知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年06月

阿国歌舞伎発祥地碑

慶長八年(1603)、この辺り鴨河原において歌舞伎の始祖出雲の阿国が初めて「かぶきをどり」を披露しました。

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この碑は昭和28年吉例顔見世興行を前に歌舞伎発祥350年を記念して建設されました。わが国が世界に誇る文化財歌舞伎を日本の至宝として末永く後世に伝えたいという願いが込められていると伝えられています。

月下美人咲く

6月21日、8時30分頃、月下美人の花芽が下がっていた。

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24日、17時30分頃、花芽の頭が上がってきた。

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26日、17時25分頃、花芽が膨らみ始める。

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26日、19時頃、開花始まる。

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19時5分頃、

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19時50分頃、

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19時52分頃、

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20時48分頃、

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20時55分頃、

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木屋町(京都)

木屋町通は、高瀬川開削と同時につくられた通りではなく、当初は川の岸に人間一人が通れるほどの小道がつけられていたにすぎない。明治28年、京都最初の電気鉄道がこの木屋町通を走ることになり、建ち並んでいた倉庫などを取り壊して道路を拡張し、また、明治四三年には高瀬川を1メートルほど埋めたてて木屋町を西側にも拡張しました。

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木屋町という呼び方は、高瀬川の運送機能の内容と深く関係しており、高瀬舟が運搬した物資は材木や木炭、米や塩といったものがほとんどで、とりわけ薪炭や木材が中心であり、沿岸にはそれらの倉庫や店舗が軒を並べたので、その町並みの光景から木屋町と呼ばれるようになったようである。

また、高瀬川は木屋町通の地名のほかに、いくつかの水運にちなんだ地名を誕生させ京都の歴史を沿岸に残している。備前島町は角倉了以がこの高瀬川を開削したとき、船運の為に備前国から呼び寄せた船頭達を住まわせたところといい、船頭町は、高瀬舟の船頭達がのちに定住したところであるという。
車屋町は、おそらく牛車などの運搬に携わった人々の町だったのであろう。
そのほかに、上大坂町、下大坂町、天満町、難波町といった大坂にゆかりにある町名もこの沿岸に多い。が、それは高瀬川によって京都が大坂に連結されていることを物語っているのではないだろうか。

先斗町

この地はもと鴨川の州であったが寛文十年(1670)に護岸工事のため埋め立て石垣を築き町屋ができて、これを新河原町通りといった。
その後、三条一筋南から四条まで、即ち南北600米、東西50米にわたる地域に人家が建ち並び俗に先斗町と呼ぶようになった。

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正徳二年(1712)に茶屋、旅籠屋両株と茶立の女子を置くことを許され、爾来、花柳の街として繁盛した。
先斗町の呼名は、ここの人家がすべて河原の西側に建ち、先ばかりに集中したところから先斗町と呼ばれたとも、葡萄牙語(PONT)英語の(POINT)の発音によるとも言われる。

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四条大橋

平安時代の永治二年(1142)に祇園社参拝のために、勧進型の寄付活動により板橋が架けられ、安政四年(1857)に石造の橋に、さらに明治七年に鉄製に架け替えられました。

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大正二年には京都市電の開通に伴い鉄筋コンクリート製のアーチ橋に架け替えられましたが、アーチに流木が引っ掛かり水害の原因となったため昭和一七年に現在の橋に架け替えられました。

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明治期の四条大橋

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萬葉歌集

         −紫の名高の浦の名告藻の
               磯に靡かむ時待つ我を−

「名高の浦の名告藻(ホンダワラ)が磯になびくように、あなたが私になびくようになる時期を待っているのです」と、恋人が自分になびく時を期待している歌。

(紫は名高の浦の枕詞になっていることについて高貴な色・紫川・紫石など諸説がある。)

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         「紫の名高の浦のなびき藻の
               こころは妹によりにしものを」

名高の浦のなびき藻のように、私の心はすっかりあなたになびき寄ってしまったことよ


         「紀の海の名高の浦に寄する波
              音高きかも逢はぬ子ゆゑに」

紀伊の海の名高の浦に寄せる波のように噂が高いことだなぁ 逢いもしないあの娘のためにさサ 南の藤白山と北の船尾山とに囲まれたひっそりした黒江湾のことを思えば湾の奥の方にある名高の浦では波音が湾内に反響してまさしく波音が高かったであろう

木下美代子歌碑

     −匂ひたつ 楠の若葉を もるゝ陽に
            たどるとほ世の 歌塚の文字−

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鈴木屋敷

ここは全国二百万と言われる鈴木性の元祖(ルーツ)とされる藤白の鈴木氏が住んでいた所です。

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平安末期頃(1150年頃)、上皇や法皇の熊野参拝が盛んとなり熊野の鈴木氏がこの地に移り住み熊野三山への案内役を務めたり、この地を拠点として熊野信仰を全国に普及すべく、三三〇〇余の熊野神社の建立に努めたと伝えられている。

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なかでも、鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟は有名で、幼少の頃、牛若丸(源義経の幼名)が熊野の往還に、この屋敷に滞在し重家・重清らと山野に遊んだとも伝えられています。
後に、義経の家臣として衣川の戦いで共にその生涯を終えたと伝えられていますが三郎重家は秋田の山奥に難を逃れ落ち武者として土着帰農し鈴木家の分家として現在の秋田県羽後町に歴史を継承し、その屋敷は国の重要文化財に指定されています。

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曲水泉
旧鈴木邸庭園は、「曲水泉」といわれるもので、今も残る貴重な庭園の一つに数えられています。
「曲水泉」というのは、平安時代の頃、曲がりくねった水路に沿って並べた庭石に、人々が腰をかけ、上流から流された杯が自分のところにくるまでに詩歌を作り、杯をとりあげて酒を飲み、次に流す遊びに使われた庭です。

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造園の年代時期は、室町時代ではないかと考えられています。

小栗街道(熊野古道)

雄ノ山峠を越えて熊野へ参拝する熊野古道を小栗街道と呼んでいます。小栗街道といわれるのは、不治の病にかかった小栗判官が、照手姫の土車に引かれて熊野権現の霊験を求め熊野を目指してこの道を通ったことからです。

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判官は熊野本宮に参拝し湯の峰の湯を浴びてすっかり元気になり、照手姫と結ばれました。判官は、後に、畿内五ヵ国(大和・山城・河内・和泉・摂津)と美濃(岐阜県南部)を賜りました。
この話は、説教節や和讃、浄瑠璃などに脚色され伝えられています。

熊野街道

和歌山県の海南駅から熊野街道を南に歩いていたら街道沿いの人から少し東に行けば熊野古道があると聞いた。

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熊野街道から熊野古道に向かうことにした。
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