知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年03月

九度山焼

この「米金の金時」は南紀荘平氏の作で、大正の初め頃、東山に竈を築いて焼きあげたものです。高さ2メートル余り、このように大きな陶像は全国的にも珍しいものと言われています。

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荘平氏は大正時代の初め、九度山の有志らの後援で東山に本竈を築き、陶器にその生命をうちこみました。彼は、竈場の小屋に住み入り口に「我が家をきぎすの籠とそしれども、月もさしこみ花も散りこむ」と書いた札をぶら下げてありました。
大正7年には瀬間のくぬぎ山をひらいて新しい竈場を作りましたが、翌年、那智山不老軒から招かれて銀竜焼を創始し、大正9年40歳で亡くなりました。
彼の作品は大小さまざまの仏像や動物などの立体ものをはじめ、茶器、香ろう、、皿、壺などの器の類も九度山の土味を生かした彼独特の野趣あふれたもので九度山焼または荘平焼と呼ばれています。

旧萱野家(大石順教記念館)

尼僧大石順教は、もと大阪堀江の名姑で本名を大石よねと言ったが明治38年舞踊の修行を指導していた養父中川萬次郎の狂刃により6人斬り事件の巻き添えを受け17歳の身で不幸にして両腕を切り落とされた。
だが、苦難の道を乗り越え、忍の一字に徹しカナリヤがくちばし一つで雛を育てている様を見て、両手のないまま口に筆をくわえる事を開眼し精進を重ねた。

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今兼好と称された藤村叡雲に師事し国文学と和歌を学び、また、若林松渓画伯の下で日本画を修行する。昭和8年萱野正之助・タツ夫妻が菩提親となり高野山天徳院金山大僧正を師として得度し、法名を順教と改める。
以来、しばしば九度山萱野邸に寄留し数々の書画を書き残す。

対面石(九度山)

槙尾山由来記によると、空海は童形のころ槙尾山におり弁財天を信仰し、高野山開創後もその信仰は固く、毎月、九度は和泉の槙尾山に参拝していた。

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ある時、紀の川が増水し大師が渡りかねていると「御対面石」に弁財天が姿を現し「和泉まで参拝するのが大儀であるから、この九度山の地に移してよかろう」とのお告げにより、この尊を勧請して槙尾山明神社に祀ったと伝えられる。
この対面石は現在でも街道筋にあり、「紀伊続風土記」にも「弘法大師槇尾明神と対面せし処といひ伝えたり」とあり、今では弘法大師が母公と対面した所と説明している。

真田の抜け穴伝説(真田古墳)

南海高野線 九度山駅

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真田のみち

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真田古墳

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真田古墳は、紀の川と丹生川とによって開折され段丘状台地の南斜面中腹に立地し、大坂夏の陣に六文銭の旗印をはせた。かつて真田幸村が草庵をむすんだゆかりの地でもあり、この古墳も「真田の抜け穴」と伝承されていた。
現今では墳丘が削られて、石室天井部が地上面と同高位にあって、いわゆる地下式石室と呼ばれるものである。
石室は南向きの横穴式で割石積みの側壁と平石を用いた奥壁および天井とをもって構成されている。

真田庵(九度山)

真田昌幸・幸村が閉居した屋敷跡に建つ善名称院で、幸村の旗印である六文銭が刻まれた門をくぐると本堂があり、境内には開山堂や土砂堂、真田昌幸の墓、真田宝物資料館、与謝蕪村の句碑などがある。

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− かくれ住んで花に真田が謡かな−   与謝蕪村

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所在地 和歌山県伊都郡九度山町九度山
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