知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年06月

松尾里道

明治40年頃の和歌山県河根村は、紀和鉄道の開通によって高野参拝客が通らなくなった上に、日露戦争の後で大変貧しく村民の多くは税金さえ納められなくなっていました。
若い人たちは参拝客で賑わう高野口から椎出街道へ出稼ぎに行くために人力車やカゴを担いで峠を登り、田畑の畔道や山道を通って九度山や赤瀬へ出てましたが、その土地の帳場(組合)の仲間に入れて貰えず、こぼれ客を拾って賃金を稼いでいました。

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こんな苦しい村民を見かねた十一代村長刀袮富太郎は、かべ山と言われた松尾道を開こうと村民に呼びかけ、私財をなげうって無給で難工事を続けました。
全財産がなくなった刀袮富太郎の後を継いだ十二代村長中川泰次郎の奔走により明治43年完成し、当時刀袮道と呼ばれ、その後の河根村の発展に寄与しています。

この日は、紀伊神谷駅から京大坂道を下り、河根を左に丹生川沿いに九度山駅を右に見て紀の川沿いで昼食にして、橋本駅から輪行して帰りました。

中屋旅館(元本陣)

京大坂道の「御茶屋」があった辺り、

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江戸時代に栄えた東高野街道河根宿の本陣で、身分のある人たちの宿泊・休憩所となり、今に残る乳門と上段の間はその頃の遺構として貴重な存在である。
上段の間は、赤穂浪士村上兄弟一行が父の仇を討ち取ろうと夜遅くまで密談をしたところ。

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高野の仇討ち

明治4年(1871)2月30日のことである。話は文久2年(1862)の播州赤穂にさかのぼる。
師走の9日夜、藩の執政、森主税と参政、村上真輔が自称勤王派の足軽、西川邦治ら13人に暗殺された。
この年、坂下門外の老中安藤正信襲撃、寺田屋騒動、将軍家茂と皇女和宮の婚儀など、くずれ行く幕藩体制をめぐって國中の動揺が続いた。
2万石の小藩、赤穂の森家が時代の波に揺さぶられたのも当然。睫郢各擦了狷は、真輔の遺児が西川一味に復讐した「仇討ち」であった。

当時といえども私闘はお家のご法度。まして重臣殺しは大罪。
ところが西川らは罪を許されたばかりか、村上一族が逆に閉門・追放の目にあった。
藩内の勢力争いが絡んでいたのであろう。遺児らは、この時仇討ちの決心を固めたといわれている。

村上家の再興が認められたのは、明治元年だった。
今度は、西川一味の処置に困った藩が、彼らを藩の墓所、高野山釈迦門院の守り役に任じた。

明治4年2月14日出発と決まった。村上一族はこの機会を待っていた。
睫邀稿擦鮠楮戮膨瓦戞嵎麌の地」を捜し続け十分な手配りをしてから待ち伏せた。
一行がやってくると村上方は通路をふさぎ名乗りをあげて抜刀した。
ただちに敵味方入り乱れての激しい斬りあいとなった。

宿願達した村上方は、ただちに直轄の五條県庁(奈良県)へ自首した。
そしてこの事件が直接の原因で、明治6年2月に「仇討ち禁止令」が出されたという。
なお、村上方の処罰は、一審で全員死刑であったが、最終的に禁固10年などの判決を受けた。
全員が自由の身になったのは明治9年であった。

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殉難七士の墓(京大坂道沿い)

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仇討ち前夜の29日、九度山町の河根の中屋旅館で、村上兄弟一行は仇討の相談をして、神谷の作水峠に先回りして西川一味を待ち伏せて仇を討ちました。

高野町立白藤小学校

南海高野線紀伊神谷駅は山間の駅、駅前には何も無い、輪行したクロスバイクを組み立て坂道を登ると現在休校中の白藤小学校が見えてくるが急坂となる。
神谷集落は高野参りの最後の宿場として栄えた。九度山〜神谷〜不動坂〜女人堂〜高野山へと続く。

紀伊神谷駅周辺には駅にある自動販売機のみ、

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高野町立白藤小学校(現在は休校)

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Shinonome park(東雲公園)

東雲公園には約60種780株のバラが育てられ、メインロードをはさんで西側にはホワイト、ソフトピンク、クリームイエローの淡い色バラがグラデーション状に並び、光を浴びる時が最も美しく感じられます。
また、東側には黄色、オレンジ、赤、深紅といった濃い色のバラが並び、夕陽に映えるイメージを表現しています。

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