知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年04月

惜別の歌

この歌は島崎藤村の詩に藤江英輔が曲を付した。藤村の原詩は明治30年に刊行され、「若葉集」(春陽堂)所収の「高楼」である。
その翌年、藤村は二度にわたって、小諸に恩師木村熊二を尋ね、ともに懐古園周辺を逍遙した時に、この詩想したといわれる。
明治32年、藤村は小諸義塾に赴任するが、その翌年雑誌「明星」(与謝野鉄幹主宰)に発表した。「小諸なる古城のほとり」(原題「旅情」)とともに小諸郷愁の詩である。

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藤江英輔がこの詩に作曲したのは、昭和19年暮れ、太平洋戦争の末期である。敗戦間近に学徒動員され兵器生産に従事していた同じ工場で働く学友たちに日々召集令状が届く、再会のかなわぬ遠き別れが次から次へと続く、その言葉に盡きせぬ思いを、藤江はこの詩に託して曲を付した。それはいつしか出陣学徒を送る歌となった。

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そして戦後、この歌が別れを惜しむ叙情歌として一般化した時、問題があった「高楼」を「惜別の歌」とし、「かなしむなかれわがあねよ」(原詩)を「わが友よ」に歌い替えていたことである。
幸いだったのは藤村の著作権継承者の一人である島崎蓊助と藤江は藤村全集の編集を通して面識があり、蓊助はこの編集を許諾した。以後この歌は中央大学の「学生歌」として歌い継がれ、また多くの人々に愛唱されるようになった。

小諸城三の門

小諸城は慶長元和年間にわたって時の城主千石氏が築城しました。この三の門も大手門と同様に一連の造営の中で創建されたものです。
しかし、寛保二年(1742)小諸御城下を襲った大洪水により三の門は流出し約20年後の明和年代に再建されて現在に至っています。

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寄棟造・桟瓦葺の櫓門で、1階は桁行三間で北脇に潜戸を構え、隅金具・八双金具などが施してあります。2階は西側に袖塀を設け、矢狭間、鉄砲狭間が城郭の面影を残しています。
桁行五間、梁間二間で内部は住宅風の一室になっています。

小諸義塾記念館

小諸義塾は明治28年11月、幕臣でありながら維新後アメリカに渡り、13年間の留学で西欧の新しい文化とキリスト教の信仰を身につけた木村熊二が小諸の青年小山太郎らの熱意ある要請にこたえて誕生させた私塾であります。
校舎群は信越線が開通して間もない明治29年、小諸駅の南側に当記念館を本館として建設されました。

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当初は高等小学校を卒業した青年達が、塾長木村熊二の卓越した見識を慕って集まった家塾的な塾でしたが、その後小諸町の積極的な助成や木村の理想に深い共感を寄せた勇士達の支援により、明治32年には県の認可を得て私立中学へと発展してきました。
しかし、日清・日露の戦いを契機として中央集権的な学校制度が整えられるにつれ自由な教育の枠は狭まり、本義塾の教育もついに、13年の歴史をもって閉じざるを得なくなったのであります。

−個性にみちた教師たち−

島崎藤村(1872〜1943)
明治学院本科卒業後、明治32年4月旧師木村熊二の招きにより英語・国語の教師として28歳で赴任する。同年、妻、冬と結婚、小諸町馬場裏に住む。
教師の傍ら明治34年に第四詩集「落梅集」を刊行、その後自然主義文学に転じ「旧主人・薬草履・爺・老婆・水彩画家」などを次々発表する。
小諸義塾着任以来小諸の風土や小諸義塾の生活を題材にした「千曲川スケッチ」は当時の小諸の様子を生き生きと今日に伝えている。

三宅克己(1874〜1954)
明治32年丸山晩霞にひかれて来諸、図画教師として着任する。明治大正にかけての水彩画の先駆者。丸山晩霞とも親交があり、義塾において島崎藤村とは絵画や文学の上でのよき友であった。

丸山晩霞(1867〜1942)
小県郡袮津村の出身、養蚕農家の次男として生まれる。18歳で上京、水彩画を学び明治32年欧米に渡る。明治35年、三宅克己の後任として義塾教師となる。日本水彩画研究所の開設に尽力する。水彩画家小山周次は塾生以来の弟子である。

鮫島晋(1852〜1917)
東京大学物理学科第一期卒業、東京物理学校創立者の一人である。明治28年小諸義塾の教師となり数学・物理・科学などを教える。ぼうようとして物事に頓着しない性格で閉塾後も長く塾生に愛され、義塾の最後まで深いかかわりを持った教師である。

小諸宿本陣主屋

慶長十六年(1611)北国街道に宿駅伝馬制が敷かれて小諸宿が設けられました。その後、小諸宿は関東への出入口として、また参勤交代や善光寺詣でなどの街道交通の要所として隆盛を極めました。

