知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年02月

真田氏歴史館

片田舎の土豪に過ぎなかった真田氏は真田幸隆が武田信玄に仕えて頭角を現し、難攻不落の砥石城を攻略、数々のめざましい戦功をたてて、東信濃と上州にまで勢力を伸ばし、幸隆のあと信綱、昌輝兄弟が長篠の戦いで戦死、急遽、三男の昌幸が家督を継ぎます。

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武田家が滅亡した後は、わずか一年の間に織田・北条・徳川と情勢に応じ主君を変えるなど、巧みな外交戦術により領地を拡大、一方で上田城を築くなど、戦国大名としての地位を不動なものとしていくます。
上州の真田領を巡って徳川家康との間に合戦がおこった時は、わずか二千で八千の敵を打ち破り、天下にその武名を知らしめた。
豊臣秀吉亡き後、天下の覇者を決める関ヶ原の戦いでは、真田昌幸と次男の真田幸村が豊臣方に、長男の信之が徳川方に別れて戦うことになり、昌幸親子は38000の大軍を上田城で迎え撃ちます。敵を散々に悩ませますが、西軍敗北により紀州九度山へ閉居となります。

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真田庵

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真田昌幸は九度山で没しますが、真田幸村は大坂城へ入城し、大坂夏の陣で徳川家康の本陣へ切り込みますが戦場の露と消えました。
その後の真田家は信之により、家名を存続し松代へ移封となり十代に渡って続き、真田十万石として栄えました。

御屋敷跡

真田氏館跡は、真田氏の上田城築城以前の居館といわれ、現在でも「御屋敷」と呼ばれている。中世豪族の居館のほぼ完全な形で保存されており、館跡の四方を囲んで築かれた土塁は、周囲520メートル余りあり外周には堀が巡っていたと推定されている。
北面は大沢川が天然の堀となって現在も残っている。土塁の南面に大手門、北面に搦手門があり、南東の角にも小規模な門があったとされている。

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西曲輪跡

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この屋敷跡は西方に開いた本原扇状地の奥に位置し、真田氏城跡郡がこの扇状跡を取り囲んで築かれたことからも、堅固な立地を考えて居館としていたことがわかる。
土塁の内側は、主に二段の曲輪からなり、東側上段の曲輪には真田昌幸が上田城へ移る際に勧請したと伝えられる皇太神社が祀られている。
西側下段の曲輪には、その北西隅に厩と称される約10メートル四方に区画された土塁が見られる。

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真田氏の先祖は、応永7年(1400)9月の大塔合戦の様子を記した「大塔物語」に書かれている「実田」が真田氏であり、真田地域を本拠地として、横尾・曲尾と並び立つ一地士であったと考えられています。
真田氏は平安時代から東信地方に栄えていた滋野三家の中心的存在であった海野氏の一族で、戦国時代に活躍した真田幸隆は海野氏の棟梁の娘の子であったなど諸説がある。
天文10年(1541)、武田信虎が、しかけた「海野平の合戦」で、海野氏が敗れると真田幸隆も上州へ逃れました。天文15年頃、武田信玄の家臣となり、「信濃先方衆」の旗頭として活躍し、また、信玄の命を受け、上野(群馬県)の北部を攻略、その後、岩櫃城を拠点とし、天正8年(1580)には、その子昌幸が沼田城を攻略、真田氏は吾妻郡から利根郡沼田までの群馬県北部に勢力を拡大した。

北国街道(北国脇住還)上田宿

紺屋町
天正11年(1583)、真田昌幸が上田城を築いたあと、真田氏とゆかりの深い海野郷から紺屋を移して造った町、宝永3年(1706)には、紺屋が十軒あり、のちに上紺屋町と下紺屋町の分かれました。

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柳町
上田城築城後、約15年後の慶長3年(1598)上田城下に北国街道が通ります。参勤交代や佐渡金山の金の通路として、また、庶民の善光寺参りの道として賑わいました。

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原町
真田昌幸が城下町造りを始めた時、真田氏とゆかりの深い原之郷から住民を移住させて造った商人町で海野町と共に、上田城下町で最初に出来たである。

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時の鐘(上田城跡)

時の鐘の歴史は、延宝5年(1677)原町問屋日記に明らかにされているが、或いはそれ以前からか時を知らせる鐘として上田城下の住民に親しまれて日常生活に欠かすことができなかったと伝えられている。

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以来、二百数十年の長い間正しい時を知らせ続けてきたが時の移り変わりの中で、大正14年この知らせはサイレンに変わり、また、鐘の位置も幾度か変わり昭和9年に上田城跡のこの位置に落ち着いた。
昭和18年、戦争がしだいに悪化すると軍に徴発され時代と共に鳴り続けた「時の鐘」は姿を消して、鐘楼のみが寂しく歴史を物語り風雪に耐えていた。
昭和47年、上田市自治会連合会に「時の鐘」の復元運動が起こり市民の協賛によって、その名も「平和の鐘」と改め三十年振りに昔の姿が再現された。再び悲惨な事の起こらないように平和の願いがこの鐘に込められている。

上田城の歴史

真田氏は上田城北東、真田地域に本拠を持つ一小土豪でしたが、戦国時代末の幸隆のときに、信濃へ進出してきた武田信玄に仕えて頭角を現しました。武田氏の配下として、真田氏は幸隆・昌幸の2代で真田の地から峠を越えた上野国(群馬県)の吾妻郡から沼田(利根郡)にかけて勢力を築きました。

