知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年10月

宝塚歌劇

宝塚歌劇団が100周年を迎えたことを記念し、スターをモチーフにした銅像が阪急宝塚駅ゆめ広場にある。

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銅像は台座を含めて高さ約2・3メートル。歌劇団舞台美術担当の関谷敏昭さんがデザインし、男役と娘役が華やかに踊る姿をイメージしている。

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除幕式には歌劇団花組男役の水美舞斗さんと娘役の城妃美伶さんも出席して、銅像と同じポーズをとりながら、「宝塚歌劇も見に来て」とPRしたという。

泉州堺の町

堺のまちを囲んでいた環濠は、戦国の世から近代にいたるまで、海に開かれた都市堺における平和と繁栄の象徴として存在してきました。
「堺は東洋のベニスの如し」 これは宣教師ガスパル・ビレラが本国に送った報告書のですが、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニスのごとく執政官に依りて治められる」と記しています。
執政官に相当するのが会合衆と呼ばれる豪商たちで、堺の町の運営や訴訟を裁くなどの権限をもって町を治めていたのです。

大正頃の土居川(宿屋町付近)

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堺の中心部を流れる内川・土居川は、400年にわたり堺のまちを見守り、舟の運航や排水路として堺の発展してきました。堺の都市化とともに川は利用されなくなり工場廃水や生活廃水で水質は悪化していましたが、最近ではみんなの努力によってだんだんと水がきれいになり、いろいろな魚や鳥が住むようになってきました。

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南海鉄道の橋脚
川の中に残されたレンガ造りの橋脚は、戦前に実際に使われていた南海鉄道の橋脚です。南海電気鉄道の前身である阪堺鉄道は、我が国最初の純民間資本による民鉄です。阪堺鉄道事業譲渡された南海鉄道は、この橋脚の上を通って明治36年に難波から和歌山市間を結びました。
戦後、戦災復興土地区画整理事業に伴い、昭和23年度に阪堺線・同大浜支線、昭和30年度に南海本線が鉄軌道移設され南海本線は以前より西側に位置します。

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貝塚寺内町を歩く

妙泉寺

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レンガ道

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寺田屋住宅(登録有形文化財)
寺田財閥の一族で鋳造業を営んでいました。大丸百貨店の設計で昭和11年に建築され、主屋は外観を洋風にした木造住宅で、隣接して茶室、内倉、外蔵、納屋があります。昭和28年には高島屋の設計で鉄筋コンクリート造りの新宅が建てられました。

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[妙泉寺]
貝塚市内唯一の日蓮宗寺院で、寺に残る縁起によると永正15年(1518)堺の成就寺の僧日詮が岸和田城下に創建したという。その後、王寺村、海塚村へ移転し慶長3年(1598)に日喜の代に当地に移転した。
現在の本堂は文化3年(1806)の再建である。門前にある「南無妙法連華経」の文字を刻んだ題目塔は安永10年(1781)建立で髭題目と呼ばれる日蓮宗独特の書体で刻まれている。

ぶらり貝塚寺内町(近木)

寺内町当時のまちわりとともに、古くは江戸時代後期から明治、大正、昭和の伝統的様式の町屋が数多く残されています。

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夏空に太鼓とどろく近木町や汗しとどなるよき男伊達  田辺聖子

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卜半役所跡(貝塚寺内町)

利斎家住宅(登録有形文化財)
織田信長兵乱の時に貝塚に往来したと伝わり、江戸時代には薬種問屋を営む有力町人で、建築時期は17世紀まで遡る可能性があり、離れの洋館は大正13年頃の建築といわれています。

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現北小学校の敷地は、もとは願泉寺の境内にあたり、明治維新までは卜半役所と呼ばれる政庁が置かれていました。
一向宗の自治都市としての寺内町の時代には、この寺は信仰と政治両面にわたる町の中心でした。江戸時代に入り幕藩体制の下でも、寺のもつ二面性は保持され、貝塚寺内町の地は住職の卜半家の領地とされました。
政庁の表門は旧紀州街道に面していました。

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旧紀州街道(現府道堺阪南線)

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寺内町とは、戦国時代に畿内を中心に、寺院を中核として計画的につくられた宗教自治都市です。
貝塚寺内町は、貝塚御坊願泉寺を中心に発達した寺内町です。古くは麻生郷海塚村に属し、もとの集落は紀州街道沿いの低地にあったと推定され、室町時代末期に寺内町として建設されました。
織田信長の時代には、和泉国の一揆衆が結集する場となり、天正5年(1577)に信長軍の攻撃を受けました。
豊臣秀吉の時代には、天正11年(1583)から2年余りは浄土真宗の本山である本願寺が置かれ、その寺内町として発展をとげました。
江戸時代には、願泉寺住職卜半家を領主(地頭)とする諸役免許の地「貝塚卜半寺内」として、様々な商工業が発展しました。

願泉寺(貝塚寺内町)

並河家は卜半家の家来で代々その要職を務めた家柄である。
当家住宅は願泉寺の門前通りの「御坊前通り」に西面し、外観は町家の形式が
あるが、内部は式台玄関を配する武家の住宅となっている。
主屋は天保3年(1832)の建立といわれ、土蔵は江戸時代後期である。

並河家住宅(登録有形文化財)

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願泉寺(貝塚御坊)
天文14年(1545)、無住であった草庵に紀州根来寺から卜半斎了珍を迎え、一向宗の町づくりがはじめられた。石山本願寺から寺内町にとり立てられた後、天正5年(1577)には、その支城として織田信長と戦い、町は焦土と化した。
その後、寺も町も再興され、天正11年(1583)から2年の間、紀州鷺ノ森より顕如上人を迎えて本願寺御堂となった。

