知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2015年12月

耐久舎

耐久舎は江戸時代末期の嘉永5年(1852)濱口梧陵・濱口東江・岩崎明岳等によって剣術・漢字を教授する広村稽古場(私塾)として創設されたのが始まりで、現在の耐久中学校・耐久高校の前身である。

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建物は間口5間、奥行6間半、地積33坪、室内は6部屋である。

広村堤防

和歌山県広川町は古来より幾度となく津波に見舞われてきた。特に宝永四年(1707)安政元年(1854)の大津波は、広地区が再起不能といわれたほどの大被害をもたらした。

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特に安政元年の津波を目のあたりにした濱口梧陵は濱口吉右衛門と諮り、中世畠山氏の築いた石堤の後方に高さ5メートル、根幅20メートル、天幅2メートル、延長600メートルという大防波堤を安政2年2月に着工し、その間3年10ヶ月・工費銀94貫344匁の私財を投じ、延人員56736人を要し安政5年12月に完成をみた。
この堤防工事で、津波により失職した人々に仕事を与えることができ大いに役立ったのである。

国連総会(193ヵ国)本会議は、11月5日を「世界津波の日」に定める決議案を満場一致で採択した。

初冬

暖冬との予報があったが暖かすぎる。それでも木々の葉は落ち、西風が強く吹いている。

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北新町 道標(和歌山県田辺市)

ここは、近世の中辺路と大辺路の分岐点で、西から進んできた場合は、「左 くまの道」に従って中辺路(万呂・三栖)へ、小さい字で「すくハ大へち」とあるのは、直進すれば大辺路(礫山・新庄方面)へ続くことを示しています。
北から来ると「右きみゐ寺」に従い、和歌山方面に進むことになります。

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紀伊田辺駅

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ここで一泊二日の龍神温泉から紀伊田辺の旅は終わりました。

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弁慶腰掛の岩

和歌山県田辺市の第一小学校の辺りは別当屋敷があった所と言われ、周囲には弁慶松や別当家の井戸などが有りましたが、周囲の開発のため今は有りません。

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この弁慶腰掛の岩の窪みは、弁慶が子供の頃、腰掛けた跡と云われています。田辺は弁慶誕生の地として、弁慶を愛した土地であり、子供が生まれて男の子であれば、弁慶のように立派な子に育ちますようにと願いを込め、この岩に座らせました。

弁慶松

       幟立つ弁慶松の
             右ひだり     舎羅

榎並舎羅は元禄時代の大阪の俳人で、松尾芭蕉が大阪の宿舎で病の床についた時、ねんごろに介抱したことは、芭蕉の臨終のようすを書いた「花屋日記」に出ている。

句は男の子の出産を祝う五月の節句の幟が弁慶松の右にも左にも威勢よくはためいている情景を詠んだもので、弁慶出生の地だけに、たくましい男の子が育っているにちがいない、という思いがこめられている。

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文治五年、武蔵坊弁慶は奥州衣川で義経を守り壮烈な立往生をとげた。これを聞いた故郷田辺の人々は湛増屋敷の一隅に松を植えてその生涯を偲んだ。

南方熊楠顕彰館

南方熊楠(1867−1941)は、博物学、宗教学、民俗学の分野における近代日本の先駆者的存在であり、同時に植物学、特に「隠花植物」と呼ばれていた菌類・変形菌類・地衣類・蘚苔類・藻類の日本における初期の代表的な研究者であり、 熊楠は和歌山城下に生まれ、米英遊学後の明治37年から田辺に定住し、人生の半分、37年間を田辺で過ごしました。研究の場とした邸宅は今も残っている。

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武家屋敷(田辺城)

紀伊田辺は古くから紀伊半島西岸きっての良港として発展し、中世には熊野水軍の拠点であったり、江戸時代には和歌山や大阪、徳島、備前を結ぶ重要な港町でした。

また、平安期から始まった熊野三山への参詣路である熊野街道は、この田辺から海岸沿いを通って新宮に至る大辺路と山中を抜ける中辺路に分岐し口熊野と呼ばれていました。

田辺城跡から上屋敷、中屋敷町、下屋敷町を歩いてみました。

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廃藩置県後は田辺城を含めた一帯が上屋敷となり、武家町は中屋敷町・下屋敷町・新屋敷町となりました。田辺城跡には商店や旅館が建ち並び、内濠が埋め立てられて大浜通り・浜通りとなり繁華街に、新屋敷町は官庁街となっています。

田辺城水門

慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いの後、紀伊国には浅野幸長が入国し、田辺には浅野左衛門佐氏重が入った。浅野氏は慶長11年、会津川左岸河口に築城し移るとともに新たに城下の町割りを行った。田辺城はこの時に形づくられ、その城下町は今日の田辺市街地のもととなった。

浅野左衛門佐氏重によって会津川左岸河口に築城された水門

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元和五年(1619)、徳川頼宣が紀州藩主となるとともに頼宣の付家老であった安藤帯刀は、3万8000余石を与えられ田辺領主となり、以後幕末までこの城は安藤氏の居城であった。
徳川幕府の一国一城制により、公的には館と称したが、幕末には錦水城とも呼ばれた。安藤家は紀州藩の筆頭家老として、和歌山に常駐し、田辺には親類の安藤小兵衛家が留守居役として、代々城代家老を勤めた。
城の河口近くには、埋門型の水門が設けられ、この水門を利用した記録も多く残っている。
明治3年、田辺城は廃城となり、現在は僅かに水門が当時の面影を残している。

植芝盛平生誕の地(合気道開祖)

合気道の開祖、植芝盛平は1883(明治16)に和歌山県西牟婁郡西ノ村、現田辺市上の山に生まれ幼い頃から武道に励み、19歳で修行の旅にでて各流の武術遍歴を重ねました。

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長年にわたる研鑽ののちに、1942年には自らの武道を合気道と名付けるに到り、戦後は国内はもとより世界中に広くその名を知られるところとなり、多くの人々が合気道を愛好するところとなりました。
合気道は、稽古を通じてお互いに切磋琢磨し合い、心身を錬磨して豊かな人間形成を目指す武道です。また、世界の武道として大きく発展を続け、1988年には第5回国際合気道大会が2008年には第10回国際合気道大会が和歌山県田辺市で開催されました。
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