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そして、天正10年(1582)の武田・織田両氏の相次ぐ滅亡による混乱の中で真田昌幸は周辺の上杉・北条・徳川という強豪のはざまにあって目覚ましい働きを見せ、その勢力をさらに拡大し天正11年には上田築城にとりかかり、上田盆地を中心とする小県郡一帯をその支配下におさめました。
こうして成立した真田領は10万石たらずですが、上信の2国にまたがり、上田沼田間だけでも約100キロもあるという広大なものでした。
上田城と真田氏の名は、天正13年と慶長5年(1600)の2度にわたる徳川の大軍の攻撃を退けたことで、知られることとなりました。上田城は天守閣もありませんし、石垣も少なく決して見栄えのする城ではありませんが、戦い備えるだけではなく、領国統治の中心としても築かれた近世城郭としての平城でありながら、2度もの実戦の経験があって、しかも小よく大を制したこの上田城のような戦歴をもつ城は、全国でもありません。

しかし、昌幸の築いた上田城は、関ヶ原合戦直後に破却され、その後、真田氏の次の城主となった仙石忠政により寛永3年(1626)からの工事で再建されました。その結果、本丸には7基の櫓と2基の櫓門が建てられ、現存する南・北・西櫓は、この時期のものです。
その後、上田城主は、宝永3年(1706)に松平氏に替わりますが、政務は真田氏、仙石氏同様三の丸の藩主居館で行い、本丸・二の丸はそのままとなり明治維新を迎えます。

本丸土塁の隅欠(上田城跡)

上田城や藩主屋形の土塁・堀・城下の寺社の配置等には鬼門除けが見られ、真田氏の頃から設けられていたとされる。鬼門とは北東の方位で、鬼が出入りする方角として忌み嫌われ、建物等の東北の角をなくして隅欠(すみおとし)としたり、城下町の鬼門に寺社を置いたりした。

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上田城本丸の土塁は北東の角を切り込み、櫓2棟をその両脇に配置していた。堀や土塁の斜面が内側へへこんで見えるのはそのためである。
二の丸堀の東北の角は、かぎの手に折り曲げ、外側を「樹木屋敷」と呼ぶ林としていた。また、藩主屋敷の土塁・土塀も隅欠をするなど、各所に鬼門を除ける強い意識がみられる。

百間堀の樋(上田城跡)

二の丸北虎口
上田城二の丸にあった3箇所の虎口のうち、東・北虎口のみ石垣が残っています。主な石材は本丸の石垣と同じ緑色凝灰岩です。現在北虎口にある石垣2基は復元整備したものですが北側の石垣の西端は建造当初のものです。

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百間堀の樋
現在の陸上競技場や児童遊園地は、江戸時代には大きな堀でした。この付近はもとのと矢出沢川が流れていましたが大工事をして城の北方に流れを変え、旧川底を広げて川を造ったと考えられ、その広大な規模から百間堀と呼ばれました。

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二の丸北虎口の土橋には東側から西側の堀へ水を通すために木で作った樋が埋めてありました。地中に埋めた木製の樋は腐ったりして改修が必要だったと考えられます。
陸上競技場の門の付近に残る石垣には、切石を組み合わせた樋の出口を見ることができます。これは元禄15年(1702)に木樋から石の樋に変えたものと考えられています。当時、幕府に提出した修復願いには「木樋が腐って壊れてしまったので石の樋に変えたい」と書かれています。

堀の水源(上田城跡)

千曲川の第二段丘上に広がる城下町は、ほぼ平坦であるが東方の城下町が城郭部分よりやや高くなっている。
従って、堀の水は城より約4キロ東を流れる神川から取り入れていました。

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本丸西虎口(上田城跡)

本丸には東西2箇所、二の丸には3箇所の虎口がありました。虎口とは、城内への敵の侵入を防ぐために城の門に桝形を造って曲げるようにした出入口のことです。

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平成3年に実施した本丸西虎口の発掘調査では、櫓門の礎石及び石垣の根石等が検出されたことにより本丸東虎口と同様、西虎口にも櫓門一棟があったことが分かりました。また石垣の天端には、櫓門下層最前列の冠木と最後列の敷桁を載せるための切り欠きが残っています。

本丸跡(上田城跡)

上田城は天正11年(1583)、真田昌幸によって築かれた平城で堀と土塁で囲まれ、虎口に石垣を使った簡素な城ですが、第1次、第2次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせました。

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数ある城郭のなかで、2度もの実戦経験をもち、輝かしい戦果をあげた城は例がありません。しかし、上田城は関ヶ原の合戦後に破却され、藩主であった真田信之も松代へ移封となり、その後、小諸から入封した千石氏により城は再興され近世後半には松平氏の居城となります。

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かつて本丸には櫓門2基、櫓7基がありましたが現在は櫓3基と櫓門1基となっています。又、石垣や土塁が至る所に残されています。
本丸は土塁で囲まれていますが、中央部分は北と南の平坦地に分かれます。北側は「上田の台」と呼ばれ、南側より一段高くなっています。両者とも絵図には建物は見られません。
本丸の建物については絵図によると、7つの櫓と2つの櫓門があります。その内、東虎口の櫓門が復元され、移築されていた北と南の櫓が元の位置に戻されています。東虎口櫓門の両脇の土塀も復元されています。西の櫓は当初のまま残っています。
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