる施設が設けられ、見附には石垣や土塁が築かれ、さらに柵などを設ける場合もあったようです。

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草津宿には、東海道入口に「坂口見附」、中山道入口に「札の辻見附(追分見附)」がありました。
東海道京方の入口である宮町と矢倉村との境には、文化14年(1817)には黒門が設置されていて、宿内と宿外を限る施設として存在しており、この黒門は幕末期に草津宿役人を勤めた駒井興左衛門の記録によれば、もともとは六丁目と宮町の境を流れる宮川に架けられた宮橋の南詰めにあった見附の石垣の上に建てられていたがその後、石垣が壊れたため矢倉村境に移築されたと云われています。

黒門の規模や形状は詳細な記述がなく、見附と同様な宿場町の保安的機能を有した門であったと考えられています。

与謝野晶子歌碑

浜寺公園にある与謝野晶子歌碑

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ふるさとの和泉の山をきわやかに浮けし海より朝風ぞ吹く  晶子

(ふるさとの自然を詠んだこの歌は、大正8年、晶子が41歳のときの歌と云われる)

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海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家   与謝野晶子
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