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江戸時代には町は寺領とされ、住職の卜半家の支配が続いた。

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貝塚寺内町は、南北約800メートル、東西約550メートルの広さを持つ環濠城塞都市であった。
西は大阪湾、北は北境川、南は清水川を濠と見立て、これらをつなぐ形で濠をめぐらしていた。慶安元年(1648)の町絵図によれば、濠の内側には土塁が築かれ、6ヶ所の町の出入口には番所が置かれていました。

環濠跡(貝塚寺内町)

 貝塚寺内町の起こりは、応仁年間に蓮如上人が逗留したと伝える庵寺にはじまります。
 天文年間に、この地に集まる一向宗門徒が相談して、京都の落人である右京坊了珍を紀州根来寺から迎え、無住であった草庵を再興したといわれています。

浄土真宗寺内町として戦国期に成立し信長と本願寺との石山戦争により灰燼に帰した後、真宗寺住職家の支配の下、在郷町として江戸期に繁栄した。泉南地域で最も古い歴史をもち、江戸期の町屋が数多く現存する。

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感田神社

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感田神社境内に残る環濠跡は、かつて寺内町にめぐらされた濠の面影を残す唯一の遺構とされている。

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「信長との石山戦争が始まると、貝塚寺内町は石山寺本願寺に呼応し、雑賀衆と協力してその支城としての役割を果たすとともに、毛利氏や瀬戸内の海賊衆によって運ばれる兵糧米の運送にあたります。
天正5年(1577)には、織田勢の武将織田信忠の攻撃をうけ、貝塚道場はじめとする貝塚寺内町は、すべて焼き払われ壊滅してしまいます。
天正8年(1580)、石山本願寺はついに信長の軍門に下ることとなり、10年にわたる石山戦争が終結し、本願寺は石山から紀州鷺森へ退くことになります。」

浄瑠璃寺庭園

浄瑠璃寺の庭園は、平安時代後期に盛んに作られた浄土式庭園がそのまま残る貴重なものである。

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浄瑠璃寺庭園の中央にある宝池は梵字の阿字をかたどっていると伝えられている。宝池の東側には薬師如来坐像を安置する三重塔が配され、その対岸である西側には本尊の九体阿弥陀如来を安置する本堂が置かれている。これは薬師如来を教主とする浄瑠璃浄土(東方浄土)と、阿弥陀如来が住むとされる極楽浄土(西方浄土)の世界を表現しており、参拝者はまず日出づる東方の三重塔前で薬師如来に現世の救済を願い、そこから日沈む西方の本堂を仰ぎ見て理想世界である西方浄土への救済を願うのである。

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浄瑠璃寺の境内は、庭園や国宝の本堂・三重塔などの外観の拝観は自由にできる。JR奈良駅・近鉄奈良駅から奈良交通バス急行浄瑠璃寺行き約25分、「浄瑠璃寺前」下車すぐ

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当尾の里は、数多くの石仏が座していることでも有名である。浄瑠璃寺から岩船寺に至るその道すがらやその周囲には、様々な表情の石仏が数多く座している。これらの石仏は、当尾が浄土信仰で栄えていた鎌倉時代に刻まれたものであり、世俗化した奈良仏教に嫌気が差した僧侶たちは当尾の地に庵を構えて修行を行い、その傍らで地元民に仏教の教えを説いた。それにより民間の信仰心が高まり、集まった浄財によって石仏は作られたとある。

阪田三吉

阪田 三吉(1870年7月1日〜 1946年7月23日)は、明治から昭和初期にかけて活動した将棋棋士。贈名人・王将、堺県大鳥郡舳松村字塩穴出身です。

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家が貧しく、幼い頃から丁稚奉公をしていたため文字を知らなかった。将棋を親しく教わった升田幸三は、生涯覚えた漢字は「三」「吉」「馬」の三字だったと証言している。阪田の代筆をしていた書道家の北野千里は、この他に「坂」の字も書けたと証言している。現在、日本将棋連盟から販売されている扇子にはこの「馬」の字が使用されており、他の棋士の扇子よりも値段が高く、今なお将棋ファンに根強い人気がある。

阪田と実際に会った棋士たちの複数の証言がある。阪田は映画では無法者であるかのように描かれているが、実際には極めて礼儀正しい人物であり文字は知らなかったが江戸時代の古い将棋を相当よく知っており、将棋も独学ではなく阪田以前に大阪名人といわれた小林東伯斎に入門していた。
詳しくは阪田三吉

高林家住宅

高林家は、和泉国にあった徳川御三卿のひとつ清水家の領地33ヶ村内11ヶ村の「大庄屋」として苗字帯刀を許される家柄で、江戸時代を通して大変重要な役割を果たしてきました。

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表門を入ると大和棟の主屋が右側に、正面には座敷へ通じる式台玄関があります。主屋は天正年間(1573〜1592)に建てられた大阪府下で最も古い民家のひとつです。建築後、大庄屋としての格式を整えるために何度かの増改築が行われ19世紀の中頃、現在の姿に整えられました。

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敷地内には主屋の他にも土蔵や不動堂、稲荷社があり、山林も含めた敷地全体が、江戸時代の近畿地方の大規模な庄屋の屋敷構えを現在に伝えています。

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重要文化財  主屋・表門(附 弊串1本) 米蔵(附 柴納屋)・西蔵(附 土塀) 宅地・山林・溜池及び雑種地
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