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参勤交代の大名などが宿泊した「小諸宿本陣主屋」は木造切妻造桟瓦葺平屋建の豪壮な建物で、十八世紀末〜十九世紀初頭の建築と推定され、当時は、市町に現存する国指定重要文化財「旧小諸本陣(問屋場)」の隣に建てられていました。

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その後、明治11年に佐久市鳴瀬の桃源院に移築され、寺の本堂や庫裡として使われてきましたが、建物一式が小諸市に寄贈され、旧地にほど近い現在地に移築再現されました。

小諸本陣(北国街道)

これは元、小諸の本陣兼問屋上田屋の建物である。建設年代は十八世紀末から十九世紀初頭と推定されている。

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この二階建ては、問屋場で街道に面し、間口八間、正面に大きな切妻屋根の妻を見せ二階は腕木で持ち出し格子窓を広くとる。当初一階正面は全面開放の縁側で内部は八室が二列に並び、その全面に畳廊下を通した間取りであった。

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二階は九室で部屋割りはあまり変わっていない。別棟正座敷(御殿)を失っているのは惜しいが西隣にあるほぼ同時代薬医門とともに北国街道に残る数少ない構造が立派な本陣建築の一つである。

粂屋(旧脇本陣)

江戸時代、北国街道を通った大名行列が小諸に宿泊する時、お殿様は本陣に泊まり、家老など上級の家臣がこの脇本陣に泊まりました。

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脇本陣は本陣の次に大きな建物で、左側には式台の玄関があり、その奥には座敷があります。また、二階の手すりや看板を下げる「まねき屋根」など、江戸時代旅籠の姿を伝えています。

小諸藩城代家老屋敷跡(鍋蓋城跡)

戦国時代のはじめの1487年に、大井伊賀守光忠により小諸の町にはじめてつくられた鍋蓋城の跡です。その後、小諸が武田氏の支配下になった時に、この鍋蓋城を取り囲むように街道がつくられ、街道沿いに周りの村から人々を移して(「村寄せ」という)城下町の原形ができました。同時に小諸城の原形が懐古園の場所に造られました。

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江戸時代には、この場所は小諸藩の城代家老の屋敷として使われました。城代家老とは、一番位の高い家臣です。お殿様が江戸に居るときには、その代わりに藩を仕切る役目です。石垣で固められた屋敷がまえは、それ自体が小諸城を守る「城郭」の役を果たしていました。
また、この屋敷を囲むように北国街道が作られており、屋敷の石垣は町人地と武家地を隔てる役目もしていました。

北国街道 ほんまち町屋館

江戸時代前期、この場所には街道で運ばれる荷物を中継ぎする問屋場があり、小諸宿の中心でした。この建物は大正時代に建てられた味噌・醤油醸造元の清水屋の店舗で、昔は主屋の奥に醸造や保存のための蔵がいくつもありました。

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2000年に小諸市の施設にする時に、大正時代の主屋と中庭はそのまま活かし、奥の蔵は新しいデザインで建て替え、主屋脇にも修景門をつけました。
主屋は、いかにも大正時代らしい大空間で、表に面したガラス戸、格子、腰壁もこの時代にはモダンなデザインでした。土間には荷物を運ぶためのトロッコの線路がそのまま残され、清水屋が使った醸造の道具や仕込み樽も展示され味噌醤油醸造元の歴史を知ることができます。

萬屋骨董店(旧小諸銀行)

この建物は明治時代に小諸銀行として建てられたため、同じ時代の他の建物と比べると入り口が狭く設計されています。
小諸銀行は、明治14年に小諸の豪商が開いた銀行で、当時大変に勢いのあった商都小諸を象徴する建物のひとつです。

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この建物は「蔵づくり」であり、火事にあっても燃えないように建物全体が土壁で塗られています。また、建物の両側には壁が飛び出していますが、これは「うだつ」と呼ばれるものです。火がまわりから燃え移るのを防ぐ役目をしています。ここのうだつは1階から立ち上げているので「袖うだつ」と呼ばれるものです。

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店の2階からは、広い中庭や奥の蔵が見られます。珍しい骨董とともに伝統的な建物も楽しめ、窓には、第二次世界大戦の時に供出で切られた鉄格子の跡を見ることができます。

大塚味噌醤油店(小諸)

昔ながらの味噌・醤油・味噌漬けを造って売っている老舗で右の主屋は江戸後期、左の蔵は明治時代の建物です。

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店の横に蔵がくっついているのを「袖蔵」といい、この店の袖蔵には、黒い漆喰で鏝による立派な看板が造られています。(鏝絵という)
昔の左官屋にとっては、このような鏝の技が腕の見せどころでした。主屋は二階が高いので間延びした感じにならないよう「出格子」にして、その上に庇ををつけてデザインを整えています。主屋の奥には、昔のままの座敷、中庭、蔵が残っています。
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